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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

50歳で公務員を退職。知的障害の次女に導かれて、
「 こころのユニバーサルデザイン」を目指す。

長田治義(おさだ・はるよし)

長田治義(おさだ・はるよし)


浜松市市民協働センター センター長
特定非営利活動法人 魅惑的倶楽部 副理事


- WEBサイト -

浜松市市民協働センター
NPO法人 魅惑的倶楽部(エキゾチッククラブ)

定年を待たずに市役所を辞めた3つの理由

 私は50歳になったとき、それまで32年間、勤務していた浜松市役所を退職して、NPOなどの市民活動に専念しようと決意しました。定年前に経済的には安定している公務員の仕事を辞めた理由は3つあります。
 1つ目は、現在の行政のあり方に耐えられなくなったからです。事業仕分けにしても、「少数」を切り捨てていきますよね。そういう姿勢が我慢できなくなりまして、妻に相談しましたら、「30年以上も家族のために、ありがとう」と。「これからは自分の心にかなうことをしたら?」。そう言ってくれたことが、2つ目の理由。妻に背中を押されたわけです。
 確かに、周囲を見渡してみても、勤め人として一生懸命に働いてきて、気が付けば心を病んだり、身体を壊したりという同級生もいます。自分だっていくつまで、今のように元気でいられるかわかりません。50歳になったことだし、そろそろ自分がしたいことのために生きてもいいのかなと。
 それで以前から仕事と並行して行ってきた、NPO法人魅惑的倶楽部(エキゾチッククラブ)の活動や、エイズ予防キャンペーンなどの講演活動に注力することにしました。それが3つ目の理由です。
 ところが、妙なもので、なかば反旗を翻して退職した市役所から、「今度、まちづくりセンターを市民協働センターに改め、市民団体の支援に力を入れていきたいので協力してほしい」という依頼があったんです。他のNPOの関係者たちからも、「是非、長田さんがセンター長を務めてほしい」と、嬉しいエールをいただきましてね。
 市民協働については、既にいろんな経験を積んできましたし、両方の内情もよくわかっています。指定管理を、地元以外の団体や業者に任せることは、どうしても阻止したかった。
 それで2010年から、魅惑的倶楽部が浜松市市民協働センターの指定管理団体となり、私がセンター長を務めています。

「1,000人も3人も同じ」が行政の仕事の原則

 私が公務員になったのは、高校時代のボランティアがきっかけでした。浜松市子ども会連合会に付随する「子ども会リーダースクラブ輪っ子の会」という団体に加入し、児童会館などで、小学生と遊ぶボランティア活動に参加しました。女の子の友達に誘われて、高校生男子にありがちな不純な動機で参加したんです(笑)。
 知的障害者の子供たちのキャンプを手伝ったこともありました。なかば仕方なく、高校最後の貴重な夏休みを返上して、子供たちを喜ばせようと、無我夢中で頑張りましたね。
 そしたらあるとき、浜松市の児童会館の館長さんから呼び出されまして、見知らぬおじさんに引き合わされました。「市役所の職員になりたいと思ったことはないか?」と聞かれたんです。どうやらボランティアをしたとき、市の職員さんたちが、私の仕事ぶりを評価してくれたらしい。後で「あの人、誰?」と、こっそり聞いたら、「市の教育長だよ」と怒られましてね。
 本当は、クルマのデザインをする仕事に憧れていたんです。でも「受けるだけ受けてみて」と言われ、とりあえず受験したら、どういうわけか30倍ほどの試験に通ってしまいました。親も喜ぶし、「ま、いいか」と公務員になりました。
 そのときの教育長さんは、もうお亡くなりになられましたが、浜松西校の校長先生も務められた相佐明一氏です。相佐氏が、新米公務員だった私にたむけてくださった言葉は、その後ずっと、自分のポリシーになっています。
「今、身体の冷えた人と、一緒にお風呂に入っていると想像してごらん。まだお湯はぬるい。今やっと薪をくべて、温かいお湯が少しずつ沸いてきている。そのお湯を自分にではなく、周囲の人たちに送り続けるのが、市の職員の仕事なんだよ。送り続けているうちに、自分も足元から温かくなってくることに、きっと気付くはず」
 もうひとつ、やはり相佐さんの言葉で「1,000人の市民が喜ぶことも、3人の市民が喜ぶことも、どちらも同じ気持ちで取り組まなければいけないのが、行政の仕事」というのも、退職まで、ずっと肝に銘じてきたことです。
 新卒の私が配属されたのは、児童会館でした。あるとき「カブトムシの成長」という教育映画の上映会に、観客がたった3人しかいないのを見て、相佐さんはそうおっしゃった。その3人というのは親子で、懐中電灯で手元を照らしながら、一生懸命メモを取っていたんです。
 お客さんが3人というのは、商業的に見れば大失敗でしょう。でも、この親子にとって、映画は忘れがたいものになったはずです。「なるほど」と思いましたね。

周囲が変われば弱者も少数派も対等になれる

 10代の頃に授かった2つのポリシーは、市役所を辞めた今も、私の仕事に対する基本姿勢になっています。むしろ公務員でなくなったおかげで、行政の縦割りや立場的な縛りから解放され、よりシンプルに、信念が貫けるようになったかもしれません。
 行政のあり方が変わったのは、時代の流れもあるでしょうね。行政ができることに限界があるからこそ、それを補完する、もしくは行政サービスに代わる「新しい公共」としてのNPOや市民活動が求められているという言い方もできます。
「3人も1,000人も同じように」という姿勢は、浜松市市民協働センターの指定管理者として、大きなNPOにも小さな任意団体にも、同じように対応するという姿勢につながっています。さらに、そういう姿勢は、ちょっと飛躍するかもしれませんけれど、男女共同参画の考え方にも通じるものじゃないでしょうか。
 例えば、男性はどうひっくり返っても、赤ちゃんに母乳をあげることはできません。日本ではかつて「母乳が出る母親が家にいて子育てをすればいい」と、上から目線で、男性が女性の役割を決めつけていました。
 しかしそうではなく、「おっぱいをあげるのは君にしかできない仕事。ありがとうね」と、男性が感謝の気持ちとリスペクトをもって、女性たちに接すれば、両者の生物学的な「条件」は違っても、人間として同じスタートライン、社会的に対等な立場に立つことができる。それが、本当の意味で、豊かで成熟した社会、私たちが目指すユニバーサルな社会のあり方です。
 障害者にしても、セクシャルマイノリティーにしても同様です。彼らが就職で苦労したり、社会的な居場所を見つけられなかったりしています。生物学的な「条件」のせいではなく、周囲の認識の仕方の問題。いわゆるマイノリティと呼ばれる人たちが、大多数の人たちと、社会的に同レベルの成果を上げるためには、何倍もの苦労と努力を強いられています。
 そういう現状を何とか変えていきたい。社会をユニバーサル化するには、まず人々の考え方を変える必要があります。さまざまな活動をとおし、魅惑的倶楽部が目指しているのは、「こころのユニバーサルデザイン」です。

妻に代わって最初に授乳したことが父娘の絆に

 私がこういう考え方をもつに至った、いちばん根底の部分には、障害のある娘をもったことが大きいです。次女は未熟児でした。生まれた瞬間、第一声目の産声を上げた直後に、呼吸が止まってしまったんです。5分後には蘇生しましたが、呼吸が止まっていた間に、脳細胞が死んでしまい、知的障害が出ました。聴覚障害もあります。
 難産だったので、妻は出産直後の数日間、記憶喪失になってしまいました。子どもを産んだことも、そもそも自分がなぜ婦人科にいるのかということも、わからなくなってしまった。
 そのとき、長女が生まれたときには経験しなかったスイッチ――「父親として、自分が頑張らなきゃいけない」というスイッチが入ったんですね。
 担当医から次女は、「3日生きるかどうか」と言われました。保育器の次女に向かって「絶対生きてくれよ、お父さんが絶対お前を幸せにしてあげるから、どうか死なないでくれ」。文字どおり祈るような気持ちでした。
 産後、妻が入院している間は、家事と長女の世話をしながら、仕事に行きました。次女には、免疫力をつけるために、母乳を飲ませたほうがいいということで、母乳を搾る機器を買い、私が運び役となり、妻と次女の病院の間を行き来したんです。2週間ほどでしたが、長く感じましたね。
 毎朝、母乳を届けに来る父親は、私だけだったらしく、看護師さんが顔を覚えてくれました。ある朝、7時半の面会時間を過ぎて届けに行ったら、看護師さんがおいでおいでと手招きするんです。「誰もいないから」と、こっそり内緒で娘に母乳をあげさせてくれました。
 白衣とマスクと手袋をして、やせこけた娘を、保育器からおそるおそる抱き上げ、口元に哺乳瓶をあてると、娘はすぐに吸いついてきました。その瞬間、看護師さんたちが歓声を上げたんです。「この1週間、私たちが入れ替わり立ち替わりミルクをあげてみたけど、全然飲まなかったんですよ。お子さんは、あなたがお父さんだって、ちゃんとわかっているんです」
 もう涙が止まりませんでしたね。私は、妻より先に、次女に授乳したわけです。彼女が今、誰よりも私を慕っているのは、そういうこともあるのかもしれません。最初に自分のおっぱいをあげるという行為は、その後の人生に、ものすごく影響を与えるような気がして仕方ありません。

夫婦ともに乗り越えた「一難去ってまた一難」


 次女は今年24歳になります。今振り返ると、仕事でも、NPOなどの活動でも、家庭や子育てのことでも、私が目の前の目標を1つ達成するたびに、彼女の障害が少しずつ、本当にほーんの少ーしずつですけれど、軽くなっていったような……そんな気がします。
 例えば、娘は生まれてしばらく、咀嚼することができませんでした。口から胃袋へ管を通し、寝たきりの高齢者用に開発された特殊なミルクや流動食を、直接流し込んでいたんです。
 当時はとにかく、身体を成長させることに必死でした。というのも、医師からは、歩くことも、自分の口で食事をとることも、無理かもしれないと言われていたんです。未熟児でしたから身体も弱くて、生まれたときから入退院の繰り返しでした。未熟児センターから退院したと思ったら、そのまま小児病棟へ入院。そこからやっと退院したら、今度は肺炎で入院……。
 妻は、長女のためにも「2度と入院させたくない」と、ある時期まで、毎晩、次女を抱きかかえて寝ていました。僕には、とても真似のできないことだなと思いましたね。
 3歳でやっと歩けるようになり、5歳のとき、嬉しいことに笑顔で反応できるようになりました。
 けれど、生まれつき鼻の気道が確保されていなかったため、鼻の手術を2回行わなければなりませんでした。手術そのものは可哀想でしたが、手術のおかげで、呼吸がとても楽になり、その後は、妻が抱きかかえなくても、ちゃんと眠れるようになりました。
 しかし、一難去ってまた一難。今度は、生理が異常に早く来る可能性があることが判明し、適正な年齢で初潮が迎えられるよう、治療を開始しました。階段から落ちて、額を大きく切る怪我をしたこともありました。
 耳が聞こえないので、基本的に喋るのは困難ですが、私を呼ぶ「とーと」というフレーズを、何度も聞かせて練習させたんです。なかなか言えるようになりませんでしたが、中学生のとき、やっと「とーと」と言えるようになりました。

重度の知的障害が軽くなる「奇跡」を経験


 こういったすべての出来事をとおして、学んだのは、1人の人間の命が、どれほど大切なものかということ。妻も僕も、次女から教わったんです。3人の娘たちの命は、みんな等しく、私たち夫婦の宝物です。
 実は昨年、次女の障害が、軽度の方向にシフトしているという判定を受けました。障害としていちばん重いランクだったのですが、1つ軽くなったんです。障害が軽度になっていくということは、医学的にも、奇跡に近いことなんだそうです。
 次女は、字を読むことはできないのですが、ある一定の文字――自分や家族の名前に限って、判別できます。買物に行っても、お気に入りのシャンプーや入浴剤を、自分で選んだり、男物のTシャツを、陳列棚から選んで「これはとーとのだ」と言うこともあります。
 今はスープなどの汁物やカレーを、スプーンを使って、自分で食べられるようにもなりました。決して上手ではありませんし、こぼすことも多いのですけれど、とにかく自分で食べることができます。
 次女を育ててきた経験を、講演会などで、子育て中の若いお父さんお母さんに話すことがあります。祈りはかなう、願いは届くものだと思いますね。もちろん、なかには時間がかかることもあります。でも、親が諦めたら、子供の可能性の芽を摘んでしまうかもしれない。

娘が通う養護学校で始めた音楽による社会貢献

 魅惑的倶楽部の設立も、次女の存在と無関係ではありません。理事長の鈴木恵子氏と私ともう1人のメンバーで、1999年、娘が通う浜松養護学校のクリスマスコンサートを行ったのが、現在の活動につながっています。
 鈴木さんは、中学校時代の同級生から紹介された1人で、設立当時からの心強いパートナーです。魅惑的倶楽部を始める前の3年間、私以外は全員女性というメンバーで、コンサートやミュージカルなどの音楽イベントを企画し、自分たちで公演する活動をしていました。当時はちょうど浜松市で、生涯教育に力を入れていた頃。「男役がいないから協力してよ」と、なかば引きずり込まれる格好で、仕事が終わった後、特訓を受けながら練習に励みました。鈴木さんをはじめ、メンバーは音大を出たセミプロ級ぞろいで、イベントにはそれなりに反響もありました。
 でも3年間、一緒に活動してきて、最終的には「こんな活動は、結局、あなたたちの自己満足だ」と、今思えば大変失礼な捨てゼリフで、自分は辞めると宣言しました。そのとき、鈴木さんにこう言ったんです。「同じ音楽イベントでも、やりようによっては、もっと社会貢献できるはず」
 ちょうどその頃、私は浜松養護学校のPTA会長を務めていました。「校長先生にかけあうから、一緒にクリスマスコンサートをやろう」と提案したら、手を挙げたのが鈴木さんともう一人。10名中、協力してくれたのは、たった2人でした。
 知的障害をもつ子供たちは、音楽が大好きなんです。当日は私がサンタクロースの格好をして、鈴木さんと一緒に、ディズニーの「ホール・ニュー・ワールド」を歌いました。
 ところが、演奏の途中で突然、私の声以外、何も聞こえなくなって、「あれ?」と思って隣を見たら、鈴木さんが泣いているんです。ピアノの伴奏している彼女も、同じでした。子供たちが喜んでいるのを見て、感極まって、泣き出してしまった。

思春期講座やエイズ防止キャンペーンも展開

 魅惑的倶楽部の活動は、浜松養護学校で2カ月に1度、学校が休みの土曜日に、知的障害者の居場所づくりをすることからスタートしました。学校の週休2日制が始まった頃だったので、障害のある子供たちを地域で支える取り組みの一環として、学校や県の教育委員会などにも理解を求め、PTA活動の一環として始動したんです。
 毎回、魅惑的倶楽部のコンサートだけでは、知的障害者に対する人々の理解が広がらないので、そのうちゲストを呼ぼうということになりました。地元浜松の河合体操教室や浜松商業高校吹奏楽部のOBOGバンド、障害者たちの太鼓グループなどを招いて、交流を図ったわけです。
 養護学校以外に、老人ホームを回る活動もしました。お年寄りのリクエストにこたえて、学生服姿の私が懐メロを歌ったり……。既に40歳を超えていましたが、お年寄りたちからは「王子様」と呼ばれていました(笑)。
 何しろ最初はメンバーが3人。あれこれ手を尽くして、人の確保にも奔走しました。鈴木さんは元教師なので、教え子に声を掛けてもらい、1年で13人のメンバーが集まりました。
「魅惑的倶楽部」という命名ですが、実は深い意味はありません(笑)。80年代に流行った歌謡曲のタイトルから、思いつきでとった名前です。
 おかげさまで2002年、魅惑的倶楽部はNPO法人として認証されました。理事長は鈴木さん、私は副理事。NPOの活動をするにあたって、「男だから、女だから」というような差はとくにありません。しかし現場では、男女両方いることのメリットは大きいと思います。魅惑的倶楽部のメンバーは現在、約30人。そのうちコアメンバーは10人で、男女比は半々ぐらいです。
 魅惑的倶楽部は現在、障害のある子供たちや高齢者との交流活動、そうした交流の延長線上で誕生した環境活動、さらには、中高生の性の悩みにこたえたり、性感染症や避妊などに関する「思春期講座」、浜松オートでの「レッドリボンカップ」をはじめとするエイズ防止キャンペーンなどを行ったりしています。
 昨年11月から今年5月までは、浜松市内に「まちなか保健室」を開設しました。いじめや家庭内暴力(DV)といった中高生の心や身体の悩み、子育て中の若いお母さんの悩みなどに、学校の養護教諭や婦人科の医師がこたえるもので、期間中、全部で115人の相談者が訪れました。

障害のある娘の存在が人生を展開させてくれる

「思春期講座」も「レッドリボンカップ」も、実は市役所時代、私が担当した仕事に端を発しています。公務員は2~3年で異動があって、担当が変わると、それまで関わっていた仕事と全く無縁になるケースがほとんどです。
 しかし私の場合、関わり方が半端じゃないということもあるのでしょうが、昨日まで関わっていた仕事に、全く無関心になることはできませんでしたね。そういう意味でも、「自分は組織の人間じゃないよな」と、公務員の頃から感じていました。
 私にとっての仕事とは、単に給料をもらうという行為でないことは明らかです。気が付けば、昔から、仕事もプライベートもNPOやボランティア活動も、自分の中では同じように大切という生き方をしています。
「新しい公共」を担うNPOは、収益を上げるための活動をしてはいけないわけですけれど、一方でNPOに仕事を委託する行政は、経費削減という一義的な目的で、NPOをあてにしてはいけないと思いますね。
 浜松市民協働センターのセンター長として、地元のNPOや任意団体に盛んに言っているのは、「公共施設の指定管理の仕事を取りに行け」ということ。どんなに小さな委託事業でもいいから、民間企業相手に勝負するNPOが増えなければ、結局のところ、絵に描いただけの「市民協働」で終わってしまいます。
 市に対しても、NPOや任意団体に「補助金でなく、委託事業を」とお願いしています。どんなに高い志があっても、実績がなければ、NPOや任意団体にノウハウは生まれません。
 民間企業に対しては、CSR活動などをNPOに委託したり、NPOとのコラボレーションでやってみてはどうですかという提案をしています。行政と民間企業と市民活動、3者の連携を促進することが、センター長としての務めです。
 私が現在のような仕事をしているのは、そのときどきで会うべき人との出会いがあったおかげです。今年53歳になりますが、日々、いろんな出会いがあり、人生そのものが、まだまだ広がり続けているように感じます。
 こういう人生の展開を、根底の部分で操っているのは、実は次女なんじゃないかと、ときどき思うんですよね。彼女が生まれてこなかったら、全然違う人生を歩んでいただろうなと……。次女を支えているつもりで、導かれているのは、実は自分なのかもしれない。
 もちろん、本人はそんなことは言いませんよ。でも、先ほども言いましたが、私が自分のやるべきことを達成したとき、娘もまた不可能が可能であることを示してくれる。彼女が楽しそうに大笑いしているとき、いちばん幸せを感じます。

取材日:2011.6



静岡県藤枝市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

1975高校時代、「浜松市子ども会リーダースクラブ輪っ子の会」の活動に参加
1977浜松市役所 入庁
1989浜松市子ども会連合会指導要請委員会 副委員長
1990「静岡・未来・人づくり塾」に参加
1999「魅惑的倶楽部」設立 副会長に就任
2001静岡県立浜松養護学校 PTA会長
2002「特定非営利活動法人 魅惑的倶楽部」 設立 副理事長に就任
2008浜松市役所 退職
2010浜松市市民協働センター センター長就任
静岡県人権会議委員

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