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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

里子の子育てに奮闘中のイクメンパパは75歳。
「本当の家族」を目指して、妻と二人三脚。

久保田庄次(くぼた・しょうじ)

久保田庄次(くぼた・しょうじ)


主夫



60歳で身よりのない赤ちゃんを引き取る決意


 ある日、看護師として病院に勤務する妻が、こんな相談をもちかけてきました。
「この間、親のいない赤ちゃんが救急車で運ばれてきたんだけれど、私たちが親代わりになって、その子を育てられないだろうか」
 妻は、駿東郡清水町にある国立東静病院(現在の国立病院機構静岡医療センター)に、看護部長として着任したばかりでした。赤ちゃんは、生後10日前後。幸い身体には異常はなく、すぐ退院できましたが、身寄りがないため、児童養護施設に預けられたということでした。 妻は、退院する赤ちゃんを抱き上げたとき、「この子が大きくなって、『お父さん、お母さんの絵を描いてごらん』と言われたら、誰をイメージするのだろう」という心配が、不意に頭をよぎったと言います。「私たちはかなり年をとっているけれど、この子の親の代わりになってあげられないだろうか」――すべては、そこから始まりました。
 そのとき、私は60歳、妻は55歳。この子が20歳のとき、私は80歳です。そんなことを考えると、躊躇せざるをえませんでした。しかし、どんな子供にも、親の愛情が必要だということは明らかですし、何らかの拠りどころがあってこそ、子供はすくすくと育つものです。 実は、私たち夫婦はクリスチャンです。聖書には、「この世で神に最も近い存在は幼子である」という言葉もあります。愛の教えを唱えたキリストの言葉と、私たちの否応のない現実との狭間で、どうすべきか悩みました。
 私の実家は、石川県にある山中温泉で、旅館を営んでいました。終戦間近の1944年、大阪の小学生たちが、うちの旅館に40人ほど集団疎開してきたことがあります。昼間は一緒に楽しく遊んでいる子らが、夜になると、ホームシックで泣き出すんですね。その光景に、私はショックを受けました。「両親が傍にいて、寂しい思いをしたことがないことは、とても恵まれたことなんだ」と、子供ながらに実感した覚えがあります。
 毎日、思いを巡らせるうちに、「親がいないという理由で、その赤ちゃんを不幸にしたくない」と思うようになりました。どこまでできるかわからないけれど、自分たちにできることをしてみようと決心し、妻の申し出を受け入れることにしました。

想像以上に厳しかった里親になるための審査

 私たちはまず、静岡県東部児童相談所で、里親になるための申請を行いました。ある程度は予想していたのですが、里親登録のための審査は、大変に厳しいものでした。
 里親には、要保護児童を養育する「養育里親」のほか、虐待を受けた児童などを養育する「専門里親」、三親等内の要保護児童を養育する「親族里親」、養子縁組をする「養子縁組希望里親」の4種類があります。私たちの場合は、養育里親です。
 申請を行うと、里親として必要な知識を学ぶ研修のほか、所轄の児童相談所による家庭訪問や面談などの調査があります。最終的には調査結果に基づき、児童福祉審議会が里親としての適格性を審査します。適格と判断されると、知事が里親として認定し、子供を引き取ることができます。
 県東部児童相談所へ相談に行ったとき、まず指摘されたのは、私たちの年齢の問題でした。60歳前後で里親になりたいというケースは、やはり珍しいそうで、体力面や経済的な難しさを言われたんです。
 本籍地が石川県にあることも、問題になりました。私も妻も、生まれ故郷の石川県で、長年暮らしてきましたが、妻が国立病院の管理職となってからは、ほぼ2年ごとに転勤があり、それに合わせて夫婦ともども引越しを繰り返していました。
 児童相談所の担当者には、「転勤先としてたまたま赴任した静岡県で、なぜ里親になりたいのか」という疑問があったようです。

年齢のハンディを赤ちゃんとの絆で克服し里親に

 私たちは児童相談所の担当者に、自分たちの熱意を伝えました。里子にしたい赤ちゃんとは、すでに接点があることや、成人したら本人の意思を確認したうえで、養子にする希望をもっていること、家族も皆、賛成していることなどを、一生懸命に説明したんです。
 審査は、1年以上に及びました。私たちはその期間も、毎週、養護施設に足を運び、赤ちゃんとの親交を深めていきました。赤ちゃんも、しだいに私たちに親しみを感じてくれるようになって、だっこしてと甘えたり、話しかけるとニコニコ笑顔を見せるようになりました。
 審査の最終段階では、赤ちゃんを養護施設からわが家で預かり、1週間、一緒に暮らしてみる機会をいただきました。赤ちゃんは既に1歳になっていました。ご飯を食べさせたり、一緒にお風呂に入ったり、公園へ遊びに行ったり……あっという間に過ぎた1週間でした。
 いよいよ赤ちゃんを帰すという日、私たちは引き裂かれるような気持ちで、施設へと向かいました。「じゃあね」と、施設の職員さんに託そうとすると、赤ちゃんは泣き出して、私や妻にしがみついて、離れようとしません。その光景をみていらっしゃった園長先生は「どうぞ、このままお宅へお連れください」と言われました。
 そこでようやく、私たちは、里親として認められたわけです。娘になった赤ちゃんの名は「裕子」。養護施設に引き取られたとき、当時の斎藤衛沼津市長がつけられた名前です。あれから14年が過ぎ、裕子は現在、中学2年生。私たちを後押ししてくださった児童相談所や福祉施設の先生方、前例のない決断をしてくださった児童審議会の方々には、今も心から感謝しています。

市役所を退職し、地位や名誉のはかなさを実感

 私は、東京の大学を卒業した後、故郷に戻り、加賀市役所に就職しました。20代後半には、東野喜三郎市長の秘書として、さまざまな仕事をこなしながら、毎日忙しく働きました。議会や施政方針演説の原稿を書くこともありましたし、市長から電話があれば、夜中でもご自宅に駆けつけました。
 1967年、ノルウェーのオスロで開催された「世界連邦世界大会」に、国の代表として参加したことや、1972年、加賀市の姉妹都市であるカナダのオンタリオ州ダンダス町を訪問したことは、青春時代の忘れがたい思い出です。
 今にして思えば、当時の私は、市長の側近という立場から、自分を何でもできる人間だと、思い上がっていました。他の職員に横柄な態度をとることもありましたし、出世欲も人一倍強かった。愚かだったと思いますが、肩書きとか表彰や勲章は、「生きた証」とさえ思っていました。  しかし、1975年、東野市長の退任とともに、私も市役所を去らざるをえない状況になりました。地位や名誉、権力というものが、いかにはかなく、脆いものか、思い知らされましたね。
 その後は、地元の伝統工芸である山中漆器に関わる仕事をしたり、温泉施設の初代館長を務めたり、いろいろな仕事を経験しました。

「もう一度、子育て」の背後にある苦い経験

  妻の暁子と結婚したのは、1993年のことです。お互い再婚で、それぞれ子供が2人ずついます。「旅館のおぼっちゃん」だった私は、甘やかされて育ったこともあり、以前の結婚では、家事も育児も、すべて妻任せでした。「男は働いていればいい」という、昔気質の仕事人間でしたね。
 しかし離婚で、子供たちに辛い思いをさせてしまったことは、いまだに申し訳なく思っています。離婚した後、子供たちは私が引き取ったのですが、子育ては、実家の母に頼っていました。
 実は、暁子と一緒になる前、44歳のときにも、再婚を経験しています。子供たちは、まだ10代でした。子育てはそのときも妻任せでしたが、子供たちは反発し、新しい環境に結局、馴染むことができませんでした。2度目の結婚に失敗した後、一時は娘や息子と断絶に近い状態になりました。
 現在、長女は47歳で、長男は43歳になります。それぞれ独立し、今ではときどき遊びにも来ます。彼らにすまないことをしたという思いは、いまだに心のシミのように消えません。
 一方、看護師や看護学校の教師としてキャリアを積んできた暁子も、裕子の里親になるまで、生活の中心は、ずっと仕事でした。47歳で夫に先立たれた後、親の協力を得ながら、看護師長、看護教育主事などの仕事をこなしつつ、2人の娘を育て上げました。
 世間からは「女手ひとつで立派ですね」と言われることが多かったそうですが、本人としては、「2人とも立派に育ってくれたし、私は厳しい母親を務めたけれど、母親として、娘たちに十分向き合ってくることができなかった」という忸怩(じくじ)たる思いがあるようです。
 妻の長女が出産する際、こう言われたそうです。「お母さんに『愛してる』と言ってもらわないと、私は子供を産めない。今ここで『愛してる』と言ってほしい」。妻は、もちろん娘たちを愛していました。それはあまりにも「当然のこと」で、意識さえしなかったという気持ちもわかる気がします。
 私たち夫婦が、裕子の里親になりたいと思ったのは、そうした子供たちへの償いの気持ちや子育てをめぐる後悔の念も、あるのだと思います。「この子は絶対に幸せになってほしい」という思いを、私も妻も、強くもっています。

運動会の参加に備えて、筋トレも欠かさない!

 私たち夫婦のもとへ、1歳半の裕子がやってきてからというもの、私たちの日々の暮らしは、完全に「裕子中心」に変わりました。
 妻は、35年間、続けてきた仕事を辞めました。私は既に、仕事の第一線から退いておりましたので、その頃は既に、家事の手伝いぐらいはするようになっていました。
 それが裕子を迎えてからは、本格的な「主夫」になりました。60歳を過ぎて、家事も育児も、何でもこなせる「カジダン」「イクメン」に転身したわけです(笑)。料理教室に通ったこともありますが、やはり料理は妻の方が一枚上手ですね。
 買物や食事の後片付け、妻が朝食を用意している間に、掃除や洗濯をしたり。育児も、ミルクをあげたり、おむつを替えたり、何でもやりました。2人で楽しみながら、裕子の世話を焼いている毎日でした。
 子育てこそしてきませんでしたが、子供はもともと好きなんです。戸惑うことは、ほとんどありませんでしたね。家事も育児も、始めてみたら、その楽しさを発見しましたし、意外に自分に向いていると思いました。
 70歳になったときには、内心、ショックを受けましたが(笑)、まだまだ元気でいなきゃいけませんからね。ずっと筋トレもしているんです。裕子の父親として、運動会で走ったり、フォークダンスも踊らなければなりませんし。
 わが家には、たくさんの家族写真があります。裕子がわが家で初めて迎えた朝の寝ぼけ顔もあれば、初めてのお風呂で、ゴキゲンな顔もあります。毎年、必ず出かける家族旅行、裕子の入学式や卒業式、動物たちと触れ合う姿や、自然の遊びを楽しんでいるところ……。裕子には、たくさんの楽しい思い出を、もたせてあげたい。
 裕子の部屋には、彼女が保育園時代に描いた、お父さんとお母さんの絵が飾ってあります。もちろん、お父さんは私、お母さんは妻。妻が初めて裕子を抱っこしたとき、頭をよぎった思いが、今こういう形で実現しているのは、私たちの生きる喜びとなっています。

「里子」としての気遣いに心の傷を垣間見た

 私のことを裕子に言わせると、「優しいけれど、ときどき怖いお父さん」だそうです。確かに、口うるさい面もありますね。「早く宿題をやりなさい」と、叱ることもしょっちゅうでしたから。
 小学4年生のときにわかったことなのですが、実は、裕子には発達障害があります。程度としては軽いもので、他の子供たちと大きな違いはないのですが、中学校に入ってからは、本人の希望に応じて、得意な科目は普通学級、苦手な科目は特別支援学級で学んでいます。
 医者に指摘されるまで、障害があるとは夢にも思っていませんでしたから、宿題ができなかったり、時間にルーズなことがあると、私はひどく裕子を叱っていました。夜遅くまで、問題が解けるまで、取り組ませることもありました。
 ある時点で「もしかしたら……」と、彼女を病院に連れていったところ、そうしたことはすべて、裕子の限度を超えていたということがわかりました。裕子にとって、何が必要なのか、改めて考えさせられましたね。
 勉強でも運動でも、同級生についていくことができず、小学校5年のとき、ひどいいじめを受けたこともあります。どうして学校に行くのを嫌がるのかと思っていたら、実はクラスメートから、仲間はずれにされていたらしいんです。
 なぜ言わなかったのかと尋ねると、「お父さんとお母さんに心配をかけたくないから、我慢していた」と言うんです。これには、参りましたね。子供は子供なりに、親を気遣うものですが、裕子の場合、「里子」という自分の立場について考えるようになった結果と言うべきかもしれません。
 私たち夫婦と裕子との関係については、彼女が10歳のとき、本人に話をしました。私たちからすると、裕子が気遣ってくれることは、本当の両親がいないことで負った彼女の心の深い傷を見るようで本当に胸が痛みます。私たちは、ことあるごとに「辛いときまで、いい顔をしなくてもいいんだよ。ありのままでいいんだからね」と言って聞かせています。
 裕子が今、いちばん好きなのは、ピアノを弾くことです。5歳から習っていて、学校の音楽会で、伴奏を任されるほどの腕前なんですよ。
 学校から帰って来ると、まずはリビングにあるピアノに向います。学校では、周囲の子供たちとペースが違うことでの葛藤があるらしく、いつも疲れて帰ってくるんです。そんなとき、ピアノを弾くことが心を和らげてくれるようですね。

地域の子供たちの育成を支える活動にも参加

 裕子を迎え入れるのと期を同じくして、静岡県の「ショート・ルフラン里親事業」にも、参加するようになりました。これは、児童養護施設などに入所している子供たちを対象に、家庭生活を体験させる目的で、週末や夏休みなど、一時的に預かる制度です。わが家では、月に1回、金~日曜日に、施設で暮らす子供たちを預かっています。裕子ともすぐに仲良くなり、いつも一緒に遊んでいます。
 何らかの事情があって、親が育てられない子供を支援する「社会的養護」は、日本の場合、児童養護施設での集団生活が中心です。今後、里親や少人数の子供が施設職員と生活する「グループホーム」などにシフトしていくことが、現在、国の指針にもなっています。
 日本の里親委託率は、昨年度で10%と、国際的にみても低水準です。そのなかで静岡県は、2年前の実績で18.9%。過去5年間に、8.3%という高い伸び率を実現した結果です。ショート・ルフラン事業の貢献も、大きいでしょうね。
 里親以外にも、裾野市のファミリーサポートセンターによる「まかせて会員」として、地域のお子さんを預かる活動も行っています。
 裾野市は、大手企業の大規模な事業所が多く、県外から転入してくる家族も少なくありません。共働きで、近所に親戚がいない家庭は、小さな子供の具合が悪いとき、保育園には預けられないし、両親とも仕事を休めないし、困ってしまうわけです。そんなご家族から、子供を預かってほしいという依頼があります。妻は看護師でしたから、安心して預けていただいています。

お互いの弱さを補い合うのが「本当の家族」

 裕子が来て、3人で暮らすようになって実感したことがあります。それは、「家族とは、お互いの弱いところを補い合い、信じ合い、助け合うもの」ということ。それが、「本当の家族」なのではないでしょうか。
 男女共同参画の考え方も、同じだと思います。私たちは皆、弱い者同士だということを認識し、支え合っていかなければなりません。
 家事や育児でも、そういう思いが大切だと思います。私たちは、夫婦が協力し合うことで、裕子に十分な愛情を注げると信じています。子供からもらう、嬉しいことや辛いこと、悲しいこと……すべてを、家族で分かち合っていくべきだと思います。
 里親をしているからといって、「いい人」ばかりとは限りません。聞くところによれば、過去には、自分の名誉のために里親をやっていた人もいたようですし、里子との間にトラブルが起きて、結局は施設に帰してしまったケースも耳にします。残念なことに、里親による虐待事件も、起こっています。
 私たち夫婦にとっては、今が「第2の青春」ですね(笑)。2人の生き甲斐である裕子を、誠心誠意、命を掛けて守っていくつもりです。
 里親の役割は、契約のうえでは、あと4年で終わります。責務と使命を果たし、彼女の成長を見届けたいと思っています。その先に、私たちが目指す、「本当の家族」があると信じたい。
 これからもさまざまな試練や困難に直面しながら、親子ともども、泣き笑いの日々が続くのでしょうね。そのなかでも、互いに信じ合い、愛し合い、ますますその絆を深めていきたいと願っています。

取材日:2011.7



石川県生まれ 静岡県裾野市在住


【 略 歴 】

1959加賀市役所 就職
1972山中漆器工場団地協同組合 事務局長
1991山中温泉湯けむり健康村「ゆうゆう館」館長
1995NPO法人「静岡光の家」 生活指導員
1997静岡県里親登録
1998裕子さんを里子として受託
東部児童相談所ショート・ルフラン里親事業に参画
2001裾野市社会福祉協議会勤務、裾野市福祉センター内高齢者ふれいあいサロン「あじさい」運営に従事
2006裾野市ファミリーサポートセンター「まかせて会員」登録
2007関東甲信越里親協議会長賞 受賞
2008裾野市男女共同参画推進市民会議 委員

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