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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

農業を、より働きやすく、次代へとつなげるために
家族みんなで支える新しい農家のあり方を実践。

鈴木幸隆(すずき・ゆきたか)

鈴木幸隆(すずき・ゆきたか)


スズキ果物農園 経営主


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スズキ果物農園

安全・安心な果物を家族で作る専業農家

 わが家は専業の複合経営農家です。今はちょうどナシのシーズンですが、夏前ぐらいまではブルーベリー、秋から冬にかけて「はるみ」「デコポン」などのミカン類を収穫します。畑は合わせて6.5ヘクタールほど。このあたりの果樹園では広い方だと思います。
 家族経営ですので、私と妻、そして息子夫婦が中心です。ほかに男性従業員2人、パートが8人。農業は季節や天候に大きく左右されますよね。例えば、ミカンの収穫は11月20日頃から1カ月間がラッシュなんですが、これより早くてもだめ、遅いと寒くて凍ってしまうのでだめ、いい時期を逃さないように収穫を終えないといけないんです。ですから、ピーク時にはさらに何人か臨時のパートさんに手伝ってもらいます。多いときには30人近くで収穫をすることもあります。
 わが家では「おいしく、安全で、安心」をモットーに、旬のいちばんおいしいときにお客様にお届けできるよう、農園内の直売所で販売もしています。お客様からダイレクトに声を聞けるのはありがたいですね。最近は自家製ジャムやジュースなどの加工品も販売するようになり、ご好評をいただいています。
 父親の代から専業農家ですが、ブルーベリーを始めたり、農園の面積を広げたり、今の形で直売を始めたのも私の代からです。ここでナシをお買い求めくださるお客様が、ブルーベリーやミカンも買いに来て下さいます。

父から継いだ農園を働きやすい環境へ

 私は1981年、31歳のときに専業農家になりました。それまでは農協職員として働いていましたが、父親が体調を崩したのを機に、家業を継ぎました。私は長男でしたし、若いころから農業が好きで、高校も農業高校へ進みましたから、心づもりはしていたんです。
 ですから、農業についてある程度分かってはいました。父親から教えてもらうこともありましたし、農業仲間もいましたから、不安はそれほどなかったですね。ただ、これは農業に限りませんが、日々、技術が進歩していますから勉強は欠かせません。それに、近年は本当に気候の変動が激しい。台風の直撃を受けたときや、長雨や乾燥、高温低温などへの対応は、学校で学んだからといって、知識だけで何とかできるものではありません。毎日、毎年少しずつ経験を積んで分かっていくことです。「毎年1年生」という気持ちは、ずっと持ち続けています。
 わが家は家族経営の農家ですが、仕事の役割を決めてあるんです。私が農業の総括。長男が農業全般。妻が農作業のサポートや事務や税務関係。息子の嫁もこのあたりを支えてくれています。パソコンによる顧客管理はパートの人にも任せています。どの仕事も、いつも二人以上で覚えることにしています。病気やけがなど、突発的に仕事ができないことも考えられますから、誰かがフォローできるように、ということです。
 日曜日は基本的に休み。家族にも給料を支給します。昔ながらの農家とは違うやりかたですが、それは家族みんなが働きやすい農園にと、意識的に改善してきた結果なんです。

妻が提案した「家族経営協定書」に大反対

 昔の農家といえば朝、男が畑に出るときに、女も一緒に出て働くのが「嫁の務め」。女性が男性より早く起きて、朝食の準備や洗濯・掃除をするのも、日中農作業をした後、夕飯の支度や後片付けをするのも当り前。寝るのは遅く風呂は最後。それが父親の代よりも前から続いてきた「農家の女のあり方」でした。私が子供の頃からそうでしたので、私自身、母や妻もそうするものだと思っていました。
 ところが14年前、長男が農業大学校を卒業し、うちで農業を始めると決めたとき、妻が「家族経営協定書を作る」と言い出した。静岡県や浜北市(当時)主催の農業者向けセミナーで話を聞いてきて、ずっと作りたいと思い続けていたらしいのです。「家族経営協定」は農林水産省や自治体が進めている取り組みで、農業を営む家族全員が共同経営者としてやりがいをもって経営に参画できるよう、またみんなが働きやすいよう、経営方針や役割分担、就業環境などを話し合って決めよう、というものです。私は知らなかったので、そのとき初めて、炊事洗濯など家事・育児を労働の一環とみなすこと、労働に見合う給料を支払うこと、定休日を設けること、といった内容を説明されました。
 はっきり言って、冗談じゃない、と思いましたね。大反対でした。家事育児は女がやるものという中で育ってきましたから、それを労働として認めるなんて考えもしなかった。それまでも妻は「休みがほしい、給料がほしい」と常々話していましたから、妻の勝手な都合としか思えなかったのです。それに、農業は気候や季節に左右されますから、平日だけど雨だから仕事ができない、逆に日曜だけど天気がいいから働く、といった具合に、臨機応変でないといけません。「協定」なんて役所の人間が頭の中だけで考えていること、絵にかいた餅だ、できるわけがない。そう思っていました。

女性の仕事を軽減し「認め合う」農業へ

 自分だけのことなら、反対したままだったかもしれません。ただ、今回は息子の将来も考えなければならなかった。それで、自分が就農したころを思い出してみたのです。私が農業を継いだ当時、毎月の給料は小遣い程度。同業者との付き合いや勉強会に出る場合、時間もお金も自由ではなかったんですね。息子には同じ思いをさせてはいけないのではないか……そう考えたのです。
 そして妻だけでなく、県の担当者にも話を聞き、ようやく前向きにとらえるようになりました。「悪い部分は変え、いいものは取り入れる。進歩のあることをやろう」と。それで1998年、わが家の「家族経営協定書」を締結したのです。
 県内にまだ前例は少なく、西部には1軒もありませんでした。ひな形から作ったんです。社会保険労務士さんに入ってもらい「一般企業と同じように」とのアドバイスをいただきながら、家族で相談しました。
 内容には、女性の負担を軽減するものを盛り込みました。日曜日の休みもそのひとつです。一昨年に結婚した息子の嫁には、育児休暇も6カ月間あります。「嫁だと、休みたいと思っても言えない」というのが「農家の嫁」として頑張ってきた妻の言い分です。いちばん難しかったのは、家事・育児をどこまで労働時間に含めるかということ。妻が言うには「それらをやる人が病気やけがで動けなくなったら、農作業にも影響が出るのだから、立派な仕事だ」と。最初は納得できませんでしたが、実際妻の仕事量が多いのも、分かっていました。家族経営協定はこれを認め、改善する目的もあるのです。
 私は父親から農園を継ぎ、自分のペースで理想を追い続けてきた。これから息子の代になれば、息子なりにやればいい。ただ、そのためには、息子やその家族には、なるべくいいものを残したい。それで息子にも給料を毎月支給しています。もちろん、大変なときもありますよ。作物には変動がありますから。でも逆に、どんな作物をどれぐらいつくれば毎月収入を得られるか、ということも、考えるようになった。ナシ、ミカンに加え、7年前にブルーベリーを始めたのには、そういう理由もあります。

大家族農家のよさを残し、柔軟に働きやすさを追求

 最初は反対していた家族経営協定書ですが、今は導入してよかったと感じています。
 例えば、公の文書として認められているため、農地を広げたり、大型農機を購入する際に担保として役立つこと。先だっても息子が車を買ったのですが、本人名義でローンを組むことができました。「ここで働いて一定の収入があります」という証明として有効なんですね。
 困ったのは、妻が日曜の朝に起きなくなったことですかね(笑)。「日曜は7時まで起きない」と親戚にも宣言したくらいですから、私も文句を言うつもりはありません。私は日曜でも仕事に出ることがありますが、それは私の自由。「日曜ぐらいは自分で味噌汁を作るよ」と言って仕事に行きます。今では、日曜だけでなく毎日味噌汁を作るのが私の仕事になってしまいましたが。
「農家の嫁」って暗いイメージがあるでしょう。妻もそう思っていたようです。でも、この協定書をきっかけに、家族みんなが互いの働きを認め、能力を活かして働けるなら、この方法もありだと思うんです。ずっと減っていなかった農家の数が、ここへきて激減しているのも、従来の働きにくさに関係しているのかもしれません。今後も続けていきたいと考えている農家ももちろん多く、今の時代に合わせて変えていかねばと、協定書を結ぶ農家は増えているんです。
 逆に、昔ながらの農家のいい面は残していきたい。例えば昔の農家は、祖父母が主に子供の面倒をみていました。今は保育園に預けられますし、それが悪いとは思いませんが、私は65歳を過ぎたら農園を息子に任せ、今1歳6カ月の孫の世話は、私が担うつもりです。
 核家族ではなく、祖父母から赤ん坊までいる大家族で子育てをする、近隣の人ともつながる。そういうのがいいですね。都会では、近所付き合いがなくなってきていると言いますが、今農業をやっているのですから、その利点をいかして、助け合いが生まれる環境を作って行きたいです。

子育て中の女性も農業パートとして活躍中


 もちろん、家族だけでなく、例えばパートは女性中心ですが、彼女たちの労働環境についても改善を重ねてきました。
 農家のパートといえば少し前まで、毎日10時と3時にお茶とおやつを出す習慣があったんです。でも、農作業が忙しいからパートを頼んでいるのに、妻はお茶の準備でかえって忙しくなって、本来の農作業ではないところに時間を取られてしまっていた。これでは本末転倒です。社会保険労務士さんに相談したら「普通の企業は忙しいときにお茶を出したりしない」と言われて。それで、その習慣をやめることにしました。ただやめるのではなく、お茶・お茶菓子代は時給にプラスするという事情をきちんと説明して、納得していただきました。
 それに加え、3年前からは、20~30代の女性にもパートに来ていただくようになりました。それまでは60代の人が多かったのですが、体調などの関係で、なかなか次の人が決まらない時期があったんです。ミカン収穫の忙しい時期に、どうしても人手がほしかった。それで知人に声をかけて、幼稚園の子供をもつお母さんたちに「ミカン切りのパートを募集している」と声をかけてもらいました。
 その時集まったのは5~6人でしたが、1年目に10人以上手伝って下さって。彼女たちも子供が幼稚園へ行っている時間を利用できるし、気分転換になるということで、ミカンの時期が終わってもパートとして残ってくれている人もいます。あくまでも子供と家庭が優先で、子供が病気になったり幼稚園や学校の行事があるときには、そちらを優先してもらっています。
 以前なら農業は3K5Kと言われ敬遠されていましたし、実際大変な作業ですが「育てる楽しみ」を感じて下さっているようです。それに、妻は幼稚園の先生をしていたので、子供を育てるなら、食に関してもしっかり育ててほしいという気持ちをもっていて、雨の日や休日に、豆腐やこんにゃくを作ったりする「食育」をやっています。それだけでも若い人たちは「いろんなことを教えてもらえる」と通ってくれるんですね。

ユニバーサル農業のきっかけ、そこから学んだこと

「だれもが働きやすい環境」という意味では、「ユニバーサル農業」もそのひとつでしょう。障害のある人を受け入れて、働いてもらう農業です。
 ずいぶん前、パートの女性に知的障害のお子さんがいて、高校卒業後は働かなければいけないけれど、働く場所がない、ここで働かせてほしいと言われたんです。でも当時はまだ、経済的に年間雇用できる状況ではなかったんですね。考えておくね、と答えたものの、なかなか実現できず、ずっと気にはなっていたんです。夫婦で「受け入れられる状況になればいいね」と話してはいました。
 実現に向けて動き出したのは、13年前に行われた「浜名湖アグリフォーラム」です。これは、静岡県西部農林事務所が中心になり、西部の農業者たちが10年にわたって行った催しで、わが家も当初から実行委員をしていました。2年目の時「障害者も一緒にできる農業を勉強したい」と提案したのです。
 群馬や宮崎などへ、実践している農場の見学にも行きました。そして、そこで学んだことを実践しフォーラムで発表することになった。そのときにミカンの収穫を手伝ってもらって以来のおつき合いですから、もう10年ぐらいになりますね。
 実は、障害者の「待機」はすごく多いんです。雇用だけでなく、施設へもなかなか入れない。その現実を、私は農業を通じて初めて知りました。今は「精神障害者生活訓練施設援護寮だんだん」というところから、収穫の手伝いに来てくれます。
「だんだん」のスタッフは、とても熱心に働いて下さいますし、農作業を通じて、表情が年々明るくなっていくんです。それに、私たちの方も心が穏やかになるんですよね。収穫時はものすごく忙しいですが、仕事が遅い人に対して、叱るのではなく、その人のペースに合わせて働き、できたら認める、ということの大切さを、私たちも学ばせていただいています。

子供を育てるように愛情をこめて農業に携わる

 私たちは特に意気込んでやっているわけではないし、周囲のすすめや話の流れで、少しでも協力できればという気持ちで取り組んできました。ただ、スタッフには、こういうことは決して他人事ではないんだと話します。今いる人はみんな同じ。同じように農作業で汗を流す仲間です。だから、もし自分がそういう状況になったら、働ける場所があったらいいねという気持ちの方が強いんです。何かを無理に変えようとも思っていない。でも、いい雰囲気で関わりあうことができています。これは本当にみなさんのおかげとしか言いようがありません。
 農業の形態も、働く人の環境も、変えようと思えば変えられると、私は思います。それは、男女共同参画でも同じことでしょう。互いが互いを認め、お互い働きやすいように歩み寄る。私がやってきた農業は「子供を育てるように作物を育てる」という姿勢です。大変でも、手をかければかけただけ返ってくる。優しい愛情、それが農業には大事です。みんなが気持ちよく働きやすい環境で農業に携わることで、そんな農業への理解がますます深まってくれることを願っています。

取材日:2011.8



静岡県浜松市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

1981農業協同組合を退職し専業農家を継ぐ
1998長男就農
家族経営協定書締結
2000静岡県農業経営士認定

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