時代の流れとともに姿を消しつつある綿織物
遠州縞(えんしゅうじま)が織られはじめたのは江戸時代の中頃。浜松の藩主だった井上河内守正春というお殿様が、武士の妻や娘に機織り技術を奨励し、産地振興に力を入れたのが始まりだといわれています。日照時間が長い遠州地方は、良質の綿がとれるんですね。それで全国に先駆けて機織りが盛んな地域になりました。やがて機織りは農家の主婦の副業として盛んになり、モンペや野良着、半てんといった庶民の普段着のほか、布団なんかにも遠州木綿が使われるようになりました。女性たちは自分が織った生地を市場で売ったり、東北地方まで行商に行っていたという記録もあります。その名残で、遠州縞の伝統的な紺系の縞柄は、今も東北地方で売られています。
私も子供の頃、隣の人が木綿の反物を織っているのを見たことがあります。もう50年以上前ですね。「チャンカラ」という手織りの織機で、白っぽい縞柄を織っていました。子供ですから興味本位で「面白いなあ」と見ていたんです。赤い糸巻きがあって「それも入れてよ」と言うと、「あいよ」なんてリクエストにこたえてくれました。
私のひいおじいさんが茶系の渋い縞柄の着物姿で、ニワトリにエサをやっていたのも覚えていますし、母も絣や縞のモンペはいていました。そういうふうに、昔は生活の中に遠州縞が存在していたんです。
それが、化学繊維の登場や中国から格安の綿製品が輸入されるようになったこと、洋服が主流のライフスタイルに変わり和服を着る機会が極端に少なくなったことなど、時代の流れで遠州木縞は次第に必要とされなくなっていくわけです。
問屋の倉庫で見た縞柄の洪水に衝撃を受けて
私は短大を卒業して、静岡県浜松繊維工業試験場に就職し、テキスタイルや縫製のデザインを担当していました。仕事柄、地元の問屋を回ることも多かったのですが、あるとき問屋さんの倉庫で、ものすごい量の遠州縞の反物がうず高く積み上げられているのが目に入ったんです。赤、緑、紫、紺、茶……ありとあらゆる色の縞の洪水を前に「これはいったい何?!」と思いました。とにかく大胆で自由奔放なデザインが溢れているわけです。洋服では下品になってしまうような色柄でも、着物の感覚だと「アリ」なんですね。しかもその量がものすごい。床から天井までびっしりだったんです。
それが、確か私が27~8歳ぐらいのとき、70年代の中頃だと思います。当時は大量生産の安物として、こうした木綿の反物が売れに売れまくっていた時代。ビックリしている私を見て問屋の人は「そんなの安い安い」って言うわけです。要するに、たいした物じゃないという意味ですね。当時の注文の仕方も「赤系統の縞を20反」「青系統の格子柄を20反」という感じで、「柄なんて何でもいい」という扱われ方でした。
遠州縞の生産量は70年代をピークに下降の一途ですから、今まさに衰退しようとしているという状況だったわけですね。こんなに魅力的なものがなくなってしまうのはあまりにも惜しい。「何とかしなきゃ」と思いました。以来、私はずっと遠州縞に魅了されて現在に至っています。気がつけば、もう40年ぐらいになりますね。
実はそんな出来事がある以前、遠州縞の歴史に詳しい鈴木正一さんという浜松の織元さんに、貴重なコレクションを見せていただいたことがあったんです。布団に使われていた明治時代の縞は、縫い目の部分を指でそっと開いてみると、日焼けして色あせた表とは違う、織られた当時の鮮やかな色が出てくるわけです。ピンクでしたから、多分ベニバナとかスオウで染めた色でしょうね。
鈴木さんは、そういう古い縞を自分の織物に活かしている織元さんなんです。非常に研究熱心でいらして、どうしてこういう色や柄に至ったのかということを、きちんと考えていらっしゃる。そういう鈴木さんのものづくりの姿勢に感銘を受けましたし、自分もそうありたいと触発されました。
一生続けていくために選んだデザインの仕事
私はもともと布が好きで、短大でも沖縄の紅型を専攻しました。好きなことじゃないと仕事として一生続かないと思っていましたから、繊維工業試験場のデザイン室という職場にめぐり会ったのは幸運でしたね。この40年間、ずっと布とともに生きてきたんです。
女性も仕事をもって経済的に自立する必要があると思うようになったのは、小学校のとき。かなり早かったんですね。というのは、両親が離婚して、泣いている母の姿を前に「自分が何とかしてあげたい」と子供心に思ったんですね。母は「女性は結婚がいちばん」という考え方でしたが、学校の先生から「お前はもっと〇〇をやってみたらいい」「〇〇という可能性もある」と励まされまして、最終的にデザインの道を選びました。
ちょっと余談になりますけれど、女性が経済的な自立をベースに人生プランを立てていくことは本当に重要だと思います。女性は結婚や出産のたびに、どうしても人生設計の変更を余儀なくされますから、早い段階から真剣に「経済的に自立するにはどうしたらいいか」を考える必要があると思うんです。それには本人の意識や努力だけでなく、親や先生の役割も大きいでしょうね。
職場では仕事以外に研究テーマというのを皆もっていて、私は遠州縞を使った商品開発やユニバーサルファッションをテーマにしました。照明器具やクッションなど、小物やインテリアに遠州木綿を活用する研究に取り組んだこともあって商品化もしました。
遠州縞をなくさないためのボランティア活動
今から10年ぐらい前、私のような布好きが集まるクラブがあって、そこで遠州縞を見せる機会がありました。すると「地元にこんな木綿があるなんて知らなかった」と、皆が感激してくれるわけです。「このままだとなくなってしまうかもしれない」――そんな話をしているうちに「じゃあ何かやろう」ということになった。それが「遠州縞プロジェクト」の始まりです。
最初のメンバーは女性4人。皆、浜松の人です。まずは図書館に行って、遠州縞の歴史を調べたり、プロジェクトの計画を立てたり。やがてITに強い人やコンサルタント的な人など男性メンバーが加わって、「遠州縞プロジェクト」のホームページを立ち上げました。
2006年に定年退職したのを機に、本格的な活動をスタートさせました。現在、メンバーは9人。賛助会というのを作って、デザイナーにも参加してもらっています。活動はすべて手弁当のボランティアです。私は退職したとき、これまでいろんな方々にお世話になった恩返しとして、今後10年はボランティアを一生懸命やろうと決めました。「遠州縞プロジェクト」もその1つです。
プロジェクトのいちばんの目的は、やはり遠州木綿をなくさないということ、継続させること。織り屋さんが織り続けられるためには、たくさんの人に知ってもらい、好きになってもらい、買ってもらわなければなりません。私たちが最初に目指したのは、静岡県や浜松市など、地元での認知度アップです。メンバーで作戦を練りまして、2007年に「グッドデザインしずおか大賞」を受賞、「浜松やらまいか商品」の認定、「はままつビジネスプランコンテスト」でも賞をいただきました。
プロモーション活動とともに、販売の機会を増やす必要もあります。首都圏や県内を中心に百貨店のイベントに出店したり、昨年からは年に4回、浜松で「ぬくもり市」というのを開いています。「ぬくもり市」では、織屋さんに卸してもらった商品を販売しているんですが、おかげさまで静岡各地からいらっしゃるお客さんが随分増えました。売上げも結構上がっています。
私たちが目指しているのは、自分たちの営利の追求ではなく、あくまで文化活動なんです。金沢へ行けば加賀友禅、久留米へ行けば久留米絣、徳島へ行けば阿波しじら……とふうに、産地の人が誰でも知ってるような名前にしたい。遠州浜松と言えば遠州縞――というふうに。
最近は縞柄を着ていると、知らない方から「あ、遠州縞ね」と言われることがあります。活動を始めた頃と比べると、認知度は随分上がりましたね。「ぬくもり市」に商品をお願いしている織屋さんも「何とか続けていけそうだ」と言うようになりました。最初は「こんなもの、売れるわけないじゃない」という冷ややかな雰囲気も業界内にはあったんです。でも勉強会や見学会を開いたり、賞をいただいたりするうちに、遠州縞を取り巻く空気が変わってきました。インターネットで消費者向けに直接発信して、評価を得るようになったのも良かったと思います。
仕事を辞めても「好きなこと」だからできる
70歳になるまでは、徹底的にボランティアをしようと思っています。1つの目的に向かって仲間どうしが励ましあったりして、楽しんでやることがボランティアだと思うんですね。恩返しという気持ちもありますけれど、遠州縞については「やり残した仕事」のような気がするんです。もちろん仕事ではないので、自由にやれる解放感はあります。こんなふうにプロジェクトが組めて、他の人たちの知恵も借りることができるのは、とてもラッキーだと思うんですよ。1人じゃ何もできませんからね。
現役時代は縫製もやっていましたから、「ぬくもり市」で使う商品を縫ったり、試作したりするのは私の役目です。私はそういうことが全然苦にならないんです。むしろ自分の作業場で何か縫っていると、心が晴れてスッキリします。リハビリみたいなものです(笑)。仕事を辞めた今でも、「好きなこと」が楽しく活かせるのはありがたいと思いますね。
もっともボランティアでも仕事でも、面倒くさい役割を受けもつのは自分の一種の特技のようなものなんです。どんな課題であっても、「引き受けたからには周囲の期待以上のものに仕上げたい」「そうできるはずだ」と自分に言い聞かせるんです。「何とかしなきゃ」と、必死で頑張ってみる。
プロジェクトは今後、「なくさない」という段階からひとつグレードを上げて、「販売量アップ」を大きな目標にしています。海外も含めていろんな方法を考えてかなくちゃいけません。海外進出にはお金がかかることが悩みどころですね。
70歳になってボランティアは辞めた後は、趣味で生きようと思ってます。水泳とピアノが好きなんです。その後は死ぬまでに、ここにある遠州縞を全部プロジェクトに役立つ形にして、最後は風呂敷包み1個になりたい。これまでワーっと膨らましてきた自分の生活を縮小させていくことは、既にこれからのテーマですね。死ぬ準備です。枕元に遠州縞の風呂敷包みを1つ置いて、「ピンピンコロリ」の最期を迎えたいと思っています。
取材日:2010.11