さくや姫プロジェクト|トップページ

本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

笑いをテーマに、村おこしや自己啓発講座を展開。
思い通りの人生を生きる「3%人間」を増やしたい。

田邊哲(たなべ・さとし)

田邊哲(たなべ・さとし)


災禍転福貧乏神神社三倉分社 祭主
夢街道匠塾 塾長


- WEBサイト -

夢街道匠塾

私にしかできないことを本業にしたい

 私の本業は「田邊哲」です。こう言うと、聞いた人は不思議そうな顔をしますが、かつて同じことを言った人がいるんです。読売巨人軍で活躍した元プロ野球選手の長嶋茂雄さん。私は長嶋さんの大ファンなのですが、長嶋さんは現役時代、旅館の宿帳の職業欄に「長嶋茂雄」と書いた、という逸話があるんです。彼はその時、「自分は、長嶋茂雄でなければできないことをやるのだから、職業は長嶋茂雄でいいんだ」と言ったそうです。私も長嶋さんのように、私でなければできないことをやりたい。私自身の人生を運営する「田邊哲株式会社」の名経営者でありたいと考えているんです。そしてまた、すべての人にもそうあってほしいと思っています。
 私は周智郡森町に住み、多種多様な活動を行っています。その中で、最も力を注いでいる活動が、人々の意識改革や行動変革をお手伝いするための講座や講演活動です。
 ある調査で65歳の人を対象に、これまで満足のいく人生を送ることができたかと聞いたところ、思い通りに生きてきたと答えた人は、わずか3%だったといいます。私は、すべての人に、この3%の人になってほしい。地域にそんな「3%人間」が増えれば、地域全体が活性化するのではないか。そう考え、どうしたら「3%人生」が送ることができるかを講演のテーマとしています。
 講演では、私自身がこれまでの人生で習得した、生き方のヒントをご紹介しているのですが、ただ真面目一方にお話ししても、誰も耳を傾けてはくれません。そこで笑いを核にして、おもしろおかしく話す中から、意識改革や行動変革につながるメッセージを伝える工夫をしています。笑いには、健康に良い影響をもたらす効能があると、科学的にも証明されています。作り笑いでさえ良い効果があるというのですから、心から笑ってもらえればどれほどいいでしょうか。そこで、「日本笑い学会」にも入会し、4年前には、万葉歌人の田邊史福麻呂(たなべのふひとさきまろ)にならって、「田邊口幸麻呂(たなべのくちさきまろ)」という芸名も、考えつきました。「口は災いの元」、ということわざがありますが、私の場合は「口は幸いの元」がモットーなんです。
 そんな私の思いを、一番ストレートに伝えることができる講演活動が、「夢街道匠塾」。口コミで内容が伝わり、今では全国各地から依頼されるようになりました。人気の理由は、大変ユニークな「災禍転福貧乏神神社三倉分社」の祭主の立場で、私が講演を行うからなんです。

「貧乏神神社」の分社を設立、祭主となる

「災禍転福貧乏神神社」とは、長野県飯田市に存在する、貧乏神を追い払う神社です。ある日、私の父親が、「貧乏神神社で貧乏神の追い払い体験をしたら、とてもおもしろかった」と言うのです。いつも真面目な父が、子供のように楽しそうに手振り身振りで説明する様に、私は強い興味を覚えました。郷里である森町の三倉に分社を建てたら、多くの人が来てくれるのではないかと思ったのです。
「災禍転福貧乏神神社」祭主の櫻井鉄扇さんは、脱サラをして事業を興したものの失敗し、借金をかかえた経験をもつ人物で、自分のように貧乏神に取りつかれた人に元気になってもらおうと神社を設立しました。そこでは、「貧乏神、飛んでけー!」と、大声で叫びながら丸太を「ビン棒」という木の棒で3回たたいた後3回蹴り、豆を3回投げつけるという貧乏神の追い払いが行われ、全国から観光バスが訪れる注目ぶりでした。私はさっそく飯田市の貧乏神神社を訪れ、森町の三倉地区に分社を設立し、私が祭主を務めたいとお願いしたんです。
 現在、三倉分社は移動式の社となっています。貧乏神神社は森町のほかにも、沖縄、長野県茅野市、東京、大阪と、全国5カ所に分社ができています。
 三倉分社では本社同様、貧乏神の追い払いを行っているのですが、貧乏だけでなく弱気や病気、体脂肪などの追い払いもできるように工夫しました。「弱」「病」「脂」などとかかれたクッションを、竹刀などで思いっきり3回たたきながら、「貧乏神出ていけ、病気出ていけ」と叫んでもらうわけです。
「夢街道匠塾」の講演活動では、この移動式の社の利点を生かし、ご神体や祭主の衣装を持参して出かけていきます。実際に、会場で貧乏神の追い払いを体験していただくんです。出席者はこの体験を、とても喜んでくれますよ。そんなことをして笑いを誘いながら、出席者の自己啓発のヒントを、私なりの言葉で伝えていくわけです。

人生計画と口癖デザインで、めざせ3%人生

 講演では、実際に「3%人生」を達成した人が皆実行している事を真似よう、と提案しています。その方法を1人ひとりが自分で編み出すのは、とても難しい。ならば、思い通りに生きている人から学ぼうと。「3%人生」を達成する方法を自分で編み出す必要はないのです。
 そのなかではまず、自分の人生の目標設定をすることを勧めています。企業であれば、長期、中期、短期の経営計画を作成するでしょう。皆さんは、自分自身の人生の経営者なのですから、人生の経営計画を立てなくてはいけません。これから自分はどうなりたいのか。何が欲しいのか。どこに行きたいのかを、書き出してみることです。さらに、その計画の優先順位を決め、実現するための期限を設けることが大切です。この時、「こうしたい」などと悠長に思っていては駄目。「自分はこうする」と、きっぱりと決意しなくてはいけません。
 もっと大切なことは、計画を実現に移すことです。そのための方法はいろいろあるでしょうが、私は「口癖のデザイン」を勧めています。人間は習慣にとらわれる生き物ですから、すべての人が口癖をもっています。そこで、自分の目的に近づくためには、どんな言葉を積極的に使ったら効果的かを考えるわけです。たとえば、とても役に立つ話を聞いたとします。この時、「それはいいことですが、難しいですね」などと言うのは、駄目なんです。難しいという言葉は、否定的でしょう。では、難しいという言葉の代わりに、どんな言葉を使えばプラス思考になれるのか。口癖を望ましい言葉にデザインし、習慣的に使うことで、新しい口癖にしてしまうのです。たとえば、難しいと思ってもあえて「いいことですね。やってみましょう」と言ってみる。それが、考え方や行動を積極的に変えることにつながるというわけなんですね。
 また、好きなことを仕事にしてしまうことを勧めています。運動選手でも歌手でも、生き生きと活動している人は、好きなことをとことん追いかけている人が多いですね。世の中を動かしているのは、こういう人だと思うんです。すべての人に、好きなことを仕事の域にまで高めてほしい。そうなれば、それはもはや「仕事」ではなく「匠」と言えるでしょう。

「笑っ茶うお参りコース」で新たなまちづくり


 私は講演活動の他にも、さまざまなまちづくり活動に関わっています。まちづくり活動を模索していた当初、最初に注目したのは、地域の祭りで見た「チンドン」でした。きらびやかな衣装と賑々しい音で、さまざまなアピールをする様子に魅了されたのです。その時に出会ったのは、退職して何か楽しいことをやろうとチンドンを始めた、地元の木工会社の元社長夫婦でした。そこで私も仲間に加わり、チンドン隊「夢街道匠一座」、別名「むらおこしのつもりのかい」を立ち上げたんです。一座では各地のイベントに参加するほか、富士山頂でのチンドンを企画したこともあります。その時は多数の取材依頼をいただき、森町や自分自身のアピールも行うことができました。ほかにも老人施設などの慰問活動を行う中から、チンドンが人間を明るく、開放的にすることにも着目した私は、個人的に「チンドンによる性格改造講座」を企画。これが講演活動を開始したきっかけになりました。
 その後も、町民参加の武者行列や「浪曲と森の石松を復活させる会」など、さまざまな取り組みに参加し、一時は、静岡県の「人づくり推進員」や「地域興しマイスター」を拝命していたこともあります。また、森町観光協会常任理事の活動は現在も続けています。
「災禍転福貧乏神神社三倉分社」の設立も、もともと、まちづくりの発想から始まったものですが、今はさらにそこから派生して、新しい観光資源を作ろうという活動をしています。それが、貧乏神神社のような面白いお参りの対象を森町で複数発掘し、コース化した「笑っ茶うお参りコース」。この中には、たとえば、墓石のかけらを財布に入れておくと勝負運が上がるという言い伝えがある大洞院の「森の石松の墓」や、健康で長生きし、長患いせずに往生したいという願いをかなえる極楽寺の阿弥陀仏「遠州ぽっくり様」などが含まれます。中でも、女性の願いをなんでもかなえてくれる男の神様「片吹の大まる様」は、女性に大人気です。昔は各地に、こんなほのぼのと心温まる、面白いお参りの対象があったんですね。
 日本各地に8000カ所あるといわれる限界集落には、もうお参りする人もすっかり減ってしまった、こうした神様がいっぱいあるのではないかと思うのです。そこで限界集落の引取先もないかわいそうな神様を森町にお引き取りしたいと活動する、「森町朗神(ろうじん)福祉協議会」も立ち上げ「朗神(ろうじん)ホーム」も建てたいと考えています。こうした神様に畏敬の念を抱きながら、心豊かで幸せな人生を送れる、「神幸(じんこう)密度世界一」の町をめざしたいと思っています。

東京での出会いが自己変革のきっかけに

 私が生まれた森町三倉地区は、山間の小さな村です。当時3800人だった住民は、現在は1100人ほどに減少してしまいました。
 そんな山間地ですから、私は小学校を卒業すると家を離れ、島田市の中学、静岡市の高校に通学しました。高校では体育祭に仮装行列が行われ、出来栄えを競いあうという伝統があり、3年生の時に私が提案した「大仏の開眼供養」が採用されたことがありました。級友と協力して巨大な大仏を造り、その腹の中から僧侶や貴族が現れて踊るという内容はなかなかのものだったのですが、すんでのところで優勝を逃がしてしまった。そのときは、あまりのくやしさに勉強への意欲を失うほどでしたね。
 私はその後、大学に進学しましたが、就職時にも将来への夢が築けず、働きながら専門学校に通っていました。そんなとき、アルバイト先で人生を変える人物に出会うことになりました。それが、カッティングシートを開発した会社「中川ケミカル」の社長、中川幸也さんです。彼はまさに、自分の思い通りの人生を生きている「3%人間」でした。私は彼を師と仰ぎ、そのまま会社に就職。彼が、「人生に目的をもち、必ず実現させろ」と日々、熱く語ってくれたことで、私は私自身を積極的に変えることができたんです。現在、講演でお話している、意識改革や行動変革のヒントは、中川社長から教えてもらったことがベースになっています。
 やがて会社は多角経営をめざし、食品事業に進出。その部門に配属された私は、社命を受けてそば打ちの技術と、フグ調理の免許を取得しました。この2つの技術は、森町でのまちづくり活動を収入面で支えるために、とても役に立ちました。
 ところで、私が森町に帰ることになったのは、中川社長の「お前は自分の人生に、何を求めているのか」という質問がきっかけでした。それまで、自分の人生設計にいろいろな思いをめぐらせていた私は、とっさに「村おこしをしたい」と答えたんです。すると彼は、「夢を形にするには、50歳には始めないと遅い」、と。そこで48歳の時に「中川ケミカル」の代理店を務めることにして、私は36年ぶりに、郷里の森町に帰ってきたのです。
 

女性にも自分の人生を切り開いてほしい

 現在、私は年間に約100本の講演を行っています。さまざまな場所で、いろいろな人を対象に、それぞれの目的にあった話をしています。その中には、静岡県が進めている、「男女共同参画社会づくり宣言事業所」の推進を目的にした、企業対象のセミナーの講師なども含まれています。
 男女共同参画関連のセミナーで私が話すことは、「女性にも、自分で人生を切り開いてほしい」ということ。確かに現在の日本社会では、女性はさまざまな制約を受け、やりたいことができないという現状があるのかもしれません。しかし、そんな環境に負けてはいけないと思うのです。どんなに悪い環境にあっても、それをはねかえして思いどおりの人生を女性たちに生きてほしいんです。
 私との出会いをきっかけに、自分自身を変えた1人の女性がいました。焼津市大井川で、造園会社を営むご主人と暮らす50代の専業主婦だった彼女は、「一度貧乏神神社をお参りしてみたい」と言うのです。「それなら、チンドンの格好をして参拝するといいい」と勧めてみると、なんと彼女は大型バスを用意し、約50人の仲間とチンドンのいでたちで飯田市の貧乏神神社に参拝しました。その後、彼女はご主人まで巻き込んで、「夢チンドン大井川」というチンドン隊を結成。文化交流事業などに参加して、昨年はポーランド、今年はドイツに出かけました。きっと彼女は、思い通りの人生を見つけたのでしょう。
 私が理想とする男女共同参画社会とは、男女が性の違いを尊重し、理解しあいながら、それぞれの夢や理想を実現できる社会です。もっともっと多くの女性に、元気になってほしいと考えています。

森町三倉のまちおこしのために力を注ぎたい

 私の今後の課題は、三倉のまちづくりにもっと力を注ぐこと。森町にはまちづくりのムーブメントが起こりつつありますが、三倉にはまだ大きな動きが感じられないのです。たとえば三倉地区の町内会には、地域の祭りを運営する祭事部があるのですが、この組織は40歳で卒業することになっています。すると現在の該当者は、わずか12人程度。これでは、祭りを運営することができません。そこで今年から、祭事部を応援するOB組織を立ち上げ、私が会長に就任しました。
 一方では、三倉を離れて暮らす人と、交流を重ねていきたいと考えています。以前、関東圏に住む約150人に連絡を取り、「関東三倉会」と題して東京で交流会を行ったこともありました。50数名が参加してくれましたが、三倉を思う方々のまさに「話に花が咲く」交流会でした。そんな故郷に思いを寄せる人たちとこれからも連携をとり、まちづくり活動に協力していただけないか、などと考えているのです。
 こんなふうに、自分なりにさまざまな活動を開拓してきましたが、三倉に帰っての14年間、私の人生は必ずしも順風満帆なものであったとはいえませんでした。東京から三倉に帰ってくる時には、中学2年生だった長男の猛反発を受けました。ここ数年で両親は亡くなり、3人の子供たちのうち2人が都会をめざしていきました。時には、寂しいと感じることもあります。しかし私は、講演を通して、「辛くて元気がない時こそ、元気そうに、楽しそうにふるまおう」と皆さんに語ってきました。ですから自分が辛い時ほど、悲しい時ほど、まるで宝くじにでも当ったかのように、ふるまうことを常に心掛けています。講演活動は、そんな私の生きがいなのです。これからも地域と共に、もっともっと元気になっていきたいと思っています。

取材日:2011.11



静岡県周智郡森町生まれ 森町在住


【 略 歴 】

1997東京から森町に帰り、村おこし活動を模索
1998チンドン隊「夢街道匠一座」発足
1999「夢街道匠塾」設立
2001静岡県人づくり百年の計委員会「人づくり推進員」(~2010)
2002「災禍転福貧乏神神社三倉分社」設立、祭主となる
静岡県「地域興しマイスター」(~2007)
2003「日本笑い学会」入会 笑いの講師団登録
2005森町社会教育委員長に就任(~2009)
2007芸名「田邊口幸麻呂」使用開始
2008森町観光協会常任理事就任

一覧に戻る(前のページへ)