さくや姫プロジェクト|トップページ

本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

男女雇用機会均等法をはじめ、労働問題に従事。
柔軟で多様な働き方を実現すべく腕を振るう。

麻田千穂子(あさだ・ちほこ)

麻田千穂子(あさだ・ちほこ)



厚生労働省 静岡労働局長


- WEBサイト -

静岡労働局

労働局は、地域の労働問題に取り組む拠点

 労働局は、各地域の労働に関する業務を総合的に扱うところで、その内容は3つに分けられます。まず、働く人の労働条件を確保、向上させる業務。1日8時間以内の労働時間、最低賃金といった「働く人の基本的な条件」を守る仕事です。
 次が、雇用情勢に関することです。失業した人や仕事を探している人に職業を紹介し、あるいは失業保険を払うなどして、早く就職できるようなプログラムを講じます。そして「さくや姫」といちばん関連がある「雇用均等」。家事と仕事の両立や、パートで働く人の処遇向上をめざし、職場での男女の機会均等を確保します。
 この7月に静岡労働局に労働局長として着任し、3カ月になります。今、私が取り組んでいる仕事でもっとも緊急なのは、やはり雇用情勢への対応です。労働市場全体は改善に向かっていますが、2008年のリーマンショックから本格的には立ち直れていません。リーマンショックでいったん落ちた景気がじわじわ回復したところに、今年3月の東日本大震災を機に、また少し落ちてしまった。震災からはだいたい回復してきていますが、やはりリーマンショック以前と比べると、まだ水準が低い。静岡県経済はまだ本調子にはなっていませんね。
 静岡というと「全国の経済をけん引している有力な産業県」というイメージで、私もそのように考えていました。そのポジションが揺らいだわけではありませんが、製造業の比率が大きい分、景気の浮き沈みに左右されやすい。それが雇用情勢悪化にもはっきり浮き出ています。今年9月末の静岡県内の有効求人倍率が0.64。全国平均が0.67だったので、その差は縮まってはきていますが、まだ低い状態です。有効求人倍率が全国平均を下回るなんて、静岡県の歴史の中でも初めてのことです。

「つくる、つなぐ、まもる」で静岡の雇用を創出

 静岡ではこの状況に多くの方が危機感を感じていらっしゃるようですが、私は悲観しなくていいのでは、と思っています。
 そもそも静岡は産業県としてすぐれた立地条件に恵まれています。東名高速道路や東海道線、新幹線も通っていますし、貿易港もある。気候もいいし大都市圏にも近い。ですから、一時的に全国平均を下回ったからといって、その優位性が失われたわけではなく、強みを活かして雇用を創出していけばいいですし、それを支援するのが労働局の役割だとも認識しています。
 緊急雇用対策は「つくる、つなぐ、まもる」の3つに重点を置いています。仕事の機会を「つくる」求人開拓や、企業への雇い入れへの助成などですね。「つなぐ」は求人と求職のマッチングです。求職者の希望を聞いて企業に求人開拓にいくこともあります。「まもる」は、雇用を維持する企業の支援。例えば、先だっての震災とその後の計画停電の影響で、伊豆の旅館も団体キャンセルが相次ぐなど打撃を受けました。そんなとき従業員を解雇せず、雇用維持に努めているところに助成金を支給し、雇用を保つのです。他に、県や関係機関と手を組んで、少しでも雇用を創出できるよう、力を注いでいるところです。

新卒で「雇用機会均等法」の準備室に配属

 私が労働問題に携わって、30年近くになります。1983年に大学を卒業後、労働省(現厚生労働省)に入省し、これまでに労働条件、雇用対策、雇用機会均等などさまざまな労働問題に関わってきました。
 最初に配属になったのが「婦人少年局」。当時、「男女雇用機会均等法」策定に向けた作業の真っ最中でした。1979年、国連総会で「女子差別撤廃条約」が採択され、日本もそれを批准することになったのですが、それには大きなハードルを3つ超えねばならないと言われていました。
 まず、雇用で男女差別を禁止する法律が当時の日本になかったこと。次に、女子のみ家庭科が必修といった、国の教育において明らかな男女異なる扱いがあったこと。そして、国際結婚で生まれた子供が日本国籍を取得するとき、父親が日本人の場合のみに限られていた国籍法を改正しなければならなかったこと。各関係省庁は、それぞれに重い宿題を抱えていました。
 国際的なルールに従うために「男女差別を禁止する法律をつくろう」と決めたわけですが、法律をつくる作業は「チームに死人が1人出る」と言われるほど大変で、人手も手間もかかります。そんななか、私は新卒で「男女平等法制準備室」に加わりました。おもな仕事はコピー取りと調べもの、お使いやお茶出し。上司や先輩たちがさまざまな調整に奔走する姿を、社会人1年生の私は、法案を1つ世に送り出すのは、こんなにも大変で、こんなにも1歩ずつ進んでいくものなのだと感じていました。

さまざまな折衝を経て「小粒」で送り出した法案

 と言いますのも「職場での男女差別を禁止する法律」に対する使用者、つまり企業側の反対がすさまじかったのです。当時、どの企業も当然のように、大卒で幹部社員は「男子のみ」、事務的な補助職は「女性のみ」という募集をしていましたし、それが法律違反ではなかった。ですから「女性採用を強要され、女性を管理職にすることを強いられる。自分たちが守ってきた美しき日本の雇用慣行が破壊される」という危機感を抱いた企業側の抵抗は強かったですね。
 一方、女性労働者の代表は「女子保護規定がなくなったら大変」と危機感をもっていました。「女性は弱いから保護すべき」という思想のもと、女性の深夜業や時間外労働が限られていたわけですが、法案に反対する企業側は「男女同じように扱えというなら、女子保護規定も撤廃すべき」という主張を繰り返していました。
 要するに女性労働者は「男女平等についてすごく強力な法律ができることは期待できないのに、女子保護規定だけが撤廃されてしまうのは困る」というのです。「ひと握りの女性が管理職や部長になるより、大部分の女性は早く家に帰りたい。あるかなきかの平等と引き換えに、保護は失いたくない」。それが彼女たちの意見でした。これが真っ向からぶつかり合う形でしたから、調整は本当に大変だったと思います。労使や国会議員との調整、法制面でのツメ、内閣法制局での検討や審査、各省との折衝というような、ありとあらゆる調整業務が山積していました。
 難産の末、1986年「男女雇用機会均等法」が施行されます。妥協に妥協を重ねたものではありましたが、万が一、途中でやめてしまったら「差別はいけない」という法律がない状態に戻ります。「差別はいけない」とはっきり明文化した法律ができない限り条約も批准できませんから、小粒でも出そう、小さく生んで大きく育てよう、というのが、つくった側の思いでした。

20年を経て、均等法が与えた影響と価値観の変化

 私にとってはそれが社会人になって初めての仕事でしたし、自分自身の問題としても非常に印象深い仕事の1つです。就職活動中、企業や官庁を回り「女性は採りません」と門前払いされるたび、怒りや理不尽さ、不条理というものを感じていましたから、できるだけ実効のある法律をつくってほしかった。ですから当初の法案が採用の差別を禁止せず努力義務でお茶を濁しているように見えるのは不満でした。「間接差別については何も書いていない」と生意気にも先輩に訴えたりしました。「差別の禁止」が努力義務なんて、国際標準ではありえないでしょう。諸外国に見せるのは恥ずかしい、と感じました。
 ただ、労使間の折衝の実情を間近で見ていましたら、やはり一歩ずつ進んでいく以外、方法はないんだということも実感しましたね。わずかずつしか進歩しないので、はがゆく感じるでしょうが、そのときの合意に対して「納得しましたよね」とじわじわ浸透させるように進んでいくものなのでしょう。
 なにより「男女間の差別がいけないという法律ができた」こと自体が、大きな前進ではないでしょうか。施行から20年、雇用労働という形で労働市場に参加する女性は増え、勤続年数も長くなっています。「均等法は何をなし得たか」という辛口の質問がときどき出ますが、女性に門戸を開放しないのはいけないことだという価値観を、日本の労働市場に広めたという意味で、均等法の役割は大きかったと思います。
 私の学生時代の同級生や同僚の男性たちの子供がそろそろ就職する年なのですが「娘が総合職で就職した」とうれしそうに話すんです。昔ならさしずめ「うちの娘は勉強が面白い、仕事が面白いといってなかなか結婚しないんだ」と苦笑するお父さんが多かったですよね。今は自分の娘が男性同様に能力を発揮することが、自分にとってうれしいし理想である、と価値観が変わってきている。その変化のきっかけになったと思います。

依然として残る「女性が補助職」の慣習

 ただ、影の面もあります。男女の区別なく扱うのが均等法ですが、同じように扱いたくないと考えた企業が、総合職、一般職という区分を「発明」してしまいました。それまでの、男性が幹部候補生、女性が補助職という構造がそのまま、別の言葉にすり換えられ、男女と関係のない形で生き残っているわけです。
 あるいは非正規雇用の女性が増えていることとも関係しています。均等法だけの問題ではないとは思いますが、労働市場における女性の半数以上が非正規労働である状況は、決して均等法が理想とした姿ではなかったはずです。学生などのアルバイトは別としても、一生働きたいと考える女性たちに、必ずしも適切な場が与えられる機会がなく、やむを得ず非正規で働く女性が多いことについては、複雑な気持ちです。
 もちろん、非正規がすべて悪いわけではなく、医療者や弁護士など、処遇のしっかりしたパートもあり、多様な働き方の1つとして受け入れられるべきです。問題なのは、処遇のよくない、不安定で低賃金なところ。そういう働き方を求める層がないとは言いませんが、それがすべてではないでしょう。経営者の方々に、自分の子供にその働き方をすすめますかと問うと、やはり違うと思うのです。

多様なロールモデルから学んだ働き方が財産

 入省から1年は本省に勤め、その後の広島労働局を皮切りにさまざまな経歴を経ましたが、もともと労働省は女性が働きやすいところでしたので、各地でやりがいを感じる仕事に巡り合えました。でもそれは「働きながら子育てしやすい」という意味ではなく、若い時から甘やかされず、やりがいのある仕事を与えられ、鍛えられる、という意味です。一般企業には、女性に責任のある仕事をさせない――私は「床の間に置く」という言い方をしますが――実力の付く仕事を与えない職場もあるようですが、旧労働省は、こきつかって成長させる、大変ありがたい職場でして、私もかなり鍛えられました。
 同時に、私が恵まれていたと思うのは、労働省にはお手本にしたい「ロールモデル」が、たくさんいたことでしょう。
 私にとってのロールモデルは実に多様でした。既婚の人、独身の人、離婚している人、子供がいる人、いない人……。仕事のスタイルも十人十色でしたよ。頭脳明晰で議論では絶対負けない人、物腰がエレガントで人間的魅力がある人、国会議員にかわいがられる「かわいがられキャラ」の人など、皆さんそれぞれ、自分の美質やスキルを磨いて、人を説得したり指示をしたり、人を育てたりと活躍していました。そんな方たちに仕事の仕方を見せていただいたのが、私のいちばんの財産だと思います。
 今、組織を動かす仕事を任されていますが、指示の出し方、人の育て方について迷うとき、あの先輩ならどう言うだろう、と考えます。今日はこのタイプで行こう、今日はこっちで、というふうに。自分のなかに引き出しがたくさんできて、それが今の仕事の糧になっているんです。

普通の女性が普通に頑張って働ける時代に

 仕事のことだけではありません。家庭生活との折り合いのつけ方、TPOに応じたスーツの着こなしなど、さまざまなことを学びました。「メンター」という言葉がありますが、先輩が後輩にごく自然にメンターシップを発揮する伝統がある職場でした。仕事と家庭をばっちり両立させていた先輩たちのところには、多くの後輩たちが相談に行っていましたね。本省勤務は夜が遅いことが多いので、勤務を続けながら子供をどう育てるかは、彼女たちにとって、大切な問題だったはずです。
 そういう意味では、自分の前を走る人が誰もいない苦労はしませんでした。前を走っている先輩が1人だけで、その人が立派すぎて自信をなくすこともなかった。みんな立派だけど、それなりに得意もあれば苦手もある、いろんなタイプの人が私の前を走っていたので、いいとこどりができたのです。
 昔、女性が働くには、今よりずっと風当たりの強い時代でした。ですから初期の頃の女性はみな、成績はもちろん容姿端麗、心がまえ、精神といったものまで並でなかった。そういう方々から見ると、私たちは普通の女の子で「小粒」なんて言われました。でも、私はそれでいいと思っています。女性だからといって並外れた人しか採用されないのはおかしいですよね。その「すごい女性たち」の同期の男性は、特に並外れた人ばかりではないのに、なぜ女性だけとびぬけて優秀でなければならないのか。そろそろ、凡庸な女性が凡庸な男性と同様に、それなりに頑張る時代になってもいいのではないでしょうか。

「帰宅後しなければならないことがある」を標準に

 私は「男女共同参画社会」の働き方は「誰もが家に帰ってしなければならない仕事がある働き方」と考えています。
 今の日本の標準の働き方は「仕事専念型」です。家のことは誰か他の人がしてくれることを前提に、高度経済成長期にできた働き方です。典型的なのが、専業主婦のいる男性正社員。あるいは自宅から通える未婚の男女社員。食事の支度や洗濯、掃除などは、母親や妻がするので、家に帰ってしなければいけないことはありません。ですから夜中まで残業させてもかまわないし、急な転勤でも、国内外どこにでも行ける。仕事に専念できるわけです。昭和40~50年代は、世の中の大半はそういう家でした。それで家庭内で完璧に仕事専念型と家事専念型に分かれたのです。
 ところが今は、共働き世帯の方が専業主婦世帯よりも圧倒的に多くなりました。ですから本当なら、家に帰って何もしなくていい人は多くないはずなんです。共働きなら男女関わりなく、子供の世話やゴミ出し、洗濯がありますし介護も増えていますね。仕事に専念できることを前提にした「働き方」のモデルにフィットする人はどんどん減っています。そうやって世の中が変わり、世帯のあり方が変わってきているのに、働き方だけがついてこない。それが現状であり、ここが、ワーク・ライフ・バランスを巡る問題の本質なのだろうと思います。
 ですから「家に帰ってしなくてはいけないことがある」を原則にした働き方が標準になることで、初めて仕事と家事の分業体制が壊れ、男だから、女だから、どちらを分担するという固定概念から自由になる。それが私のイメージです。働き方を変えることなく男女共同参画を実現するのは難しいでしょう。

トップが働きかけ実現するワーク・ライフ・バランス

 ただ、これは企業に意識を変えてもらわねばいけない部分も少なくありません。従業員側のニーズは「もっと柔軟で多様な働き方」であることは明らかですし、従業員がストレスなく力を発揮できる環境を目指すには、働き方を変えるしかないと、私は思います。
 長く続いたことを変えるにはエネルギーが必要ですが、実際、経営者の根強い働きかけや、優秀な女性を手放したくないという思いから、ワーク・ライフ・バランスに着目し、本気で取り組み始めた企業は増えています。
 ワーク・ライフ・バランスは、経営者が、心底このことが会社にとって大事なんだと、すとんと「腑に落ちる」経験をすることで、初めて実現に向けて動き出します。ですから、1つのきっかけで変わった会社の例や事実を、生の声で伝えていくことが必要です。最初からワーク・ライフ・バランスに熱心だった会社はめったにありません。ですから、今本気で取り組んでいる会社のきっかけが何だったかを知ることにも意義があるはずです。
 企業の人事部には、こういうことに情熱を注いでいる人が少なからずいますが、人事部が熱心でも、営業や製造などの現場の部署は、激しく抵抗するでしょう。だからこそトップから働きかけることが必要なのです。
 労働問題に取り組んでいるうちに、気が付けばその奥深さにすっかりはまってしまった、という感じです。最初に関わった「男女雇用機会均等法」の仕事が、私にとっての男女共同参画事始めでした。当時の、対立を解きほぐしたり、あるときにはあきらめてもらったり、取引をしたり、先送りしたりしながら妥協し、1つのルールを導き出す作業、そういったことの面白さ、やりがいは、経歴の後半で女性の問題に取り組むことになったときの糧になっています。
 私自身は、働くのがごく当たり前だと思っていましたし、やめようと思ったこともありません。これからも働き続けたい。労働問題にこだわり続けていきたいと思っています。

取材日:2011.11



東京都生まれ、静岡県静岡市在住


【 略 歴 】

1983東京大学法学部卒
労働省入省(婦人少年局婦人労働課)
1993島根県商工労働部 職業安定課長
1994労働基準局安全衛生部 計画課長補佐
1995労働基準局監督課 中央労働基準監察監督官
1996職業安定局 雇用政策課長補佐
外務省経済協力開発機構日本政府代表部 一等書記官
1999労政局勤労者福祉部企画課 労働金庫業務室長
2000女性局女性労働課調査官
2003労働基準局 賃金時間課長
2004雇用均等・児童家庭局 職業家庭両立課長
2007北九州市副市長
2009大臣官房国際課 国際企画室長
2010大臣官房国際課長
2011静岡労働局長

一覧に戻る(前のページへ)