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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

細やかな心づかいで家族や地域を支えながら、
高齢者・障害者の自立を促す介護専門住宅を提供。

鈴木三雄(すずき・みつお)

鈴木三雄(すずき・みつお)


有限会社タイキ工務店 代表取締役


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タイキ工務店

高齢者や障害者が暮らしやすい家を追求

 私は、高齢者・障害者介護専門住宅の新築や改築を主に行う「(有)タイキ工務店」の代表を務めています。また、月に1回、静岡市の住宅展示場内にある「ユニバーサルデザインリフォームプラザ静岡」で、NPO法人「ユニバーサルデザイン」会員として新築やリフォームの相談も行っています。
 相談にいらっしゃる方のなかには、工務店が作成した図面を持参し、「これで良いだろうか」とお話をされる方もいらっしゃいます。拝見すると、例えばドアより引戸の方が安全ではないか、間口が狭いのではないかなどといった、疑問を感じる場合もあります。住む人にとって快適な介護専門住宅を建てるためには、建築に関する知識だけではわからないことがあるんですね。多方面にわたる勉強や、経験も必要とされます。そこで私も、福祉住環境コーディネーター2級や、ホームヘルパー2級などの資格を取得し、利用者が実際にどう動くのかということを常に考えています。
 私が心がけているのは、いかに使い勝手が良いものを提供できるかということ。手すり1本とっても、材質や位置、体の症状や、住まいの状況によって、使いやすい条件が違います。また、実際に使ってみないとわからないこともあります。私が扱った事例でも、廊下の左側に手すりを付けたところ、1週間後に右側に付け替えたいと要望があり、その後また左側に戻し、最後には両側に付けた、という家庭がありました。また、冬のトイレと部屋の温度差が怖いという悩みを聞き、室内の押し入れをトイレやシャワー室に改造したこともあります。依頼主の要望をかなえるためにはどう工夫したらよいか、毎回頭をしぼっていますね。

義父の介護で知った、思いをくみ取る大切さ

 私は独立が遅かったので、他の工務店との差別化を図るために、介護専門住宅に特化しようと考えました。理由の1つには、妻の父親の介護に18年携わったこともあります。工務店を経営していた義父は、56歳で脳卒中を発症し、仕事を断念。最初は杖を使って歩けたのですが、多発性脳梗塞を繰り返した結果、半身不随となり、71歳で車椅子の生活となりました。そのため、廊下の手すり付けや、外から屋内に入るスロープの設置、室内の段差解消、台所と部屋の間の壁を取り去り部屋を広くするなど、数々の改修工事を行いました。
 私たち夫婦は妻の実家と隣り合わせに住んでいるので、私も協力して義父の介護にあたってきました。大変だったのは、トイレでの介助。用を済ませた後、自力で車椅子に乗りたいと考えた義父は、何度かトイレで倒れ、救急車を呼んだことがあります。ある時は、車椅子のペダルとペダルの隙間に腰がはさまり、ぬけなくなってしまいました。そのときには結局、救急車を呼んだところレスキュー隊の消防車も来る騒ぎとなり、びっくりしました。
 介護の経験で知ったことは、病や高齢で体が不自由になった人の気持ちに寄り添う大切さです。独立当初、義父は現場についてきてくれたのですが、体の不自由な施主と一緒に泣いているのを、何度か目にしました。「この辛さは、たおれた者でなけりゃわからん」と、よく言われたものです。年をとり、病に倒れ、体が思うように動かせなくなった人には、健康な人には言えない深く辛い思いがあるのですね。中には、生きる意欲をそがれてしまうも人います。私は、そんな人の力になって、自立へのお手伝いをしたいと思っています。
 ことにお年寄りは家族に気兼ねして、本当にしてほしい工事を口に出せないこともあります。言葉とうらはらのお年寄りの本意をくみとって、家族にも理解してもらい、望んでいる改築をしてあげたい。そのために、コミュニケーション能力を高めたいと、コーチングやファシリテーションの勉強も続けてきました。

建築だけでなくその人の生活も手助けしたい

 さまざまな工事経験の中では、依頼者の生活に深く関わりをもったこともあります。たとえば、脳性麻痺のため50歳で車椅子生活を送ることになった、1人暮らしの男性の家を新築することになったときのこと。彼が生活しやすい家を実現しようと、一緒に設計を考えました。私が提案したのは、2方向避難ができる家。というのも、災害などの不測の事態が起きた時、玄関からしか出られないと、車椅子の彼は避難できなくなる恐れがあるのです。そこでベランダにもスロープをつくり、屋外に出られるようにしました。また、玄関から居間、台所、和室、洗面所、寝室といった具合に、車椅子で1周回れるように部屋を配置したり、リモコンによる半自動ドアを付けたりしました。
 時には、お酒持参で彼の家に泊りに行ったり、日帰り旅行をしたこともありました。体の不自由な人でも運転できる車を購入したいというので、名古屋まで一緒に見に行ったこともあります。また、彼がご近所の方や、私の友人と接する事ができるように、バーベキューや餅つきをして、地域との交流を図ったりもしました。
 一方で、義父が立ち上げた「脳卒中友の会」の活動に10年以上関わり、会合や会食の準備や、一泊旅行の介助をしてきました。会員の1人で、手すり工事を依頼された70歳の男性には、温泉旅館での入浴介助のために旅行に同行してほしいと、個人的に頼まれたこともあります。
 工事を請け負って、「これで生活しやすくなった、鈴木さんにお願いして良かったよ」と言ってもらえるのは、何よりの励みです。その上で、さらに私を頼りにしてもらえるのがうれしいですね。

ボランティア活動で地域の親睦や防災に寄与

 私はほかにも、さまざまな地域活動やボランティア活動を行っています。「(有)タイキ工務店」の開業当初、最初に携わったのが地域での活動でした。前年に、阪神淡路大震災が起きていましたから、地域の結びつきや防災活動が大切だと感じていたんです。そこで、自主的に地域を訪ね歩き、どの家にお年寄りが住んでいるのかを調査して、結果を自治会長に手渡しました。また、地域の「自主防災隊」に12年間所属し、河川敷の放水訓練や可搬ポンプの消火訓練などの活動に参加してきました。現在は町内の「凧揚げ会」の一員として、浜松祭りや夏祭りや運動会、秋祭りなどの運営に携わっています。
 一方で、静岡県社会福祉協議会が養成する、「災害ボランティアコーディネーター」にもなっています。ボランティア活動のまとめ役として、災害が起きた時にどう対処すればよいのか、勉強を続けてきました。そんな最中に起きたのが、今年3月の東日本大震災です。震災から1カ月後の4月には、福島県を3日間訪れ、津波被害の調査を行いました。参加したのは、建築関係者を中心とした15人。早朝5時に車で浜松を出発し、地震の爪痕も生々しい、いわき市に到着。あまりの惨状に、あぜんとさせられましたね。私たちは、現地のボランティアセンターを拠点に、勿来地区と小名浜地区を訪れ、沿岸約15キロにわたり1軒1軒の家を訪ねて、全壊や半壊、床上浸水などの状況を調査しました。さらにゴールデンウイークには岩手県の釜石市を訪れ、餅つきをしたり甘酒をふるまうなど、被災された方に向けてのイベントのお手伝いをしています。 

倫理道徳の勉強会での出会いが人生を変えた

 子供の頃は、1人でいるのが好きな性格でした。工業高校の機械科を卒業し、製鉄機械の会社に入社したあとも、退社後は公園で本を読んでいるような若者だったんです。人としゃべること、特に女性と話すことが苦手でしたね。
 19歳のある日、その後の人生を変えた出会いがありました。叔父に勧められて、文部科学省所管の社会教育団体「モラロジー」の、青年対象のセミナーに出席したんです。その団体は、人間性や道徳性を育てる研究活動や生涯学習活動を展開しており、昨年4月に「公益財団法人モラロジー研究所」となりました。セミナーでは若者の社会貢献の大切さを教えられ、人づきあいが苦手な私が、同研究所の勉強会に入ることにしたのです。一緒に活動に加わった、男性4人と女性4人の仲間たちの雰囲気が、とても良かったことがきっかけでした。ここで知り合った女性の1人が、1歳年下の妻だったんです。ここで学んだのは、物事には「形」と「心」があり、いくら形が良くても、心が伴わなければ意味がないのだということ。人としての行いと共に、そのもとになる心のあり方を大切にしようという考え方です。清掃活動やキャンプなどの活動を行いましたが、楽しかったですね。この勉強会には、現在も続けて参加しています。
 ほかにも、妻と私は「静岡県青年の船」に参加してフィリピンを訪れたり、手話サークルや、健常者と障害者の交流を進める「友愛広場」など、さまざまなボランティア活動に関わりました。この時、「友愛広場」の実行委員長を務めていたのが、18の団体の長を務めていた妻の父だったんです。
 その後、私は25歳で結婚しますが、28歳の時に義父が発病。その時、義父の工務店を私が再興させよう、と決意したのです。そこで、転職した住宅設備の販売会社に4年間勤めた後、建築資格を取得するために、妻と三島市に転居。工務店で働きながら、夜は専門学校で勉強しました。朝は5時に起きて勉強、日曜日にも勉強。資格を取れないと帰れないんですから、人生で初めて本気で勉強しました。学科と設計製図を勉強し、4年後に、2級建築士の国家資格に合格。晴れて独立した時、義父のお世話になった社長が、「大器晩成」の意味をこめて、「(有)タイキ工務店」と名付けてくれました。 

男女の役割にとらわれず家族みんなで支え合う

 今年4月、「浜松市男女共同参画センター」で、東日本大震災で私が行った支援活動の報告を行いました。その時には、私の妻も報告を行っています。妻は、私とは異なる立場で東日本大震災復興支援の活動に参画し、宮城県や岩手県を訪れていたのです。
 私の家庭のあり様は、普通の家庭のそれとはだいぶ違っています。私が現在、生活を一緒にしているのは、妻の兄と、妻の母です。食事は、料理好きの義兄の担当。私は、洗い物や掃除などをしています。一方、妻は、兄嫁と一緒に横浜で暮らしています。
 この家族形態は、「東京の大学に、社会人入学をしたい」という、妻の一言から始まりました。当時、妻は45歳。私たちは子宝に恵まれず、妻は浜松市の社会保険労務士事務所に勤務していました。人事関係の仕事でキャリアカウンセリングの勉強をしていましたから、もっとしっかりと勉強したいと思うようになったのでしょう。
 その頃はまだ、義父を在宅介護していましたから、そんな義父をおいて行くのかと、私は反対しました。しかし、若い頃のボランティア活動や、勤務の様子を見ても、家にじっとしているような女性ではないと理解していましたから、入学試験の合格を期に、仕方あるまいと了解したわけです。妻は、法政大学の「キャリアデザイン学部」社会人枠の第2期生として入学し、1人暮らしをすることになりました。やがて、ファシリテーターやコーチングの仕事を知り、自分なりの生き方を見出していったのです。
 一方、義兄は、静岡大学工学部の助教授として化学を教えていたイギリス人女性と、交際するようになっていました。イギリスで父親が亡くなり、一時帰国していた彼女は、再来日して横浜のインターナショナルスクールに就職。浜松市の企業に勤めていた義兄と、平日は別居という形で結婚することになりました。そして7年後、兄嫁の双子出産という新たな課題がもちあがりました。帝王出産後の具合が悪く、1週間後に再手術を受けることになり、生まれたての双子が一時期、我が家にやってきたこともあります。その時は、私もローテーションに入って夜中の授乳を担当するなど、家族総出で育児に追われましたね。
 そして大学を卒業した妻は現在、横浜で教員を続けている兄嫁の子育て支援をしながら、東京を中心に仕事をしているというわけです。

数々の課題を乗り越え、実現させた家族の形

 私には、男性だから女性だからという意識は、若い時からありません。豆腐屋を経営していた両親は、忙しく働いていましたから、私は家事を手伝いながら成長したんです。
 青年期のボランティア活動でも、男性女性の区別を感じることは全くありませんでした。むしろ、女性の方がばりばりと自分の意見を主張していたという印象を持っています。恋人時代だった妻との関係も対等で、妻が内閣府の「青年の船」に参加したいとインドやスリランカに50日間行ってしまったため、婚約期間が1年を超えてしまったこともありました。
 近年になって「男女共同参画社会」という言葉を聞いた時、私は「なんだ、あたりまえのことじゃないか」と思ったものです。なにしろ今や、我が家には男性も女性もなく、家族みんなが自分にできることを行い、補い合って家庭生活を送っているのですから。我が家の場合、義父の介護や私の独立、妻の大学入学、兄嫁の双子出産などの課題が次々に起こり、それに対応するためには、家族が力を合わせて乗り切らなければならなかった。しかし、そのことによってみんなが助け合い、まとまって、逆にとても良い関係になった。本当の家族になれたのだと思えるのです。
 世の中の家族には、いろいろな生き方や、それぞれのスタイルがあります。私たち夫婦や義兄夫婦は、はたから見ればバラバラに生きているように見えるかもしれません。しかし私は、夫婦2人がお互いに理解しあい、フォローしあうことで、自分たちの人生を完成させたいと思っているのです。

日本人本来の道徳心を大切に人生を生きたい

 今の日本の家庭のあり様を見ていると、男女共同参画というより以前に、家族としての根底が崩れているような気がしてなりません。夫婦の仲も、親子の関係も、どこかバラバラのように思えるのです。
 その原因は、親を思い、国を思うという、日本人本来の道徳心がゆるんできたことにあるのではないか、と私は感じています。目上の人を敬うこと、より良い親子関係を築くこと、正しい言葉づかいをすることなどの、日本人の良いところが、戦後の高度経済成長や効率主義の中で、次第に忘れ去られてきたのではないかと。本来、経済と道徳とは一体のものではないか、と私は思います。企業の目的は利益だけではなく、人を育てることが本来の仕事ではないでしょうか。人を育てる過程で、日本人の良さや、助け合いの精神を再び見いだしてほしい。それが、教育につながるのだろうと思っているのです。
 私は今、町内の活動の一環として、子供たちに浜松まつりのラッパを教えています。子供たちに接しながら、道徳心も教えていきたいですね。そして、子供たちをとおして、大人たちもまた変わっていってほしい、と願っています。
 どんなことにも、どんな人にも「心づかい」を大切にする。これが私の、仕事やボランティア活動、人生に対する姿勢です。この気持ちを大切にしながら、これからも縁のあった1人ひとりと接していきたいと考えています。

取材日:2011.10



静岡県浜松市生まれ、浜松市在住


【 略 歴 】

1979「モラロジー研究所」青年対象のセミナーに出席
1981各種ボランティア活動に従事
1987妻の父が脳卒中で倒れ、家業の工務店を閉じることに
1995二級建築士の国家資格を取得、「(有)タイキ工務店」を設立
2004妻が法政大学に社会人入学
2010妻の兄夫婦が別居婚のまま、双子を出産
2011東日本大震災の津波調査で福島県へ。その後イベントで岩手県を訪れる

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