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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

計画的なキャリアデザインで夢を実現。
「世界に開かれた静岡」に貢献する国際協力のプロ。

鈴木知恵(すずき・ちえ)

鈴木知恵(すずき・ちえ)



国際協力機構(JICA) 静岡県国際協力推進員


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独立行政法人国際協力機構 JICA中部

原点はフィリピンの孤児院で感じた不甲斐なさ

 生まれて初めて海外ボランティアの経験をしたのは、大学4年のとき。フィリピンのカスティリヤホスという町にある孤児院「ジャイラホーム」でした。旅先で知り合った友人から「フィリピンの孤児院のボランティアに行って感銘を受けた」というメールをもらって、私もそういう世界を見てみたいと興味をもったのがきっかけです。
 ジャイラホームは、ストリートチルドレンを支援していた牧師さんによって、1979年に建てられたキリスト教会系の孤児院です。各国の支援団体がさまざまな活動をしているのですが、私は東京に拠点があるNPO法人「ACTION(アクション)」のワークキャンプに参加し、約3週間、孤児院の建物の増設工事と子供たちの世話をしました。
「遊んで、遊んで」と集まって来る子供たちは、辛い境遇にあるとは思えないくらい元気で明るくて、暗い顔をした子供を想像していた孤児院に対する私のイメージとは、随分違いました。当時、ジャイラホームで暮らしていた子供は30人ぐらい。なかには2~3歳という小さな子もいましたね。すでに孤児院を卒業して、院内で幼稚園の先生や送迎バスの運転手などのスタッフとして働いている若者もいました。
 子供たちが学校に行っている間は、建物の基礎を作る作業をしました。夕方、子供たちが帰って来ると一緒に遊ぶのが日課です。
 私がいつものように子供たちと遊んでいたある夜、1人の子どもが「どうして僕はお母さんに捨てられたの?」と、私を叩きながら泣いたことがあります。明るく見えた子どもたちも、心に深い傷を負っていることに気付きました。
 英語もタガログ語も話せず、目に見えるサポートをしてあげる技術も何もない……。そういう自分の不甲斐なさを痛感しましたね。同時に、「この子たちの笑顔を守るために役に立つ人間になりたい」と、本気で思ったんです。子供たちが抱える問題の根源の深さを考えると、一過性の国際協力ではなく、継続して関わっていかなければ問題解決につながらないとも思いました。

青年海外協力隊を目指して計画的に夢を実現

 大学卒業後は、静岡県内の商社へ就職しました。でも、フィリピンでの経験が心に残っていて、将来、国際協力の仕事に就けるよう、計画的にキャリアデザインすることにしたんです。
 帰国後すぐに始めたのは英会話でした。子供たちに「また来るからね」と約束していたので、もっと深い話ができるようになろうと、週3回、英会話教室に通いました。最初のボランティアから1年が過ぎた2001年2月、有給休暇を取って、再びジャイラホームのボランティアに参加しました。英語も前回よりは話せるようになって、10日間だけでしたが、「約束を守ってくれたね」と、子供たちも喜んでくれました。
 でも、英会話教室に通い始めて間もなく、週3回のトレーニングでは、国際協力の世界で通用する域に達するのは難しいことに気付いたんです。同じ頃、青年海外協力隊の存在を知りまして、選考にあたっては専門知識や技術とともに、社会経験と英語のスキルが求められることもわかりました。
 まず「社会経験」の条件を満たすために、会社は少なくとも3年間勤め続けようと決めました。国際協力の現場で通用する英語力は、会社を辞めた後、英語を母国語とする国で生活をして身につけようと思いました。
 そのキャリアデザインどおり、2003年に商社を退職し、オーストラリアへワーキングホリデーに行きました。当時は、青年海外協力隊で国際協力の現場を経験した後、イギリスの大学院で勉強し、最終的には国連などの国際機関に勤務したいと思っていました。

ミッションは「山間部の村落にきれいな水を」

 1年間のワーキングホリデーの後、バックパッカーでヨーロッパや北アフリカを旅して、日本に帰国した2004年の11月、国際協力機構(JICA)が募集する青年海外協力隊の選考試験を受けました。英会話は随分、自信がついていましたね。
 協力隊には120以上の職種がありますが、私が応募したのは「村落開発普及員」。さまざまな開発プロジェクトの企画推進と、それにともなう調整業務が主な仕事です。会社勤めやワーキングホリデーの経験、そこで培ってきたコミュニケーション能力も一種の技術として見なされました。
 合格通知が届いたときには、嬉しくて涙が出ましたね。数年越しの夢だった国際協力への重い扉が、やっと開いたという感じでした。
 派遣先はケニア。ビクトリア湖に近い山間にあるビヒガという人口2万人ぐらいの町が赴任先でした。標高が高いのでアフリカにしては涼しく、湧き水のたくさんある水の豊富な地域で、人々は主に農業をしながら自給自足の生活をしています。
 私の仕事は新規のプロジェクトだったので前任者はなく、現地のNGOスタッフが迎えに来てくれました。「AMAKONO(アマコノ)」というのが、そのNGOの名前です。役員を含むメンバーが10人程度の小さな団体で、グレイスという女性と、彼女の弟のクレメントが、私の同僚になりました。「ビヒガの9つの集落に、湧き水のろ過装置を普及させる」というのが、私に与えられたミッションです。

自作の地図を頼りに道なき道を進んでいく

 ビヒガの人たちは、200~400世帯くらいの集落ごとに、1つの湧き水を共有して、生活用水として使っています。私たちが設置しようとしていた9つの村は、車も通れない、自転車でも行けない山奥にある集落です。そういった立地条件の厳しさゆえに、なかなか援助が進まず、地元の自治体も問題を放置してきたようですね。
 お金さえ出せば、現地の業者が9つのろ過装置を設置することは、そう難しいことではありません。問題は維持管理です。もし故障したら、誰がどうやってメンテナンスするか――。せっかく装置を取り付けても、資金がなければ、故障したまま放置されてしまいますから、地元の人たち自身が維持管理していく体制づくりが必要です。単にお金やモノを援助するだけでは、中長期的に活用されなくなっていく可能性があります。
 私が赴任した当初、村の人たちは「ろ過装置をつけてくれる人が来た」と勘違いしていたようでした。まずはその誤解を解くために、人々を集め、赴任した目的と私ができることについて説明しました。活動をスタートするにあたっては、生活状況やかかえている問題を知るために、1軒1軒を訪ねて聞き取り調査も行いました。
 村を行き来するためには、自分で地図を作らなければなりませんでした。ろ過装置を設置する村へは、道らしい道もなく、大きな岩がゴロゴロしている山奥でしたから、交通手段は自分の足だけです。そこでクレメントと村の人たちに助けてもらい、方位磁石を片手にあちこちを歩きながら、地図を作りました。 きれいな水を提供するお手伝いは、お手製の地図を片手に、9つの村を訪問し、村の人たちと話をして、関係を築くことから始まったんです。すべていちからのスタートで、自分にとってのチャレンジでした。

大切なのは住民自身が考えて行動すること

 村の人たちは、汚れで濁った茶色の水を、そのまますくって使っていました。パイプを付けて水を汲みやすくしてあっても、砂や虫が一緒に流れてくることもあります。山間部ですから人が住んでいるのは山の部分、湧き水が出るのは谷の部分です。人家の周辺ではウシやヤギなどの家畜を飼っていて、雨が降ると、フンなどの汚物が湧き水に流れ込んでいました。
 村人たちの間にも、「きれいな水が必要だ」という意識がないわけではなかったようです。しかし問題を解決するにはお金がかかるし、その術を知らない。いろいろな問題を明らかになっていくのにともなって、「自分たちの水をきれいにしていこう」と、一致団結する雰囲気が生まれてきました。そこで「どうしたらいいか」を具体的に考えてもらうために、勉強会やワークショップを企画したんです。
 勉強会には、水道省や開発省の担当者を招き、湧き水には菌がいるので、煮沸して飲まないと不衛生ということや、湧き水の近くを洗濯場やトイレにするのはやめようという基本的なことをレクチャーしてもらいました。そういう知識をベースに、自分たちの湧き水がどうしたら衛生的になるかを、村ごとに話し合うワークショップを設けたんです。
 大切なのは「自分たちで考えて行動する」ということ。私の任期が終わった後も、村が発展し続けていくうえで、こうした一連のプロセスはとても重要です。
 もう1つ大切なポイントは、ろ過装置の材料に、地元のものを使うという点です。メンテナンスを考えると、地元で修繕できることは必要条件なんですね。ろ過装置はいたってシンプルな構造で、岩、石、砂、炭という4層のフィルターと、細かな砂を沈殿させるセメント製の貯蔵タンクで構成されています。ほとんどが現地で調達可能な材料ですね。私たちが提供したのは、工事技術者を雇うお金とセメント代だけでした。
 実際の設置作業も、村の人たちが主体で行いました。工事技術者はあくまでアドバイザー的な立場です。「自分たちのろ過装置だ」というオーナーシップをもってもらうことが、とても大切なんです。

国際協力の厳しい「現実」が招いた異動命令

 プロジェクトは極めて順調に進んでいました。しかし結果から言ってしまうと、9つのうち完成にこぎつけたのは3つ。頓挫の原因は、このプロジェクトで唯一お金をもらっていた工事技術者でした。
 村人たちとの大きな違いは、プロジェクトの目的ですね。地元の人々は「地域のため」という気持ちで心が1つになっていましたが、彼にとっては、あくまでお金を稼ぐための手段です。早く終わればそれだけ早くお金がもらえますから、さっさと片付けてしまいたいと、村人がいない間に、1人でどんどん作業を進めてしまう。それでは困るということで、こちらの趣旨を何度も話したのですが、なかなか聞き入れてもらえず、契約違反ということで辞めてもらうことにしたんです。
 ところが、ケニアは日本以上の訴訟社会なんですね。訴訟にそれほどお金がかからず、裁判に勝てば、多額の賠償金がもらえる可能性がありますから、外資系企業や海外の援助団体を相手に、一市民が訴えを起こすことも珍しくありません。訴えられた側は、時間や手間を考え、賠償金を払ってしまうケースも多いようです。
 その技術者は「解雇したら訴える」と私を脅し始めました。ちょうど3つ目の装置工事の最中で、このまま行けば、2年間で9つのろ過装置が設置できる見通しが立っていました。しかし、JICAから任地異動するように指示があって……。ものすごく残念でしたが、安全第一ですから、断念せざるをえませんでした。村の人たちが「大切な人を私たちから奪うな」と、工事技術者に怒りをぶつけている姿をみて、涙があふれました。
 完成したろ過装置は3つでしたが、集落ごとに湧き水委員会を作るなど、設置に向けた基盤づくりはしっかりできあがっていました。資金調達さえできれば、あとは他のNGOがプロジェクトを引き継けるだろうというのが、唯一の救いでしたね。グレイスとクレメントには、可能性のありそうな団体を紹介するなど、それまでの活動がムダにならないためにできる限りのことをして、ビヒガを後にしました。

資金がなくても成功するプロジェクトはある

 異動先はナクルという、フラミンゴで有名な湖のある町です。ビヒガのときとは違い、地元のNGOの要請があって赴任するわけではないので、自分の技術が活かせそうな団体を探し、現地に赴きました。私は4年制大学に3年生から編入するまで、短大の家政学科で勉強したので、ナクルでは、女性たちを対象にドライマンゴーやトマトジャムなど、販売できそうな加工食品の作り方を教えることにしました。
 同じような取り組みは、ろ過装置の設置活動と並行して、ビヒガでもやっていたんです。地元の女性グループに、トマトジャムを製造販売するプロジェクトで、作り方の指導とともに、帳簿のつけ方や売り方など、副収入につながる基本的なノウハウも教えました。 実は異動があった後も、トマトジャムのプロジェクトのために、土日はビヒガに通っていたんです。その甲斐あって私の帰国直前に、地域の優秀な取り組みとして認められ、自治体から表彰され、寄付金が贈られました。表彰式には私も招待されました。500ぐらいの団体から1~2団体しか選ばれない名誉ある賞なんです。
 ビヒガの女性たちは、今もトマトジャムの活動を続けていて、副収入にもつながっているようです。先立つ資金がなくても、成功するプロジェクトがあることを実体験できました。

多文化が共生する静岡の国際化の橋渡し役に

 協力隊に参加するまで、私は「よそ者」である自分の視点や立場を活かすことで、国際協力の現場でキーパーソンになりたいと思っていました。ケニアでの経験が教えてくれたのは、「どんな支援プロジェクトも、そこで暮らす地元の人たちの活躍なくして成功とは言えない」という、ごく当たり前のこと。トマトジャムにしても、頑張っている主役は、ビヒガのお母さんたちなわけで、私はほんのちょっとお手伝いをしたにすぎません。彼女たちと活動をともにして、自分が生まれ育った場所の発展を願い、貢献していく姿に、強く心を打たれました。
 その気持ちを自分自身に向けてみたとき、「私がいちばん頑張れるフィールドはどこだろう」という疑問がわいてきました。それはアフリカでもフィリピンでもなく、私が生まれ育った静岡なんじゃないか――。協力隊の2年間がくれたでいちばん大きな収穫は、「私はこれから、自分が生まれ育った大好きな静岡で、自分の能力と経験を活かしていこう」という思いです。協力隊の任期が終わったらイギリスの大学院へ留学して、その後は国連を目指そうという私のキャリアデザインは、劇的に変わりました。
 静岡は、外国人がたくさん生活する多文化共生のまち。今後ますますグローバル化が進む社会の実態を、身近な暮らしに結び付けて捉える必要があるでしょうし、1人ひとりが今世界のために何をすべきかについても、考える必要があります。本当の意味での国際的な土壌を静岡に育んでいくために、できることはたくさんあります。
 2009年3月から、JICA静岡県国際協力推進員として、開発教育や国際理解教育、国際協力支援などを行っています。静岡県出身で国際協力に携わってきた方に、学校や地域でご自身の経験や異文化理解をテーマにお話しいただいたり、海外の青年たちの受け入れ事業をサポートしたり、セミナーやイベントなどの企画運営も行っています。
 これからも、海外と静岡をつなぐ橋渡し役を担っていきたいですね。世界各地の出来事を「海の向こうの遠い問題」ではなく、「同じ地球上の問題」「友達の国の問題」というように、身近な問題として感じてもらえたら嬉しいです。

取材日:2011.1



静岡県静岡市生まれ 島田市在住


【 略 歴 】

2000フィリピンにある孤児院「ジャイラホーム」で3週間のボランティアに参加
2003ワーキングホリデーでオーストラリアに在住(~2004)
2005青年海外協力隊の村落開発普及員としてケニアへ(~2007)
2009独立行政法人国際協力機構(JICA) 静岡県国際協力推進員

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