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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

農家の縁側を開放した「縁側お茶カフェ」をはじめ、
過疎集落で生きがいを追及した地域づくりを実践。

小櫻義明(こざくら・よしあき)

小櫻義明(こざくら・よしあき)


静岡大学人文学部 名誉教授


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静岡市大間集落ホームページ

地域研究の実践のため、自ら限界集落へ移住

 私は現在、静岡市中心部から車で約1時間30分のところにある、静岡市葵区大間という集落で暮らしています。南アルプスの南端で、標高は約800メートル。眼下に山々の連なりを見下ろし、はるか遠くには駿河湾も眺められる「天空の癒し里」です。
 しかし、大間は深刻な問題もかかえています。それは、住民の高齢化に伴う過疎化の進行です。1970年に70人いた人口は、現在13人、世帯数5戸にまで減少しています。大間は、高齢化率が8割を超え、消滅の危機にある「限界集落」の典型なんです。
 私が初めて大間を訪れたのは、1989年のことです。大学で地域政策の研究をしていたことで、静岡市の職員の方に案内されたんです。とにかく景色がきれいで、いいところだなと思いましたね。それで空き家を借り、頻繁に訪れるようになったんです。私も妻もここでの生活が気に入り、結局はその後家を建て、定住するようになりました。
 大間で暮らすことは、私の地域研究の実践でもあります。私は、住民の立場から、彼らの役に立つ政策や運動のあり方を提起し、実行することで研究がより深められると考えています。大間や、近隣集落を含む大川地区を基盤にした小さな地域づくりが、静岡市や静岡県がかかえる課題、さらには日本や世界のあり方にも繋がっていく。そんな立場に立ち、研究の集大成として、大間での地域づくりに取り組んでいるんです。
 大間や大川の主産業はお茶です。茶業が極めて厳しい状況におかれているのが、産地である地区の過疎化の大きな要因となっています。茶業振興のあり方については、静岡市、静岡県全体の大きな課題でもあり、大間での活性化対策が、都市の地域振興にも結びついていくと私は考えています。

農山村のむらおこしを担うのは、元気な姑層


 農山村での地域づくりにおける、実質的な担い手は女性です。なかでも、比較的元気なのは姑層と言えます。彼女たちは、戦後間もない頃の家父長制的な家制度が強く残るなかで、さまざまな苦労を強いられた世代です。何をするにも夫の了解を得なければならない。嫁として畑仕事をする一方で、家事育児も1人でこなさなければならない。家族制度の変革期の矛盾が、彼女たちに集中しているんです。
 一方で、彼女たちは畑仕事もできるし、昔ながらの食文化も受け継いでいる。女性ならではの、生活者感覚を活かした消費者ニーズを掘り起こすこともできる。結果として、発言力が増すとともに能力を発揮し、地域活動の場を取り仕切るようになってきたんです。
 大間には、1991年に地元農作物の直売所「駿墨庵」が開設され、集落の住民に施設の運営が委ねられました。ここでも、実際の営業は女性たちが担いました。しかし、過疎化や高齢化による人手不足のため、次第に維持が困難になっていったんです。そこで私は、直売所での営業が難しいのであれば、お客さんに家に来てもらえばいいのではないかと考えました。そのときに思いついたのが、大間の農家に必ずある縁側です。
 縁側でゆっくりとお茶を飲んでもらいながら、それまで直売所に出していた野菜を並べて買ってもらう。希望があれば畑に連れて行って、植えてあるものを直接買ってもらうこともできる。それならお年寄りにも無理なくできるし、お客さんも喜ぶのではないか。私はそう考えました。都市で暮らす人にとって、のんびりと縁側に座り、景色を眺めつつお茶をいただく。そんな時間も魅力となるはずです。また、産地でお茶を飲んでもらうことで、地域での消費文化の向上、ひいては県の茶業振興にも繋がると思いました。そんな発想から、「縁側お茶カフェ」と「おすそ分け農園」を提案したんです。

集落全世帯が参加する「縁側お茶カフェ」が話題に

 縁側お茶カフェは、2008年4月に始まり、現在は毎月第1・3日曜日に開催しています。私も、その日は自宅に隣接するツリーハウスを開放し、マドレーヌを焼いて、お客さんを迎えているんです。
 最初に集落で提案をしたときは、「うちは何もできないよ」と言って、みんな下を向いてしまったんです。しかし、いざ当日になると、準備は万端、お茶請けまでしっかりと用意されていた(笑)。しかも、初めから、全世帯が参加してくれたんです。お客さんも集まり、家々の縁側をはしごしながら楽しんでもらうことができました。現在ではすっかり定着し、市内、県内だけでなく、他県からわざわざ訪れてくれる人もいるんです。
 縁側お茶カフェでは、それぞれの家によって、出されるお茶もお茶請けも異なります。お茶だけを出す家があってもいいし、食事まで出す家があってもいい。野菜も、売ってもいいし、売らなくてもいい。縁側を開け放つことに抵抗があれば、軒下や庭だけを開放してもかまわない。同じサービスは要求せず、それぞれの家でできる範囲のことを自主的にしてもらっているんです。実際、自分たちが食べるおかずをちょっと多めに作ったり、その日に採れた野菜を使ったりしてメニューを用意しているので、同じ家でも毎回出されるものが違います。しかし、逆にそれがお客さんにとっては新鮮で、何度も訪れ、気に入った家の馴染みになったりしているんです。
 集落の女性たちは、縁側お茶カフェでも大活躍しています。お茶請けや食事の用意から接客、取材の対応まで。人前に出ることが苦手だった人がテレビカメラの前で堂々と話すのを見て、変わったなと思うこともありますね。男性陣にも変化があり、台所に入ったことすらなかった人が、自らお茶をいれてお客さんとの会話に加わったり、外に出て自らお客さんを呼び込む人まで出てきて。彼らの変化には、女性陣も喜んでいますね。
 農山村での地域づくりは、これまで共同で行うことに重点が置かれていました。しかし、大間においては、個人や各世帯の個性を尊重し、一種の競い合いをすることで新たな展望が開けたように思います。競争といっても、同じレベルで競うわけではありません。ですから、互いに助け合い、先頭に立つ人には他の人の手を引いてもらいたいんです。足の引っ張り合いでなく、手の引っ張り合いをしてもらいたい。私は、この手法が、過疎山村における地域づくりの一案となるのではないかと思っています。

今後の地域づくりに求められる男性の意識改革

 私が地域づくりに関心を持ったのは、1970年代半ばのことです。それまでは、住民運動といえば、公害や開発などに対する反対型運動が中心でした。しかし、その頃、ただ批判し、反対するだけだった運動から脱却し、保育所や公園などの生活環境整備に取り組む地域が現れ始めました。それがまちづくりとして注目されたんです。それ以降、行政を批判するよりも連携し、住民の力で問題を解決しようという動きが全国的に広がっていきます。私は当時、自身の研究を通じ、まさにそのうねりのさなかにいました。そして、考えたんです。住民の力で地域をよくする。地域のため、みんなのために汗を流す。仕事としてではなく、自分のお金と体を使って取り組む。そういうものが地域づくりだと。そして、そんなまちづくりを自ら実践したいと思ったんです。
 私の研究のひとつの到達点であり、根底をなすものに、3つの社会関係があります。1つは、企業による生活手段の生産、分配を行う「市場システム」。次に、国家による社会秩序の維持を目的とする「公共システム」。そして、もうひとつが、家族がその中心を担う、生命の生産と再生産を巡る「共同システム」です。市場システムは金銭、公共システムは権力、共同システムは愛情をそれぞれ媒介として成り立つ関係です。私が考える地域づくりとは、金銭も権力も絡みません。つまり、家族と同様、愛情を媒介とする共同システムなんです。
 しかし、現代社会では、そういった愛情に基づく人間関係や社会関係が希薄になっています。学生たちと話をしていても、自分が傷つくことには敏感でありながら、他人が傷つくことについては恐ろしく鈍感になってきている。愛するということの意味を知らない。人を愛したことがないんじゃないかと思うんです。
 また、男女平等が叫ばれ、キャリア女性と呼ばれる層が企業や政治に進出することで、市場システム、公共システムは強化されました。しかし一方で、共同システムは弱体化してしまった。つまり、それまで女性が担ってきた生命の生産、家事育児、高齢者介護、地域社会への参加といったことを強化する、新たな制度が生まれなかったんです。それは、家父長制や、近代家族制度を批判するものの、それにかわる家族像がいまだに定まらないことに原因があると思います。
 私は、地域づくりにおける今後の課題は、男性の生き方の見直しや意識改革にあると考えています。それは、男女共同参画社会の実現に伴う、男性の家事労働や地域社会参加とも密接に関わっています。男性が参加することによって、女性主導だった共同システムを強化していくことが必要です。女性が男並みの仕事をするのではなく、男性が「女並み」の仕事をするべき時代にきていると思いますね。

地域住民のコミュニケーションを生む福祉活動

 農山村で生きる女性たちは、いわゆる女性解放運動からは取り残された存在です。ここで私がするべきことは、そんなお年寄りたちと日々向き合い、少しでも手を差し伸べることだと感じています。
 私は現在、大川地区の民生委員や社会福祉協議会の理事として、地域の福祉活動にも重点を置いています。具体的な取り組みのひとつには、2009年から始めた買い物ツアーがあります。大間を含めた近隣の3つの集落の住民から希望者を募り、私の車に乗り合わせて大型ショッピングセンターなどへ買い物に出かけるというものです。
 買い物の前には、南部学区社会福祉協議会の協力を得て、ミニデイサービス・おしゃべり会で、それぞれが持ち寄った野菜などの農産物を販売させてもらっています。「福祉朝市」と名付けているのですが、「新鮮な野菜が食べられる」と好評です。過疎山村の高齢者が作った野菜を街中の高齢者に買ってもらうのですが、福祉における都市と農村の交流として喜んでもらっています。
 買い物ツアーの車中では、お年寄りたちのおしゃべりが盛り上がって、井戸端会議の様相になっています。また馴染みのある歌謡曲を流しているのですが、これもすごく喜んでくれて、歌手や歌詞などを思い出そうとするので、記憶力の回復の訓練になると思いました。そこでプロジェクターを購入して、歌詞を映して読みながら歌ってもらうことを考えました。これは、認知症予防にもなると思ったからです。
 最近では、そのプロジェクターを使って、映画会も行っています。私の家に集落の人たちを呼び、いろんな映画を映していたのですが、他の集落からもどんどん声がかかるようになって。今は地区センターやデイサービスでも開催するようになりました。寝たきりで外出はできないけれど、映画やテレビは観られるという人がいれば、スクリーンとプロジェクターを手に提げて、出張もしています。
 大間では、小さな集落にもかかわらず、住民同士が顔を合わせる機会がほとんどないんです。町内会も年1回程度しか開かれず、しかも男性しか集まらない。映画会は、男性と女性が一堂に会する唯一の機会と言えるかもしれません。しかし、みんなで集まれば話も弾むし、映画も1人で観るより楽しい。お年寄りたちは、これまで苦労の連続だったせいもあるのでしょうが、買い物ツアーも映画会も本当に喜んでくれるんです。過疎化が進む集落ではあるけれども、そこで高齢者がいかに毎日を楽しく過ごせるか。それを常に念頭に置き、私にできることを模索しています。

家族の介護を通じ、生きがいづくりの大切さを実感

 私が地域福祉を意識するようになったのは、妻と、義母の介護をしていることが大きく影響していると思います。  妻とは大学の同級生で、私が大学院生だった頃に結婚しました。彼女は教師として働いていましたが、33歳のとき、脳出血で倒れて身体が不自由になったんです。再発の恐れがあったために安静にしている必要があり、仕事は辞めざるをえませんでした。家事や2人の娘の育児もできなくなり、同居していた義母を頼ることになりました。
 大間に移住してからは、妻もむらおこしに興味があったので、2人でいろんなことをしました。当時は小学生以下の子供が8人いたので、子供会をつくってキャンプに出かけたりもしました。私は、昼間は大学に行っていたため、1日中家にいる妻のほうが集落の人たちと先に仲良くなり、ずいぶんかわいがってもらいましたね。
 ところが一昨年、妻と義母が相次いで倒れたんです。2人の世話をするため、大学を早期退職した矢先のことでした。妻は、半年以上意識不明の状態が続きましたが、幸い回復しました。しかし、寝たきりになった上に認知症を発症し、特別養護老人ホームに入所することになったんです。義母も介護が必要になりましたが、現在はデイサービスやショートステイを利用しながら、自宅で生活しています。義母をデイサービスに送り出してから、妻のいる施設に行き、その合間に地域で活動するというのが、現在の私の生活です。
 妻は障害を負ったとき、天職だと思っていた仕事も、家事も子育てもできなくなり、「私は生きていても意味がない」と言いました。しかし、妻が生きてがんばることが、子供のためであり、私のためだったんです。私にできることは、妻に「家族のためにもう少しがんばってほしい」と伝えることでした。
 人間は、他の人に期待され、「この人のためにがんばろう」と思うことで力が出てくるものです。高齢者にとっても、社会的な期待や役割を背負うことが大切で、それが縁側お茶カフェの意義のひとつにもなっています。
 今は、妻も義母も、私の存在が頼りですから、それで私もがんばろうと思うわけです。そして、2人の世話の合間に地域に出かけていき、いろんな活動をすることが自分の喜びであり、生きがいとなっています。お年寄りも障害者も、他の人と比べたらできることは限られているかもしれません。しかし、その人にできることを精一杯がんばっている。それはとても貴いことです。そんな人たちの喜ぶ顔が見たくて、私はさまざまな活動をしているんです。

大間での取り組みを通じ過疎山村の活性化策を模索

 私が大間で暮らすようになって気付いたことがあります。それは、家族が頻繁に行き来していることです。集落のお年寄りは、買い物や病院に行くために静岡市街で生活する子供の家を使い、茶摘みなどイベントの際には、子供たちは大間に帰ってきます。縁側お茶カフェを手伝うため、親戚が開催ごとに訪れている家もあります。
 実はこれは、静岡県の過疎地全体の特徴でもあります。「東海型過疎」と私は呼んでいるのですが、過疎集落に暮らす高齢者の子供の多くが、自動車で1、2時間程度の近郊都市で生活し、家族間の交流を保っているんです。だから残された高齢者に「ゆとり」があるのです。そのゆとりからか、大間で暮らす人たちは、自分たちはここに住み続けたいと思っていますが、自分の子供たちにそうしてもらいたいと思ってはいません。生活に必要なお金を大間では稼げないからです。
 しかし、このままでは大間の集落は本当に消滅してしまいます。縁側お茶カフェが定着しても、世帯数がどんどん減っている状況では、いつまで続けられるかもわからないんです。
 そこで私は、静岡の過疎地に合ったライフスタイルを提案しているんです。つまり、都市に暮らす人が、定年と同時に都市近郊の過疎集落に移住する。都市の家は子供に譲る。親は田舎暮らしを楽しみ、子供の家族は休暇を利用して親元を訪れ、豊かな自然を満喫する。そして、親が高齢化し自立した生活を送るのが難しくなる頃、子供がリタイアする。子供は都市の家をその子に譲り、田舎の家に移って親の最期を看取る――。そんなサイクルを定着させて過疎集落への移住者を増やし、同時に若い世代との交流を促すことで地域活性化ができないかと考えているんです。
 大間でも、集落を出た子供たちの中には、夫が定年になったら帰りたいと言っている人もいますし、戻って農家レストランを開きたいと言う人もいます。子供たちが戻り、新たに移住する人が増えれば、大間も活性化するのではないかと思います。
 大間には現在4軒の別荘があり、そのうちの1軒では、オーナーが手作りした石窯でパンやピザを焼いたり、薪割りを体験することができます。別の1軒では、ヨガ教室を開催することもあります。彼らとともに、縁側お茶カフェと連動したイベントを企画したときには、30代の女性を中心にたくさんの人が集まりました。少しずつ大間に注目する人が増えてきているのはうれしいことですね。
 大間という素晴らしい土地を守り、そこに生きる人々の暮らしをより豊かなものにすること。そして、大間での取り組みを通じて、他の多くの過疎集落の活性化策を見出していくこと。そのために私は、ここ大間で、これからもできることを続けていきたいと思っています。

取材日:2011.7



広島県生まれ 静岡県静岡市在住


【 略 歴 】

1974静岡大学人文学部経済学科 講師
1977静岡大学人文学部経済学科 助教授
1988静岡大学人文学部経済学科 教授
1991静岡未来づくりネットワーク 代表幹事
静岡・未来・人づくり塾 講師
1993静岡市葵区大間へ移住
2007静岡大学退職、名誉教授就任
静岡市葵区大川地区社会福祉推進協議会 理事
2008縁側お茶カフェ、おすそ分け農園を始める

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