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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

重荷だった兄の介護がいつしか癒しに。
自分の境遇に向き合ったとき、人生の指針が見えた。

浦山亜希(うらやま・あき)

浦山亜希(うらやま・あき)


ビジネスプロデューサー
A’s Corporation(アズ・コーポレーション) 代表



映画の夢を諦め、組織に反旗を翻して起業

 よく「職業は何ですか?」と聞かれるんです。起業するまでは会社で働きながら自主制作の映画を撮っていました。映画をつくるための資金調達と経験のためにテレビ局、ビジネス雑誌の編集部、FM放送局と、いろいろな仕事を経験してきました。でも去年12月1日に起業して「A’s Corporation」(アズ・コーポレーション)を立ち上げました。それを機に映画の夢は諦めました。
 うまく言えませんが要するに才能がないんですね。自主制作で2本つくってあちこちの映画祭に出品もしましたけれど、全く評価されなかった。全然賞がとれない。アメリカで2年間、映画の勉強をして、帰国してからも脚本家や映像作家に教わってきたのですが、少なくとも今の自分には「苦節何年」をするほどの才能がないんでしょうね。自分に才能があって運があれば、いつかまた撮れるチャンスがあるかもしれません。それは何十年後かもしれませんし、もしかしたらそういうチャンスはないかもしれない。でもそれでいいんです。とにかく私は常に上を目指していたい。昨日より今日、今日より明日、常に大きい人間になっていきたい。
 最後に務めていたFM局を辞めたのは、組織にいる限り自分は「1つのコマ」にすぎないと感じたからです。本来は「人は財産」であるはず。であれば、「1つのコマ」に甘んじているより、自分が経営者になって人を大切にする組織をつくろうと思ったんです。多くの企業が、経営が厳しくなると人件費をまずカットしようとします。でも人件費を削らなくても売上げは上げられるということを、自分の会社の実績として示していきたい。

お金をかけずに収益と成果を上げるプラニング

 お蔭さまで起業してからこの1年の間に、フリーペーパーや企業が発行する冊子、イベントの企画運営など、コンサルティングも含めて携わらせていただきました。単にデザインやコンテンツ制作を請け負うのではなく、そうしたツールを使っていかに収益を生むかということをプランニングしています。 例えば、「ある商品を売りたい」という相談をいただいたとします。新聞やテレビ、ラジオ、ネットで広報宣伝活動をするというのは今や当たり前の手法です。加えて現在の経済状況下では、そうした活動にお金を出せる企業ばかりではありませんから、お金をかけずに収益を上げる方法を提示するのが、私の役目です。
 自分にとって最大の強みは、静岡県内のほとんどの企業の経営者とつながりがあるということ。「静岡ビジネスレポート」に勤務していたとき、私の名刺には「取材記者」兼「営業」という2つの肩書きがあって、取材でいろいろお話を聞いたあと「ところで広告打ちませんか?」と広告営業もしていました(笑)。そうやって築いてきた人脈は今も健在で、連絡はずっとマメに取り続けています。相談や困りごとがあると聞けば、できる限りのサポートをさせていただく。それが仕事に結び付くこともあります。そうしたネットワーク力をベースに、ビジネスを展開させています。
 イベントは、「清水映画祭」や「あざれあメッセ2010」に関わらせていただきました。清水映画祭ではアシスタントプロデューサーとしてスポンサー集めに奔走しました。あざれあメッセのほうは、「若い人たちに来てもらいたい」という要望が最初にあって企画を依頼されました。実は私は、あざれあ交流会議(静岡県男女共同参画交流会議)の理事をさせていただいています。理事の中では最年少なので、「若い人のネットワークであざれあを盛り上げてほしい」と言われたんですね。確かに普段あざれあにいらっしゃる方は年配の方が多いですし、利用される方も固定化傾向にありました。
 それで、お年寄りから子供まで年齢も性別も家族構成もさまざまな人たち、さらに外国籍の方やハンディキャップのある人など、いろんな方々が楽しく遊べる場を提供できるイベントにしようと、地下1階から6階までフロアごとにテーマを決めました。特に宣伝したわけではないのですが、ふたを開けてみたら1日で2,000人の集客がありました。「あざれあメッセ」は今年で11回目ですが、これまでに比べても予想外に多い数でして、現場の対応がパンク状態になるほどでした。

障害者が働く喜びを実感できる商品開発を

 A’s Corporationの事業は、今お話ししましたようなコンサル的な業務が1つ。もう1つの大きな柱は、ハンディキャップのある人たちためのビジネスです。初年度は他の業務が忙しすぎて思うようにできなかったのですが、次年度から本格的に始動する予定です。
 今考えているのは、ハンディのある人たちが製造したオリジナル商品の企画開発と流通販売です。授産施設や福祉施設とも協力し合い、他にはないクオリティの高い商品を企画開発して、しっかりとした流通経路に乗せて国内で販売したい。そうすることで彼らの賃金アップを図るのが大きな目的です。
 ハンディのある人たちは特別支援学校などを卒業したあと、授産施設で生活指導を受けながら労働作業をして、収益が出ると配分金をもらいます。授産施設は現在、全国各地に約3500カ所、静岡県内に約220カ所ありますが、配分金としてもらえるのは1万円ぐらい。収益が出なければ支払われないこともあります。障害者年金があるので、多額の配分金は不要だと言われていますが、年金の支給額は年々減少傾向にあります。
 しかしそれ以前の問題として、働きたいという気持ちや、働くことで得られる喜びは、ハンディキャップの有無にかかわらず同じでしょうし、作業の量や質に見合った賃金が支払われるのは当然のことです。でも、現状で彼らができる仕事といえば、1個何銭にしかならない部品の組み立てです。本当に安い。そういう長い間ずっと変わらない状況を何とかしたいと思っています。
 授産施設のスタッフは福祉畑一筋でやってきた人ばかりですから、企業とのつながりなど、ビジネス界との接点はほとんどありません。そこでA’s Corporationが橋渡し役になって企業に協賛していただいたり、日本財団など他の組織とも連携して、質の高いオリジナル商品を開発するわけです。ハンディのある人たちにできる作業を検証する必要もあります。最終的には、「ハンディのある人が作った」ということを売りにしなくてもいいくらいクオリティの高い商品にしたい。

自分の夢と家族のはざまで悩んだ留学時代

 私の5つ違いの兄は、先天的にハンディキャップがあります。20~30年ぐらい前だと理解のない人も多くて、子供の頃から兄に対して差別的な人たちをたくさん見てきました。正直、私自身、兄のことでコンプレックスを感じることもありました。生後6カ月から保育園に預けられていましたし、「お兄ちゃんがいるんだから」と親にもあまり甘えられずに大きくなったんです。
 そういう家庭環境で育ちましたから、「福祉が何たるか」というあたりは、小さい頃から知り尽くしてきた部分が大きいです。ご飯を食べさせてあげたり、おむつを取り替えたり、お風呂を入れたりというのは、子供のころから当たり前にやっていました。父と母と祖母と一緒に交替で。小学校の頃はまだしも、中学、高校になると、やっぱり嫌でしたね。そういう家庭環境から逃げ出したいという気持ちもありました。遊びたい盛りでしたし、自分が思い描く人生に対して「家族は重荷だ」とさえ感じていました。アメリカに映画の勉強に行ったのは、そういう家庭の事情もあったと思います。閉鎖的な日本を飛び出して、映画で自由に自分を表現できるアメリカに行こうと。当時は「アメリカ=自由の国」と思っていましたから。
 でもアメリカでいろんな国の人に出会って、英語ができないことで私も差別されたりして、アメリカが決して思い描いていたような国でないとわかって、同時に、逃げてきたはずの家族は、影のようにどこまでもついてくる。最初の半年は毎日手紙を書いていました。電話もしょっちゅうです。半年に1度は帰国もしていました。
 とはいっても、アメリカにいる間はもう楽しくて、楽しくて。本当に遊び呆けていました。でも、私が帰らないと家の中が大変だっていうことはわかっていたんです。2年制の学校だったので4年制の大学に編入するか、映画の制作会社か配給会社に就職するかと考えていたとき、父親が病気になっちゃって……どうしても帰ってきてほしいって言われて、これはもう逃げられないと。複雑な気持ちではありましたけれど。
 8年前に父が亡くなってからは、私と母で兄を介護しています。170センチぐらいありますから結構大変なんですけれど、世話をしていると本当に癒されるんです。結局、私の原点は兄だと思います。

目指すは困っている人に手を差し伸べられる存在

 起業してビジネスするのは、もちろん働くのは好きだし、お金のためというのもあります。でもそれよりも、人間的に大きくなりたい、大きな器になりたいという人格形成がいちばんの目的なんです。
 日本に帰ってきて、いろんな仕事をしていろんな人を見てきて思うのは、器が小さい人はそれなりの出会いしかないし、活躍できるフィールドも小さいってことです。器の小さい人間は自分がうまくいかなかったことを境遇や周囲のせいにする。私もそうでした。家庭環境がこうだから思い切り仕事できない、いろんなことを諦めなきゃいけない、だから映画監督にもなれないんだって、両親や兄を責めるような気持ちがありました。
 でも、よくよく思い返してみると、自分はこの静岡にいて十分努力したのかどうか――。努力もしてないのに周りのことばっかり言ってる自分は、何てちっぽけな人間なんだろうと。そう思ったときに、できることはたくさんあると気付いたんです。
 誰か困っている人がいたら、手を差し伸べられるだけの力、お金、立場、時間、精神的なゆとり――そういうものが自分に備わっていれば、ハンディのある人のために社会福祉法人をつくったり、途上国の人たちをサポートすることもできるだろうと思うんです。そういう社会貢献のために、自分の会社を大きくしていきたい。正義の味方みたいな生き方がしたいと思っています。

取材日:2010.10



静岡県静岡市育ち 静岡市在住


【 略 歴 】

1994~1997 映画専門学校Los Angeles Community College
1997~2000 静岡第一テレビ入社。報道部でニュース番組のアシスタントディレクターに
1999 シナリオ作家協会基礎科修了
2000~2004 静岡ビジネスレポート社にて取材記者および新規開拓広告営業を担当
2004~2008 NTT西日本静岡にて、派遣スタッフコーディネーター、人材教育、新規クライアント開拓に携わる
2006 ニューシネマワークショップ映像クリエーター科修了
2007 静岡県男女共同参画交流会議(あざれあ交流会議)理事に就任
2008~2009 FM島田の会社設立とラジオ局立ち上げに携わる。企業スポンサー営業および人事を担当
2009 A’s Corporation設立

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