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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

どうしてもスポーツを仕事にしたいと、
自分らしい生き方を諦めなかった水上の勝負師。

山下友貴(やました・ゆうき)

山下友貴(やました・ゆうき)


競艇選手


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浜名湖競艇

4歳から高校3年まで15年間続けた器械体操

 私は高校3年まで、ずっと器械体操をやっていました。体操教室に通い始めたのは4つのとき。最初は跳び箱やマット運動など、遊び感覚で身体を動かす程度でしたが、先生に勧められて、小学校に入る頃から、本格的な体操クラブに入りました。当時は、他にも新体操、英語、ピアノのお稽古をしていましたが、そのうち器械体操に絞ることに決めて、練習も週2回から4回に増やしました。学校から帰って来て、6時から9時ごろまで練習でしたから、遊ぶ時間はほとんどありませんでしたね。
 好きだったのは床と跳馬です。練習は楽しいとも言えますし、キツイとも言えます。私は身体も硬いし、人の何倍も練習しないと技ができるようにならないんです。何度も何度も失敗して、やっとできるようになる。「辞めたい」と思ったことは、もう数えきれないくらい。でも、母は私の性格を見抜いていて、「辞めたい」と言うと「じゃあ辞めなさい」と。そうやって言われると「辞めたくない」と意地になる……そういう繰り返しです。まんまと親の策略にはまっていたのかもしれません。
 体操を続けてくることができたのは、家族の協力が大きかったと思いますね。体操クラブまでの送り迎えは、母と祖父母が交替でやってくれました。私は一人っ子で、母は会社勤めをしていたので、おじいちゃんとおばあちゃんに可愛がられて大きくなりました。母は学生時代、ずっとバスケットをやっていて、実業団に入ることを夢見た時期もあったようなのですが、両親――私にとっての祖父母ですが――の反対で、その夢がかなわなかった。それで私には、好きなことをさせてあげたいと思っていたようです。
 体操を面白いと感じるようになったのは、6年生頃。少しずつ技ができるようになってきて、「もうちょっとやってみようかな」という気持ちが出てきて、中学は中高一貫で体操も強い浜松開誠館に行きました。

ある日突然、恐怖で技ができなくなって……

 本当に小さかった頃は、オリンピックも出たいという夢はありました。でも、だんだん自分はそんなレベルでないとわかってきて、将来は体育の先生になりたいと思っていました。身体を動かすのが好きというのと、多分、他の勉強が苦手だったので、体育がある日はワクワクして学校に行っていたというこというのが理由ですね。
 中学高校時代は、体操一色の日々でした。朝は授業が始まる前に自主トレ、放課後は毎日9時とか10時すぎまで練習です。女子の器械体操は、床、平行棒、平均台、跳馬の4種類。高校2年生のときに顧問の先生が変わって、練習がそれまで以上に厳しくなりました。
 ところがその頃、昨日までできていた技が、ある日突然できなくなってしまった。原因は恐怖心ですね。それまで何も考えずにできていたのに、急に頭で考えてしまうようになって、「こんなふうに後ろに飛んで、どうして頭ぶつけないのかな」と考え始めたら、怖くて身体が動かなくなってしまった。
 それまでも、落ちてケガすることはあったんです。頭から床に突撃なんていうこともありました。そういうことは、器械体操の練習では日常茶飯事なんです。顧問の先生には怒られましたね。あまりに何もできなくなってしまって、一時は完全に見放されてしまいました。1~2ヶ月は続いたでしょうか。「体育館に入るな」とも言われました。仕方ないので、ひたすら校庭を走っていました。ちょうと体重も増え始めていて、そんな状況ですから、ストレスで食に走ってしまうのも加わって、すべてが悪循環でした。それで、せめて体重は押さえなきゃと走り始めた。
 走りながら「もう本当に辞めよう」と思っていたんです。それが、どうして戻ってきたのか、よく思い出せないんです。母と話したのは覚えています。最初は怒られましたが、話しているうちに「もうちょっとだけ頑張ってみたら」と言われて……。辛い思い出なので、自分で記憶を消しちゃっているんでしょうね。よく覚えていないんです。学校に行くのもイヤ、部活もイヤ、毎日がイヤでイヤで、熱が出ちゃうほどでした。
 最終的には、自分から先生にお願いに行ったんです。「すみませんでした。また練習を見てください」と。そう言ったからにはやるしかない。後輩たちが助けてくれました。本当に怖くて技ができないので、練習中、賭けをするんです。「これができなかったら、アイス1個おごるからね」みたいに。「今からやってみるから見ててね」と言うと、「わかりました。ちゃんと見てますよ」と。それで何とか練習できるようになってきた。

周囲に励まされ入賞を果たせた最後の大会

 高校2年の秋の大会までは、そんな感じで一生懸命頑張ったんです。それが、今度は練習中に平均台から落ちて、小指を切って何針か縫う手術をしました。悔しくて「今度こそ絶対辞めてやる」みたいな……。体育の先生を目指して、大学まで体操を続けるつもりでしたけれど、もう大学に進学するのも辞めようと思いました。これ以上続けても、自分は伸びないし、頑張る気力もない。体操に対する恐怖心は、相変わらず大きかったと思います。
 ケガを機に、将来について現実的に考えるようになりました。教員採用試験の合格率とか、採用される人数とか、現実の厳しさもわかってきて、体育の先生になれなかった場合、「仕方ないからジムのインストラクター」という生き方はイヤだなと思いました。
 とにかく体操は、高校3年生まで精一杯頑張って、それで終わろうと決めました。そんななか、インターハイに団体出場できるかもしれないというチャンスが見えてきて、また気持ちが盛り上がっていったんです。再び練習にも打ち込めるようになって、高校3年の夏、インターハイに出場できました。
 最後の大会は、高校3年の10月、埼玉国体でした。県の代表チームの1人に選ばれたんです。ところが2学期の始業式の日、平行棒から落ちてしてしまった。今度は右肘のじん帯断裂という、これまでに経験したことのない大怪我でした。「これで国体の夢は終わったな」と思いましたね。
 諦めた気持ちを奮起させてくれたのは、「待ってるから治してこい」という代表チームのコーチの一言です。それで、早く治して出場しようと、手術の後、すぐにリハビリを始めました。最初は痛くて肘を伸ばせないし、ちゃんと手をつくこともできません。それでも、ぐるぐるテーピングして、手術後1カ月たたないうちから練習を始めました。キツかったですね。体重維持もしないといけませんから、腹筋や足の筋トレは、ずっと続けていました。
 頑張って本当に良かったと思っています。7位に入賞できたんです。他のメンバーのおかげですね。メンバーに入れてもらえたこと、コーチが「待ってるから」と望みを託してくださったこと、学校の顧問の先生も「体重管理以外は何とかサポートしてあげるから」と言って下さったこと……。今思い出しても、本当にありがたかったなと思います。家族も皆で支えてくれました。

目標のない日々を脱して競艇選手になりたい

 2005年に看護専門学校に入学しました。最初は楽しかったんです。「もう練習しなくていいし、友達と一緒に帰れる」というのは、ものすごい解放感でした。ところが1~2週間もすると、そういう生活に飽きてしまった。何も目標がない。ただ学校へ行って、帰って来て、寝て、また起きてという毎日は、刺激がないし、頑張るものが何もない。
「身体が動せる、スポーツと関係のある仕事がしたい」と思う一方で、「でも、そんな仕事はそうそうないよな」と、悶々としていました。そんなとき、唯一、楽しいと思えたのが、体操クラブでのアルバイトでした。身体を動かしているときが、いちばん自分らしい自分だとも思いました。 浜名湖で初めて競艇を見たのは、その年の5月頃。体操を通して知り合いだった方のデビュー戦を見に行ったんです。「これはスポーツじゃないか!」って思いました。エンジンのごう音やレースのスピード感と緊張感が本当にカッコよくて、スポーツを仕事にしていることを、うらやましいと思いました。「私も競艇の選手になりたい!」と、すぐに看護師から競艇選手に心変わりしてしまった。
 母には猛反対されました。それで、母の妹にあたる叔母に相談しました。「本当に張り合いがなくて、毎日が楽しくない」と打ち明けたら、いろいろ相談にのってくれたんです。私はその頃、視力が裸眼で0.05ぐらい。競艇学校の試験資格には視力0.8以上という条件があったので、まず視力矯正手術を受けました。母には試験を受けるためというのは言わずに、手術を受けさせてもらって、内緒で1次試験を受けました。そしたら、なぜか受かってしまった。
 最初から「自分はこれがやりたい」と思って努力したのは、それが生まれて初めてでしたね。体重も落とさなければならなかったので、毎日走って減量して、学科の勉強も夜中まで一生懸命やりました。年齢制限があるので、私が試験を受けられるチャンスは2回きり。2次試験は、「やまと学校」がある福岡まで行かなければなりませんでしたから、母に自分の気持ちをもう一度話しました。最終的には「頑張りなさい」と言ってくれて、2006年10月、「やまと学校」に入学したんです。

目標があるから厳しい訓練生活は平気だった

 初めて親元を離れての寮生活で、生活は一変しました。同期生の女子は10人。4~5人ずつ1部屋で、仕切りのある大きな部屋にベッドがありました。朝6時には起床のブザーが鳴るんです。それが、ものすごい爆音なんです。パッと起きて、布団をたたんで、シーツもたたんで、着替えて、ダンベル持って、グラウンドに集合する――そこまでを3分以内にやらなきゃいけない。本当に大変で、慌てちゃうので間に合わないんです。布団やシーツもきちんとしていないと呼びだされて、怒られるし……。想像をはるかに上回る厳しさでしたね。食事も時間内で済ませなきゃいけなくて、最初は食べ物が喉を通らなかった。生活のギャップにびっくりして、慣れるまで1カ月ぐらいかかりました。
 携帯も禁止で、家族との連絡手段は手紙か土日の電話。ただし3分以内です。母からはほとんど毎日のように手紙が来ました。でも書いてあることは、ネコがどうしたとか、毎日ほとんど同じでしたね(笑)。愚痴や文句を言えるのは、同期の仲間だけです。
 訓練は1年間なので、最初はカウントダウンしていたんですが、300からなかなか減らないんで、イヤになっちゃって、途中で辞めました。訓練服はいつもピシっとアイロンかけてないといけない。もちろんお酒は禁止です。唯一、ストレスを発散できるのは、お菓子を食べること。「そんなに食べるのか」っていうくらい、皆、お菓子を貪るように食べていました。
 怒られてばっかりいたので、卒業できるか不安でしたね。でも何を怒られていたのか、よく覚えてません(笑)。私はどうしても選手になりたかったので、軍隊みたいな生活でも耐えるのは平気でした。看護学校に通っていたときに比べれば、目標もあるし。同期は40人いましたが、最終的に卒業できたのは28人。自分から辞める人もいましたけれど、成績が悪いと、家に帰されてしまう。

静岡選手の団結があるからこの世界で頑張れる

 2007年9月に無事卒業して、その年の11月14日にプロデビューしました。私、ものすごくアガリ症なので、初戦はカッチカッチでした。緊張するのは今も同じで、相変わらず要領も悪いし、「そのうち慣れるよ」と言われながら、なかなか慣れませんね。毎回レース前は、心臓がドックンドックンいいます。
なので、地元静岡の先輩たちには、ものすごく助けてもらっているんです。静岡の選手は、団結力が強いですね。その点、ものすごく恵まれています。「頑張れよ」とか「落ち着いてね」とか、先輩たちがレース場でも声を掛けてくださって、私が勝つと皆が自分のことのように喜んでくれる。
 なかでも私が「師匠」と呼んでいる坪井康晴選手には、本当にお世話になっています。私のレースをよく見ていてくれて、仕事の現場が違っても「ちゃんと見てるからね」と言ってくださる。それが精神的な支えというか、安心感につながっていますね。負けたときには、「悔しいだろうけど、負けは自分の責任だから、周囲の人たちのせいにしたり、プロペラやエンジンのせいにしないようにね」と、厳しいけれど、また頑張ろうという励ましをくれます。
 勝負の世界はもちろん厳しいです。今、私が頑張れるのは、この環境のおかげですね。そういう人たちと知り合うことができたことだけをとっても、この世界に入って良かったと思っています。あのとき、思い切って行動に出て本当に良かった。

もっと強くなってカッコいいママを目指す

 初勝利は2008年の1月の平和島でした。本当に寒い日だったのを覚えています。他の選手は、皆自分よりも上の人たちでしたから、勝てると思っていなかったんです。「あれ?私、出ちゃったけど走っていいのかな」――そんな感じで、気が付いたら1着でした。嬉しかった。
デビューから2年間は、自己得点が思うように伸びなくて悩みましたけれど、2009年1月にB2級からB1級に昇格しました。今は月に2節、レースに出ています。  奥が深くて課題だらけですが、もっと勝ちたいですね。エンジンやプロペラの調整、レースの展開を見る力、スタートの力……など、勝つために必要なことは山ほどある。難しいですね。体操のときもそうでしたが、何でもすぐ上達するタイプではないので、他の人以上に努力が必要かもしれませんが、それでもやりがいはあります。
 今、目指しているのはA級になることと、女子王座への出場です。もっと勝ちたいし、お客さんが面白いって思えるようなレースができるようになりたい。「こいつはいつ抜いてくるかわからない」「最後まで目が離せない」と言われる選手になりたい。
 一方で、結婚して子供が欲しいという気持ちも、人並にあります。女性の先輩選手のなかにも、子供を産んでからも、レースでバリバリに活躍している人はたくさんいます。私もカッコいいママになりたいですね。仕事柄、レースで家をあけることが多くて、子供には寂しい思いをさせてしまうかもしれませんけれど、「ママはこういう仕事してるんだよ」と、見せてあげることができます。会社勤めだと、なかなか職場で頑張っているところは見せてあげられませんけれど、そこは競艇選手のメリットかもしれません。子供が応援してくれたら、もっともっと頑張ろうと思えて、仕事も家庭もという欲張りな生き方ができるんじゃないかと思っています。

取材日:2011.1



静岡県浜松市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

2005浜松開誠館高等学校 卒業
2007やまと学校卒業。プロデビュー
2009B1級に昇格

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