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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

地域の人々との出会いから生まれた児童書が、
小さな地方出版社を世界に羽ばたかせた。

那須田稔(なすだ・みのる)

那須田稔(なすだ・みのる)


児童文学作家
株式会社ひくまの出版 顧問


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ひくまの出版ホームページ

旧満州での少年時代を描いた作品で児童文学の道へ


 私の原点は、旧満州で過ごした少年時代にあります。子どもの頃に見たハルピンの星空や大草原、そして、そこで経験した動乱は、私の作品の源流となっています。
 私が旧満州で暮らしたのは、6歳から15歳までの9年間。父が南満州鉄道に勤務することになって一家で移り住み、第二次世界大戦終結の翌年に引き揚げました。とくに、1945年の終戦時の体験は忘れることができません。旧ソビエト連邦軍に父が連行され、私は仲間と一緒に石炭拾いをしたり、石鹸、タバコの行商をして家計を助けました。
 当時、私と仲間たちは、日本軍の沈没船を砦にして「少年軍団」を結成していました。メンバーは、中国人、朝鮮人、ロシア人、そして日本人の私。その頃の中国人への差別はひどいものがありましたが、私たち子どもにはそんなことは関係ありません。お互いに助け合い、それぞれ頑張って生きていたんです。
 私の児童文学における処女作『ぼくらの出航』やそれに次ぐ『シラカバと少女』には、当時の私の体験が色濃く反映されています。
 引き揚げ後は故郷の浜松に戻り、その後、東京の大学に進学しました。大学時代は学生運動に明け暮れ、1952年に2名の死者を出した「血のメーデー事件」にも参加しました。大学は結局、学生運動が元で退学になり、その後は浜松で父が興した会社を手伝うことになったんです。しかし、私が30歳のときに父は交通事故で亡くなり、会社は倒産。私はそれを機に、かねてからの希望であった文学で身を立てる決心をし、妻子とともに東京の吉祥寺へ移りました。
 私は、ずっと冒険小説を書きたいと思っていました。1945年前後の少年の冒険物語を、戦後に生まれた子どもたちに残したい。自分の子どもたちが大きくなったときに、「お父さんの少年時代はこうだった」と伝えたい。そんな思いから、『ぼくらの出航』や『シラカバと少女』は生まれたんです。
 幸いにも、本は子どもたちに受け入れられました。そして、私は児童文学作家として出航することができたんです。

郷土の歴史文化を見つめ直す「ひくまの出版」

 小説や伝記など、作家としてさまざまな著作を送り出し続ける日々に転機が訪れたのは、45歳のときです。1人で暮らしていた母の具合が悪くなり、介護のために浜松に帰ったんです。母はすぐに亡くなってしまったのですが、戻ったのも何かの縁だろうと、故郷に落ち着くことになりました。
 ハルピンから引き揚げてきたとき、浜松は焼け野原でした。三方原まで、見渡すかぎり遮るものは何もなく、私の生家も、アメ玉を買いにいった菓子店もありませんでした。それから時間がたち、再びふるさとに戻ると、焼け跡の上にはひとつの都市が生まれていました。浜松城がビルの間に小さく見え、道路を車が走り回り、人々は忙しそうに動いている。昭和から次の時代へと移り変わろうとしているこのときに、ここで繰り広げられた先祖の足取りを確かめてみたいと私は思いました。15年ぶりに浜松へ帰ったのも、ふるさとの土地への愛着と同時に、父母から祖父母へと血で繋がる先祖人とはなんなのか、ふるさととはなんであるかを知りたい思いがあったからです。ふるさとの歴史を辿ることで、次の世代と語り合いたかったんです。
 地元のさまざまな方の賛同をいただき、「ひくまの出版」を立ち上げたのは2年後。「ひくまの」とは、万葉集にも登場するこの地方の古名「曳馬野」に由来しています。私たちは、郷土の歴史や文化をテーマに、出版をとおしてふるさとについて考えていこうと思いました。
 ひくまの出版の最初の刊行物となった「シリーズ遠州」は全5巻。史跡や自然、産業、交通、民俗などさまざまな角度からのアプローチを試みた本です。執筆陣には、磐田市郷土館館長を務めた平野和男さんや、当時の浜松市長の平山博三さんなど地元の方々をはじめ、椋鳩十さんや杉本苑子さんなどの作家も多くいて、多彩な顔ぶれとなりました。手弁当でこつこつと取材して歩いたのも懐かしい思い出ですね。
 この他、かつて浜松で発行されていた郷土民俗雑誌「土のいろ」全140巻の復刻作業も行いました。「土のいろ」は、紙芝居で子どもたちに昔話や民話を伝えていた教師や僧侶が集まって発行していたもので、子どもたちの郷土愛を育むことを目的としていました。復刻版は10年以上かかって完成し、現在は浜松市内の図書館で読むことができます。

『さと子の日記』が100万部超のベストセラーに

 ひくまの出版は設立当時、500人以上の地元の方々が会員として支えてくださっていました。
 私はある日、その中のひとりである県立天竜養護学校の先生から、14歳で亡くなった鈴木聡子さんという少女の話を聞きました。彼女は先天性胆道閉鎖症という病気と闘い、幼稚園の頃から亡くなるまで日記を書き続けていました。先生やご両親は、彼女の日記を本の形にして残したいと思い、私のところにいらっしゃったんです。
 私は、聡子さんのお母さんから段ボール5箱分の日記を預かりました。読みだしてみると、涙が止まらなくなってしまって……。この子はなんてけなげに生きているんだろうと思いましたね。病室の窓から見える世界がすべてだった彼女は夢のなかで旅をし、広い世界を知るために本を読み、そして日記を書いた。日記をとおして彼女がだんだんと成長していくのがわかるんです。私は、病気と闘いながらも明るく生き抜いた聡子さんの姿に心を打たれ、この日記を、今を生きる少年や少女に読んでもらいたいと思いました。そうして出版したのが『さと子の日記』です。
『さと子の日記』はものすごい反響があり、私と妻は、毎日何百冊にも上る注文の対応に追われました。さらに次の年には、青少年読書感想文全国コンクールの課題図書にも選定されたんです。それまでひくまの出版の本は全国流通していなかったのですが、このことをきっかけに取次会社全社と契約し、私の原点である児童書の出版を手掛けるようになりました。『さと子の日記』のそのときの販売部数は39万部、現在では100万部を超え、今でも子どもたちに読み継がれています。
 聡子さんのご両親はその後、胆道閉鎖症の子どもをもつ親たちが宿泊できる施設を作られました。また、『さと子の日記』の出版を機に、先天性胆道閉鎖症は国から難病に指定されたんです。聡子さんが残してくれたものは非常に大きいと思いますね。

本を通じて生まれたドイツ、モンゴルとの縁

『さと子の日記』は、私たちに思いがけない縁ももたらしました。翻訳出版したいとの依頼がドイツからあったんです。連絡をくれたのは、ドイツの有名な児童文学作家、ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』の担当編集者。私は出版社の仕事があったため、妻であり、ひくまの出版社長も務める敏子が訪独しました。彼女はそこでエンデとも知り合うことができたんです。翻訳は、結局実現しなかったのですが、その後、ひくまの出版で出版した絵本の原画展を開催することになりました。
 原画展が開催されたのは、ミュンヘンの国際児童図書館。このときも私は日本に残り、敏子がドイツを訪れました。彼女は、1ヵ月半あまりの間、ペンションを借りて生活しながら原画展に通ったんです。テープカットの際にはエンデも来てくれて、ホームパーティにも招かれたそうですよ。彼女は、ミュンヘンに現地法人を置いていた、浜松ホトニクスの晝馬輝夫会長の協力を得て宣伝活動をしたり、現地の出版関係者や画家たちと交流したりと、大活躍でした。
 海外との交流というと、私たちはモンゴルとの縁も深いんです。きっかけとなったのは、私の作品である『空飛ぶオートバイ―本田宗一郎物語』。10年ほど前、モンゴルで日本文化を紹介する「モンゴル・日本文化文学センター」からこの本をモンゴルで出版したいとの申し出があり、著作権を差し上げました。すると、すごく評判になったんです。戦後の焼け野原から立ち上がったひとりの少年が夢を追いかけ、実現するという話が、モンゴルの人々に感動を与えたんですね。
 さらに、2002年の日本・モンゴル国交樹立30周年にちなみ、両国でこの本の読書感想文コンクールを行い、入賞した子どもたちをそれぞれの国に招いて交流しないかとのお誘いもいただきました。この企画は本田技研工業の協賛をいただいて実現し、私たちもモンゴルを訪れました。交流はその後ずっと続いていたのですが、実は最近、「40周年もやろう」との話がありまして(笑)。今回は県の協力により、来年、第2回の読書感想文コンクールが実現する予定です。
 モンゴルの星空はいいですよ。静岡の子どもたちにも、絶対にあの星空を見せてあげたいですね。

出版活動を支える2人の息子一家の存在


 ひくまの出版は実は、「ファミリー出版社」でもあります。現在はヨーロッパの絵本の翻訳出版も行っているのですが、こちらを担当しているのは、次男の妻で翻訳家の栄(さかえ)。彼女が手一杯になると、次男の淳と長男の務、長男の妻でフォルテピアノ奏者の深雪まで手伝ってくれるんです。淳も児童文学作家なので、彼の本もいろいろと出版しています。
 務の本業は、音楽評論家です。彼は子どもの頃から音楽が好きで、なかでもフルートにのめりこんでいましたね。中学2年生のときに「フルーティストになる」と宣言し、普通高校にはいきたくないと言ったんです。そこで、当時私は中学校のPTA会長だったのですが、校長先生のところへ行き「うちの息子は音楽の道に進むためにレッスンに通うから、中学はぎりぎりの単位で卒業させてもらう」と宣言したんです(笑)。それから、彼は毎朝4時起きでレッスンに通いました。その頃からドイツに留学することも決めており、英語ではなくドイツ語ばかり勉強していましたね。大学卒業後にドイツのケルン音楽大学へ留学を果たすと、演奏家としては限界を感じ、音楽評論の道を選んだんです。
 一方、淳は務と比べると気が多かった。映画の道に進みたいと言ったこともありましたが、結局は他にできることもなくて児童文学に落ち着いたんです(笑)。彼は、ロンドン留学を経て、現在はベルリンで暮らしています。
 ひくまの出版の原画展を開催したときには、実は、淳がロンドンから駆けつけ、ケルン音大に在籍していた務も参加しました。妻にとって、彼らは頼りになる通訳でもあったわけです。淳はこのときの縁で後にミュンヘン国際児童図書館の研究員になったんですよ。息子たちの妻もみんな、当時からの留学仲間でした。

55年間連れ添ってきた妻とのチームワーク

 妻の敏子も「西野綾子」の筆名で作品を書いています。「シリーズ遠州」に紀行文を寄せたのが最初なのですが、そのときに私が名付けたんですよ。その後に出した彼女の絵本『小さな赤いてぶくろ』は映画化され、童話『ふうちゃんのハーモニカ』はベストセラーになりました。ひくまの出版の社長業もこなしていますし、彼女は本当にすばらしい女性なんです。
 彼女も浜松出身なのですが、知り合ったのは私が学生運動をしていた大学生のときでした。結婚後、吉祥寺で暮らしていた頃は、家計を助けるためにアルバイトをしていたこともあります。3歳の務の手を引き、1歳の淳をおんぶして、テストの採点をする仕事をしにいっていたんです。子どもがいると私の仕事ができないからと、2人を連れて近所の井の頭公園に遊びにいくのも日課でしたね。私についてきてくれた彼女は勇気があると思いますよ。吉祥寺時代は職業も安定しないし、収入もないしで、苦労をかけたと思います。
 私は1つのことに集中すると、周りのことが見えなくなってしまうのですが、そういうときも彼女がフォローしてくれます。私たちは1つのチームであり、彼女は大切なパートナーなんです。
 ひくまの出版を立ち上げ、自ら社長になってからも彼女は「私は仕事よりも家事をしているほうが好き」とか、「私は何もできない普通の人だから」と言うんです。たしかに、子どもたちが大きくなるまで表に出ることはなかったけれど、才能があるんですよ。本の題名をつけることが得意で、『ぼくらの出航』も『シラカバと少女』も実は彼女の案だったんです。私のことは放っておいて(笑)、1人で海外へ行っても、しっかり仕事をしてくれましたしね。このときのことを振り返って、彼女は「私、本当はできたんだ」と言っていましたが、本当はずっと、何か仕事がしたい気持ちがあったんじゃないかなと思いますね。 
 敏子とは結婚して55年になりますが、私がずっと家で仕事をしていたことで、24時間365日ずっと一緒にいるという感じですね。たまに私が公園に1人で出かけたりすると「命の洗濯ができる」なんて言いますが(笑)。まだまだ2人でがんばりますよ。

現代の子どもたちに贈る「サノスケじいさん」の物語

 私の最新刊は、今年8月に出版した「忍者サノスケじいさんわくわく旅日記」シリーズの栃木編です。『忍者サノスケじいさん』は20年以上前に書いた作品で、山奥で暮らすサノスケじいさんが、孫の一郎太の危機を忍法で救う物語。サノスケじいさんと一郎太が47都道府県を旅する「旅日記シリーズ」は、4年前に静岡浜名湖編からはじめ、栃木編は43作目になります。ほぼ月1冊のペースで刊行しており、間もなく完結します。
 執筆の際には必ず取材に行くのですが、私は人と会うことが好きなので、楽しくやっていますね。先日九州を訪れたときは、途中で車の調子が悪くなって立ち寄った修理工場の子どもさんがサノスケの大ファンで。「サノスケじいさんに会った」と大喜びだったんですよ。
 栃木編では、東日本大震災のことを取り上げています。被災した仙台の小学校の教頭先生からいただいたメールがきっかけで、当初のストーリーを変更して仙台の小学生の話を入れ込んだんです。息子には、震災のことを書くのは簡単ではないと言われたのですが、教頭先生や校長先生の要望を伺いながら設定を説明すると「これはいい」と言ってくれて。「よし!」と気合いを入れ、はりきって書きました。
 核家族化の影響からか、「サノスケじいさん」はおじいさんと孫が2人で冒険するところに不思議な新鮮さがあると言われます。一郎太のお父さんはサノスケじいさんの息子だけれど、忍者にはならず研究者として働いているんです。一郎太も、今は忍者になる修行をしているけれど、将来はサラリーマンになるかもしれない。将来のことはわからないけれど、ときどき山から下りてくるサノスケじいさんと冒険をする一郎太をとおして、子どもたちが今大事なことは何なのかということを理解してくれればいいなと思います。
 ひくまの出版では、「命の尊さ」「人と人との絆の大切さ」を伝える出版活動を今後も行っていきたいと思っています。子どもたちには自然の大切さやふるさとについても見直してもらえればと思いますね。「サノスケじいさん」を書きながら、私自身がサノスケじいさんの目で何がそこにあるのか、何が大事なのかを常に考えていきたいと思っています。

地域や人との繋がりが未来の可能性を拓く

 私たち自身、地域や人との繋がりがあったからこそ、今があります。浜松に帰っていなかったら、ひくまの出版を設立することはなかったし、『さと子の日記』が出版されることもなかった。海外の人たちとの交流も生まれなかったでしょう。地域の人々との関わりのなかで生まれた本も数知れません。旧舞阪町出身で、アトランタ、シドニー、アテネのパラリンピック競泳で金メダルを獲得した河合純一さんや、書家の川村驥山(きざん)さんを知ったのも地域が育んでくれた縁によるものです。
『ぼくらの出航』で児童文学作家として出発してから50年。今年80歳になりましたが、80歳だという気はしないですね。80年たったんだなあという感じです。
 私には、これからも書きたいものがたくさんあるんです。サノスケじいさんと一郎太をもっとがんばらせたいし、神話にも取り組みたい。古代の人たちがどういう夢を描いて物語を作ったのかを伝えたいと思っているんです。あとは、自分の青春前期の話を書きたいですね。1952年の東京。戦後の嵐のような時代の話です。これは、これまでに何度も出版のチャンスがあったんだけれど、運悪く実現していないんです。でも、このときの話は必ず世の中に出ていくと思います。そのためにはまずは書かないと。書かなきゃ死ねないなと思っているんです。
 出版活動をしていると、いろんなことがあります。ひとつの出会いをきっかけに世界がどんどん広がっていき、思いもよらない場所に私たちを運んでくれます。私から物語を書くことをとったら何も残らないでしょう。書き続けてきたことで今があり、それが未来にも繋がっていくのだと思います。

取材日:2011.8



静岡県浜松市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

1962『ぼくらの出航』(講談社)出版、講談社新人賞佳作に入選
1965『シラカバと少女』(実業之日本社)出版、日本児童文学者協会賞、サンケイ児童出版文化賞を受賞
1967シリーズ「おとぎばなし」で第21回毎日出版文化賞を受賞
1978株式会社ひくまの出版 設立
1982『さと子の日記』(鈴木聡子著、ひくまの出版)出版
1985『空飛ぶオートバイ―本田宗一郎物語』(ひくまの出版)出版
1987ミュンヘン国際児童図書館にてひくまの出版絵本原画展を開催
1988『忍者サノスケじいさん』(ひくまの出版)出版
2002 日本・モンゴル国交樹立30周年を記念し「『空飛ぶオートバイ―本田宗一郎物語』読書感想文コンクール」を開催
2003『夢 追いかけて―全盲の普通中学教師 河合純一の教壇日記』(河合純一著、ひくまの出版)出版
2007~「忍者サノスケじいさんわくわく旅日記」シリーズ(ひくまの出版)出版

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