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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

「ケイリン」を女性の新たなビジネススタイルに。
元トップレーサーが競輪界を担う人材を送り込む。

滝澤正光(たきざわ・まさみつ)

滝澤正光(たきざわ・まさみつ)


財団法人JKA 日本競輪学校 校長


- WEBサイト -

ガールズケイリン GIRL’S KEIRIN
競輪オフィシャルサイト KEIRIN.JP

「ガールズケイリン」を競輪人気の起爆剤に

 2012年7月、48年ぶりに女子による競輪競走が始まります。愛称は「ガールズケイリン」。女子第1回生35名が今年5月に日本競輪学校に入学し、現在、来年のデビューを目指し約1年間の訓練を続けています。同じく2012年開催のロンドン五輪では、ケイリン女子が正式種目として採用されました。競輪学校では、女子選手のこれら新たな舞台での活躍、そして自転車競技のさらなる普及促進を見据え、彼女たちを全力でバックアップしています。
 私は、1979年に日本競輪学校を卒業、第43期生としてデビューし、29年間の現役生活を経て2008年に引退しました。引退の前年から競輪学校の教官を兼任していたのですが、引退と同時に常勤となり、昨年4月からは校長を務めています。競輪選手出身の校長は、私が初。選手としての経験を活かし、生徒指導にあたることが自らの役割だと考えています。
 生徒たちにいつも言うのは、とにかく人よりも多く練習すること。競輪は自転車という道具を使うスポーツですから、道具に慣れ親しみ、乗り込むしかないんです。何万人ものお客さんに囲まれるなかで最高のパフォーマンスをするというのは、尋常な神経でできることではありません。頭のなかが真っ白になり、パニックになってしまう。そういう状況で拠りどころとなるのは、日々の練習で自分のなかに積み上げてきたもの。誰よりも多く重ねた練習に対する信頼です。頭で考えなくても、無意識でパフォーマンスができるまで、それが身体の一部になるまで乗り続ける。それが乗り込みです。意識をして練習し、無意識で本番に臨む。私はずっとそうやってきました。
 競輪学校とは、競輪のプロ選手を養成する、日本に1校しかない特別な学校であり、いわば職業訓練校です。訓練を経て競輪選手となるためには、国家試験である競輪選手資格検定に合格しなければなりません。また、生徒には、公営競技者として賭けの対象になるという自覚も求められます。そのために競輪学校では、寮生活を通じて創立以来変わらぬ厳しい訓練と規律を生徒に課し、そのなかで強い精神力を宿せるよう指導教育にあたっているのです。

キャリアも年齢も異なる個性豊かな35人

 女子第1回生は、キャリアも年齢もそれぞれ異なる個性派揃いです。すでに自転車競技で世界選手権出場経験のある生徒もいれば、ホッケーやスピードスケートなど他競技でトップ選手だった生徒もいる。小さな子供をもつお母さんもいれば、元小学校教師、競輪場のキャンペーンガールから転身した人、5ヵ国語を話す人もいます。年齢も18歳から49歳ととても幅広い。
 ロンドン五輪に向けた日本ナショナルチームの強化指定選手も3名おり、彼女たちは今年9月から10月にかけて競輪学校で行われたチーム合宿にも参加しました。プロの競輪選手になるのと同時に、オリンピックを目指す生徒もたくさんおりますから、この3人は他の生徒の目標となっていると思いますね。
 一方で、競技未経験者も9名います。競輪学校の入学試験には、経験者対象の「技能試験」と、未経験者対象の「適性試験」の2種類があります。彼女たちは、適性試験を受けたいわゆる「適性組」。経験者は「技能組」と呼ばれます。
 技能組と適性組の間には当然、スタート時にはかなりの技量差があります。適性組は、まずはレーサー(競輪用自転車)に慣れることから始めなければなりません。そこから技能組との差を埋めていくのは、やはり時間がかかります。皆が努力しているなかで、並大抵の練習をしていては追いつくことはできません。
 しかし、そのなかでもそれぞれが一生懸命がんばっています。16日間の夏帰省期間を利用し、1,000km以上乗ってきた生徒もいました。4ヵ月にわたる乗り込みを中心とした基礎訓練を経て、それぞれ着実に成長してきています。努力を続けることで、さらに伸びていきますよ。
 競輪学校での生活は、訓練以外の時間も生徒にとって苦しいものです。自由がない。パソコンや携帯電話の使用は禁止、外出可能なのは隔週日曜日のみ。日課については男女の差はほとんどありませんが、女子はショートカットと化粧禁止も義務付けられます。とにかく訓練に集中すること。それは徹底しています。

結果が出ずとも上だけを見ていた競輪学校時代

 じつは、私自身も競技未経験の適性組として競輪学校に入学しました。中学、高校ではバレーボールに熱中しており、競輪用の自転車には乗ったこともなかったんです。しかし、競輪選手への憧れのようなものは以前から自分のなかにありました。父が競輪の大ファンで、子供のころに競輪場に連れられていったこともありますし、競輪の良さとか、選手のすごさというのをずっと聞かされてきたんです。競輪選手は、努力次第でトップに立つことができる。賞金もたくさん稼げる――。体力には自信がありましたから、思い切って飛び込んでみようと思いました。
 入学後は、苦労の連続でした。ブレーキがなく、ベルトで足をペダルに固定されるレーサー独特の構造も怖かったし、傾斜のあるバンク(自転車競技場の競走路)で走るのも怖かった(笑)。どうすれば、素人である自分が周りに追いつけるのかと考え続けましたが、やはり練習するしかありませんでした。他の人より少しでも多く練習するため、訓練の合間や、休日もほとんど外出せず、自主トレを続けました。
 しかし、結果は出ませんでしたね。競走訓練をしてもビリだったり。同期生は108名いましたが、卒業時の順位は42位でした。
 それでも、私は本気だったんです。日本一になりたい。その気持ちが支えでした。今は弱くても、いつか日本一になる。絶対日本一になる。じゃあどんな練習をしなければならないのか――日本一練習しなければならない。私は単純でしたから、そう納得し「ようし、がんばろう」と。本気度と、向上心はすごく強かった。その点に関しては自負もあります。同期には見せられませんでしたが、練習日誌の裏には「特別競輪制覇」と書いていました。特別競輪とは、もっともグレードの高い5つのレース(当時。現在はGⅠと呼ばれ6つある)のこと。私は、いつも上だけを見ていました。

特別競輪制覇から新たな人生がスタート

 競輪学校卒業後、プロの競輪選手としてデビューした私は、地元の千葉を拠点に各地を転戦する傍ら、さらに厳しい練習を続けました。1日8時間、200kmの乗り込みを自らに課し、まさに猛特訓をしたんです。なかでも印象深いのは、父との早朝練習。あの日々は忘れることができませんね。
 かねてから私が強く要望していたバイク誘導を父が引き受けてくれ、毎日早朝4時から1時間半をかけ、40kmの距離を一緒に走るようになりました。父は会社員でしたから、その後は朝ご飯もそこそこに慌ただしく出社していきます。そんな父の姿をみて、発奮しない息子はいないですよね。デビュー後、同期生たちが次々に勝利するなかで、なかなか結果が残せないでいましたが、4ヵ月後の8月、私も初優勝することができました。
 1つひとつのレースに思い入れがありますが、初優勝はとくに思い出深いものです。下位ランクであるB級のトーナメントでしたが、この世界で何とかやっていけるのではないか、そんな自信がついたレースでした。
 そして、その5年後、1984年に行われた日本選手権競輪は、私にとって特別なレースになりました。特別競輪の初タイトルで、しかも地元開催。このときは、生まれて初めて腹の底から泣きました。そして、こう思ったんです。私の人生が、ここから新たにスタートしたと――。
 通算出走回数2,457回中787勝。これが私の現役時代の成績です。1990年には、競輪学校時代の目標だった5つの特別競輪すべてを制覇し、史上2人目となるグランドスラムを達成しています。私をそこまで押し上げてくれたものは、努力。他にはないですね。自分は不器用で、天分に恵まれているわけでもなかったので、努力するしかありませんでした。練習が好きなわけでは決してありませんが、必要だとわかっていたからできたんです。他の選手が早朝3時から乗っていると聞けば「じゃあおれは夜もいっちゃおう」と(笑)。誰よりもたくさん練習しなくてはと、常に見えない敵と戦っていました。
 努力は裏切らない。必ず報われる。私は自信をもってそう言えます。だから、生徒にも自分を信じて努力してもらいたい。そう思うんです。

人間対人間の勝負だからこそ強い気持ちが必要

 2011年9月現在、生徒たちはトレーニング期間を経て、実戦訓練に入っています。競走訓練を主体とした練習によって、少しずつ実際のレースに近づけていくのです。それまでは個人でひたすら訓練していたのを、複数でもがく(全力疾走)ようにしたり、模擬レースによってさまざまなレースパターンを経験することで、最終仕上げをしていきます。
 これからは着位が付き、タイム差や実力差もより目に見える形で表れます。生徒たちにとっては、ここからが勝負ですね。これからは、持ちタイムがいい者が必ず勝つというわけにはいきません。レースでは、いかに強い気持ちをもつかが重要になってくるんです。
 競輪とは、人間対人間の勝負です。気持ちに優しさ、弱さがあれば、力を出し切ることはできません。たとえば、スピードスケートで活躍していたある選手で、対人間でのパフォーマンスが上がらない生徒がいました。スピードスケートでは、戦う相手は自分自身のタイムであり、人間と戦うわけではありません。そこが競輪とは根本的に違います。人間同士の競走に勝つためには、練習中から気持ちを強く出すこと。それが大事だと生徒にはいつも伝えています。
 さらに、レースをする上でのオリジナリティも求められます。基本的な乗り込みからもう一歩踏み込み、自分に合ったレース展開や、それに合わせた練習方法、生活習慣などをしっかりと確立してもらいたいと思います。
 私自身について言えば、レースの先頭を走る「先行」にこだわっていました。瞬発力がなく、短い距離では勝負することができなかったため、他の選手が仕掛けるより早く前にでる「早駆け」が必要だったんです。残り1周半で鳴らされるジャン(打鐘)とともに飛び出し、あとはひたすらもがくのが私のスタイルでした。風圧にさらされる先頭で1周半を逃げ切るために必要なのは、持久力と粘りです。そして、持久力を磨くためには、結局、人一倍乗り込むしかないのです。
 強い気持ちをもって先行すること。タレてもいい(先行選手がズルズルと後退すること)。失敗を重ねてもいい。守りに入らず、いけるところまでいく。生徒にも、そんな積極的なレースを心がけてほしいですね。

未来を見据え、競輪に賭ける女子生徒たち

 今の女子生徒は、1人ひとりが、ガールズケイリンの成功は自分たちにかかっているという自覚をしっかりともっています。私たちが盛り上げていかなければという情熱は、本当にすごい。腹がすわっているというか、意志の強さを感じます。
 というのも、彼女たちは男子生徒に比べて年齢もキャリアも幅が広い分、さまざまな経験をしています。さまざまなものを投げうちながら未来を見据え、競輪に賭けているんです。たとえば、3歳のお子さんを家に残して寮生活を送る者。いちばんかわいい盛りの子供を置いて自分の夢を追いかけるには、計り知れない信念や気持ちの強さが必要でしょう。また、48歳で入学を決めた者。48歳というのは、私が引退した年齢です。そこから新たなチャレンジをする姿勢、人間的な強さというのは、今後競技生活を送る上でも武器となるはずです。若い世代の者は、これから結婚したいという希望ももちろんあるでしょう。しかし、今は競輪に自分のすべてを注いでいる――。彼女たち女子第1回生には、男子生徒にはないいさぎよさ、凄みがあります。彼女たちから受ける、おしゃべり好きで活発な印象の裏には、しなやかな強さが見え隠れするんです。
 しかし、まだまだ足りない部分もあります。先日行った競走訓練で、教官が「悔しかった者は」と質問したところ、全員が手を挙げたのだそうです。「悔しい」と言うのは、自分の力を出し切れていないと思っているから。ゴールまでしっかりと踏みきれていないと感じているからです。最後まで踏み切るには、自分に甘えない精神力、ベストな走りをするための展開に持ち込む技術が必要です。選手のゴールに向かう姿勢については、お客さんがいちばんよくわかっています。勝っても負けても、自分が賭けた選手のことは最後まで見ていますから。6着でも7着でも、あきらめずに、ゴール線を通過するまで一生懸命踏むこと。お客さんはたとえ賭けに負けても、そんな選手の姿を見たいがためにまた競輪場に足を運んでくれるんです。お客さんに愛される選手になってもらうためにも、そういうことはもっともっと強く指導していきたいです。その大切さは長い現役生活を通じて実感してきましたし、自分がいちばんよくわかっているつもりです。

生徒たちの手で新しい「ガールズケイリン」を

 ガールズケイリンは、いわば女性の新たなビジネススタイルですよね。自転車競技でお金を稼ぎ、自立して生活していくという。スポーツ選手になりたいと思っていても、生計が立てられないために競技生活をあきらめる人はたくさんいます。女子生徒のなかにもそういう人が実際にいました。それがガールズケイリンの開始により、また夢をみることができるようになったんです。
 女性が、競輪選手として今後どのようなライフスタイルを送っていくのかは、私には想像もつきません。「結婚退職」する人がいるかもしれないし、産休を経て復帰する人もでてくるかもしれない。生徒に聞いてみると、一生の仕事として、長く続けていきたいと思っているようですが、そのためにはさまざまな環境整備も必要でしょう。
 私が思うのは、彼女たちの手で新たなガールズケイリンを作っていってもらいたいということ。彼女たちに大いにリードしてもらって、後に続く人たちに夢や希望を与えられるものに育てていってほしい。48年前とはルールも時代背景も異なりますから、今までにない、まったく新しい競輪のスタイルが誕生すると思いますね。男性とは違う女性ならではの良さをアピールし、新たなファンだけでなく、既存の競輪ファンの方々にも彼女たちを応援していただきたい。そう願っています。

未来の競輪界を担う生徒にパワーを送り続ける

 あと1年くらいたったら、競輪学校に高級車で乗り付けて「お元気ですか」なんて言ってくる生徒もでてくるかもしれませんね。男子生徒にはそういう者もずいぶんいますよ。私は、「もし車が好きなら、すごくいい車に乗ったほうがいいよ」と生徒や後輩に言うんです。というのは、それがモチベーションになるのと同時に、自分への戒めにもなるから。いい車に乗っているのに競輪では弱くてちっとも勝てないなんて、カッコ悪いですよね。本人はそうならないために一生懸命練習しますから、だからいい車に乗れと言うんです。もちろん、車じゃなくてもいい。家でも、何でも。いい意味のプレッシャーを自らに与え、それを力に変えてもらえたらと思います。
 私にとって、競輪学校とは、重苦しくて、楽しいことなんて1つもない場所。卒業したら二度と戻りたくないと思うような場所でした。しかし、私もずいぶん立場が変わってしまって(笑)、今はそう思われると寂しい部分もあります。センチメンタルな言い方ですが、私は、生徒たちが卒業して心が折れてしまったときには、ここで彼女たちを温かく迎える環境をつくりたいと思うんです。表舞台に上がることで、ときに傷つくこともあるはずです。そんなとき、競輪学校が彼女たちのパワースポット、栄養補給基地、そういうものになるようにしておきたいですね。
 伊豆修善寺にあるここ日本競輪学校では、東京・調布から移転してからすでに8000人の競輪選手を送りだしています。今後、女子選手がその後に続くよう、彼女たちに競輪界を盛り上げていってもらうよう、私はここからパワーを送り続けていきたいと思っています。

取材日:2011.9



千葉県生まれ 静岡県三島市在住


【 略 歴 】

1979日本競輪学校卒業、第43期生としてデビュー
1984日本選手権競輪 優勝
1985高松宮記念杯競輪 優勝、世界自転車選手権男子ケイリン 銅メダル
1986日本選手権競輪 優勝、高松宮記念杯競輪 優勝
1987高松宮記念杯競輪 優勝、読売新聞社杯全日本選抜競輪 優勝、オールスター競輪 優勝、競輪グランプリ 優勝
1990オールスター競輪 優勝、共同通信社杯 優勝、朝日新聞社杯競輪祭競輪王戦 優勝、競輪祭を制したことで、
史上2人目の特別競輪全冠制覇(グランドスラム5冠)達成
1992高松宮記念杯 優勝
2007日本競輪学校 名誉教官
2008現役引退
日本競輪学校での生徒教育を開始(常勤)
2010日本競輪学校 校長就任

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