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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

音楽ボランティアに専心するあまり失敗したことも。
現在は仕事、家庭、活動を維持しながら夢を追う。

安田成希(やすだ・なるき)

安田成希(やすだ・なるき)


こどもからお年寄りまでみんなのバンド
コンソメWパンチ 代表

清水町役場福祉課 保育士


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コンソメWパンチblog

好きなことを活かした音楽ボランティア

「コンソメWパンチ」は、バンド演奏を通じて子育て支援や音楽療法を行う、音楽ボランティア団体です。大学時代に私と同級生の4人で結成し、現在の登録メンバーは30人ほど。それぞれ仕事をもちながら活動しており、私も平日は保育士として働いています。
 私たちのコンサートは、オリジナルソングの演奏、体を動かして楽しむ「遊び歌」などからなる、来場者参加型のもの。子供たちをはじめ、お父さん、お母さん、高齢者や障がい者の方々にも楽しんでいただけるものです。
 立ち上げのきっかけは、大学1年のときに「5日間のボランティア」が夏休みの課題となったこと。私は、保育や介護について学ぶ学科に在籍しており、単位取得のためにボランティアをする必要があったんです。でも、何か引っかかるものがありました。「強制されるのがボランティアと言えるのか」って。今思えば、先生は私たちにいろんな経験をさせたかったのだろうと思います。でも、当時の私は「先生、それは違うよ」と食ってかかった。先生に「じゃあ、君はどうするのか」と問われ、私は自分がやりたいと思うボランティアを自発的にしますと答えました。
 そのときは、まだ入学直後の4月。私は出会って数回しか会ったことのない同級生に声を掛けました。たまたま、近くの席に座っていた3人に。
 私が「オリジナルなことがやりたい」と言うと、「やろう」と即答してくれた佐野君。「ギター買ったよ」と翌日すぐに知らせてくれた槙山君。「自分にできることを探すよ」と言ってくれた山田君。私たちは、好きなこと、得意なことを活かすのがボランティアだと考えました。そして、それが音楽だった。じゃあ、音楽を使って何かおもしろいことをしよう――そこから、コンソメWパンチはスタートしたんです。

「キリンはビール」の遊び歌が生んだ出会い

 バンドを結成した私たちは、課題どおり、夏休みに5日間のコンサートを開催しました。「イヌが鳴いたよ―ワンワンワン」。「ネコが鳴いたよ―ニャーニャーニャー」。「キリンが鳴いたよ」――「ビールビールビール!」。訪問先の保育園では、ウケを狙いつつ(笑)、動物の鳴きまねをする遊び歌を歌いました。これは、音やリズムに合わせて体を動かす「リトミック」という手法を取り入れたもの。リトミックは脳の活性化を促すとされ、子供の音楽教育や高齢者のリハビリ体操にも用いられています。私たちはそれを誰でも楽しめるようにアレンジし、オリジナルの言葉遊びや手遊びにしたんです。
 コンサートは大成功! 子供たちと一緒に体を動かして、歌って、楽しい時間を過ごすことができました。
 後日、このときの保育園に通う園児のお母さんから手紙が届きました。中には、お母さんと担任の先生とのやりとりが書かれた連絡ノートのコピーも一緒に入っていました。そこに書いてあったのは、「うちの子が、キリンはビールって鳴くと言っているのですが、保育園で何があったのですか」。手紙によると、その子は自閉症で、人と目を見合わせて話をすることがとても苦手だったそうです。ところがある日、楽しそうに「キリンはビール」と話してくれた。それが、その子が初めてお母さんと目と目を合わせてした会話で、お母さんはすごくうれしかったのだそうです。それで、保育園の先生に私たちのことを聞き、いろいろ調べてくださってお礼の手紙をくださったんです。
 初めてのコンサートでそんな出会いに恵まれたなんて幸運ですよね。私たちはその手紙を読んで、泣きながら「コンサートをやってよかった」と言い合いました。
 夏休みの課題として始めたボランティアですが、そのまま年間をとおして活動を続けました。結局、その年に回ったのは20ヵ所くらい。訪問を重ねるごとに、どんどん楽しくなっていきました。

法人化を目指し、卒業後も活動を続けることに

 活動に転機が訪れたのは、大学4年生のとき。結成2年目からはサークルとして申請し、慰問を続けていましたが、初めて自分たちでコンサートを主催したんです。これでコンソメWパンチを卒業するつもりで、いろんな方を無料で招待しようと。それが、「Thanks LIVE」です。同世代のアーティストもたくさん呼び、350人ほどのお客さんに来ていただきました。いつも応援してくれた人、初めてコンサートに来てくれた人、スタッフの方々。たくさんの人に支えてもらって、活動4年目、67回目のコンサートは最高の思い出となりました。
 しかし、それが終わりではありませんでした。ライブ以降、たくさんの問い合わせをいただくようになったんです。出演依頼の連絡もたくさんいただいて。私もやめたくないと思い始め、起業を考えるようになりました。私は就職活動をし、7つの内定をもらっていましたが、すべてお断りしました。法人化を目指し、NPOとして活動を続けていく決心をしたんです。当時、メンバーは後輩を含め30人。設立メンバーのうち2人は就職し、コンソメWパンチの活動を卒業することになりました。
 卒業してからは、学内の大学生だけでなく、社会人の方、障がいのある人などもメンバーに加わりました。手を挙げてくれた人は誰でも引っ張ってあげよう。そう思いました。ここでならきっと誰でも明るくなれる。楽器ができなくても、その人の好きなことや得意なことがどこかで活かせる。だから一緒にやろうと。
 それから1年間、さまざまな活動をしました。「Thanks LIVE2」では、活動を通じて知り合った松野下琴美さんが取り組む「未来予想図プロジェクト」と連動し、子供たちに未来の絵を想像して描いてもらったり。彼女が日本支部長を務める環境NGO「コーディリエラ・グリーン・ネットワーク」主催のエコサミットに出演するために、フィリピンにも行きました。現地の子供たちに向けて英語の遊び歌をしたのですが、言葉が通じなくても関係ないなって。音楽に国境はないなって。フィリピンの子供たちのたくさんの笑顔に出会えた、素敵な体験でした。

活動の背景にある、自身へのコンプレックス

 私は、高校時代から福祉について学んできました。福祉科に進学し、介護福祉士の資格も取得しています。きっかけは、私が5歳のときに生まれた弟が1歳で亡くなったこと。弟は生まれつき心臓病をかかえており、ずっと入院していました。私はほとんど会いにいくこともできず、抱っこしたことも数えるくらいしかありません。亡くなったのは私が小学1年生のときのことですが、それがとても残念だった。弟にできなかったことを何かをすることで返したい。弟にしてあげたかったことを他の子にすれば、弟にしたような気持ちになれるのではないか。そう思って、保育士になることが夢になったんです。
 私は保育士になる近道を探し、福祉科のある高校を選びました。介護の資格を取れば、保育士になる自信がつくだろうと考えたんです。大学も、保育と介護を両方学べる静岡英和学院大学の地域福祉学科に進みました。
 さらに言えば、自身に対してのコンプレックスも背景にあります。私は、勉強が得意ではありませんでした。福祉科を選んだのには、中学校の友達は誰も同じ科に進まないから、「この分野でなら勝てる」という気持ちもあったんです。大学進学のときも、高校の福祉科から入学する人は稀だから、ここでならはじめて一番になれるかもしれない、そう思いました。
 私は、同世代で活躍している人を見ても、「悔しい、勝ちたい」とすごく思います。同級生の松野下さんはまさにそういう対象。魅力的な活動をしていてすごいなと思う反面、コンプレックスも感じる。ライバルであり、ベストフレンドでもあるんです。
 コンソメWパンチの活動を続けているのも、根底にはそういう気持ちがあります。「他の人がやらないこと、できないことをやりたい」。そういう気持ち。私個人はつまらない人間で、団体の仲間がいてこそ私もやりたいことができる――そんな思いが活動の発端にあった気がします。
 当時付き合っていた彼女に言われたことがあります。「あなたにとって一番は団体、二番は仲間」と。ああ、なるほどと思いました。実際、そうだなと。彼女は私から離れていきましたが、それでも自分はこの活動を続けたかった。仲間がいる以上、やりとおさなければ、と。そのときの私には、コンソメWパンチしかなかったんです。

起業を断念し、企業の傘下に入るも挫折

 NPO法人の設立は、結局はうまくいきませんでした。営利を求めず、30人のメンバーがいる団体を運営していくことはやはり難しかった。メンバーの交通費を出すこともできず、「いつかやりたいことをするために」とずっと貯めていた貯金もどんどん減っていきました。
「これじゃあ、絶対だめだ」。そう思っていたときに、お世話になっていたイベント会社の社長から「自分たちの会社に入らないか」とのお誘いをいただきました。これでみんなが納得してくれるなら、みんなが生活していけるなら――そう思い、私はそのお話を受けることにしました。
 しかし、この選択もうまくいきませんでした。会社とは利益を求める場ですから、どうしても商業的に考えなければならない場面がでてきます。結果、自分たちの信念にずれが生じ、仲間は1人、2人といなくなっていきました。
 私たちはこれまで、生活とか仕事とか、そういうことを考えてはこなかったし、甘いかもしれませんが、ボランティアを始めたときの気持ちを失いたくありませんでした。どうしても学生時代の感覚が抜け切れず、結果として会社の期待に応える事ができませんでしたし、なにより私たちのことを心配して声をかけてくださった社長になんの恩返しもできませんでした。それで、結局その会社からも抜けることになりました。しかし、その代償は大きかった。社会的な信用を失い、男として仕事ひとつこなせない自分が情けなかったです。
 そして、振り返ってみたとき、メンバーは私を含めて6人になっていました。

結婚を機に就職、活動も再スタートすることに

 コンソメWパンチの活動はストップし、仕事を失い、仲間は離れていってしまった。これから何をしていいのかもわからない。その頃はとても辛い時期でした。しかし、ある人が私を救ってくれたんです。2学年後輩のメンバーである、私の妻の恵理です。
 恵理は、私が団体のことを最優先することに対して、唯一「それでいいと思います。がんばっている先輩がかっこいいです」と言ってくれました。彼女にふられたときは、周りの女の子に「先輩、それはないよ」なんて言われたけれど、恵理はそのままでいいと言ってくれた。私は、その言葉にすごく救われたんです。
 その後、恵理の妊娠がわかり、結婚することになったのを機に、コンソメWパンチも新たな形で再スタートすることにしました。「僕の人生が変わるきっかけ、チャンスになるかもしれない」。そう感じ、私は静岡市の部屋を引き払って函南町にある実家に戻り、地元で就職することにしました。
 私には就職するにあたって、3つの希望がありました。1つ目は、休日にコンソメWパンチの活動が自由にできること。2つ目は、妻と子供との3人の生活を支えていけること。3つ目は、週1回、幼稚園でのレスリング指導を続けさせてもらうこと。
 私は、父の影響で3歳の頃からレスリングを続けているのですが、レスリングを園児の指導に取り入れたいという静岡市の幼稚園からのお話があり、毎週火曜日に子供たちに指導をしていました。私にとってこの3つは、どれも大好きで大切なもの。どうしても続けたいことでした。そして、それを理解してくれた保育園に就職させていただいたんです。
 この保育園では、昨年8月から今年の3月までの契約で勤務しました。短い期間でしたが、すごく評価していただきました。「男性保育士がいかに必要であるかがわかった」と言っていただき、ありがたいことに、子供たちのおかげで人気者になることもできて。それで、契約終了後もずっと園に残ってほしいと言っていただいたんです。しかし、そのためには、他の活動をすべて辞めてきてほしい。この保育園に骨をうずめる覚悟で来てほしいと、そういうお話でした。とてもありがたいお話でしたし、感謝しています。
 どうするべきなのかを相談するため、妻と家族会議を開きました。でも、5分くらいで終わりました。やっぱり、やりたいことをやろう。正しい選択かどうか考えることも大事だけど、今はまだ若いから、好きなことに取り組めばいいんじゃないか。そう話し合いました。
 現在は、清水町役場の福祉課に勤めています。町内の商業施設内にある「清水町こども交流館」で保育士として働いているのですが、こちらでも3つの希望についてご理解をいただいています。

自身が父となり家族や仲間の大切さを実感


 以前の自分は、24時間、コンソメWパンチのことだけを考えてやってきて、失敗したこともありました。しかし今は、仕事と家庭、団体をそれぞれ維持することがいちばん大切だと考えています。仕事も家庭のこともしっかりこなしてこそ、社会貢献もできる、と。
 私がそう考えられるようになったのは、父の生き方を見ているからです。両親は私が小学3年生のときに離婚したため、私はそれ以降、父と一緒には暮らしていません。しかし、私が世の中でいちばん尊敬しているのは父。いつか超えたいと思う存在です。
 父はレスリングの選手で、モスクワ五輪の代表候補に挙がったほどの実力者です。現役を続けながら仕事をするには自営業しかないと考え、居酒屋をはじめてもう28年になります。現在55歳ですが、三島市で道場を開いており、試合でもマスターズリーグで優勝したりしています。
 父は、好きなレスリングを続けるために、自分の身体ひとつで身を立てました。だから、自分もコンソメWパンチのために仕事の環境を整えよう。父にできて自分にできないことはない。私はそう考えました。
 現在は、実家で母と妻、今年1月に生まれた長男と暮らしています。といっても、母は私たち家族の暮らしには基本的にはノータッチ。助け合えるところは助け合うけれど、それぞれが独立し、生活は自分たちで維持していくというスタンスです。両親とも、私に対して、子供のときから1人の人間として対等に接し、個人を尊重する姿勢は徹底していました。両親のことを「お父さん、お母さん」とは呼ばず名前で呼び合っていたのもその1つです。
 両親のそういう姿勢は、私を信頼し、認めてくれるからこそできたことだと思います。だから、進学、起業、就職、結婚と、私のすることを1つも否定せず、任せてくれた。私もそれで自由になったとは思わず、信用してもらっているのだからお返しをしなくてはと考えるようになりました。
 私自身も父親になってみて、わかったことがたくさんあります。私を信頼し、応援してくれる家族や仲間がいること。恵まれた環境で仕事ができていること。すべてのことに「当たり前」と思わず、その反対の言葉である「ありがとう」という気持ちをもつこと。コンソメWパンチのコンサートでは、お父さんとお母さんに対して「ありがとう」というメッセージを込めた歌を歌います。私は今まで、その歌を子供の視点で、両親の顔を思い浮かべながら歌っていました。しかし今は、子供が私や妻に対して「ありがとう」と思ってもらえるよう、気持ちを込めて歌うようになりました。これはすごく大きな変化でしたね。コンサートを見に来てくれる子供たちや自分の子供、メンバーにも、素直にありがとうという気持ちを言える人間になってもらいたい。子供ができて、余計にそう思うようになりました。

子供たちとともに学び、育む「共育」を


 これまで、たくさんの人たちの前でコンサートをしてきて、たくさん笑ってもらいました。でもそれは、お客さんたちに助けてもらっていただけなのかもしれません。子供たちは、何をしても笑ってくれるし、楽しんでくれるんです。はじめは、それを自分たちの力で成し遂げたかのように思ったけれど、子供たちが楽しむつもりで来てくれたからこそ、楽しんでもらえたのだと今は感じます。そう考えると、もっと自分たちにできることがあるはずだ、もっとプロ意識をもたなければと思いますね。
 現在、学生たちは「カラフルパンチ」という団体名で独自に活動を続けてくれています。卒業して4年になるので、直接関わった後輩はもうほとんどいませんね。私はこれまで、リーダーとして、後輩に厳しいことをたくさん言ってきたし、努力も求めました。でも、メンバーはそれぞれ、保育者や教育者になるための勉強をしてきています。彼らには、子供たちの転んでも絶対に立ちあがるポジティブさを自分たちも忘れずに、子供たちと接してほしい。そう思っているんです。
 私は、ある子から「川の水はなんで流れるの」と聞かれたことがあります。それに対して、自然の物理を説明することは「教育」だと思います。だけど、私たちの教育とは、まずは「よく気づいたね」と褒めてあげること。そして、一緒に勉強し、探していくこと。これは、ともに育む「共育」です。子供の学ぶ意欲を向上させて、ともに成長していく、私はそういう教育者でありたいし、後輩もそうあってもらいたいと思っています。
 30人いれば、そのなかにはいろんな人がいて、みんな違う個性をもっています。30色の色鉛筆で同じ場所を塗っていったら、ものすごく汚い色になります。でも、黄色と赤ならきれいなオレンジ色になる。私ができることは、うまい配合を作っていくことです。その人がいちばん輝ける場所を作ってあげる。もっと自信をつけさせて、もっともっと育んであげる。そうすれば、それが後輩の後輩にも繋がっていくだろうと。コンソメWパンチが今後、どんな形になっていくのかはまだわかりません。それでもずっと継続していくこと。それが私の夢です。
 長男が20歳になったとき、私はまだ44歳なんです。絶対に、そこからまた何かできるなって思います。音楽じゃないかもしれないし、子供たちに関わることでもないかもしれない。でも、きっと楽しいことがまだ待っているはず。だからそれまでずっとメンバーの絆を保っていきたいし、同じ世代のみんなで高め合っていきたい。そうすれば、きっといい静岡になっていきますよね。そんな未来を作れるよう、まだまだがんばっていかなければなりませんね。

取材日:2011.8



静岡県三島市生まれ 田方郡函南町在住


【 略 歴 】

2005静岡英和学院大学地域福祉学科の学生有志で音楽ボランティア団体「コンソメWパンチ」を結成
2007しずおか子育て未来大賞 ふれあい子育て応援部門 奨励賞 受賞
2008コンソメWパンチ「Thanks LIVE」 開催
2009立ち上げメンバー卒業に伴い活動形態をNPOに
2010コンソメWパンチ「Thanks LIVE2」 開催
環境NGOコーディリエラ・グリーン・ネットワーク主催「第3回コーディリエラ・ユース・エコサミット」ゲスト出演
イベント関連会社の傘下に入ったのち独立、市民団体として再び活動開始
函南町にある保育園で勤務
結婚
2011長男誕生
清水町役場福祉課 勤務

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