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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

自宅出産を経て実感したのは「自分も産めた!」
市議の妻と互いの仕事を支え合う「超改革派」住職。

土屋慶史(つちや・よしふみ)

土屋慶史(つちや・よしふみ)


真宗大谷派成真寺 住職


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真宗と犬。

仏教界にも男女共同参画を!

 お坊さんの社会にも、男女共同参画推進の動きがあることをご存じでしょうか。
 仏教の教えには、元来、性差別が含まれています。「老いては子に従え」ということわざがありますが、これは仏教の「五障三従(ごしょうさんしょう)」という、女性が守るべきとされる教えに由来しています。女性は仏陀、梵天王(ぼんてんおう)、帝釈天、魔王、転輪聖王(てんりんじょうおう)になれないとする5つの障りがあること、また、子供のころは父に、結婚後は夫に、老いたら息子に従うべきだという教えです。私が属する真宗大谷派では、これら旧来の体質を改めなければならないと主張する人たちがいて、さまざまな活動を行っているんです。
 私は、実家である真宗大谷派の成真寺で住職を務めています。寺を継ぐために大学で仏教学を修め、その後全寮制の専修学院に進みました。私は当時から、「女は男より劣る」という考えには馴染まず、仲間たちとともに性差別や青少年の性の問題に取り組んでいました。男性も家事をしなければならないと、食事の用意や後片付けも行っていましたね。私は、大学時代までは家事育児は女性の仕事だという意識があったのですが、先輩方に鍛えられ、だんだんと見方が変わっていきました。
 真宗大谷派では、1996年に女性が住職に就くことができるようになりました。それに伴い、住職の配偶者である「坊守(ぼうもり)」に誰がなるのかという問題が起きたんです。坊守とはそれまでは妻、つまり女性に限定されていました。男女平等の観点からいえば、当然男性でも坊守になることができるはずですが、そのときは見送られました。そこで、本山である東本願寺に「解放運動推進本部女性室」という機関が設置され、あらためて性差別の問題に取り組むことになったんです。私はスタッフの1人となり、広報誌「あいあう」「メンズあいあう」の制作などを通じ、男女共同参画推進の広報活動にも携わるようになりました。
 男性坊守が認められるのは、女性住職誕生の12年後、2008年まで待つことになります。

寺に嫁いだ妻の負担を減らすために家事分担を実行

 専修学院を卒業した私は家に戻り、成真寺の副住職として入寺しました。しかし、血気盛んな私は、当時、住職と坊守であった父母とは事あるごとに大げんか。考え方が合わないんです。私は、両親から見れば「超改革派」です。しかし、2人にも守ってきたものがある。寺は住職である父と、坊守である母のもので、私は一従業員にすぎません。何にでも噛みつく従業員は当然扱いにくく、結局、私はクビになりました。勘当されたんですね。
 それで私は上京し、困難な職探しの末、交通警備会社でガードマンとして働くことになりました。3年ほどそんな生活が続きましたね。そんなとき、従姉妹の結婚式で後に妻となる利絵に出会ったんです。結婚式の2次会で私は、「自分の人生は何もいいことがなかったけれど、せめてひとつ、いい思い出をつくるために一緒に歩いてください」と彼女に頭を下げました。結果、彼女は私と歩いてくれることになったんです。理由は、後で聞いたところ「かわいそうだったから」ということなのですが……。義父が言うには、「うちの子は昔から犬や猫を拾ってくる子だった」と(笑)。
 結婚を機に勘当も解け、私は妻とともに成真寺に戻ることになりました。しかし、私との結婚について、彼女は周囲の皆から反対されました。「お寺さんは大変よ」と。彼女自身はというと、「私は、よっちゃんと結婚するのであって、お寺と結婚するんじゃないの」と言う。そのときは内心、「ああ」と思いました。彼女は一般的なサラリーマン家庭で育ったこともあり、寺での生活は想像できなかったんです。父母と妹、祖母までいるという環境は。
 副住職の連れ合いは、准坊守という立場になるのですが、彼女が苦労するのは目に見えていました。武家社会や貴族社会における女性をイメージするとピンとくると思います。実際、結婚すると妻はまず、祖母から三つ指をついて頭を下げる訓練をさせられました。
 私は、彼女が嫁として、母として、妻として、坊守としての役割を1人で背負うことにはおそらく耐えられないだろうと考えました。そこで、それらの役割を私が半分担うことで、彼女の負担も半分になればと思ったんです。
 現在の私たち家族の役割分担は、このときから始まりました。

「居場所がない」と訴える妻が選んだ自宅出産

 私たちは、結婚当初から2時間に1回というほど、夫婦げんかが絶えませんでした。離婚届を持ち出したことも3回あります。離婚に至らなかったのは、家事も育児も分担していたことで、それぞれがお互いのすることに、当事者として意見することができたからだと思います。しかし、努力はしていても、私は副住職としての仕事や本山での仕事もかかえており、どうしても彼女にかかる負担が大きくなっていました。
 あるとき、彼女と大げんかをしたことがあります。そのとき、彼女は言ったんです。「これだけ広いお寺のなかに、私の居場所はどこにもない」。
 彼女はずっと、自分の居場所を求めていました。小さな書庫を自分の部屋にしようとしたこともあります。そんな折に次女を出産することになり、突然「自宅出産したい」と言いだしたんです。
 長女を産んだときは、病院出産でした。「絶対に立ち会って」と言われたのですが、私は怖くていやだった。しかし、いざ陣痛が始まると、いてもたってもいられなくなり、病室に飛び込んで妻の手を握りました。「利絵ちゃん、おれが横にいるからね!」。しかし、彼女には「じゃまだから出て行って」と言われました。看護師さんのほうがよっぽど頼りになるから、と。このときは、男女平等、男女共同参画といっても、お産だけは女性の聖域なんだと思いました。男性には立ち入ることができない世界があるんだなと思ったんです。
 ところが、次女の出産を経験し、その考えは180度変わりました。
 自宅出産について私は反対でしたが、彼女の意志は固かった。そこで、信頼できる助産師さんを探してお願いすることにしたんです。その助産師さんは、とても厳しい方でしたね。自宅で安全に分娩する体力をつけるために、1日3時間のウォーキングを課しました。加えて、旬の素材を使った自然食を食べること。そして、同じことを夫である私も実行するよう指示したんです。臨月は8月で、その年は猛暑だったので、早朝と夜、ともに歩き、一緒に食事をし、お産に臨みました。

台所での共同作業を通じて「自分も産んだ」と実感

 女性は、分娩台に固定されていないと、自分がいちばん産みやすい場所を自ら選ぶのだそうです。私たちは、寝室で出産できるよう準備を整えたのですが、いざ出産のときに彼女はそこを選びませんでした。彼女が向かったのは、台所。居心地がよく、しかも、つかまりながら歩くのにちょうどよかったんですね。陣痛が始まり出してから7時間、私と妻は2人で、そこを行ったり来たり、ぶらぶらと歩きました。そして産けづいたとき、台所は床が板張りだったため、私が仰向けになって分娩台代わりになったんです。そして、その上に彼女がやはり仰向けになって乗る形で出産を迎えました。
 体を合わせていると、おもしろいもので、私も一緒にいきむんです。呼吸が自然と合うんですよ。妻と一緒にいきみながら、私も汗だくになりました。その間、傍らには3歳の長女もいて、「パパママがんばって」と応援してくれていました。
 次女がゴロッと産まれてきたとき、私は思いました。この子は自分も産んだんだ。ママと、パパと、お姉ちゃんと、家族みんなで産むことができたんだ、と。
 次女の出産を経て、妻はまた私にお願いをしました。「私のようなお母さんが集まる会を作って、お寺で活動したい」。
 妻は、その集まりを自分の居場所にしようと思ったのでしょう。それは、人との関係のなかに自らの居場所を見出したいということなのだと私は理解しました。同時に、この寺を自分の生きていく場所にするという覚悟が生まれたということなのではないかと。そして、そのきっかけとなった場所が、家族で次女を迎えた台所の一角であり、そこが彼女の最初の居場所となったのではないかと思うんです。

子育て支援や環境問題への取り組みが寺と地域を繋ぐ

 妻は、2004年に「自然派ママたちの座談会」を立ち上げました。彼女が座長となり、私もサポート役として一緒に活動することになりました。
 初めのうちは、正直にいうと、人は集まらないだろうと思ったんです。私も以前、この寺で青年会を作ろうとしたことがあったのですが、まったく人が来なかったことがあって。しかし、ふたを開けてみると、これが集まるんです。主婦というのは、地域社会において大きな力をもちうるんですよね。いろんな能力をもつ人が山ほどいる。しかし、大抵はその力を発揮できていないんです。
 だから、「子どもを連れてここへ来て、皆でお話しよう」というと、たくさんの人が来てくれる。強力なサポーターも現れる。「自然派ママたちの座談会」では、近所に住む4人の子をもつお母さんが、設立当初から後押ししてくれています。
 座談会では、私たちが次女のお産をきっかけに取り組むようになった自然食や、自然育児などをテーマに取り上げています。地元で活動する女性たちに声をかけ、ワークショップや講演会なども行っています。参加者は回を重ねるごとに、20人、30人と増え、テーマも環境問題などへと広がっていきました。
 2007年には、チェルノブイリで被爆した歌手のナターシャ・グジーさんとカーチャ・グジーさんを招き、被爆者の救援コンサートを開催しました。このとき集まったのは、1,000人。寺の本堂には到底入りきらず、三島市民文化会館の大ホールを借りることになりました。
 私が主となって開催したのは、アースデイ「地球庵」というイベントです。お寺を、地球環境を考える庵として開放するという主旨で、これまでに3回行っています。本堂では記念講演会やコンサートを開催し、境内には20ほどのブースが並びます。コンサートの出演者やブースの出展者は、いずれも地域の方々。アースデイ「地球庵」は、寺と地域を繋ぐイベントでもあるんです。

妻が市議会議員となったことでより対等な関係に

 私たち家族に新たな転機が訪れたのは、今年4月のこと。妻が統一地方選挙に出馬し、三島市議会議員に当選したんです。それまで妻が担う部分が大きかった家事育児の分担が、これを機に変わりました。
 妻に対して、議員に立候補しないかという話は、4年前にもありました。しかし、そのときは長男がお腹にいたので見送ったんです。今回、妻が立候補を決めたのは、一般市民として行政に声を上げていくのには限界があることを、以前から感じていたからです。
 妻は、子育中の女性や子ども、障がい者など、弱い者の側に立ち、その声を代弁する立場で動きたいと考えたのだと思います。ですから、選挙への出馬は「受からないのでは」という心配はありましたが、全力でバックアップすることを約束しました。
 選挙活動は、事務所もなく、選挙カーもなく、本人が有権者のお宅を1軒1軒訪問する形で行い、支援してくれるお母さんたちの手弁当で乗り切りました。結果、24人中24番目の「ビリ当選」ながら、スタートラインに立つことができたんです。
 現在、当選から3ヵ月が過ぎましたが、彼女は毎日忙しく走り回っています。資料をつくるためにさまざまな施設へ足を運んだり、答弁の準備をしたり。組織的な支援ではなく、支持者1人ひとりの気持ちに支えられている分、期待の大きさも実感していますね。
 これまでは、寺の仕事に関しては私がメインで、彼女は連れ合いとしてサポートする立場でした。しかし今は、それに加えて妻の議員としての活動を私がサポートするという関係性が生まれ、それぞれの仕事をお互いが支え合う、よりフェアな関係になったと思います。
 今年からは、末っ子の長男が保育園に通いだしたので育児はだいぶ楽になりました。以前は、家事はできるほうができるときにするという形だったのですが、現在は朝食と長男のお弁当作りは妻、夕食作りと朝昼晩の皿洗いは私が担当することが多いです。

性別にとらわれず役割分担が求められる現代社会

 私が住職になって1年になります。地域の方や檀家の方とかかわるなかで実感しているのは、自殺者の増加です。以前は2、3年に1件程度だったのが、今は多いときは年5、6件にもなります。自殺に至るのは圧倒的に男性で、仕事で行き詰まったことが原因であることも多いようです。
 もし、仕事がつらいのであれば、妻と役割を交換するという選択肢もあるはずです。夫が「外で働くことは向いていないから、自分は家のなかのことをする」と言い、妻が「じゃあ、私は外で働く」となれば、その夫は生き残ることができます。しかし、性別役割分業意識にとらわれて言いたいことが言えず、家庭のなかで孤立してしまう男性がたくさんいるんです。
 男性でも、勘のいい人たちはわかってきていると思うんです。私の友人には、朝から晩まで働いているにもかかわらず、子どもの弁当作りを日課としている人が何人かいます。忙しいなかで弁当を作るのは、子どもに「パパの味」を覚えさせたいからなんですよね。子どもと触れ合う時間がなくても、せめて子どもが大きくなったときに「お弁当はパパが作ってくれたんだ」という思い出を与えたい。私は、お互いのそういう意識が家族を結びつけるのだと思います。
 私が大学を卒業したバブル期は、働くことが自己実現に繋がっていました。終身雇用で、退職金も十分もらえて、年に1、2回は海外旅行にも行けた。だから朝から晩まで働くことができたんです。しかし、現代社会では男女とも働かなければならず、働くことは、生活の手段、もしくは抑圧である場合が多い気がします。だからこそ、ワーク・ライフ・バランスを意識して、ライフの部分を充実させることが求められているのではないでしょうか。
 どんな死でも差別しないというのが仏教の立場ですが、残された家族のことを考えると、やはり父親の自殺というのはやりきれないです。ジェンダーは、女性だけでなく男性も苦しめているのです。女性も、男性も、性別の意識にとらわれず役割をシェアし、お互いの負担を軽減していくこと。それが住職として地域とかかわっていて、私たちに求められていることなのだと感じています。

取材日:2011.7



静岡県三島市生まれ 三島市在住


【 略 歴 】

1991京都大谷専修学院 卒業
成真寺副住職として入寺
1996交通警備会社に就職
2000結婚
第1子(長女)誕生
2003第2子(次女)誕生
2006第3子(長男)誕生
2010真宗大谷派成真寺29世住職に就任
2011妻が統一地方選挙に出馬、三島市議会議員となる

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