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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

住宅が豊かな暮らしを育む「器」となるために、
「用の美」を追求し続ける建築家。

望月美幸(もちづき・みゆき)

望月美幸(もちづき・みゆき)


建築家


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望月美幸建築設計事務所

自由に発想できるものづくりの仕事がしたい

©小林浩志

 小さい頃を振り返ってみると、昔から家が好きだったように思います。私の世代は、やはり「リカちゃんハウス」に始まるんですが、着せ替えよりハウスのディテールに興味がありました。学校でも図工、なかでも工作が大好きで、紙を切って、のりで貼り付けながら、思い描いた形を組み立てたのを覚えています。
建築の道を進むことになったのは、高校で進路を選ぶとき、建築学科を受験しようと思ったことに始まります。建築学科というのは、いわゆる「つぶし」がきかないんです。他の工学系の学科と違って、建築以外に進める道がない。
 建築家という職業に対して、自分なりの実感が伴うようになったのは、大学3年生のとき。建築家の新居千秋先生の授業があって、都市計画のようなランドスケープから、水道の蛇口やドアノブまで、すべてを考えるのが建築家の役割だということを初めて知りました。建物ができるまでに、建築家がこれほど多くのことを考えるということ自体、衝撃的でした。毎週課題が出されるのですが、全然ほめない先生で、プレゼは酷評を覚悟しなければならない。それが教え方なんですね。私も酷評され続けました。ですから稀に褒められると、ものすごく嬉しい。
 私は模型や図面をキッチリ、キレイにまとめて仕上げてくことは苦手で、大学1~2年生のときは本当に落ちこぼれだったんです。3年生になって自由に発想できる場が与えられ、新居先生に認められる部分もあったおかげで、自信がもてるようになりました。「私も先生のようにものづくりに携わる人間になりたい」と真剣に考えるようになりました。20歳のときです。

挫折の時代を経て辿り着いた住宅建築の道

 大学卒業後は名古屋にある設計事務所に就職しました。スタッフは70~80人ぐらい。設計事務所としては大きいほうで、組織の一員として与えられた仕事を卒なくこなす日々でした。肉体的にはハードでしたが、今にして思うと、建築の本質的な部分――いろんな材料を使い、地面の上にどうやって建物を建てるかということが、よくわからないまま仕事をしていました。
 その事務所に4年間勤務した後、実は一度、建築の世界から離れています。建築の道を諦めたわけではありません。理由ははっきり言えないのですが、まあいろんなことがありまして、人生を一度リセットすることになったんです。会社も辞めて、名古屋から静岡の実家に戻って、その後東京に引越して……。とにかく何をやってもうまくいかない。就職先は見つからないし、東京では有名なアトリエ事務所を半年でクビになったり……。
 建築事務所には大きく2つのタイプがあるんです。名古屋で勤務していたような組織事務所に対し、建築家の先生を中心とするのがアトリエ事務所です。アトリエ事務所では、先生が「シロ」と言えば「シロ」、「クロ」と言えば「クロ」。スタッフ全員が、先生の思想や理念に基づいて設計を行います。組織事務所の頃は、上司に言われた仕事を卒なくこなし、大きな失敗もなく、むしろ「よくやっている」と言われるほどだったのに、アトリエ事務所では「使えない人材」になり下がってしまった。頭の中では違いを理解していたつもりでしたが、以前のやり方がどうしても抜け切らなくて、最終的には「辞めてくれ」と言われました。大きな挫折でしたね。
 東京で1人で食べていかなければなりませんでしたから、いろんなアルバイトをしました。不動産屋の受付けをしていたこともありますし、チャイナドレスを着て、新橋の中華料理店で配膳をしていたこともあります。
 アトリエ事務所をクビになって2年くらいたった頃、住宅の建築家として知られている川口通正先生の事務所の求人を見つけました。履歴書と一緒に、川口先生にあてて手紙を書きました。中華料理店でバイトをしていて、ずっと不毛な時代が続いていること、アトリエ事務所をクビになったこと、何とかして建築の道に戻りたいと思っていること……。とにかく、そのときの自分を、何の偽りもなく書いて送ったんですね。普通、そんな人を雇わないだろうと思うのですが、なぜか拾っていただいて、そこからはもうガムシャラに働きました。

建築家としてどこまで美意識を表現できるか

 誰しも順風満帆で自分の道を歩み通せるものではないと思うんです。私の場合、いちばんの危機は30歳前後。公私ともども、何をやっても歯車が合わない、軌道に乗ることができずに、もがき苦しんでいていました。ですから、「川口先生に拾ってもらった」という気持ちが、いまだにものすごくあります。
 でも、「先生のために」というのは辛いんですよ。私もそうですが、建築を志す人は「自分で発想したい人種」だと思うんですよね。クビになったアトリエ事務所では、「先生のために」に対する辛さや反発が、自分が思っている以上に外に表れてしまった。「今度こそは辛くても学ぶことはたくさんあると肝に銘じて我慢しよう」と決意しました。
 川口通正建築研究所には、当時、スタッフが5人ぐらい。なかには長年、先生の右腕のように苦楽を共にしてきたスタッフもいました。スタッフと先生の関係性は、ものすごく密です。一緒にいる時間も長いですし、文字通り「愛憎相半ばする」関係性です。掃除の仕方から注意されますし、私生活についてもこと細かく言われます。
 でも、よく考えれば当然なんですね。川口先生は住宅作家です。「日常生活に住宅観が表れる」と、いつもおっしゃっていましたから、おいしいお菓子ひとつとっても、先生はとことん追求します。美しいもの、おいしいものなど、自分が気持ちよく生活できるためには労を惜しまないし、欲しいものを手に入れるまではしつこく諦めません。そういう「こだわり」は、「美しいもの」へとつながるのだと思います。「設計やってるくせに、君は大雑把なんだよ。ツメが甘い」と、私はよく叱られました。
 誤解を恐れず言ってしまうと、建築界の第一線で活躍している人というのは、人間としてどこかおかしい部分が必要です。自分の美意識を追求するために、図面上のムダな線を最後の1本まで消していく努力というのは、人間関係うまくやってこうとか、こんなことしたら職人さん困るかなとか、コストは大丈夫だろうかとか、そういう一切の「瑣末なこと」をすっ飛ばしてしまうことに他ならないわけです。
 建築というのは、最終的にお金を出す施主を中心に、建築家、実際に建物を建てる施工者、現場監督、さまざまな業者さんと、お金が絡んだ多くの人たちの関係性のもとに動くプロジェクトです。そういうなかで自分の思想やアイディアを貫くのは、ものすごいプレッシャーです。プレッシャーに押し潰されるようでは、心に思い描く究極の美は完成させられません。普通の社会感覚では難しいですよね。私は川口先生の事務所で、そのあたりに自分の限界を感じました。

独立を機に心に誓った現場から学ぶ姿勢

©小林浩志

 独立したいと思うようになった頃の自分は、凛とした美しさを求める川口先生の世界に、アレルギーを起こしていたのだと思います。先生の世界にどっぷり浸かった結果、「住宅はどうして美しくなきゃいけないの?」と自問するようになりました。「住宅はもっと大らかな『器』であってもいいんじゃないか」という思いが頭をもたげてきて、「先生とは違う道を歩みたい」という気持ちが強まっていきました。「先生が追求していたのは、そんな程度の様式美でない」ということは、その後、自分が成長していく過程で気付いていくのですが、独立を考え始めた時点ではアレルギーが限界にきていたんですね。拾っていただいた恩義はずっと感じていましたし、住宅作家として私の基礎を築いてくださったのは間違いなく川口先生ですが、結局、私はこらえ性がなかったんでしょうね。
 2000年、兄が自分の家を建てることになったのを機に、独立することにしました。でも「きれいに辞めたい」と思っていましたので、先生の理解を得ることが先決でした。先生の説得に半年ぐらいかかりました。私は人と争うのが臆病なので、辞めた後も先生との関係は途絶えないようにしたかった。「きれいな辞め方」にもいろいろあって、一概に言えるものではないと思うんですけれど、私の場合、半年間ズルズルしたのが良かったのだと思います。川口事務所にいたのは2年間と短かったのですが、先生からは今もときどき連絡をいただいています。
 兄の家の設計は、川口事務所の仕事をしながら短期間で仕上げました。しかし、アイディアの詰め込み過ぎで、予算の2倍の家が出来上がってしまって……。経験がないので「こうしたい、ああしたい」という夢ばかりが先走って、肝心なコストパフォーマンスを全く考慮していなかったんです。プランの核の部分だけを残し、全部やり直しました。兄は不審がって「本当にできるの?」って。そりゃそうですよね。「大丈夫、大丈夫」と必死で言い訳しながら、半ベソ状態で図面を描き直しました。独立宣言していましたから、誰かに頼るわけにもいかない。
 経験がない代わりに、現場には本当に足しげく通いました。川口事務所を辞めて、東京から静岡に戻っていたので、静岡から千葉の現場まで、週に2回は通っていました。経験のなさをカバーするには、丁寧に全力でやるしかないんです。
 独立を機に、心に誓ったことの1つに「絶対に知ったかぶりはしない」ということがあります。事務所のスタッフ時代は、施主さんの手前、現場ではハッタリで通して、後で一生懸命調べるっていうこともありましたけれど、自分がトップでそれをやってしまうと、ちょっとのズレが思わぬ結果をもたらすおそれがあります。ちょっとでもわからないことがあると、今でも「それどういう意味?」と聞くようにしています。  2001年7月に、兄の家が完成しました。自分にとって初めての作品ですから、やはり思い出深いですね。コンセプトとして意識したのは、無垢の板や塗り壁などの自然素材です。ビルや公共建築と違って、住宅は住む人がメンテナンスしやすいこと、経年変化が味わいになる材料を選ぶことを重視しました。

細かなヒアリングの集積が「用の美」を生む

©小林浩志

 私は建築家のいちばんの責任を、「施主さんの財産を預かる」ことだと考えています。家電とか家具と違って、住宅は気に入らなかったとき買い替えればいいという代物ではありません。「一生に一度のマイホーム」と言われるとおり、長期間のローンを組んで建てるわけですから、建築家はその責任を負っています。作品性という側面で自分の意図がかなえられたとしても、お客様の満足しなければ意味がないというのが私の考え方です。
 もちろん設計の段階でせめぎ合いが生じることはあります。「こうすれば美しいけど、施工面では難しいし、お金もかかる」というとき、場合によってはお客様を説得しますが、作品性や美しさに優先順位をつけることは滅多にありません。見方によっては、そこに建築作品としての「甘さ」が出るのかもしれませんが、あくまで「お客様の財産を背負っている」という責任のほうが強い。結局、建築家として「どこで勝負するか」という問題につながるのだと思います。
 住宅の建築では、お金を払う人が同じテーブルにつくわけですから、喜びも怒りもダイレクトです。仕事を依頼されてから、1年半~2年という長期間、お客様との付き合いが続きます。その間に価値観が共有でき、信頼関係を築いていけることもあれば、なかなかかみ合わないこともあります。相性というのは本当に難しい。共有できる価値観のレベルが高いほど、作品性を高めていくこともできますが、ある程度ズレを感じながらも、施主さんの満足度を高めていかなければならないこともあります。
 依頼をいただくと、まず要望書を書いていただきます。何時に起きて、団らんはどうしているかなど、現在のライフスタイルを克明に書いてもらい、同時に今後どうしたいかを聞きます。要望書をもとに、建築家の立場から1度レクチャーをさせてもらった後、さらに細かくヒアリングをします。
 例えば、旦那さんはいつもどうやって髭そりをしているのか――洗面器にお湯をためて剃るのか、電気カミソリを使うのか、場所は洗面所かお風呂場か――それによって洗面所の機能や小物を置くスペース、光の取り方が違ってきます。細かいことですが、毎日のことですから、微に入り細に入りヒアリングして実態をつかみます。現状に満足しているとは限らないので、「本当はどうしたいですか」というところまで聞く必要があります。
 キッチンの使い方にしても、食事や料理の習慣はもとより、ゴミの扱い方1つとっても家庭ごとにスタンダードが異なります。生ゴミはどこに置きたいか、どのくらいの頻度で外に出したいか。室内の決まった場所に置きたい人、必ず外に出したい人……本当に千差万別です。
 そういう細かな1つひとつに対応していくことが、日常生活を快適にする「用の美」につながっていくんですね。住宅は日常生活の「器」です。家の形そのものの美しさも大切ですが、日々の生活をどう美しく豊かに過ごすかという「用の美」の追求も、重要な要素だと思います。

母親や妻である以前に建築家というのが悩み?

©小林浩志

 私には4歳の1人息子がいます。子供ができて、とにかく1日がめまぐるしいので、「家事をいかに簡単にすますか」「手を抜けるようにするか」ということが、家づくりの視点に新たに加わりました。子供ができると、なかなか美しく住まえないんです。保育園の献立表を冷蔵庫に貼らなきゃいけないとか(笑)。子供ができるまでは「どうして皆ここに貼っちゃうんだろう」と、内心思っていたんです。でも他に貼るところがない、貼らざるを得ないことがわかって、最近は専用のピンナップボードを台所に作るようになりました。そのほうが美しいですよね。些細なことなんですが。
 子供は大きくなって、いずれ巣立っていく存在です。施主さんのお子さんが小学生、中学生、高校生……と成長していく過程で、この家族はどう変化していくのか、家族としていちばん密な時期を過ごす「器」としての住まいはどうあるべきか。自分に息子ができて、そういうことをそれまで以上に意識するようになりました。「住む人とともに成長する住まいを」と謳いながら、冷蔵庫に貼った献立表ひとつとっても、実感が伴っていなかったわけですから……。子供ができると捨てられないものが増えます。普段使うものをいかに収納するかも、よりリアルに考えられるようになりました。その辺は、お客様に対して説得力のある話ができるようになったと思っています。
 でも、母親としての視点が作品全般に大きく影響しているかというと、そうでもないんです。「子供がいなかったら現在の作品は生まれなかったか」というと、そういうことはないんですよね。仕事をしているときも、完全に仕事に集中しているので、子供のことは忘れています。そこが「自分は母親として大丈夫だろうか」と考える、小さな悩みです。主人にもその辺は見抜かれていて、「君は仕事が一番だよね」とよく嫌味を言われます(笑)。
 主人は子育てにはものすごく協力的で、私の仕事に対する理解も深いのですが、信条的には亭主関白です。「社会の単位は家族で、社会が平和であるためには、女性が家庭にいて亭主をサポートするのが理想」という考え方なんです。私と結婚してしまったことで、人生の試練を味わっているんじゃないでしょうか(笑)。協力的であるぶん、仕事に対して厳しいことも言われます。でも窮地に追いやられたとき、いちばん頼りになるのはやはり主人ですね。

建築は自分らしさを表現できる社会的な役割

©小林浩志

 仕事は一生涯をとおしてコンスタントに続けていきたいです。「コンスタントに」というのが難しいわけですが、そのためには自分なりの特色を出していく必要がありますよね。どこか懐かしい「昭和っぽさ」が私らしさだと思っていますが、同じことの繰り返しではなくて、毎回、自分らしさの中に新しさを表現していくことが課題です。「今の時代」ということも視野に入れていきたい。
 30代までは、自分の可能性を無限のように感じていて、やみくもに模索していたわけですけれど、40代になると自分に与えられた役割とか、自分らしさを意識するようになりましたね。それを後ろ向きに言えば、自分の才能や可能性の限界を知ったということなのかもしれませんが、どっちに進んでいいか、もがき苦しんでいたことを思うと、社会の中に自分らしさを表現できる役割があるということは、この上ないことだと思っています。

取材日:2010.11



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1991株式会社伊藤建築設計事務所 入社
1998川口通正建築研究所 入社
2001一級建築士事務所望月美幸建築事務所 設立
2007「静岡県住まいの文化賞」最優秀賞(静岡県知事賞)受賞

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