さくや姫プロジェクト|トップページ

本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

言葉も文化も習慣も違う日本とブラジル。
互いに理解し、尊重しあう関係を築く架け橋に。

マルコス・カスチリオ・バレット・横山

マルコス・カスチリオ・バレット・横山


静岡県企画広報部地域外交局多文化共生課 国際交流員


- WEBサイト -

静岡県公式ホームページ

県内ブラジル人に情報を提供する国際交流員

 国際交流員として静岡県庁に勤めてもうすぐ5年になります。国際交流員とは「語学指導を行う外国青年招致事業」、通称「JETプログラム」の役職の1つで、外国人を日本に迎え入れ、母国の文化を日本に伝えること、そして最長5年の任期を終えた後、今度は母国に帰って、日本で学んだ文化や習慣、日本語を活かして、それを母国に広める、という役割を担っています。私は日系ブラジル人3世ですから、ブラジルの文化を日本に伝え、母国に帰ったときに日本の文化をブラジルに伝える役目です。中学や高校に配属されている英語の助手ALTも、JETプログラム参加者であることが多いですね。
 仕事の内容は所属する団体によって異なります。静岡県の場合は、翻訳や通訳のほか、各市町や警察署、小中学校や高校、自治会などに赴いて、ブラジルのことを知ってもらうための話をすることもあります。最近では、インターネットラジオを使って静岡県に住むブラジル人に日本の文化や生活情報を提供していて、その原稿を書いたりもします。
 静岡県内には、私を含めてブラジル人の国際交流員が3人いるのですが、これは全国的にも多い方で、静岡県にブラジル人が多く暮らしていることとも関係しています。近年、景気低迷の影響で、在日ブラジル人の数も減ってきてはいるものの、それでも県内在住外国人の約半数をブラジル人が占めています。
 今でこそ他県でも国際交流と名のつく部署に「多文化共生」という課がありますが、私が静岡に来た2007年は、ちょうど静岡県に「多文化共生室」ができた年でした。それまでの「国際室」では、県と外国との外交に関することも、県内にいる外国人のフォローも、一手に引き受けていました。静岡県にいち早く多文化共生室ができたのは、県内に住んでいる10万人近い外国人を意識しているからであって、外国人との共生に本格的に取り組もうと力を入れている証拠でもあるのです。

日本とブラジルの違いを理解し、伝える

 静岡県での仕事は多岐にわたっていて、興味のあること、やりたいと提案したことも積極的に理解してくれますので、実にたくさんのことを経験させていただいています。
 県の地域防災活動推進委員会の委員や県警のアドバイザーも務めているため、防災センターなどで、ブラジル人を対象にした防災セミナーや救命講座を開催して、その時に通訳を務めたり、警察の方と地域の巡回連絡に同行し、意見交換会を行ったりもします。ブラジルには警察の巡回がないので、突然警察が訪ねてくると、逮捕されると勘違いされることもあって、そういう方には趣旨を説明します。
 JETプログラムの国際交流員は、語学はもちろん、日本の文化や習慣を理解していなければと感じることはよくありますね。ブラジルと日本、両方の学校に通い、両国で仕事もし、双方の子供や大人の生活を実務から経験していることは、様々な場面で役に立ちます。
 例えば、毎週のゴミ出し1つにしても、国が違えばルールが全然違います。日本語がわかるならそれも理解できますが、まったくわからない人は困ってしまいます。
 また、健康保険もブラジルと日本とでは仕組みが違うのです。日本では保険制度は「国民の健康を守るため」であり、国民健康保険か社会保険に入ることが義務付けられていますが、ブラジルは民間の保険会社が営利目的でやっていることが多く、お金がある人が入りたかったら入り、お金がなくて入りたくない人は入らなくていい、というスタイルなんです。ですから、お金を稼ぎたくて来ているのに、毎月3万も4万も給料から引かれないといけないのか、と考えて保険に入らないブラジル人も少なくありません。
 こういった文化や法律の違いは慣れるのに時間がかかります。最近では市役所などでポルトガル語の相談を行っているところも増えましたが、文化の違いから生じる問題には、それだけでは対応しきれないこともあるんですね。そしてその解決には、日本人にもブラジル人のことを理解していただくことが必要になってきます。私のような立場の人間が、日本のルールやマナーを翻訳、通訳し、またブラジルの文化を日本に伝えることで、両方が相互理解し尊重しあっていけるように、互いに幸せに共生していけたらと思っています。

両親とともに8歳で来日、まったく違う生活へ

 私が最初に来日したのは21年前。両親が日本で働くことになったので、当時8歳の私と5歳の弟がついてきたわけです。90年代前半に増え始めた、出稼ぎ労働者の典型ですね。
 1990年に「出入国管理及び難民認定法」、いわゆる「入管法」が改正になりました。それまではたとえ日系人であっても、日本での仕事には規制があったのです。ところが入管法改正によって、日系3世までは定住資格が取れる、要するに、それらの資格には仕事に規制がかからないので、特定の仕事だけでなく、どんな仕事もできるようになったのです。ちょうどバブル景気だったこともあり、ブラジルや南米で暮らす日系人、とりわけそこでの生活が苦しいと感じていた人たちが、この法改正を機に日本に出稼ぎにきた背景があります。みんな、家や車を買いたい、お店を出したいなど、それぞれ夢をもって日本を目指しました。
 子供の頃に来日したと話すとよく「大変だったでしょう」とか「日本語もわからないから辛かったのでは」と聞かれます。でも、8歳ですから言葉を覚えるのも早かったですし、友達もすぐにできたので、それほど辛かった記憶はありませんね。いじめもなく、スーッと溶け込めました。
 むしろ両親の方が大変だったのではないでしょうか。当時、父は日本語を話せましたが、母は全く話せなかった。それでも日本語学校に通うわけでもなく、いきなり工場で働くことになったんですから。その上、子供が学校に通うとなると、日本の学校について親が把握しなければなりません。なぜみんな同じ服を着て、おそろいのカバンを持って行くのか。なぜ靴には上履きと下履きがあるのか。なぜ雑巾が必要なのか。わからないことだらけなんです。

地域や学校の協力で日本が大好きに

 当時私たちが住んでいたのは、長野県上田市です。コミュニティーがしっかりとしていた地域で、みんなで子供を守ろう、という意識がありました。私たちが安心して学校に行けたのも、地域の方々のおかげです。
 両親も大変だったでしょうが、私たちが学校に行くことで、学校も教育委員会もすごく大変だったのでは、と思います。学校では私が初の外国人、初のブラジル人でしたから、最初は先生が登下校についてきてくれましたし、ポルトガル語の辞書を片手に「今度はこれをもってきてもらいたい」と伝えてくれたりもしました。
 父は日本語を話せて、ひらがなやカタカナは読めましたが、漢字が読めませんでしたから、学校からの連絡帳はすべてひらがなかカタカナでした。両親は朝から晩まで工場で働いていたため、限られた時間に電話でやりとりしていたのを覚えています。
 ただ、両親から当時の苦労話を聞いたことはありませんね。今でこそ、外国人との共生に取り組むところも増えていますが、20年前にはそういう動きはありませんでしたから、大変でなかったわけはないと思うんです。しかし、日本に来るんじゃなかった、という愚痴は聞いたことがない。むしろ、ブラジルに帰った今「日本の生活はよかった、日本に帰りたい」「あなたたちは帰ってこない方がいいよ」と私たちに話すほどです。
 両親も最初は2、3年の予定で来日したようですが、居心地がよくて21年間、日本にいました。一度帰国を試みましたが、やはり日本の環境のよさが忘れられなくて、結局1年ぐらいでまた日本に戻ってきたほどなんです。

将来を見据えた子供の教育を親に促す

 今、こうして大人になり、ブラジル人と日本人の間に立つ仕事をする上で、いろんな家族と話す機会があります。当時の自分たちと似た境遇の方たちと接していると、今になって「うちの親もこんなに大変だったのかな」と思ったりしますね。
 役所にポルトガル語を話せる人が常駐していたり、広報なども英語やポルトガル語で書かれたものがあったりと、状況は以前に比べてよくなっています。しかし、依然として言葉や文化の違いに苦労している人、問題を抱えている人がかなり多いと感じます。
 特に、工場で働く出稼ぎ労働者のなかには、子供が中学校や高校の途中で学校に行かなくなっても、もう勉強はいいから、と工場労働をすすめる親が残念ながらいるんです。「稼いでもらわないとブラジルに帰れない」と。
 でも、幼い頃から日本で育った子供たちは、日本の生活に慣れてしまって、ポルトガル語がほとんど話せない人もいますし、ブラジルに帰る気はほとんどなかったりする。そんな、これから長く日本で生活するであろう子供たちに「勉強しなくていい」と言うことは、許されませんよね。私も半分説教で親に話すことがあります。逆に、どうしたらいい?とアドバイスを求められることもありますので、まずは子供の教育が大切だと自分の経験も交えて話します。
 私の両親は教育の大切さを強く感じていて、一時帰国したときもブラジルの学校についていけるよう、塾にも通わせてくれました。そのおかげで、私も弟も大学にも進学し、こうして仕事に就けている。ですから、親の都合で子供を連れてきたのであれば、中学や高校で辞めさせるのではなく、親が頑張ってなるべく大学まで行かせて、日本にいてもポルトガル語を忘れないように、何らかの努力が不可欠だと思うのです。

双方が歩み寄ることで実現する「多文化共生」

 多文化共生というのは、ブラジル人をはじめとする外国人のために何かをするだけではなく、実は日本人のためにも何かしないといけないのだと、私は思っています。夫婦もそうですよね。2人の時間を大切にし、それぞれの生き方やスペースを互いにリスペクトしながら成り立つものです。日本に暮らす外国人が、日本語や日本の文化を勉強しようとする意識はもちろん大事だし、日本人も、もう日本人だけの社会ではなく、いろんな国の人がいる国、国際的な国なんだということを理解する。そういうことが求められるようになってきています。
 各地域の自治会に行って、ブラジル人について話をする機会があります。あるとき、1人の年配の日本人女性が「私はゴミを見れば、誰が出したかわかる」と発言したことがありました。そこはブラジル人が多い団地で、彼女によると「外国人はゴミのルールを守らない」と。そのことにひどく怒っている様子でした。
 彼女がひとしきり話した後、私は「お言葉を返すようですが、ここで私がブラジル人を代表して謝ってお気持ちが楽になるのであれば謝ります。でもブラジル人みんながそうじゃないということも、頭の隅に置いておいてください。外国人だけでなく、日本人でもルールを守らない人は多いですよ」と言ったのです。それに対して、彼女は何も言いませんでした。こういう偏見があることはひじょうに残念ですし悲しいことです。しかし、それをきっかけに、その女性や周りで話を聞いていた人たちの考え方が変わったかもしれないですし、私と話をしたことでブラジル人に対するイメージも変わったかもしれない。ともかく、国際交流員として、あの場ではっきり言えたことは、とてもよかったと考えています。

納得できない、工場での男女賃金格差

 互いを理解し合うという点で、私は、男女共同参画も同じではないかと考えています。理想は「すべてにおいて男女の扱いが平等である」ことですが、現実はそうではない部分もあるんですね。
 例えば、私の両親や親戚は、長野県の工場で働いていましたが、同じ工場で働いていても、男女で時給が違うんです。これは、静岡でも同じです。男性が1200円だったら、女性は1000円。仕事の内容が、女性が座ってルーペで検査するような仕事で、男性が箱を運ぶような力仕事、と仕事の内容が違うこともありますが、一方で、男性も女性と同じように汚れない仕事をしていることもある。私の母は座っての仕事でしたが、顕微鏡を使うので目が疲れるし、偏頭痛もちですし腰も痛い。座って作業しているほうが大変な時もあるわけです。それでも給料は男性の方が上です。時給は互いに上がっていくから、この差は縮まることはありません。雇われる時点で違うんです。それは納得できることではありません。
 力仕事や汚れるような仕事をしている人が多いからといって、男性に繊細な気持ちがなく、荒い考え方しかできないかと言われれば、それは違いますし、女性だって男性ほど腕力はないかもしれないけれど、繊細さ以外にも、同時にいろんなことができる器用さをもっている。女性も男性も互いにはないものを持っているのですから、男=力持ち、女性=弱いと決め付けるのはよくないでしょう。女性には違う強さがあるはずなんです。
 ブラジルは日本と同じで最低賃金が決められていますが、その仕事をちゃんとやってくれるのであれば、男性でも女性でもかまわない。男女差の意識もあまりしていなかったように思います。私自身は、高校を卒業したらフライトアテンダントになりたくてブラジルに帰ると決めていました。日本ではフライトアテンダントといえば女性ですが、海外の航空会社には、何割以上は男性、と決まっているところもあるほど、男性のフライトアテンダントは一般的です。私は、この仕事であれば、日本語とポルトガル語を両方使える自分のもち味を生かせると思ったのです。

苦労した経験も役立てながら2つの国を結ぶ

 JETプログラムの任期はもうすぐ終わりを迎えます。静岡に来たのは本当に巡りあわせでしたが、全てにおいて幸運だったと思っています。
 高校卒業後、私はフライトアテンダントを目指してブラジルに帰り、航空会社から内定をいただきました。しかし、2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ事件」が発生したために、その内定が取り消されてしまったんです。その後は、ホテルマンとして勤務しながら大学に通っていましたが、勤務先のホテルに宿泊に来ていた日系企業の方と出会ったことがきっかけで転職、転職先の企業でJETプログラムのことを偶然知ったのです。JETプログラムへの応募は大学卒業が必須条件ですが、もし私がフライトアテンダントになっていれば大学に通うこともなかったでしょう。当然、こうして静岡に来ることもなかったわけです。全てが鳥肌がたつぐらいタイミングがよかったと思っています。私は現在30歳ですが、一期一会の運を全部使いはたしてしまったんじゃないかと思うほどです。
 今後のことについてはまだ模索中ですが、自分にしかできないことが何かあるのではと思っています。日本語とポルトガル語を操るのは誰もができることではないですし、これまで自分もいろんな経験をしてきました。いろんな人、とりわけ両親に支えられて今の自分があるわけですから、学んできたことを活かしながら、そんな人たちに恩返しができる仕事がしたい。私たち家族が21年前に日本に来た時に苦労した経験も、今も日本に住む20万人以上のブラジル人たちのために役立て、日本とブラジルの架け橋のような存在になれればいいなと思っています。
    

取材日:2011.10



ブラジル生まれ、静岡県静岡市在住


【 略 歴 】

1990初来日(8歳)、長野県上田市に滞在
小学校3年に入学
2000長野県立丸子実業高等学校(現:丸子修学館)普通科卒業
帰国
旅客機客室乗務員免許 取得
カナダヘ英語留学
2002ホテル経営会社に就職(エスピリト・サント州)
2003私立大学に入学(経営学部貿易学科)
2004日系企業に就職
2006大学卒業
2007日系企業退職
静岡県の国際交流員として来日

一覧に戻る(前のページへ)