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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

その土地に惚れ込み、「よそ者」の視点で
埋もれた魅力を掘り起こす地域おこしの達人。

三宅淳子(みやけ・じゅんこ)

三宅淳子(みやけ・じゅんこ)


地域・まちづくりプランナー
企業組合ウエルネスプランニング 代表理事
NPO法人奥浜名湖観光まちづくりねっと 事務局長
NPO法人三遠南信アミ 理事


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奥浜名湖観光まちづくりねっと
三遠南信アミ

農業から造園、ランドスケープデザインへ

 生まれは下関市です。高校を卒業して、広島農業短期大学に進みました。小学生のときに宮沢賢治を読んで、農業に憧れていたんです。でも卒業が間近となった頃、たまたま図書館で造園の本を読んで、「造景」の世界に興味をもちまして、広島の造園会社に就職しました。
 今から40年近く前ですから、造園会社の女性社員といえば事務的な仕事と決まっていました。しかし小さい会社だったので、いろんな仕事を任されました。上司が先進的な考えをもっていた人で「造園業は今後、周囲の環境にも考慮して、きちんと設計していく流れに変わっていくから、君も設計技術を勉強したほうがいいよ」――そんなふうに助言してくれまして、その後の私の世界にちょっと道筋をつけてくれたんです。
 その上司が会社を辞めたのを機に、東京の専門学校へ造園設計を勉強に行きました。講師は、造園家やランドスケープ・デザイナーなど、現役で活躍中の方々。授業では先生たちが携わった国内外の造園デザインや景観デザインの仕事が事例として紹介され、世界が広がりました。
 卒業して一度は郷里の造園会社に就職したのですが、やはり公共の環境デザインがしたいと思い、再び東京に戻りまして、専門学校の講師だったランドスケープ・デザイナーの川瀬篤美さんの設計事務所に就職しました。卒業のとき「うちに来ないか?」と声をかけていただいていたのを思い出したんです。環境設計は今でこそ女性がたくさん活躍している分野ですが、当時はほとんどが男性。3人のチームで役割分担しながら大規模な総合公園や運動施設などを設計しままして、チームワークでものを作り上げていく楽しさを経験しました。

自分らしく生きたいと思い悩んだ末の選択

 川瀬さんの事務所に2年勤務したあと郷里に帰り、行政・司法書士をしていた父の事務所を手伝いつつ自分で造園業を立ち上げました。店舗を借りて、軽トラ1台買って、車体に「美宅庭園」と書いて……。宣伝のチラシを配りに新興住宅地を回るんです。経験が皆無でないとはいえ、まったくの「ド素人」ですよ(笑)。でも、希望に満ちていましたから何でもできたんです。
 その後、結婚をして専業主婦になりました。しかし、夫や周囲に歩調を合わせるということ、さらに「自分らしい生き方」について思い悩むようになりまして、最終的に離婚を選択しました。今にして思えば、地域活動に参加するなど、家庭以外に何らかの社会的つながりをもっていれば、その後の生活も違っていたかもしれませんね。
 離婚して浜松に引っ越してきて、友人の紹介で市内の建設会社に就職しました。自分のわがままで飛び出して来たという罪悪感がありましたから、いい仕事をしよう、自分らしくしっかりと生きていこうと心に誓いました。あるとき仕事の現場で知り合った方に、「女性なのによくやるね。ずっとこの仕事していくの?」と聞かれまして、東京の事務所に勤務していたことなどを話しましたら、都市計画の仕事のほうが向いていると言われまして、建設コンサルタント会社を紹介してくれました。
 そのときもそうですが、転機には必ず「ご縁」を作ってくださる方がいらっしゃるもので、後でわかったことですが、私の働きぶりをご存じの方が「三宅なら大丈夫」と太鼓判を押してくださったそうです。情熱をもって懸命に組んだことを評価してくださったのだと思います。1993年に浜松市内の建設コンサルタント会社に転職しまして、11年間勤務しました。その間、行政関係者や活動グループなど、静岡県内にさまざまなつながりが生まれました。「よそ者」だったにもかかわらず伸び伸びと仕事をしてくることができたのは、浜松市が開放的なまちだったおかげです。会社員時代に築いてきた人や地域とのつながりなくして、今日の自分はありません。

まちづくりの根本を変えた市民グループの誕生

 建設コンサルタント会社に勤務する間に、私の仕事の方向性はハードからソフトへ大きく転換しました。時代の流れで社会全体が変化したこともあります。まちづくりは単なるハコモノづくりから、市民参加型や住民主体のまちづくりへとシフトしていきました。
 入社して間もない頃、こんなことがありました。児童公園をつくるのに先立って「周辺に住む子育て中のお母さんたちに、意見や希望、公園のイメージをヒアリングして、設計に落とし込みましょう」と提案しました。今でこそ、まちづくりにワークショップの手法を取り入れるのは珍しくありませんが、10数年前には全く理解されませんでした。行政の担当者には「そんなこと必要ないです」と言われました。個人宅の庭でお客様の希望を聞くのは当然でも、公共の公園で住民はカヤの外。どこかおかしいと思いましたね。
 時代が変わり始めているなと感じたのは、静岡文化芸術大学が開校準備していた頃、ある会社の社長さんと一緒に「何か仕事ありませんか」と県の担当者を訪ねましたら、「君たち何しに来たんだ?」と渇を入れられましてね。「もうそういう時代じゃないよ。仕事は大事だけど、もっと社会とつながること、地域とつながることを考えなさい」。そう言われたんです。全くそのとおりだと思いました。
 それで、その社長さんと一緒に「浜松まちづくり101人会」というのを立ち上げまして、「地域の大学はどうあってほしいか」「大学に何を期待するか」という市民アンケート調査を行ったんです。800人以上の回答を得て、「浜松市民が期待する地域に開かれた大学の姿」という報告書を県に提出しました。1995年頃のことです。
 「浜松まちづくり101人会」の活動は、行政の評価と支持を得ることができました。むしろ行政は、そういう市民グループの登場を待ち望んでいたにだと思います。行政主体のまちづくりから、民意を反映する市民参加のまちづくり、市民と行政と企業とが協働で進めるまちづくりが求められる時代になっていくなかで、いかに市民の関心を高めていくかを模索していたのではないでしょうか。
 私自身は「浜松まちづくり101人会」によって、会社内外で活動の幅が広がりました。まちなかイベントや社会実験などの事業に参加したり、まちづくり計画策定委員として意見を求められたり、立場的には会社員でしたが、仕事と地域活動を両立させてもらえたのはありがたかったですね。

自立と自噴があってこそ地域は元気になる

 2004年に辞表を出したとき、知人からは「宝くじでも当たったか?」と言われました(笑)。辞めた時点では、その後の苦労が想像できなかったんです。辞めて初めて、「仕事って、どうやって見つければいいのかな」と途方に暮れました。
 しかし縁とはありがたいもので、会社を立ち上げたというハガキを出しましたら、以前、仕事でお世話になった方から連絡をいただき、さまざまな業務のチャンスが生まれました。
 その1つに、ここ数年携わっている旧豊岡村の地域支援があります。豊岡村は現在、磐田市に併合されていますが、過疎と高齢化が進んでおり、地域活性化の仕掛けとして3年前に「敷地村エコミュージアム構想」を策定しました。敷地村というのは、豊岡村になる以前の地名ですね。住民の方々の郷土への思いを喚起するために、あえて古い地名をプロジェクト名にしたんです。地域再発見のワークショップを経て、伝統芸能である「遠州大念仏」を活かしたニューツーリズム創出事業や100万本の彼岸花構想など、地域の魅力アップと新しい産業を興す活動を支援しています。
 奥浜名湖エリアの観光振興の仕事も、人とのつながりから生まれた仕事です。浜松市の「やらまいかブランド」にもなっている「奥浜名湖みそまん物語」は、ある日、「みそまん」を売っている店が、三ヶ日町、細江町、引佐町という3つのエリアに4軒ずつあることに気付きまして、1種類ずつ12個をセットにして売ったらどうかとひらめいたんです。
 こうした地域ブランドは、観光客を現地に呼び寄せるためのツールです。ですから観光業者だけが潤うのではなく、観光交流により住みよい地域へと生まれ変わり、経済的にもうまく循環していく「持続可能なまちづくり」を目指さなければいけません。
 私は常々「『個』が輝く地域づくり」を目指したいと思っています。経済が低迷している今、地域の自立は日本各地の大きな課題です。着地型旅行の創出や地域ブランドづくりも、最終的には「自分たちのことは自分たちでする」という地域の自噴と自立が成功のカギだと思っています。私が関わることで、行政に頼らなくとも地元の人たちが自立していけるような、もっと言うと、私が動くことで周囲の人たちが幸せになっていくような、そういう活動をしていきたい。

暮らしの中に入り込むことが地域づくりの終着点

 地域を元気づけるためには、地域と深く関わり、地域ならではの魅力と住む人々の地域への誇りを引き出すことが重要です。そこで役立つのは「よそ者」の視点です。「よそ者」だからこそ、地元の人が見えていない良さや地域の価値を見出すことができるのだと思います。
 しかし同時に「よそ者」の限界も感じています。地域おこしのきっかけをつくった後、実際の活動を地元の人と一緒に何年間も取り組んでいくのはなかなか困難です。活動が継続すれば良いのですが、私が現場を離れた後、活動が低迷するケースもあり、力のなさに空しさを感じることもありますね。
 自分が求めている地域づくりの成果とは何なのか――。突き詰めて考えていくと、人々の生き方の中、暮らしの中に入り込んでこそ終着点という気もします。お手伝いした地域には思い入れもありますし、行く先々でその地に惚れ込んでこそできる仕事なわけです。
 そんななか、「よそ者」もいいけれど、正直、そろそろ地に足をつけたいという気持ちもあります。ジレンマですね。自分の年齢的な問題もあります。果たして今後も「よそ者」に徹して切磋琢磨し続けていけるかどうか自信がない。であれば、自分が主体になって、根を下ろしたまちの地域おこしをするのが理想なのかもしれない……。今後のやりがいとか生きがいを考えたとき、自分自身が基地になるのもいいのかもしれないと思っています。

日本列島の真ん中から「三国物語」をおこす

 「三遠南信(さんえんなんしん)」と呼ばれるエリアがありますが、どこかわかりますか? 愛知、静岡、長野の3県にまたがる県境地域でして、東三河、遠州、南信州という地名から「三遠南信」と呼ばれています。「三遠南信アミ」というNPOに、2004年から私も参加していているのですが、このエリアの地域振興は今後、それぞれ別個ではなく、県境をまたぐ流域圏の創造という大きな枠組みの中で展開していく時代に入ったと感じています。
 実は現在、三遠南信の「三国ブランド」を構想中です。東三河ではすでに、歴史的な背景をもとに「ほ(穂)の国」ブランドを立ち上げています。「ほの国」にならって、遠州灘や浜名湖、天竜川など、水の恩恵を受けている遠州エリアは「水」がテーマのキーワードを、森と木に囲まれ豊かな自然と信仰文化を育んできた南信州は「木」や「気」をテーマにしたキーワードを打ち出し、日本列島の真ん中から「三国ブランド物語」がおこせないかと考えています。
 三遠南信には素晴らしい地域資源がいっぱいあります。例えば売木村には、村の人たちが守り、育ててきた美しい枝垂れ桜や、山里ならではの摘み草料理、自転車のツーリングに最適な山里の環境もあります。
 しかし最大の宝物は、何と言っても村人の人柄ですね。村では毎年、農業体験の企画として「お米作り隊」を募集していまして、都会から参加者が訪れます。種まきから刈り取り、脱穀まで、全企画の参加者には、お礼を兼ねた参加賞としてコメ1俵あげちゃうんです。こんな太っ腹な村は、全国見渡してもここだけじゃないでしょうか。
 売木村には、田舎ならではの魅力とともに、都会の人を受け入れる素地もあります。三遠南信地域はかつて南北交流が盛んでしたから、「おもてなし文化」のDNAが現代に受継がれているのではないでしょうか。この地域の歴史的な背景を基盤に、未来につながる地域づくりに取り組んでいきたいです。
 21世紀の「三国物語」はまだ始まったばかり。私自身の物語も、「三国物語」から新たなストーリーが展開しそうな予感がしています。

取材日:2010.12



山口県生まれ 静岡県浜松市在住


【 略 歴 】

1973農業短期大学を卒業後、造園会社(広島)に勤務
1977川瀬篤美環境設計研究室 勤務
1993建設コンサルタント会社 勤務
2004企業組合ウエルネスプランニング 創業
2009静岡県男女共同参画社会づくり活動に関する知事褒賞受賞

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