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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

保健師として、1人の若者として地域づくりに貢献。
間もなく誕生する息子の子育てにも全力投球したい。

伊藤貴規(いとう・たかのり)

伊藤貴規(いとう・たかのり)


磐田市健康福祉部健康増進課 保健師


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磐田市

「男性保健師いいよ」と多くの人に伝えたい

 私は看護学部で学んでいた大学生のときから、いつか保健師になろうと決めていました。看護師と保健師の資格を両方取得するのだから、どちらも経験してみたい。そう思っていたんです。
 大学卒業後は看護師として就職しましたが、3年目の2008年、磐田市役所で保健師として勤務することになりました。現在は、特定健診の受診者に対して特定保健指導を行うほか、母子相談、地域や企業での出前講座、成人保健分野の学生指導などの業務に携わっています。
 特定保健指導では主に家庭訪問をさせていただいていますが、地域の方と触れ合って話をするのは楽しいですね。私は人見知りをまったくせず、話好きなタイプ。大学時代は、先生に看護師よりもセールスマン向きだと言われました(笑)。家庭訪問では、気づいたら2時間話し込んでいたなんていうこともありますね。なかには、話しているうちに遠い親戚だったことがわかり、「身内に言われるんじゃ、がんばらなきゃな」と言ってくださった方もいます。もちろん、保健指導が目的で訪問させていただくのですが、看護師時代から心がけているのは、看護師と患者、指導者と指導される側という立場の前に、あくまで1人の人間対人間だということ。健康に関する話をすることも大事ですが、ざっくばらんな日常の会話から気づくことも多々あります。話を聞くなかで、その人に合ったアドバイスをするよう心がけています。保健師の仕事は、地域の人と繋がる仕事。それがいちばんの魅力です。
 男性の保健師はまだまだ少数派で、磐田市でも私が初です。保健師の仕事とは、地域の老若男女が対象。女性だけでなく、男性の視点も取り入れたほうが、より広い視野で地域を見渡せますし、住民の方々のニーズも的確に把握することができます。私が保健指導をしていても、男性同士だから話していただけたと思う場面も多々あります。私は、母校の後輩が実習に来たときなど、「男性保健師いいよ」と伝えているんです。少しずつでも男性の保健師が増えていけばいいですね。
 じつは妻が現在妊娠中で、今年12月には長男が産まれるんです。子供が産まれたら、子育てを通じて勉強したり体験したことを、仕事にも活かしていきたいと考えています。今は、子育てが楽しみですね。

医療従事者としての使命感から被災地へ

 今年6月、県の公衆衛生チームの保健師として、東北沿岸部へ被災地支援に行きました。8月には、市のボランティア随行職員として再び現地を訪れ、10月にも再訪する予定です。東日本大震災が起こった日、テレビ中継を通じて被災地の状況を知り、私は居ても立ってもいられませんでした。医療従事者として何か役に立たなければいけない。ここで動かずしていつ動くんだという思いに掻き立てられました。そして翌日、上司に保健師派遣の話が来たら行かせてほしいと申し出たんです。
 私が訪れたのは、岩手県山田町。現地に入ってまず思ったのは、「これが本当に現実なのだろうか」ということです。まるで、テレビや写真で見た原爆投下後の、広島の焼け野原を見ているような感覚を覚えました。震災から2ヵ月半がたっているにもかかわらず、まだ手つかずの部分も多く残っていました。
 私は、避難所で暮らす被災者の方の血圧測定や健康相談を担当するほか、自宅に残っている方のお宅を1軒ずつ訪問し、体調を伺ってまわりました。被災者の方と接していると、どの方も本当に我慢強いんです。不満を言わず、お互いに協力し合って生活している。辛い思いをしているはずなのに、逆に私たちに感謝の言葉をかけてくださるんです。しかし、本当は何かしてもらいたいことがあるにも関わらず、遠慮し、ため込んでいるようにも感じられました。
 印象的だったのは、70代くらいの女性の言葉。「こういうことを経験して、自分もまたひとつ勉強させてもらった」とおっしゃったんです。現代は恵まれすぎているから、子供たちもこの経験によって学び、よりいい子に育つはずだと。心に不安をかかえながらも、この年齢でまた勉強できたと前向きにとらえ、がんばっていらっしゃる姿には、考えさせられるものがありました。

被災地で奮闘する男性保健師に出会う

 山田町では、現地の男性保健師にも出会いました。同じ男性保健師で共に20代ということもあり、仲良くなったんです。彼は2000人が逃げてきた町役場で3日間を過ごし、その間、口にしたのはおにぎり1個と水だけ。しかし、お腹が空かず、眠くもならなかったそうです。
 臨月の妊婦さん、怪我による出血がひどい人、自宅で酸素療法をしていた人、麻痺のある人、精神疾患のある人――2000人のなかにはいろんな人がいます。そこで彼は、誰を先に病院に搬送させるか、優先順位をつけることも求められたそうです。彼自身も被災者のため、1ヵ月間は避難所で生活したのですが、その間は避難者のトイレの介助などにもあたり、ほとんど眠れなかったそうです。彼は地区の消防団にも所属しており、地震発生直後から、水門を閉めにいったり、幼稚園児や高齢者を高台に逃がしたりと活動していました。
 彼が言っていたのは、いざというときには、地域の繋がりがいちばん大事であるということ。顔見知りの存在、日々の付き合いがいかに大切か。彼自身、消防団以外にも、高校のサッカー部のコーチをしたり、地域や学生との繋がりがありました。それらの若い力は、被災直後から活躍したそうです。
 もし、今後静岡で地震が起こったら、私も彼と同じ立場に立つことになるかもしれません。その可能性を考えれば、保健師として今被災地に行き、現場を経験することは、私にとってとても重要だと思うんです。保健師という立場でなくても、静岡で暮らす以上、被災した現場を見ることは必要なことだとも思います。地震が起こり、津波が来たらどうなるのか。その後何が必要になり、どんな行動をとるべきなのか。私たちは、今回の地震から学ばなければいけないのではないかと感じています。

若者同士が集い学び合うことで地域も元気に

 私は、個人的に地域活動にも関わっています。現在、「若者いわたネットワーク」という団体の立ち上げメンバーとして、ボランティア活動などを行っています。この団体のメンバーはすべて、18歳から35歳までの若者世代。磐田には私たちの世代が交流できる団体がなかったので、2年前にその受け皿として設立しました。
 主な活動内容は、「いわたゆきまつり」の運営や市内の美化活動。「たのしみ隊」「きれいにし隊」「磐田を知り隊」など、いろんな「隊」があり、それぞれが企画をしています。立ち上げ時7、8名だったメンバーは、現在80名ほどにまで増えました。ここから、地域の若者の輪がどんどん広がっていますね。
「いわたゆきまつり」とは、岐阜県から運んできた100トンほどの雪で雪山をつくり、子供たちに楽しんでもらうイベントで、毎年1月に行っています。以前は地区の青年団によって運営されていたのですが、廃止の話が持ち上がり、このイベントに思い入れのある人たちが有志で引き継いだんです。その活動が広がり、現在の「若者いわたネットワーク」に繋がっています。
 さまざまな活動を通じて、地元企業や行政、各種団体の方々と接する機会もあります。社会福祉協議会や商工会議所などからお声がけいただいてボランティアに参加したり、市の催しに関わることもあります。
 メンバー間での勉強会なども行っていて、銀行員はお金について、自動車整備士は自動車のパンク処理というように、メンバーそれぞれの専門分野を活かした講座も開いています。
「若者いわたネットワーク」は、地元の若者同士、そして、地域と若者を繋ぐ場です。さらに、それらの交流をとおして、メンバーそれぞれが楽しみながら成長できる場ともなっています。そこから若者の友好の輪を広げていくとともに、1人ひとりが地域で活躍できる人材へと育っていけたらと思い、活動を続けています。

大好きな祖父母と「スーパーウーマン」の母

 そもそも、私が医療に関わる仕事をしようと思ったのは、祖父母のいる家庭で育ったことが影響しています。私の実家は地域のコミュニティのような存在でした。私が小学校から帰ると、近所のおじいちゃん、おばあちゃんがいつも集まっていました。私は祖父母とも大好きで、地域のお年寄りと触れ合う機会もたくさんあるなかで成長したんです。現在、仕事で高齢者の方々と自然に接することができるのも、当時からの経験によるところがあると思いますね。
 祖父は私が中学生の頃に認知症になり、高校時代には症状がだいぶ進行していました。祖父の世話をするのは、主に母の役目。母は、家事もほとんど1人でこなしていました。自宅の隣にある仕事場で父の製材の仕事も手伝っていて、木材を肩に担いだりもしていましたね。かなり筋肉もあって、私は高校生になるまで腕相撲でも勝てなかったくらい。母は「スーパーウーマン」だと思いますね。それだけの仕事をこなしながら、私に対しては大変だとは決して言いませんでした。
 母は、私が大学2年生のときに祖父が亡くなるまで、自宅で介護を続けました。といっても、そのために家のなかが暗くなるようなことはまったくなく、いつも笑いが絶えませんでした。祖父も、いてくれるだけで場を明るくしてくれるような存在でしたね。今思えば、そういう家庭内の雰囲気は、母の力によるものが大きかったような気がします。
 看護の勉強をしようと思ったのは、看護師がいちばん患者さんに寄り添えると思ったからです。女性ばかりの環境だということについては、違和感はとくにありませんでした。姉が3人いるので、物おじしない部分もあるのかもしれませんね。幼い頃から男女関係なく、誰にでも気軽に話しかけていました。
 当時から思っていたのは、20代のうちは何にでもチャレンジしようということ。看護師と保健師を両方経験したいと思ったのも、どちらの実習も楽しかったことに加え、より多くの経験をしたかったこともありました。就職先に選んだ聖隷三方原病院でも、忙しい現場でより多くのことを感じ取りたいと思い、救命救急センターを希望したんです。生と死に正面から向き合う集中治療室の現場では、健康に生きている日々のありがたみを実感しました。私にとってとても貴重な体験をすることができたと思っています。
 私は現在28歳です。仕事でも、地域活動でも、いろんなことにチャレンジしている段階ですね。今は、さまざまな活動に顔を出して経験を積むとともに、人脈も広げていきたい。そして今後、30代、40代となったときに、何らかの形でそれらを活かしていきたいです。

両親を目標に新たな3世代家族を築きたい


 私は、今年の1月に結婚しました。妻も看護師で、彼女は2年前、祖母の入院先の病院に勤めていました。
 祖母はずっと元気だったのですが、脳梗塞を患い亡くなりました。私は看護師でしたから、入院中の祖母の心電図などを見て、もう先が長くないことがわかっていました。それで2年前の9月、仕事を休んで祖母に会いにいき、担当看護師と一緒に体拭きをさせてもらったんです。そのときの担当看護師が妻で、それが私たちの出会いとなりました。祖母が亡くなったのは、体拭きをした翌日でした。
 妻は出産を控え、現在は退職し家事に専念しています。私は1人暮らしの経験がないのですが、家事に対しての苦手意識はないですね。妻が退職するまでは、洗濯やアイロンかけ、お弁当づくりなども率先してやっていました。妻が作っているのを見ていたら触発されてしまい(笑)、今は2人で赤ちゃんの洋服やよだれかけを作るのにもはまっています。子供が産まれたら家事も育児も分担し、積極的にかかわっていきたいですね。
 できれば、育児休業も取得したいと思っています。「育休をとって子供と関わることって、こんなに素晴らしいんだよ」と伝えていくのも大切な仕事なのではないかと思うんです。現状の制度では、男性が長期の育児休業を取得するのは難しい面もあります。しかし、より多くのお父さんが短期間でも取得できるようになればいいと思います。
 今後は、私の両親が作り上げたような家庭を築いていきたいですね。今は妻との2人暮らしですが、子供が産まれたら実家に戻り、同居する予定でいます。妻は、祖母が入院しているときから「あれほど思い合っている家族はいない」と言ってくれており、同居にも賛成してくれています。苦労をかけることもあるかもしれませんが、子供にとってはそのほうがいいのかなと思います。私自身、祖父母とともに生活してきたことで、今の自分があります。家族のなかにおじいちゃん、おばあちゃんがいるというのが、私の理想の家族です。
 何でもしたい、経験したいというのが私の性格です。仕事もボランティアも、もちろん家庭でもそうです。何かを蔑ろにすることなく、これからもすべてに全力投球していきたいですね。

取材日:2011.9



静岡県天竜市(旧)生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

2006聖隷クリストファー大学看護学部 卒業
聖隷三方原病院 看護師
2008磐田市立総合病院健診センター 保健師
2010磐田市健康福祉部健康増進課 保健師
2011結婚

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