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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

子供も大人も、思いっきり遊ぶ体操教室で、
家族の絆の大切さを伝える「スッパマン先生」。

磯谷仁(いそがや・ひとし)

磯谷仁(いそがや・ひとし)


有限会社きのいい羊達 代表取締役


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きのいい羊達

子供たちの健康な身体をつくる毎日の親子遊び

 最近、4歳ぐらいまでの子供で、生まれてから一度も「逆さま」になった経験がない子供がいます。向かい合って手をつなぎ、大人の腕の間を、子供がクルっと回る「くるりんぱ」っていう親子遊び――。あれができない子が、たくさんいるんです。当然、逆上がりや、でんぐり返しすらできません。
 子供は本来、逆さまになるのが大好きなんです。その証拠に、私たちの体操教室で、しっかり支えてあげながら、「くるりんぱ」をやらせてみると、最初は怖がっていた子供も、すぐに面白がってできるようになる。
 1992年に「きのいい羊達」を設立して以来、私はたくさんの子供たちを相手に、遊びながら身体を動かしてきました。体操教室のほかにも、サッカー教室や夏恒例のキャンプ、冬のスキーなど、「遊ぶことに忙しいのが私の人生」と言っても過言でないほどです。
 2010年からは、静岡県教育委員会の事業で「ファミリーチャレンジプログラム」を請け負っています。親子で遊んで、体力づくりをしようという活動です。体力づくりも、ストイックに黙々とトレーニングというんじゃつまらないでしょう。子供が相手ですから、楽しくなきゃいけません。
 身体を使った親子遊びも、楽しいことが、とても大切です。体操教室は週に1回だけですが、親子遊びは、毎日の日常です。お父さんが1日1回、「高い高い」でお子さんを持ち上げてあげれば、子供はおのずと、脇を締める力がついてきます。楽しい雰囲気でやってあげれば、いつの間にか「高い高い」が毎日の習慣になります。
 抱っこやおんぶで、親が子供を抱きしめたり、子供が親にしがみつくことも、身体を鍛えるうえで意味があります。毎朝、「行ってらっしゃい」を言うとき、お父さんやお母さんが自分の手のひらを、子供にパチンと叩かせて「行ってきます!」と言わせれば、ボール投げの基本練習になるんです。

親が自然や兄弟、友達の代わりになって遊ぶ時代


 私は昔から、ずーっと運動している子供でした。小学校へは1年生のときから、ランドセルを背負って、往復5キロの道のりを走ってました。夏休みは、朝3時半に起きて、近所の森へ虫取りに行き、帰ってくると5キロのランニング。その後、ラジオ体操に行くのが、毎朝の日課でした。おかげさまで6年生のとき「第1回静岡県小学生陸上競技選手権大会」で、陸上部でもないのに1500メートル5分11秒2というタイムで、1着になりました。
 その頃は皆、兄弟が何人もいることが多くて、周りに豊かな自然があって、近所の大きい子から小さい子まで、外で一緒になって遊んでいました。でも今は兄弟が減っているし、年齢が違う子供どうしで遊ぶことも少ない。そのうえ、テレビゲームがあるでしょう。自然は、私たちの周りに、あるにはありますが、のびのび身体を使って遊んだり、友達と取っ組み合いのけんかをしたりということは、ほとんどなくなってしまった。
 ただ、私たちの年代は、親に遊んでもらうということは、少なかったように思いますね。子供どうしで遊んでいましたから、親が出てくる必要があまりなかったとも言えます。今は親が、子供たちのために、自然や兄弟、友達の代わりを務めなければならない。
 しかし、親が子供と触れ合う機会も、どんどん減ってきています。先ほどのおんぶや抱っこですら、やったことがないという親もいるんです。それは、私が静岡で体操教室を始めようと思った20年以上前から、ずっと感じていたことでもあります。

結婚直前、まさかの失業で思い悩む「主夫」に

 私は、生まれは静岡ですが、高校を卒業してから、1986年に地元に帰って来るまで、東京や千葉に住んでいました。東京の大学の保育科を卒業した後、千葉にある幼稚園に、4年間、勤務していたんです。
 しかし、最初から、幼稚園の先生を志したわけではありません。実は志望大学に2度も落ちまして、「そろそろ親への顔向けができない」と思っていたとき、まだ辛うじて受験できる大学に、保育科があったんです。ところが入学してみると、幼児教育という分野が、期せずして自分に合っていたんですね。
 千葉の幼稚園からは、「体育教室を開くから、講師として頑張ってみないか」という、お話もいただいてました。そんなとき、静岡市では名の知れた幼稚園から「採用の枠があるが、戻って来る気はあるか」と、声が掛かったんです。
 ちょうど結婚を考えていたときです。「その幼稚園なら、組織もしっかりしているし、生活にも困らないだろう」と、千葉の幼稚園を辞め、静岡に帰ってきました。26歳でした。
 新しい仕事も決まり、結婚式の日取りや式場も決まって、万事順調……と思いきや、結婚式直前に、「やっぱり採用しない」という連絡がきました。それはもう、愕然としましたね。結婚を目前にして、いきなり無職ですから……。
 後でわかったことですが、すべて父が糸を引いていたことでした。父は製茶機械の会社を経営していて、「職を失えば、親に泣きついてくるだろう」と、友人である幼稚園の園長に協力を仰いだ、という事情があったのです。
 しかし、私にだって意地があります。親には絶対に頼りたくなかったので、たちばな幼稚園で1年間、アルバイトの体育講師として働きました。勤務は午前中だけなので、1カ月働いても3万5000円です。
 時代はバブル景気の華やかし頃。妻は会社で事務として働き、私は「主夫」をしながら、「何とかしなきゃ」と、日々考え続けました。幼稚園教諭の経験と、運動や遊びの知識を活かし、ビジネスができないだろうか――と。
 そんな状態が、2年近く続きました。そうこうするうちに子供が生まれることになり、妻が仕事を辞めました。私の収入だけでは、生活できません。窮地に追い込まれ、切羽詰まったとき、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」的なひらめきで、思い出したんです。「そういえば学生時代、東京にある子供向けの体操教室でバイトしてたよな。体育指導員なら、自分にもできるかもしれない!」
 生まれてくる子供のためにも、腹をくくりました。「何が何でも食べていけるようになろう」と、自分に言い聞かせました。

近所の公園で子供5人とスタートした独自の研究

 体操教室に来る子の多くは、基本的に、運動の苦手な子供たちです。「逆上がりができない」とか、「跳び箱が飛べない」「二重跳びができない」といった悩みを、本人も親もかかえているわけです。
 私は、「なぜできないのか」「どうしたらできるようになるか」を分析するために、子供たちに実験台になってもらって、データを取ることにしました。運動と子供の発育の理論を、自分流に組み立ててみようと考えたのです。
 手始めに、近所の公園にいた子供5人に、「運動の研究を手伝って」と声を掛けました。子供たちを遊ばせ、楽しませながら、逆上がりや跳び箱、二重跳びなどのデータを取っていきました。子供のお母さん方の了解ももらい、保険には入ってもらいましたが、月謝はいただきませんでした。
 とはいえ、データの取り方も、分析の仕方も、独学による自己流です。本もいろいろ読みましたが、実践的な指導について書かれたものは、ほとんどありませんでした。子供を相手にする場合は、理屈より実践だと思いました。二重跳びも、「手首の回転が……」と教えるより、「ものすごく速く、2回、回してごらん!」と言ったほうが伝わります。
 それで自分のなかの情報を、いったん白紙にして、先入観を捨ててみました。自分が今まで触れ合ってきた子供たちを思い出し、「どんな子が運動ができたか」「できる子とできない子の違いはなにか」について考え、それを出発点にしたんです。
 収集したデータをもとに、オリジナルの跳び箱や、逆上がりの練習機も作りました。並行して、静岡市内の幼稚園に「体操教室をさせてください」と、お願いに行ったんです。地図を片手に、静岡市内の幼稚園を、自転車で回りました。しかし、ほとんどが門前払いでしたね。園長先生には、全く会わせてももらえませんでした。
 そんな状態を見かねた恩師、当時、常葉学園附属とこは幼稚園にいらした落合英男先生が、静岡市内の安東児童館で体操教室ができるよう、私を紹介してくださった。それでようやく、体育指導でお金がもらえるようになりました。1回2時間の指導で3000円は、本当にありがたかった。実は、「1回300円ぐらいかな」と、内心思っていたんです(笑)。

子育てしながら弁当工場のパートで支えてくれた妻

 安東児童館での体操教室が定着すると、口コミで評判が広がっていき、そのうち1つ、2つと教室が増えていきました。ある教室では、多いときには80人近くの子供が集まりました。自分の方向性が、時代のニーズに、たまたまピッタリ合ったという感じでしたね。
 評判とともに、収入もどんどん増えていきました。だんだん欲がでてきて、「サッカー教室もやりたい」「もっとたくさんの教室で子供たちを教えたい」と、夢が膨らんでいきました。
 32歳のとき、中学高校時代の仲間を誘って、会社を立ち上げたんです。「気のいい仲間と一緒に、気のいい子供たちを育てよう」ということで、「きのいい羊達」という社名になりました。
 しかし、「会社にして従業員を雇う」ということは、「今までの総収入から給料を払う」ということにほかなりません。私は今でも、「経済観念がない」とよく言われるんですが、事実、そのとおりでして、当時も夢が膨らむ一方で、経営に対する危機感がすっぽり抜け落ちていました。
 例えば、スタッフが子供相手に指導できるようになるには、それなりに時間がかかります。教室は他の人には任せられないし、指導者は育たない。それでも給料は払わなければならない……。
 当然、家計は火の車でした。私の収入があてにならないので、妻は、昼間は3人の子供の面倒を見て、夜中にコンビニ弁当の工場へ働きにいっていました。そのうえ会社では、無給で月謝の管理をしてくれました。
 辛かったでしょうね。私は「仲間と会社をやる」という夢がかなったわけですが、妻には関係ないですし。喧嘩もしましたけれど、基本的には理解してくれたんです。「もし自分が男だったら、やっぱり夢を追いかけたと思う。一緒に頑張ればいいじゃない」と。
 そういう言葉が、自分の心の支えになりましたよね。「妻のためにも、子供たちのためにも、何とかしなきゃ」と思いました。
 妻は今も「きのいい羊達」で事務を担当しています。もちろん、もう無給ではありません(笑)。夫婦そろって、会社に入れ込んでいるという感じですね。当時も今も、いろいろ文句を言われますが、いちばんの理解者は妻だと思っています。

夫婦がお互いにほめ合えば子供は健全に育つ


「男女共同参画」という響きは、堅苦しいですが、私がたくさんの親子と接していて思うのは、両親が力を合わせてこそ、子供は心も身体も健全に育っていくということです。子供の前で、父親と母親がお互いをほめ合うことが大事だと思いますね。
 家の中でいちばん「エライ」のは、やはりお母さんです。そんな母親が父親をほめれば、「あんなにエライお母さんが、お父さんとほめるということは、お父さんって、実はスゴイんだな」と、子供は思うでしょう。逆に、家のなかで母親が父親を怒ってばかりいると、「お父さんって、やっぱりダメな人」という認識が、子供の中で固定化してしまう。お父さんが子供たちに敬われないのは、当然の結果です。
「お父さんは本当に立派だよね」「いやいや、お母さんの方こそ……」なんていう会話を、子供の前で、どんどんしたらいいと思うんです。わが家でも言ってますよ。喧嘩もしょっちゅうですが、妻への感謝の気持ちは、子供たちの前で大っぴらにします。妻も私に対する感謝の気持ちを、「ありがとう」と、言葉に出して表現します。
 よく「仕事の話は家庭にもち込むな」とか、「働く父親を背中で見せろ」とか言いますが、今の世の中、子供が仕事している親の姿を見ることなんて、めったにありません。思うに、家ではどんどん職場の話をして、仕事の話を通じて、家族の会話をすればいい。ほとんどすべてのお父さんが、「自分の人生で、最も誇れるものは仕事」なわけですから。
 両親がお互いをほめ合い、尊重しあってこそ、家庭は安定します。両親が態度で示したことは、子供にはちゃんと通じるものです。
 私は、会社が大変だった頃、仕事に必死で、自分の子供たちを放ったらかしにしていた時期もありました。その点は反省しています。当時は妻にも「よその子とは、本当によく遊ぶよねぇ」なんて言われました。そのくらい、自分の子供たちとは、遊んであげられなかった。
 それでも、3人とも、私に劣らず運動好きで、長女は現在、「きのいい羊達」の指導員として働いています。大学生の長男も、私と同じ子供向けの体育指導を勉強しています。結果論には違いありませんが、私たちがやってきたことは、子供たちには十分伝わっていたのだと思います。
 以前、教室に参加した方から届いたハガキに、「子供は、親が言ったことはしない。親がやったことをする」と、書かれていたことがあります。本当にその通りだと思いますね。

父譲りの「自分のことは自分で決める」子育て

 しかしながら、私自身の子供時代を振り返ってみると、父親からは1度も、名前を呼んでもらえませんでした。兄弟3人、皆、同じです。
 昭和一桁生まれの父は、絵に描いたような亭主関白で、両親が会話しているところさえ、見たことがありません。話しかけようとすると、思わず敬語になってしまうほど威圧感があって、長い間、「父親というものは、子供と話さないもの。子供の前では笑わないもの」と思っていました。友達の家に遊びに行ったとき、お父さんの様子を見て、「うちは特別なんだ」と気付いたほどです。
 心のなかには、当然、反発したい気持ちもありましたが、表面には出せませんでした。父はそのくらい、家族のなかで、絶対的な存在でしたから。「こういう人にはなりたくない」と、子供心に思っていましたし、無職になったときも「意地でも頼るものか」と思ってました。
 しかし、自分が父親になってみて、「言葉ではなく、やってみせる」とか、「何でも壊れたら直す努力、自分で作る工夫をする」というあたりは、父親譲りかもしれないと思うようになりました。
 威圧感はありましたが、叩かれたことは一度もありません。「あれはダメ、これはダメ」ということもなかった。受験に失敗しても、勉強しなくても、叱られたりはしないんです。「何でも自分で決めればいい、その代わり、何があっても自分の責任」というスタンスでした。そのあたりも、よくよく考えてみると、娘や息子に対する自分にそっくりですね。

親子一緒に思いっきり遊ぶ幸せを伝え続けたい

 体操教室をしていると、最初のうち、参加したがらない子がいます。でも、無理強いはしないんです。こちらが楽しそうにやっていると、「意地を張っていると、自分自身が楽しくない」ということに、子供は気付くんですよね。強制しなくても、子供なりに自分で考え、自分で選ぶことができる。そういうやり方も、父から受けた影響かもしれません。
 もっとも、父は油絵を描き、自宅にパイプオルガンをつくり、スピーカーも音響設備も、全部自分で設えてしまっていたような人です。やることなすこと、半端じゃないスケールでしたから、その点はいまだに、かなわないなと思います。
 私も今、好きなことを仕事にして、気のいい仲間にも囲まれています。スタッフは現在17人。元気のいい教え子もいますし、ここから独立していった若者もたくさんいます。
 後継者の育成にも、力を入れていますが、私もまだまだ現役の「スッパマン先生」です。最近も、親子や学生、あわせて700人を相手に、2時間、ノンストップで遊びました。教室の最後には、大人も子供も、参加者全員に「高い高い」をさせていただきました(笑)。
 親子一緒に、思いっきり遊ぶ――そんな機会が、どんどん増えてほしいですね。そのための「きのいい羊達」を、これからも盛り上げていきたいと思っています。

取材日:2011.7



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1992有限会社「きのいい羊達」 設立
1993静岡市中央子育て支援センターにて「親子あそび」指導開始
2000静岡県内各地の保育士会や幼稚園協会の研修会で講師を務める
2001静岡県家庭教育学会 講師
2002静岡県ボランティア協会「遊びの実践講習会」 講師
2005浜松大学 講師
2007『保育者・保護者による運動能力を育むあそびの実践』(篠原印刷所刊) 出版
静岡県教育委員会より感謝状が授与される
2009浜松大学 こども研究学科 准教授

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