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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

働き盛り世代が歌い続けた、家族への思い。
「ホームリーダー」精神をコーラスに乗せて。

静岡パパさんコーラス

静岡パパさんコーラス


会長

齊藤昇(さいとう・のぼる)


- WEBサイト -

『静岡パパさんコーラス』

「仲間と楽しもう」をモットーに歌い続けて50年

 歌い続けて半世紀。これが私たち「静岡パパさんコーラス」のキャッチフレーズです。結成されたのは1963年。文字どおり半世紀近く、静岡で歌い続けている男声コーラスグループです。
 現在、会員は44人。指揮者の松永好夫先生とピアニスト、そしてボイストレーナーも含めて49人がフルメンバーです。このうち常に参加しているのは43人ぐらいでしょうか。定期公演のほか、さまざまなイベントや施設などへのボランティアにも声をかけていただき、歌声を披露しています。
「パパさん」より年齢高めな私たちですが、メンバーの半分ぐらいはまだ現役世代なんですよ。月曜日の夜に集まり、「静岡県男女共同参画センターあざれあ」の小ホールで練習しています。レパートリーは日本の歌、ドイツの歌、ロシアの歌そしてアメリカの歌などさまざまですね。結成当初より「日本のミッチ・ミラー合唱団」を目指していますので、なじみのある、耳に優しくて楽しい、親しみやすい曲が多いんです。 私は今は会長を務めていますが、友人に誘われて27年前にパパさんコーラスに入るまで、合唱をしたことはありませんでした。若い頃は山登りが趣味でしたので、そこで歌を歌うことはあっても、ステージに上がるようなコーラスはここに入ってから。発声練習から始めました。グリークラブに入っていた経験がある、という人もなかにはいますが、多くが楽譜も苦手、という初心者からのスタートでした。
 松永先生は、そんな会員に「楽しもうよ」というスタンスで指導してくださいます。コーラスのなかには上達を目的としてコンクールに出たり、賞を狙ったり……というグループもありますが、私たちは、縁あって出会った仲間と、一緒に楽しもうと。合言葉は「楽譜が不得手でも、お酒が飲めれば大丈夫」(笑)。練習後は、みんなで楽しく飲んで歌って、語り合って。昔からそんな雰囲気です。

「父親のコーラスを」と発足。家族への感謝を伝える

 パパさんコーラスは1963年、静岡市中央公民館、今の「アイセル21」で誕生しました。世の中に母親のコーラスは多いけれど、父親のコーラスはないよね、というところからスタートしたといいます。最初の会員は12人、指揮者の松永先生も、当時からのメンバーです。しばらくは「静岡中央公民館パパさんコーラス」という名前で、中央公民館で練習していましたが、5、6年後には静岡市葵区にあったビアホール「ニューキラク」の1階ホールで練習を始め、会の名前も「静岡パパさんコーラス」と改めました。
 そんなパパさんコーラスには、設立当初から受け継いでいることがいくつもあります。例えば誕生会。2カ月に1度、会員の誕生日を祝う会を開きます。そして、クリスマスに行う「いきいきファミリーパーティー」。これは、会員の家族を招いたパーティーです。いつも活動を支えてくれる家族に感謝の気持ちを伝えるための会で、毎年開いています。ここのところ、交流のあった合唱団の方など、家族以外の人を招待することが増えていたので、今年は原点に返って家族中心で開催する予定です。私も妻や子供たち、孫が顔を見せてくれる予定です。
 このように、結成当初から家族のためのパーティーを開いているのは、このコーラスの理念と関係しています。パパさんコーラスのエンブレムは「HL」、これは「ホームリーダー」の略です。私たちは一家の大黒柱である、という気概と誇りの表れなんです。
 といいますのも、結成した1960年代というのは、高度経済成長期のまっただなか。父親はみな、家庭には脇目も振らず仕事に明け暮れた時代です。いわゆる、企業戦士という男性が多かった。家族の予定より上司の誘いを優先する、そんな働き方が当たり前でした。でも、パパさんコーラスは、そんな時代だからこそ一家を支えるリーダーとして、歌で家族を支える、と宣言。「私たちは家族を大切にする」という一種の決意表明をしました。それが「HL」です。今でこそワーク・ライフ・バランスという言葉もありますが、あの時代には、とても珍しかったといえます。

コーラスで心通わす活動。ドイツ、韓国で歌声交流も

 パパさんコーラスは、他の合唱団との交流も活発に行っています。定期的に交流を行っているのが、横浜にある「一ノ蔵男声合唱団」。1年ごとに互いを行き来し、定期公演には必ず訪れます。公演以外にもタケノコの季節にはタケノコ掘りにお誘いしたり、イモ掘りをしたりと交流を深めています。
 外国へも行きましたよ。ドイツへは1995年と2001年の2度訪れています。2001年は私が団長を務めたのですが、会員とその家族を含め23人が参加しました。日本とドイツの交流を積極的に行っているルジチカ・多喜枝さんという女性が率先して手伝って下さって、現地の「ぺリング合唱団」と交流の場をもちました。両国の歌を歌いあったり、とても有意義な交流ができましたね。そのお礼にと、向こうから日本にも来て下さったんです。浜松で歓迎パーティーを開きましてね、そこにたまたまいたお客さんも一緒になって100人以上で大いに盛り上がりました。
 あるときは、韓国の済州島から静岡県庁に出向で来られた韓国人の方が、一時的にパパさんコーラスに入られたことがありました。その方が韓国に戻られたあと、済州島にお誘いいただいて、有志で訪ねました。もちろん、韓国のコーラスグループとも交流しましたよ。「日韓草の根交流だね」なんて言ってね。
「一ノ蔵」もドイツの合唱団も、たぶん合唱のレベル的には私たちよりも数段上なのだと思います。それでも交流ができたのは、やはり「歌の力」。そして、松永先生から受け継いだ「心から楽しもう」という雰囲気、「だれでも受け入れる」広い懐を、会員みんながもっているからだと、私は思います。

半世紀もの間、パパさんコーラスが続いた理由

 もちろん50年という歴史のなかで、存続の危機もありました。ちょうど私が入った27年ぐらい前にも、そういう事態に直面していました。要するに「もっと本格的にコーラスをしたい」人と「このままの雰囲気で続けたい」人が相容れなかった、とそんな感じのことです。先ほども申しましたが、会員の多くが、楽譜を読むのが不得手という、音楽的には初心者の類です。そして、同じ集団のなかでレベルの差がある場合、松永先生はつたない方に合わせ、そこを引き上げようとして下さる。向上心をもって練習することで充実感を味わえる人もいますが、それだとついていけない人も出てくるわけですね。周りがみんな上昇志向の人たちだと、歌が苦手だったり楽譜を読むのに苦労している人は、肩身の狭い思いをするでしょう。すると楽しくないですから、自然と練習から足が遠のく。そういうことがないように、先生の方針は「すそ野に合わせる」ですから、それが物足りないと感じて去っていく会員もときにはいます。
 松永先生は実に感性がいいんです。ピアノだけでなく、どんな楽器も弾けるすばらしい指導者ですが、感性がいい、というのは「自分がいいと思うことを、うまく人に伝えられる」ことだと、私は思うのです。人が楽しんでくれると自分もうれしい、だから一緒にやろうよ、という雰囲気に、人を引き寄せる「天才的な遊ばせ上手」。この先生がいたから、こんなに長く活動を続けられたという部分は大いにあるのではないでしょうか。

50歳を過ぎてのコーラスは「人生を広げる階段」

 私は今、79歳です。私の人生でもっとも大きな転換期となったのは旧制中学1年。終戦によって、それまで信じていた価値観が、180度変わる経験をしました。13歳という多感な年頃でしたから、これからは集団の思想言動に安易に首を縦に振らない、と心に決めたものでした。戦時中は歌を歌うなんて怠け者、映画に行けば不良と言われる時代を強いられたわけですから、当然といえば当然でしょうね。
 大学では登山にのめりこみました。卒業後は静岡市内で喫茶店を開店、その後は木工品製造会社の設立と経営に携わりました。他の多くのパパさんコーラスのみなさん同様、しばらくは私も仕事一辺倒の日々を送ったわけです。
 コーラスに入らないか、と友人に声をかけられたのは、50歳を過ぎてからのことでした。そういう人生でしたから、歌なんて、と最初は戸惑いました。結局3年ぐらい誘われ続けたのですが、決め手となったのは妻のひとことです。「お父さんは他に何もやってないんだから、いい機会だから入ったらどうですか」と。それで、人が勧めるものはとりあえずやってみようか、と軽い気持ちではじめたんです。
 いざはじめてみてどうだったかというと、私はコーラスを通じて人生観が広がったと感じています。人は、何か1つテーマをもつとそれに向かって努力しますよね。そしてその後に、成果が表れるものです。
 例えば、コンサートを開く場合、私たちはお客様に「感動を与えるステージにします、ぜひいらしてください」とお誘いします。チケットをお求めになってご来場くださるわけですから、一生懸命練習します。うまく歌えないこともありますし、なかなか上達しないと感じることもある。それでも練習を重ねてステージに立ち、全力を出し切ります。すると、その後はスカッとするんです。突き抜けるとでも言いましょうか。これは階段を1歩、ステップアップした感じに似ています。こういう感覚を経たとき、人生が広がったなと感じるのです。仲間とともに成長を感じられる瞬間は、私にとって何ものにも代えがたい経験なのです。

設立当初から貫かれていた「男女共同参画」

 1990年からはニューキラク3階に「キラクホール」ができたため、そこで練習していましたが、閉店にともない、7年前から練習場所をあざれあに移しています。男女共同参画センターということで、男女共同参画の講座に声をかけていただき、勉強もさせていただいています。今年4月には「男女共同参画宣言団体」として登録もいたしました。そんななかで感じるのは、私たちパパさんコーラスが当初から貫いてきた姿勢が、そのまま「男女共同参画」だったのだ、ということでしょう。
 そもそも、松永先生を始めとする初代のメンバーがこのコーラスを設立したときから、家族を一番に考えるというスタンスで活動を続けています。ですから私たちも、それを当然のこととして受け止めていました。一般的に、60~80歳代には、ジェンダー的偏見――男性が社会的に優位であり、妻は黙って従う――と考える人も少なからずいるはずなのですが、パパさんコーラスには「妻=パートナー」という認識が浸透していると感じます。
 松永先生から言われて印象に残っているのは、「こうやって平日の夜の練習にすんなり出られるのも、家族のおかげ。それを忘れてはいけないよ」という言葉。たまに仕事から早く帰ってくるなら、コーラスなんか行かずに家のことをやってよ、という気持ちが妻にあってもおかしくないわけです。でも何も言わずに見守ってくれる。コンサートでは受付の手伝いもしてくれます。
 だからこそ「ファミリーパーティー」は、私たちの1番身近なサポーター、理解者である家族をもてなす、家族への感謝の日として位置づけられているのです。よほどでない限り夫婦で出ていただき、子供や孫にも来てもらって、家族の絆を認識する機会にしてほしい。それこそが、私たちの世代の男女共同参画。パパさんコーラスとして男女共同参画を推進していくための、1つの手段なのだと思います。

50年の節目を前に、目標は次なるステージへ

 パパさんコーラスは2年後の2013年に結成50周年という節目を迎えます。これまでも20年、30年と節目を乗り越えてきました。楽しいイベントや慰問の演奏なども数々行っておりますが、これから50周年へ向けての1つの目標として、パパさんコーラスである以上、自分たちの単独のステージを立派にこなすことを、目標に掲げています。
 長年、このコーラスに関わってきた松永先生は、いつもステージのたびに「これが最後のステージになるかもしれないから」とおっしゃるんです。私はそれに対して「そういうことを言うのはやめてくれよ」と反論します。50年続いてきたパパさんコーラス、他にはない、いい雰囲気だと胸を張って言える私たちのコーラスは、ぜひ、明日につながるものであってほしいと思うわけです。常に明日につながるところにテーマを置いて、みんなが活動できるように、会として存続していかなければなりません。
 このごろ入会される会員は、楽譜の読める方が多くて楽しみですね。約3年前からボイストレーニング専門の先生の訓練も受けており、ここに来て一段と歌声がよくなったという評判もいただいています。今後がさらに楽しみですね。
 これからの課題は、メンバーのなかで先生の片腕になれる人材を育成していくこと。これもパパさんコーラスを明日へとつなげていくためには欠かせないことなのです。
 これから平均年齢はますます上がるかもしれませんが、目標を決め、次のステージを目指して努力しないと喜びは生まれませんよね。これからも私たちは「HL」、ホーム・リーダーとして、歌声で人と人の輪をつなげていくつもりです。
 昨年、「歌い続けて半世紀・コンサート」を開いた際、演奏後お客様1人ひとりに「父(パパさん)からの手紙」という1枚の手紙を手渡しました。これまでの感謝の言葉を詩人サミュエル・ウルマンの詩とともに綴ったものですが、こんな言葉で締めくくっています。
「静岡パパさんコーラスは、ウルマンの詩のようにいつまでも輝きながら、丈夫で長持ちする人生を謳歌したいと願っています」
 これこそが、私たちの50年の積み重ね、そしてこれからの50年に向けた願いであるのです。

取材日:2011.9




【 沿 革 】

1963「静岡中央公民館パパさんコーラス」として結成
198320周年記念公演 開催
198825周年記念リサイタル 開催
199330周年記念コンサート 開催
20002000年記念コンサート 開催
2005ファン感謝デー特別企画 開催
2010歌い続けて半世紀・コンサート 開催

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