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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

「誰のため」「何のため」かを意識することが大事。
救援活動や進学を通じ看護職の「キャリア」を模索。

下山美穂(しもやま・みほ)

下山美穂(しもやま・みほ)



日本赤十字社 静岡赤十字病院 看護師長


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日本赤十字社 静岡赤十字病院

ハイチとイランでの被災者救援事業に従事

 ハイチ大地震は2010年1月12日に発生し、西インド諸島カリブ海地域にあるハイチ共和国を直撃しました。それに伴い、同年5月、私は日本赤十字社の緊急対応ユニット(ERU)のメンバーとして、現地での被災者救援事業に従事しました。震災地に近いレオガンを拠点とし、約1ヵ月間医療活動を行ったのですが、レオガンの状況はひどいもので、地震で建物の8割から9割が倒壊し、5ヵ月が経っても現地は瓦礫の山でしたね。テントでの生活が長期化しており、水源確保や衛生状態の維持などが困難で、都市部との医療格差も問題になっていました。
 レオガンにある日赤クリニックでは、慢性疾患による患者さんが増えている状況で、連日60人から100人の患者さんの診療を行っていました。私自身は、クリニックの運営状況の把握や問題点の改善に努める一方、ヘッドナースとして看護業務の支援ほか、医療資器材や医薬品の管理、クリニックのマネジメントなどを担当しました。
 救援活動に参加したのは今回が2回目です。初めて参加したのは、2004年のイラン南東部地震のとき。派遣されることが決まった後は、もうパニックでしたよ。出発前に情報を仕入れたくてもどう動けばいいか分からず、困っていることをうまくアピールすることもできない。そんな状態で現地入りしたにもかかわらず、私一人で現地のクリニックを担当することになったんです。そのときはもう泣きながら、仲間に向かって「ごめんなさい、できない」と言ったのを覚えています。
 それでも何とか乗り越えることができたのは、励ましてくれた周りの人たちのおかげですね。通訳を優先して手配してくれたり、ご飯の支度まで何でもやってくれて。本当にありがたかった。いい仕事をしてくれたと言ってもらえたのも、そういう環境を作ってもらったから。現地の人たちからもお礼を言ってもらえ、とてもいい経験をさせてもらいました。
 今回のハイチへの派遣では、前回から6年が経って経験も積んでいましたし、その前年からは看護師長になって、日々起こる問題を処理していく中で精神的にタフでいられるようになっていましたね。準備段階から落ち着いていました。現地の状況は、私がひとりで頑張っても何も変わらないんです。1ヵ月で変えるのはどうしても無理。それが分かっていたから、今回は無理をせずできる範囲のことを精一杯やることができ、成り行きを見守る余裕もできたと思います。
 救援活動とは、自分がやりたいことをやるのではなく、必要とされることの中で自分ができること、得意なことをやることが大事なんです。そういう意味で、今回はスタッフそれぞれが自分の良さを生かしながら役割を果たし、まとまることができたと思いますね。現地で過ごした時間は、私にとって幸せな時間でした。もちろん、被災者の方々は辛い思いをしているのですが、彼らと接していて私自身は「何でこんないい顔ができるのかな」と思うくらい、自然に笑っていたんです。これが、看護本来の“人間対人間”ということなんだと実感できる瞬間でしたね。

看護の現場を離れて自らの未熟さを実感

 私は静岡赤十字看護専門学校(※H17閉校)の卒業生なんですが、実は看護師になりたいと思ってなったわけではないんです。進路を考えていたときに、偶然こちらに通っていた先輩にここは全寮制で授業料が無料だと聞き、親に迷惑をかけず進学できるなと思ったんです。それだけの理由で入学したんですよ。同級生は優秀で、看護師を目指してコツコツと努力している人ばかりだったんですが、私はと言えば、患者さんとかかわる実習は楽しかったですが、専門的な授業には興味が持てませんでした。
 最初に配属になったのは脳神経外科。当時は1年で辞めるつもりだったのですが、ここは厳しくて有名な病棟で、ほとんど毎日勉強していましたね。神経症状の見方などについて、若手の先生と一緒にレクチャーを受けたりしていました。異常の早期発見が予後にもかかわってくるので、特に厳しく教育されたんです。だから、先生たちも看護師の報告をとても大切にしてくれていたと感じていましたし、それぞれの立場で対等に意見交換ができるというのが当たり前の環境でした。
 ここには、結局4年いました。まあ、辞めなければならない理由もなかったということです。楽しいなと思うこともありましたよ。患者さんと話したり、愛情を注いで手をかけた人、思いを寄せた人が良くなっていくのはうれしいし、良くならなかった人のことをその家族と一緒に嘆くということもいい経験になりました。でも、「看護とは何か」と考えたことはありませんでした。当時は、看護師になっていなかったら他のことができたんじゃないかと考えていましたね。だんだんとレールを敷かれていくのを感じて、それが嫌でした。
 自分の力を試したい。そう思って退職、渡米したのが25歳のとき。シアトルの語学学校に入学しました。英語の勉強を全くと言っていいほどしていなかったので、食べ物を買うことも、通帳をつくることもできなかったですね。今までは恵まれていたなと実感しました。でも、反対を押し切って来ていたし、それまでわがまま放題だったので、周りに辛いとは言えなかった。ホームステイをしていたのですが、ホストファミリーとの生活もだんだんと苦しくなってきて。ホストファミリーは本当に親切な人たちで、家族旅行に連れていってくれたり、食事にも気を使ってくれて、お腹が空くことなんてなかったほど。だけど、1年以上経つまでそれに気付かないほど余裕がなかったんですね。こんなに不安で何もできない自分を感じることはなかったです。病院では厳しい科にいて、周りからすごいねと言われ、天狗になっていた部分があったと気付きました。感謝や配慮も足りなかったと思いますね。

アメリカで看護について考えるきっかけを得る

 一方、滞在中は病院でボランティアもしていたんです。英語を話す機会を増やしたくて。最初の半年くらいは会話がうまくできず、役に立たないから帰れと言われたりして。でも、病院にいると居心地がいいんです。居場所があるんですよ。あの人は何をしているのか、今はどんな状況なのか、ということが自然と分かるので、安心していられましたね。
 留学中は、アメリカ各地を旅行する際にはその地域の病院の見学にも行きました。その病院にはどんな人が来ているか、どんな病気があるのか、というようなことを見ていると、その土地の地域性がよく分かりましたね。そして、帰国する前の最後の数週間はニューヨークに行き、コロンビア大学の病院に行ったんです。脳神経外科が特に有名で、以前から見学したいと思っていて。そこでは幸運なことに、現地で働いている日本人看護師の方のシフトに合わせていただき、最先端の技術を見ることができました。ですが、それよりも、その方から「看護とは何か」について考える機会をいただいたことが大きかったですね。アメリカでは、働きながら大学院に通ったりする看護師が多いんです。常に最先端の知識を学び、同時に「自分はどういう看護がしたいのか」ということをとても強く思っているんです。その思いを持って働くことが大事なんだと教わりましたね。私は当時、看護師をしていることを他の人にあまり言いたくないと思っていたんですが、30歳になる頃には、自分の仕事について威張れるような自分でいたいと思ったのを覚えています。
 帰国後は実家に戻り、地元の病院での勤務を経て、29歳のときに赤十字病院に戻りました。国際救援の要員登録をしたのは、当時の部長に勧められてのこと。研修を経て登録したのですが、最初にイランに派遣されるまで結局9年の間がありました。再就職の翌年、30歳で係長になってからは日々の業務をこなすことで精いっぱいで、海外に派遣されることはないだろうなと思っていましたね。
 その後は、幹部看護師研修を日本赤十字社幹部看護師研修所で1年間受けたり、通信教育で数年かけて看護学士の資格を取得したりしました。専門学校時代にもっと勉強しておけばよかったのですが、基礎教育が足りないと感じていて、看護学を学び直したかったんです。プライドを持って仕事をしたい、組織に捉われずどこででも看護ができる自分でいたい、という思いがいつもありました。そして、看護とは何か、ということを自分で納得するための基本知識を身に付けたかったんです。

看護師の埋もれている「キャリア」に注目


 40歳前の数年は、10年近く係長をやってきて、勉強もしてきたつもりでいたんだけれど、それでもうまくいかないことがありましたね。伝えたいことがうまく言えず感情的になってしまったり。これまでずっと、要領のよさだけでやってきてしまったのではないかと不安になったんです。それで、もっと知識が欲しいと思いました。2年間休職して現場を離れることには問題もたくさんありましたが、年齢的にも最後のチャンスかな、と思い大学院に進学することに決めたんです。イランに派遣されたちょうど翌月のことです。
 大学院での勉強は本当にきつくて、早く現場に戻ることを夢見るくらいでしたね。「看護管理」を選択したのですが、ゼミの教授から与えられたテーマについて日々考え、考えたことを自分の言葉にし、それを文章にするという作業を繰り返しました。そして、最終的に私がたどり着いたテーマは、看護職の“キャリア開発”。看護師や看護職の成長とはどんなものなのか、ということについて日々考えました。
 看護師が患者さんとかかわるには、キャリアとして認められる学位や資格だけでなく、すごくいろんなものが要求されます。当たり前とされる業務の中にも、経験を積んで身につけたことがたくさんあるんです。看護をする中でたくさんの人に出会い、経験を積み、自分が変わっていけば、誰でも成長できると私は考えます。単に続けていればいいというのではなく、経験をきちんと振り返ってものにすれば、必ず成長するんだと。そんな埋もれているキャリアを本人にも認めてもらいたいんですよね。例えば、下の世話をされることは誰でも嫌だと思うけれど、それを相手に嫌な思いをさせず何気なくできること。それってすごいことですよね。そういうことを周りが気づいて「上手にやったね」と声を掛けられるような環境があれば、本人の意識も変わってくると思うんです。
 現在は、看護師長として自分たちが何をしなければいけないのかを考え、みんなを同じ方向に向かせるのが仕事だと思っています。意識して口癖にしているのは「誰のためにやったの?」「何のためにやったの?」。失敗はあって当たり前なんです。そのとき何を考えていたかが一番大事で、患者さんのことを考えて失敗したのならいいんです。でも、早く帰りたい、とか自分が楽をしたいから、とか、患者さんよりも自分のことが優先されているのだったら駄目。私がそういうことが嫌なのは周りも分かっています。私がどんな看護をしたいのかは折にふれて言うようにしていて、その後それができたのか、必ずチェックもしています。私自身を含め、一人ひとりが看護をすることを意識できる職場づくりを今後もすすめていきたいと思っていますね。
 看護師になって20年以上。辞めようと思いながら働き、現場を離れる経験もして、遠回りをしてるなと思います。だけど、今は看護という仕事は価値のあるもの、意味のあるものだと自信を持って言えますね。被災者支援も、行くことはないと思っていたのが2度も機会をいただき、今はもう一度行きたいなと思っているんです。もう、私には定年もないですね(笑)。

取材日:2011.2



静岡県富士宮市生まれ  静岡市在住


【 略 歴 】

           
1991 静岡赤十字病院 退職(4年勤続)
渡米(1年4ヵ月)
1995 静岡赤十字病院 再就職
赤十字国際救援・開発協力要員基礎研修終了 要員登録
1996 看護係長 就任
1998 日本赤十字幹部看護師研修所にて1年間看護教育、看護管理について学ぶ
2003 大学評価・学位授与機構 看護学授与
2004 日本赤十字社 ERU(緊急対応ユニット)第4班要員としてイラン南東部地震被災者救援事業に従事
2006 静岡県立大学看護学研究科修士課程 修了(看護管理)
2009 看護師長 就任
2010 日本赤十字社 ERU第5班要員としてハイチ大地震被災者救援事業に従事

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