「私が凧を作るんだ」と子ども心に思い込んでいた
駿河凧は、静岡市中心に大井川から富士川あたりに伝わる凧で、戦国時代駿河を治めていた今川義元の家臣が、戦勝祝いに揚げたのが始まりといわれています。凧の下部がエラのように張っているのが特徴ですね。空へ揚げても描かれた人物の顔がよくわかるように、線が簡略化されて、大きく描かれています。色には染料が使われていて、光を透かすようになっています。絵は武将、歌舞伎、童子が中心です。その絵を、私は描いています。
ひいおじいちゃんで3代目辰三郎が亡くなったのは、私が4つのとき。3代目は、私をひざに抱いてよく絵を描いていました。それで、勝手に私は凧をやるのだと思い込んでしまいました。小学校のころの夢は「凧屋になる」なんですよ。
子どものころ、忙しいときって子どもがうろちょろすると邪魔になるから、当たり前に「光さんも描く?」って。横に作業をしている人がいるから、「ここにシュッと塗るんだよ」といわれながら、教わるというのではなく、自然にですね。それで、私は「凧屋をやろう」」と、勝手に思い込んでいましたね。
ところが、私、絵が下手で。凧屋さんは絵がうまく描けると思われているはずなので、凧絵以外を描くと下手だとばれて、凧八の名を汚すと思って、描かなかった時期があります。でも、28歳のとき転機がやってきました。1999年、テレビアニメ「カウボーイビバップ」の主人公スパイク・スピーゲルに魅せられてしまったのです。ちょうど誕生日に最終回があって、衝撃的だった。作品が終わってしまったというより、「彼」を失った喪失感が。せめて自分で彼を描けたら、その存在感をこの手に感じることができるのかと。恥をしのんで、鉛筆デッサンに通うようになったきっかけです。
目に見えないものにたぐり寄せられた不思議なご縁
2004年の暮れ、実演先で「うちには干支凧がないので作ってみようか」と思っていました。そのころ、「カウボーイビバップ」のキャラクターデザイン川元利浩さんの原画展が、全国各地で開催されていて、広島へ出かけました。宮島の大聖院に行ったら十二支地蔵さんが並んでいました。私ね、24日のお地蔵さんの縁日に生まれてるんですよ。これはもう天啓で、「干支作れよ」っていわれているなと感じました。1年後の2006年初めに、また広島に行く機会があって、十二支地蔵さんにこっそり干支の試作凧を納めてきました。そしたら、その夏、マックスバリュ東海さんから「来年の年賀状の図案に、凧八の凧を起用したいのですが、干支の凧はありませんか」とお誘いをいただきました。いざ正式に干支凧を描くとなると、しっくりと合うものが描けずに困惑していたのですが、そのとき、ふと3代目の描いた絵馬があるのを思い出しました。そういう見えないものが背中を押してくれて、導いてくれるような感じでした。最近、その紙絵馬について取材を受けました。紙絵馬の起源は、静岡駅近くの日限地蔵へ卸していたことに始まるんです。ここでもお地蔵さんです。それを知って胸が熱くなるような感動をおぼえました。また、うちの凧を買ったら「土地の区画整理で大もうけした」というおじさんがいたり、「試験が受かった」とかいってくれる人もいました。やっぱり、縁起物なのだなと思います。
努力より鍛錬、最後は感性
凧八には、先代の遺したお手本がちゃんとあるし、下絵がちゃんとあります。だから、「守る」部分がとても大事で、奇をてらったことをすると、それは凧八ではなくなってしまうと思います。5代続いていることは、大事なことだと思います。5代つづいている駿河凧の店は、世界で凧八ただ1軒という唯一性に魅せられて、描いている私がいます。
いまでは、「郷土の伝統のもの」というよりは、「和凧」というようなくくりにされてしまって、凧も土地の凧を代々作っている私のようなものばかりではなく、全国の和凧をいろいろ作る作家のようなかたもいらっしゃるようです。でも、土着で土地のものを江戸時代さながらに作っているのは、庶民文化の継承としては、21世紀とのギャップが面白いです。感性をくすぐられますね。同じ人物絵を何枚も描くうちに、自然と道具にもなれて上達しますが、やはり、最後はプラス感性なのだろうと思います。
取材日:2010.10