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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

サッカー日本女子代表として16年間歩んだ先駆者。
S級ライセンスを取得し指導者としても上をめざす。

半田悦子(はんだ・えつこ)

半田悦子(はんだ・えつこ)



常葉学園橘高等学校 女子サッカー部監督
サッカー元日本女子代表


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常葉学園橘中学校・高等学校

思いが結実した「なでしこジャパン」の優勝

 日本で今年、最も明るいニュースの1つとなったサッカー日本女子代表「なでしこジャパン」のFIFAワールドカップ優勝。私も、本当にうれしかったですね。代表の選手たちには「よくぞ頑張ってくれました」と言いたいです。
 準々決勝のドイツ戦に勝利したあたりからは、日本全体が盛り上がっていくのを感じました。「世界一になるということは、こういうことなんだ」という感動を、私も間接的に味わえたように思います。今回の優勝は選手たちの頑張りはもちろんのこと、日本サッカー協会(JFA)など、これまで日本女子サッカーを支えてきた人々の努力がここに結実した、そう言えるのではないでしょうか。
 日本女子サッカーが誕生して約30年。私がサッカーを始めた頃は、女子の競技人口は1,000人にも満たない位でした。それが次第に増え、昨年度のJFA登録選手数は約37,000人を数えました。今回の「なでしこジャパン」世界一の快挙で、さらに競技人口が増えることも予想されますね。
 女子サッカーの今後を占う上で課題となるのは、中学年代での活動を充実させていくことだと言われています。これまで女子サッカー界は、学校よりもクラブチームの活動によって支えられてきました。しかし、近年では女子サッカーチームをもつ高校・大学数が増加し、クラブチームとともに発展してきています。静岡県では現在、15の高校にチームがあります。ところが、中学年代はまだ少ないんです。つまり、せっかく小学校で男の子に交じってサッカーをしてきた女の子が、中学に入ると活動の場を失ってしまう現実があるのです。
 そこで、元日本女子代表コーチの吉田弘さんが中学女子の強化を目的に設立したのが、常葉学園橘中学校の女子サッカー部です。私は、橘中学に女子サッカー部ができた当初から監督として携わりました。今年からは、U-19(19歳以下)、U-16(16歳以下)日本女子代表の監督となった吉田さんの後を引き継ぎ、橘高校で監督をしています。

中・高一貫で全国に通用する選手を育成

 橘中学・高校の女子サッカー部の大きな特徴は、中・高一貫の6年間で選手を育成するということ。全国でも、中高一貫システムを持つ学校はまだ非常に少ないですね。育成方法としては、まず中学年代では個の技術を習得することを目的とし、高校に入ってからは、個人技術を大切にしながらチーム戦術も身につけていくように指導しています。
 入部に際しては、小学校6年生の時にセレクションを行っています。希望者は各地のサッカーチームの主力選手で多い年で約20人。選ばれるのはそのうちの約10人です。技術はもちろんのこと、強い精神力や将来へのはっきりとした目標をもっていることが重要な要素となります。
 活動は基本的に火曜日から日曜日までで、週末にはだいたい公式戦が入ってきます。試合の時に万全なコンディションをつくれるよう、日々の練習時間や内容には工夫が必要ですね。私は、練習は集中して行うことが大切だと考えていますので、平日は原則2時間。めざすのは全国大会ですから、走り負けしない体力をつけるなど、限られた時間で中身の濃い練習を行うように心がけています。橘中学・高校での部活動では、練習時間が確実に確保され、人工芝のグラウンドやバスなどの設備が整っていることが大きな利点です。サポートスタッフが充実していることも魅力ですね。
 これまでの指導体験の中では、橘中学に女子サッカーチームができたばかりの頃が、最も印象に残っています。当初、入部したのは1年生6人。その人数ではチームが組めず、男子サッカー部に交じって練習させてもらったのですが、これが結果としてよかったんです。男子部員のスピードや技術に触れたことで、女子部員のレベルも格段に向上。翌年に12人の新入生を迎え、初出場した大会でいきなり全日本女子ユース(U-15、15歳以下)全国大会進出の快挙につながりました。また、その中からU-17(17歳以下)日本女子代表に選ばれる生徒も生まれました。私にとっても、大変勉強になった1年間でしたね。

女性監督だからできること、教えたいこと

 橘中学・高校の女子サッカー部は、顧問の先生以外現場スタッフが全員女性です。特に、監督である私が女性であるということが、大きな特色なのではないかと思います。
 私は同じ女性で、自分自身も選手だったので、選手の気持ちを経験から理解しやすいのではないかと思っています。体調管理について配慮できるのも女性監督の大きな利点でしょうし、同性だからこそ厳しいという面もあるかもしれません。「涙にはだまされないぞ」という自信はあります(笑)。
 私は指導を通じて、3つの柱を実現したいと思っています。1つは、サッカーを通じた選手の人間形成。次に、チームで日本一になること。そして、最後の1つが「なでしこジャパン」に入れるような選手を1人でも多く育てるということです。そのためにも、自分自身で判断し、プレーできる選手を育てたいですね。サッカーの場合、人から言われてプレーするのでは遅いんです。さまざまな選択肢がある中で、どう動けばいいかを瞬時に決断し、そのアイディアをチーム内で共有できることが大事です。ところが、これを学ぶのはとても難しい。何を見て、どう判断したかという経験を日々繰り返すことで、習得につなげていってもらえればと思っています。
 一方で、サッカーは「遊び心」を忘れてはいけないというのが、私の持論です。私がサッカーを続けてこられたのは、サッカーが好きで、みんなと楽しめたからだと思います。どんなに厳しい練習をしていても、サッカーが好きという気持ち、サッカーの楽しさを忘れてはいけない。私は、その気持ちが勝利につながるアイディアを生みだすのではないかと思っているのです。ですから、練習の合間には生徒とバーベキューに出かけたり、梅ケ島に泊まりに行ったりと、チームの雰囲気づくりのためのイベントも行っています。時には、高校卒業後の進路について、相談を受けることもありますね。
 大学でもサッカーを続けるという選手もいれば、サッカーから離れる選手もいる。どんな決断にも意味があります。私は、サッカーを続けてきたことは、必ず将来役立つと思っています。

小学校でサッカーをはじめ、全日本7連覇を達成

 私は「サッカー王国」といわれる旧清水市の生まれ。小さい頃からお転婆で、運動神経には自信がありましたから、清水市立入江小学校に通っていた小学校3年生の時に、ミニバスケットかサッカーのどちらかをやろうと考えたんです。当時の清水には、女子サッカーチームをもつ小学校が結構あって、草サッカーのレベルですがリーグ戦も行われていました。当時の入江小のチームは強かったですね。同級生には、Jリーグ「清水エスパルス」前監督の長谷川健太氏もいます。
 しかし、中学校ではサッカー部がなかったため陸上部に入部しました。再びサッカーを始めたのは中学3年のとき。入江小女子サッカーチームの卒業生のために、入江小で監督をしていた杉山勝四朗さんが立ち上げた「清水第八SC」に加入したんです。中体連(日本中学校体育連盟)の夏の大会が終わった直後で、友達が受験に本腰を入れ始めた時期でした。
 このとき再びサッカーを始めたことは、その後の私の人生を大きく左右する結果となりました。男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる第2回全日本女子サッカー選手権で優勝し、翌年の高校1年の6月に、日本女子代表の第1期生に選ばれることになったのです。
 日本女子代表の初公式戦は、香港で行われた第4回アジア女子選手権。結果は1勝2敗でした。1勝した相手はインドネシアで、スコアは1-0。得点したのはフォワードだった私です。ですが、このときの得点や勝利のことはよく覚えていないんです。私の印象に強く残っているのは、初めて日本人以外の人と試合をしたという強烈な体験。「世界にはなんて強い人たちがいるんだろう」という驚きでした。この後、私は陸上部を退部し、サッカーにすべての情熱を傾けることになったのです。
 清水第八SCはその後、全日本女子サッカー選手権で7連覇を達成しました。私は、第3回日本女子サッカー選手権で、最優秀選手にも選ばれました。入江小の卒業生を中心に構成され、メンバーは近所の友達ばかりというチームが7連覇を成し遂げたのですから、今思ってもすごいことだと思います。まさに、清水第八SCの黄金時代でしたね。

地元企業の支援を受けプロ契約を結ぶ

 清水第八SCで競技を続ける一方で、私は短大を卒業し、地元企業に就職しました。最近、「なでしこリーグ」の選手たちの多くがそれぞれ仕事をもっていることが話題となりましたが、当時はトップリーグもありませんでしたし、働くのは当たり前のことでした。私は、サッカーだけで生活ができるようになるなんて思っていなかったし、それを目標にしていたわけでもないんです。
 男子は1993年にJリーグが発足したことで、あらゆる環境が大きく変わりました。では女子はどうかというと、たしかに、男子と女子では同じ日本代表でも強化体制に違いがあるなどの差がありました。しかし、女子にスポンサーがつくか。大きなスタジアムで試合をして観客を呼べるか。男子のように魅せるサッカーができるかというと、やはりまだそこまでには達していなかったのでしょうね。「なでしこ」たちがそうであるように、実力を蓄えていくことで、人気や環境といったものはついてくるのだと思います。
 しかし、私は静岡に住んでいたことで、環境には本当に恵まれました。練習環境も整っていましたし、地域の企業からの支援もいただきました。最初の就職先でも、代表で休むときには有給扱いにするなどの配慮をしていただいたんです。
 そして、24 歳の時に清水第八SCの3選手と共に、「清水FCレディース」(翌年から「鈴与清水ラブリーレディース」に改称)に移籍。スポンサー企業に在籍し、チームの運営事務などをこなしながら、練習に専念できるようになりました。さらに、日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)も誕生し、私たちはこの新リーグに参戦することになりました。L・リーグができたことで海外の強豪選手たちも集まり、日本女子サッカーのレベルはみるみる向上しましたね。そして現役最後の3年間、私はプロ契約選手となることができたのです。

ワールドカップベスト8、五輪出場も果たす

 日本女子代表としては、数々の国際試合に参加することができました。印象に残っているのは、中国で開催され、初めて女子サッカーが正式種目として認められた第11回アジア競技大会。当時私は25歳でしたが、男子サッカーの三浦和良選手やラモス瑠偉選手、バレーボールの大林素子選手など各種競技の選手たちと並び、「女子サッカーもやっと認められた」という感慨をもちました。
 その翌年には、第1回FIFA女子世界選手権大会(ワールドカップ)が中国で開催されることになりました。私たちは、アジア予選の準決勝で強敵の北朝鮮に1-0で勝利。続く台湾戦は、負けたら再度北朝鮮と戦うことになるという一戦で、なんとしても負けられないという気持ちで臨みました。しかし、試合は同点のままPK戦へ。私は6人目のキッカーでしたから、自分の出番の前に勝利してほしいと祈るような気持ちだったことを今でも覚えています。結果は、私たちの勝利。そして、初のワールドカップ出場を果たしたのです。
 ワールドカップでは、普段あまり対戦ができない欧米のチームと対戦しました。彼女たちの試合を観戦することもでき、パワーやスピード、高さに圧倒されましたね。日本人選手にとって、外国人選手とのフィジカルの差をどう埋めていくのかが大きな課題となった大会でした。
 強化と努力の甲斐あって、その4年後、第2回FIFA女子世界選手権大会ではベスト8を達成することができました。そして、女子サッカーが正式種目として認められた初のオリンピックであるアトランタ五輪の出場権も手にすることができたのです。
 オリンピック出場にあたっては取材申し込みが殺到し、女子サッカーへの注目の高まりを肌で感じたものです。世界の国々が集うオリンピックは、やはり特別な大会だと思いましたね。そしてこの後、私は31歳で引退、指導者としての道を歩むことになりました。
 私は20年間の選手生活を送りましたが、サッカーが好きで続けていたという気持ちが強く、苦労したという思いはあまりありません。本当に大変だと思ったのは、引退してから。指導者の仕事は奥が深いということを、身をもって知ることになるのです。

指導者として行き詰まりS級コーチをめざす


 生徒の力を伸ばすために、どう言えばこちらの意図が伝わるのかと、私は日々、自問自答しています。相手によって受け取り方も異なりますから、難しいですね。やがて私は、監督としての行き詰まりを感じるようになりました。サッカーにおいても、人間形成の面においても、選手を成長させることができているのかと考え、不安になることもありました。そこで、将来を見据え、私自身の指導力をもっと高めようと、JFA公認S 級コーチのライセンスをめざそうと決意したのです。
 コーチライセンスはD、C、B、A、S級の5段階で、私は7年ほど前にA級ライセンスを取得していました。ところが、A級とS級とは、まったくレベルが違うんです。最高位であるS級は、Jリーグとサッカー日本代表(男女)の監督を務めるために必要な免許。つまり女性である私でも、日本のトップレベルの男子チームの監督ができるということになります。これはとんでもないことですね。私は、いまだかつてなかったほどの、悪戦苦闘の日々を過ごすことになりました。
 S級ライセンス取得者の上限は、当時は25人。男性の中には、講習を受ける権利を得るために5年待ちという人もいました。私が挑戦した2010年は、まず一昨年の12月に70人以上の希望者が面接を受け、25人が講習を受けることを許されました。講習は、昨年8月下旬~11月の3カ月間。月~木曜日の午前中に実技指導、午後は講義が行われました。面接から講習まで8カ月間もあるのは、実技指導のための体づくりをして来て下さいということなんです。この実技指導が大変でした。中学生女子を指導していた私の目は最初、男子のスピードについていけなかったんです。さらに、講義でも覚えなければならないことが山のようにあり、私は自分の力の無さにうちのめされました。男性でも痩せるといわれるハードな内容で、まさに自分との戦いでしたね。
 なんとか講習を修了したあとは、1週間のJリーグ研修。私は長谷川監督(当時)にお願いし、清水エスパルスで研修を行いました。その後は、2週間の海外研修です。この時は、受講生仲間4人と、ドイツのプロサッカーリーグ「ブンデスリーガ」の所属チームである「バイエル・レバークーゼン」に行きました。そして、研修後にレポートを提出しすべての日程を終えました。
 今年7月、私は承認を受けることができました。承認された25人のうち、女性は私を含めて2人。私たちは、U-19日本女子代表コーチの本田美登里さんに続く、女性2人目のS級コーチとなったのです。

大好きなサッカーを続けられるありがたさを実感

 私がサッカーを選び、高校の陸上部を退部しようとした時、顧問の先生は「女子サッカーは将来がまだ不透明だから、陸上をやって大学に行ったほうが有利ではないか」と助言してくださいました。しかし、結果として私はサッカーを続けてきたことでたくさんのものを得ることができました。私は運がよかったんです。でも、もしそうでなかったとしても、自分で決めたことには後悔しなかったと思いますね。私は、好きなサッカーを続けられることのありがたさ、大切さを知ることができたのですから。
 小学生のときから共にサッカーを続けてきた仲間たちは、私の財産です。日本女子代表1期生に共に選ばれた木岡二葉さんは、小学校1年生のときから同じクラスで、以来ずっと同じ道を歩んできた仲間。家族と一緒にいるより長い時間を過ごしてきたんです。清水第八SCから同じ短大、同じ会社に入り、清水FCレディースでも一緒。彼女が中盤から出すパスを私が受けシュートする――そうやっていつもコンビで戦ってきたんです。
 1歳年上の本田美登里さんも小学校のときからずっと一緒で、日本代表としても共にプレーしてきました。コーチライセンスをいち早く取得した本田さんには、S級ライセンスの講習時にもアドバイスをいただきました。
 また、さまざまな人のサポートがあったからこそ、私はサッカーを続けてこれたのだと思っています。清水第八SCを創設した杉山勝四朗先生はもちろん、技術向上のために男子のトレセン(ナショナルトレーニングセンターでの育成制度)を紹介してくださった方もいます。地元の企業や地域の方々の支援については、言うまでもありません。
 これから女子サッカーがさらに裾野を広げていくためには、サッカーをしたい女性が誰でも参加できる環境を整えること。周囲が、女子がサッカーをすることを当たり前のこととして認知し、サポートしていく環境が大事だろうと思っています。そのなかで、私自身も元選手として、指導者として、できることを続けていきたいと思っています。指導に関してはまだまだ力が足りないと感じることが多いので、日々努力を続けなければなりませんね。そして、女子サッカー選手、女性S級コーチの草分けとして、恥ずかしくない存在にならなければと感じています。

取材日:2011.11



静岡県静岡市(旧清水市)出身、静岡市在住


【 略 歴 】

1974入江小女子サッカーチーム入部(小学3年生時)
1980清水第八SC 入部
第2回全日本女子サッカー選手権大会 優勝(以後、第8回大会まで7連覇、第13回大会でも優勝)
1981日本女子代表1期生 選出(以後、1996年まで代表)
第4回アジア選手権 出場
1989第1回日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)優勝
1990第11回アジア競技大会 出場
1991第1回FIFA女子世界選手権大会 出場
1995第2回FIFA女子世界選手権大会 ベスト8
1996アトランタオリンピック 出場
2004常葉学園橘中学校女子サッカー部監督 就任
2011常葉学園橘高等学校女子サッカー部監督 就任
JFA公認S級コーチライセンス取得

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