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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

すべては野菜をおいしく食べてもらうために。
有機農業者の枠を超えたビジネスに挑戦する先駆者。

松木一浩(まつき・かずひろ)

松木一浩(まつき・かずひろ)


株式会社ビオファームまつき 代表取締役


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ビオファームまつき

農業者だから知り得る情報をお客様に伝えたい

「ビオファームまつき」のコンセプトは、「畑の1年を伝えること」。生産した野菜をどうしたらおいしく食べていただけるか、それをお客様にお伝えすることが私たちの仕事だと考えています。
 たとえば、今年はジャガイモが豊作で、通常なら6月下旬くらいで終わるところを、8月現在、いまだに掘っても掘りきれないくらい収穫できています。新ジャガというのは皮が柔らかくて、水分が多いですよね。もちろんすぐに食べてもいいのですが、これを冷蔵庫で低温熟成させると、性質が変わるんです。たとえば今から11月頃まで保存すると、新ジャガの時と比べるとシワシワで、ピーラーで剥けないくらいに皮も硬くなります。しかし、食べるとこれが驚くほどおいしい。ジャガイモは、低温熟成することでデンプンが糖化し甘みが増すんです。農業者の間では「ひねジャガイモ」と呼ばれ、そのおいしさも知られていますが、一般の消費者にはほとんど知られていないと思います。「ひねた」ジャガイモなど出荷されませんから、手に入れることができないんです。
 そういう農家だから知り得る情報を、エンドユーザーであるお客様に提供したい。私たちはそう考えています。農業というと、イコール生産者と思われがちですが、私たちは生産者というだけではなく、トータル的な農業者です。生産というのは、農業という部分の一部にすぎないと思っているんです。
 ビオファームまつきでは現在、富士宮市内に点在する畑で計60品目の有機野菜を生産しています。11年前に40アールからスタートした畑は、現在は10倍の4ヘクタール。2007年に法人化し、畑の野菜を使った総菜店「ビオデリ」やレストラン「ビオス」を開業、トマトソースやバジルペーストといった加工品の企画販売も手掛けています。しかし、レストラン経営や加工品販売が目的なのではありません。目的は、あくまでもおいしい野菜を届けること。畑の1年を伝える手段としてレストランがあり、加工品があります。それらすべてを含めたものが、私の考える「農業者」なのです。

高級フランス料理店の給仕長から有機農業家へ


 私は就農する以前は、レストランサービスを専門とした接客の仕事を17年間続けました。就職したホテルでレストランサービス部門に配属されたことがきっかけでしたが、この道をもっと深めようと渡仏、パリのホテルでの勤務などを経て、東京・恵比寿にある「タイユバン・ロブション」の第一給仕長になりました。「タイユバン・ロブション」は、「タイユバン」、「ジョエル・ロブション」という2軒の三ツ星レストランによる共同出店だったことで当時6ツ星と呼ばれた、国内最高峰のフランス料理店です。最終的にここで働きたいという気持ちは、渡仏前からもっていましたね。
 私にとって接客の仕事は、自分にいちばん向いている仕事だと信じて疑いませんでしたし、一生の仕事と考えていました。それが37歳のときに一転、有機農業を学び、就農することになるわけです。
 大きな転機のようなものは、まったくないんです。ただ、30歳を過ぎた頃からゆくゆくは田舎で暮らしたいと思うようになりました。農業を考えたのはずっと後になってからですが、自分の食べるものを自分で作りたいという思いはありましたね。東京にいた頃から自分で味噌を作ったりしていたんです。都会での、与えられ、消費するだけの暮らしには違和感がありました。
 東京での暮らしは、便利さを享受しすぎていて、逆に殺伐としていたように思います。一方、有機農業には共生や循環といったものがベースとしてあり、便利さを投げ出してでも豊かな暮らし方はあるという考えがあります。化学肥料や農薬を使い、土の中からできるだけたくさんのものを搾取するという考え方ではなく、永続的にそこで作物ができるように堆肥を入れ、生態系を豊かにし、その中で人間も生かされていく。そういう考え方には非常に共感できる部分がありました。その当時私が求めていたのは、まさにそういうものでした。

家族で食べる分だけという農業がビジネスに

 静岡県での就農は、気候が温暖で1年を通じて野菜を作れることが大きな魅力でした。今でもそうですが、その頃は、畑を始めてよかったなといつも思っていましたね。毎日が充実していました。朝日が上ったら畑に行き、日が暮れたら帰る。なんて人間らしい暮らしだろうと。それまでは夜遅くまでレストランで働き、帰りは満員電車で押しつぶされそうになっていたわけですから……。
 食生活も変わりました。野菜は自給自足で、その他の食べ物についてもストイックというほどではありませんが、より自然に近いものを選ぶようになりました。当時住んでいた家には浄化槽がなかったため、洗剤やシャンプー、歯磨き粉といったものにも気を使いました。自ら自然を壊すようなことはやはりしたくはないですから。
 収穫した野菜は、ウェブサイトを通じて販売するほか、地元の自然食品店や東京のレストランなどで取り扱っていただきました。今思えば貧弱な技術だったと思いますが、試行錯誤を続けるなかで評価もしていただきました。そして、それに伴い畑もだんだんと増えていったんです。
 家族だけでやっていた畑に最初のスタッフが加わったのは、2005年頃のことです。岩田英里さんという女性で、現在は富士市で、1人で有機農業を営んでいます。彼女は、大学の農学部を出てアメーラトマトの開発に携わっていたのですが、有機農業を学びたいと私のところにやってきたんです。それで研修生のような形で1年間、畑の仕事を手伝ってもらいました。彼女には、栽培から配達、接客まですべて担当してもらいましたね。丁寧に教えるというわけにはいきませんでしたが、何かを得てもらうことはできたのではないかと思います。
 家族で生活できる分だけ作ればいいという農業から転換し始めたのもこの頃です。野菜を作ってお客様に届けるということに手ごたえを感じ、手伝ってくれる人も増え、ビジネスとしてやっていけるのではと考えたんです。
 有機農業というのは一種のインナーサークルで、その中で満足して終ってしまうようなところがあるんです。しかし、そこから飛び出して破天荒なことをする人がいなければ、今後、有機農業がビジネスとして成り立つ仕組みはできないだろうし、後に続く人もいなくなってしまいます。自己満足も悪くはありませんが、私は外に出ていこうと決めました。アウトサイダーになろうと。ぜひともやらなければならないと思ったんです。

有機野菜に付加価値を付けるためのビジネスモデル


 私が就農した旧芝川町は、典型的な中山間地です。平地から山間地にかけての傾斜地が多い地域で、ここではスケールメリットを活かすことはできません。有機農業をビジネスとして成り立たせるためには、生産した野菜に付加価値をつけることが求められます。そこで、私はまずビオデリをオープンすることにしました。
 ビオデリは、「たくさんのものができたから加工して売ろう」という自然な発想から生まれました。有機野菜には虫食いや傷みがつきものですから、どうしても歩留りが悪くなります。見た目は悪いけれど味は変わらない、これらの野菜を惣菜などに加工して有効活用するのがビオデリの存在意義の1つです。また、私は食から農の分野に入った人間ですから、「どうやったらおいしく食べられるか」という考えが常にあります。レシピを作ったり、実際に調理して、お客様にお出しできるというのも1つとしてありますね。そうすることで、私たちがもっている情報をストレートにお客様に伝えることができるんです。
 一方ビオスは、地産地消、食べ方の提案という共通のコンセプト以外に、ビオファームまつきのビジネスモデルの象徴として、ブランドを確立する役割も担っています。
 ビオスは、2008年に購入した約1,000坪の敷地内にあります。私たちは、ここを新たな情報発信の場とするべく「ビオフィールド1,000プロジェクト」を立ち上げました。これは、さまざまな体験を通じて食と農を身近に感じてもらう試みです。
 たとえば現在、一般の方を対象とした「野菜塾」を開講し、敷地内の農園で実際の有機栽培を体験していただいています。また、加工品を開発するアトリエや、「循環」をテーマにしたバイオトイレなども設置しています。その中で核となるのがビオスなんです。現在、レストランとオフィスでは、LED照明の電力を、太陽光パネルによる発電でまかなっています。プロジェクトはまだ途上ですが、里山がもつような、周辺環境と人間が調和して生みだされる循環の仕組みをつくりあげたいと考えています。

妻や女性スタッフの存在がブランドを支える

 ビオデリやビオスでは、支持してくださるお客様は女性が圧倒的に多いんです。ですから、例えば器や盛り付けにも、女性の視点を常に意識しています。経営計画を立てる段階でも、メインターゲットである女性の存在を抜きに考えることはできません。
 現在、ビオファームまつきには社員とパートさんを含めて20人ほどのスタッフがいるのですが、半数以上は女性です。ビオデリについて言えば、男性スタッフは1人しかいません。これまで意識したことはなかったのですが、一緒に仕事をしたいと思う人がたまたま女性だったということなのだと思います。しかし、例えばキッチンやサービスの場でも女性スタッフは必要ですし、女性社員の意見を吸い上げ、そして反映していくことも重要だと思います。
 組織を運営していく上では、妻の存在も大きいですね。彼女には、私が何かをする際には必ず意見を求めるようにしています。現在は彼女も経営者の一員ですから、仕事上のパートナーとしても頼っている部分があります。私がもっとも苦手とする総務や経理部門は、彼女がいなければおそらく成り立たないですね。また、例えば自分がしたいと思うことに彼女が反対だったとしたら、それについて考え、方法を変えるということもあるでしょう。女性の視点からアドバイスをもらうことも大いにあります。
 妻とは学生時代に知り合い、24歳のときに結婚しました。それ以降、パリ、東京、静岡とともに移ってきたんです。就農した翌年には息子が生まれ、当時はその息子を揺りかごにのせて日陰に置き、私たち2人は畑で作業をするということもありました。
 私が移住して農業をやりたいと言ったとき、妻は自分もやらなきゃしょうがないなと思ってくれたのではないでしょうか。新しい環境に対しても、2人で何とかしていこうと思ってくれたのだと思います。

中山間地における有機農業の6次産業化の難しさ


 私たちが畑の1年を伝えるために行っているさまざまな試みは、有機農業の6次産業化によって成り立つものです。6次産業とは、1次の生産、2次の加工、3次の流通販売を一貫して担う経営形態のことです。昨年12月に六次産業化法が公布され、現在、農林漁業者による6次産業化は国を挙げて推進されています。しかし、ビオファームまつきで挑戦している、中山間地における有機農業のビジネスモデルを確立することは、本当に難しいと実感しています。
 そのひとつには、1次、2次、3次を繋ぐ難しさがあります。例えば、ダイコンの甘酢漬けをたくさん売ろうと決め、ダイコンを1万本生産したとします。ところが商品が売れなかった。そうなるとダイコンは無駄になり、畑のスタッフのモチベーションも下がってしまいます。たくさん売る計画を立てても、不作ということもあります。原材料を買ってきて加工するわけではないですから、その辺は難しいところです。もちろんこれは氷山の一角であり、他にも難しいと思うことが日々起こるんです。
 経営者として、スタッフが皆同じ方向を向くようにまとめていくことも難しいですね。畑のスタッフはどちらかというと職人気質ですし、利益を生む出口での仕事は完全なサービス業です。メンタリティの違いがありますし、うちで働く目的もいろいろ。一生勤めたいと思う人もいれば、技術を吸収し独立したいと考えている人もいるんです。私自身について言えば、従業員をかかえ、彼らの生活を背負っているというプレッシャーも強くなる一方です。
 例えばお茶農家がお茶を作り、加工し販売する。これも6次産業ではあります。しかし、60品目の野菜を作り、それぞれに付加価値を付ける。フランス料理のレストランを経営し、野菜塾のようなソフト産業も手掛ける。そんなことは、誰もやろうとしません。私たちがやっていることには、前例がないんです。前人未到のことをしようとしているからこそ、さまざまな場で困難が生じる。当然といえば当然のことかもしれません。
 うちは成功していると思われることが多いのですが、まだまだ試行錯誤の段階で、正直に言えば「どうしよう」と思うことばかり。私自身も、今はいろんな面で余裕がないというのが本音なんです。

後に続く若者たちのために前に進み続ける

 それでも、やめようとは思いません。私自身のモチベーションは何かと考えると、私利私欲といったものでないことは確かです。やはり、駆り立てられるものがあるんですね。
 私たちのビジネスモデルを確立させることができれば、中山間地での有機農業を若い人たちに継承していくことができるんです。それは、農業に関わりのない若者が起業しようとする際の選択肢のひとつになるということ。そこからは雇用が生まれ、ひいては地域活性化にも繋がっていくでしょう。そのためにも、私は農業の良さやおもしろさを若者に伝えたい。ビオファームまつきのビジネスモデルは、そのための手段でもあるんです。
 実は現在、新たな店舗を開店するための準備をしています。静岡市内の中心部で、野菜を使ったシンプルな料理とワインを楽しめる店。ビオスの立地では「ここではワインが飲めない」との声もあったので、新店では気軽に立ち寄って、ワインを楽しんでいただけたらと思っているんです。
 さまざまな問題をかかえ、試行錯誤している今のタイミングで新たな店を出すことには、この店を私たちのビジネスモデルの根幹となる場にしたいとの思いもあります。要するに、6次産業における、利益を生む部分を作ろうということです。もちろん、第1の目的は畑の1年を伝える場所を作ることにあります。それらを考慮した上で、今また、新たな一歩を踏み出すことにしたんです。
 ここまできた以上、もう後には戻れないですね。2005年の自分に戻ればどれほど楽かと思うこともあります。家族で食べる分だけの野菜を作っていた頃――。しかし、今は前に進んでいくしかないと思っています。私には、やり遂げようという思いも情熱もあります。経営者でいる以上、常にプレッシャーを感じ、安泰ということはないでしょう。ゆっくりできる時間が欲しいとも思います。しかし、時間があっても頭では事業のことを考えてしまうでしょうね。結局は、この仕事が好きなんだと思います。

取材日:2011.08



長崎県生まれ  静岡県富士宮市在住


【 略 歴 】

1990仏・パリ「ホテルニッコー・ド・パリ」勤務
1992仏・パリ「ルコント コンパニー」勤務
1994東京・恵比寿「シャトーレストラン タイユバン・ロブション(現ジョエル・ロブション)」勤務
1995仏・パリ三ツ星レストラン「タイユバン」にて研修
1999「シャトーレストラン タイユバン・ロブション」退職
栃木県にある農業塾にて有機農業研修
2000芝川町(現富士宮市)へ移住、新規就農
2007株式会社ビオファームまつき 設立
野菜惣菜店「ビオデリ」開店
2009フレンチレストラン「ビオス」開店

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