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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

学生運動後の、目的を失った10年を経て医学部へ。
子どもの心に寄り添う焼津の「じいじ先生」。

堀尾惠三(ほりお・けいぞう)

堀尾惠三(ほりお・けいぞう)


ほりお小児科 院長


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ほりお小児科

医者として思春期の若者の心の支えになりたい

 私が医学部に入学したのは、38歳のとき、1982年のことです。1970~80年代にかけて、わが国では、家庭内暴力や不登校など、思春期の子どもたちの問題が表面化しはじめました。メディアの報道や関連の本を読んで感じたのは、社会の閉塞感です。
 背景には、戦後から高度成長期まで、ずっと右肩上がりで邁進してきた世の中の流れが、大きな転換点を迎えたことがあったでしょう。なぜこんな状況になってしまったのか、私たち大人に何ができるのか――。そういったことを、私自身の問題としても、考えていました。
 医学部の受験をするまで、私は予備校で非常勤の講師をしていました。受講生のなかに、ある日突然、統合失調症になってしまった若者がいたんです。統合失調症は、突然発症する精神疾患で、はっきりとした原因は不明ですが、先天的な素因以外に、ストレスなどの環境的な要因が関連していると言われており、100人に1人の割合で発症します。
 当時の私は、何の専門知識もありませんでしたが、彼の話をよく聞いていたんです。どこか引っかかる、気になる存在だったのでしょうね。真面目で感受性の強い若者でした。これから大学に進学しようというのに、将来の希望や可能性とともに、彼がむざむざと潰れていくことが我慢できなかった。精神科に通っているようでしたが、私にはそれがプラスに作用しているとは思えず、腹立たしく、もどかしい思いで、彼を見ていました。
「子どもたちが生きにくくなっている社会」を目の当たりにして、「何とかしたい」と思うようになりました。そこから「精神科の医者として、思春期の子どもたちと向き合っていきたい」という気持ちがわき起こってきたんですね。3度の挑戦の末、母校である東京大学の医学部に入り直しました。

原子力工学を学び学生運動とともにあった青春時代

 私は最初の大学生活を、1960年代から70年代にかけての、学生運動の真っ只中で過ごしました。ダイナミックな時代でしたね。私にとって、人生でいちばん楽しい時期だったかもしれません。
 当時の専攻は、原子力工学です。ちょうど原子力開発の黎明期で、国を挙げて研究者養成に力を入れていました。主な国立大学に原子力工学学科ができ、研究自体に特別な興味があったわけではなかったのですが、「最先端をいく花形の研究分野」という理由で、選んだように思います。今にして思えば、時代に流されていましたね。ゆくゆくは研究者になろうと考え、大学院に進学し、修士課程、博士過程へと進みました。
 しかし、私が学生時代に没頭したのは、研究ではなく、学生運動でした。博士過程に入学した1968年は、大学運動が最も激しい時期。69年の安田講堂事件や、72年の沖縄返還の頃は、時代の勢いやエネルギーが、ピークに達していました。
 東大の構内も毎日、騒然とした雰囲気で、研究どころではありません。学生運動にのめり込むうちに、研究者になりたいという気持ちは、いつしか消え去っていきました。実はその頃、柏崎刈羽原子力発電所の建設反対運動にも参加していたんです。
 ピークの時期を過ぎると、学生運動は敗色ムードが濃厚となり、地道に運動を続けていくことさえ、難しくなっていきます。ご存知のとおり、柏崎刈羽原発も、反対運動の甲斐なく建設されました。その後の社会は、私の目には、歪んだものに映りました。
 今にして思えば、学生運動時代の私の行動は、どこか子どもじみたものでした。当時はもちろん、日本のあるべき姿を大真面目に考え、皆で議論し、社会や体制に対して、果敢に挑戦しているつもりでしたが、一方で、「社会は簡単には変わらない」という冷めた感情もありました。当時のことは、実際に運動に参加した者でなければわからない何かがありますね。それを言葉で言い表すのは、とても難しい……。しかし、私たちを突き動かす何かが、そこには間違いなくあったんです。

目的も計画もなく、気ままに過ごした10年間

 学部から数えると、通算で11年間、大学に在籍しましたが、学生運動の収束とともに、最終的には博士課程を中途退学しました。友人のなかには、普通に就職したり、大学に残る人もいました。しかし私は、そういう姿勢を「潔し」と思えない気持ちが、心のどこかにあったんですね。
 大学院を退学してからの約10年間は、毎日、何の計画も目的もないまま、ブラブラと過ごしました。既に結婚していましたので、妻に養ってもらっていたんです。そんな自分を、「妻食(さいしょく)主義者」だと豪語していました(笑)。趣味の絵を描いたり、プールに泳ぎにいったり……学生運動から一転して、静かで穏やかな暮らしも悪くなかった。
 とはいえ、「少しぐらいは稼がないと」と思いまして、大学や高校、予備校などで、数学や理科の講師を始めました。家で学習塾を開いたこともあります。
 そんな気ままな生活を送りながらも、私は多分、私を学生運動に駆り立てた熱のようなものを、ずっと持ち続けていたように思いますね。どんどん歪みを増していく社会を、「われ関せず」という姿勢で、ただ眺めていたわけですが、「勝手にすればいい」「自分の知ったことか」とうそぶいているようで、心のどこかで煮え切らないものを感じていた。だから、時代の移り変わりから、目を離すことができなかったのかもしれません。
 40歳を目前に、医学部を目指したのは、もとをただせば、学生運動をしていた頃の自分にたどり着くように思います。

「思春期医療」を志し、小児科医の道を選んだ


 思春期の子どもたちの心の問題に関わりたいという気持ちは、医学部で学ぶ6年間、ずっと変わりませんでした。大学5年のとき、国立小児病院(現・国立成育医療研究センター)を訪れる機会があって、当時、病院長を務めていた小林登先生に出会いました。
 小林先生は、長年の小児科医としての経験から、「子ども学」を提唱された方で、東京大学の名誉教授でもあります。「『思春期医療』をやろうと思っています」とお話しすると、「それなら、小児科全般をやりなさい」と言われたんです。
 思春期特有の心や身体の問題を扱う思春期医療は、アメリカなどでは、1つの独立した領域として確立されています。しかし日本では、小児科と精神科にまたがる分野で、自分は小児科に行くべきか、精神科に行くべきか迷っていたんです。しかし、小林先生の一言で心が決まり、小児科に進むことにしました。
 卒業後、東京大学附属病院の小児科に、研修医として入局し、医者としての修業が始まりました。悪性リンパ腫や白血病の子供たちを、指導医と組んで担当したのですが、既に40代でしたから、教授などと勘違いされることもありましたね。現役世代より20歳も年上ですから、当然と言えば当然ですが、およそ新米には見えない研修医だったと思います(笑)。
 1年間の研修医時代を経て、1989年、福島県にある太田西ノ内病院の小児科に勤務することになりました。勤務して3年目ぐらいからは、摂食障害などの精神疾患をもつ患者さんも診察させてもらいました。
 仕事の一方で、思春期医療の勉強は続けていました。不登校、拒食症などの摂食障害、発達障害など、子どもや若者の問題が増えてきた時期です。勉強のために、ほぼ毎週、福島から東京まで通っていました。

心と身体の問題に向き合う「健康外来」

 1995年に、焼津市立総合病院に赴任し、定年退職を迎える2009年までの14年間、勤務しました。その後、焼津市内に「ほりお小児科」を開業しまして、今年で3年目を迎えます。焼津市立総合病院でも「ほりお小児科」でも、子どもたちの身体の病気とともに、心身症や不登校など、心の問題にも携わっています。一見、身体の病気のようでも、実は心の問題が原因になっていることは、珍しくありません。
 焼津市立総合病院の外来診療に訪れた、中学2年生の少女も、そんな1人でした。彼女は当初、「お腹が痛い」と訴えて来院していましたが、よくよく聞いていくと、実は精神的に不安定で、学校も休みがち。登校しても、下校時刻まで、保健室で過ごしていることがわかりました。
 状況が見えてきた段階で、私は彼女に、「一般外来ではなく『健康外来』にいらっしゃい」と言いました。「健康外来」は、私が焼津市立総合病院の在職中に始めたものです。退職した後も、「すこやか外来」として継続されており、私も週1回、診察を行っています。対象は、不登校やチック、肥満など、長期間にわたって経過を診る必要のある、子どもとその保護者。カウンセリングを含む診察で、毎週1回、10組ぐらいの親子に面談していました。

アドバイスよりも耳を傾けることが医師の役割

 例えば、不登校の子どもの場合、身体的な症状について質問はしますが、ほとんど雑談から入ります。「なぜ学校に行きたくないのか」を、無理に聞き出そうとはせず、その子が話してもいいと思うまで、私は何も言いません。ひたすら聞き役に徹するわけです。
「よく来たね。君の悩みは、今後の人生に大きな意味をもつ、重要な問題なんだろうね。そんな大事なことを、まだ数回しか会ったことのない私に、すぐに話せるとは思わない。それは、もっともなことだよ。話せるようになったら話せばいいし、言いたくなければ、ずっと話さなくてもいい」
 私からは、そんなメッセージを子供たちに送っているつもりです。しかし、そのとおりに話すことはありませんね。見かけによらず、照れ屋ですから……(笑)。子どもたちの悩みや苦痛を尊重する気持ちが伝われば、それでいいと思っています。
 その中学生の少女は、面談と診察を重ねるうちに、少しずつ事情を話してくれるようになりました。友人に「性格を直したほうがいい」と言われたことや、教室の鍵がなくなったのを自分のせいにされたこと……そんな話をしてくれました。しかし、問題は、もっと奥深いように感じましたね。言われのない非難を受け、彼女の世界は暗い、敵意に満ちたものに変貌してしまったのでしょう。
 彼女は、その後、地域の「適応指導教室」に通いながら、高校受験を目指し、無事合格しました。中学校の卒業式に、同級生と一緒に参加したことを、誇らしげに報告してくれたとき、「病院もそろそろ卒業だな」と、感慨深い気持ちになりました。

子どもだけでなく周りの大人へのサポートも重要

 診察を受ける子どもたちだけでなく、両親や教師など、周囲の大人をサポートすることも、医者の大切な仕事です。
 もしも、あなたの子どもが不登校になったら、パニックに陥るかもしれませんし、「私のどこが悪かったんだろう」と、自責の念にとらわれてしまうかもしれない。しかし、不登校というのは、どんな子どもにも起こる可能性のあるものです。保護者の方にお話しするのは、「あなたが悪いわけじゃありません。どんなにいい親であっても、子どもが不登校になることはあるんです」ということです。
 ただし、それ以上は何も言いません。保護者だけでなく、子どもたちに対しても、私は基本的に何も言わないし、特別なことは何もしません。彼らが話したくなったとき、聞き役として、思いを受け止めることが、私の役割です。
 学校の先生を前に、話をすることもあります。ほとんどの先生は良心的で、生徒たちのことを真剣に考えています。しかし、熱心で真面目な先生ほど、犯してしまいがちな過ちがあるんです。
 まず、不登校の子どもたちを、干渉してはいけません。問いただしたり、説教することもタブーですね。彼らを前に、「何も言わない」というのは、実に難しい。たいていは何か言いたくなってしまう。しかし、それは結局、先生自身の不安を紛らわせるだけで、子どもたちにとっては逆効果なんです。不登校の子どもたちというのは、逃げ場を断たれた状態で、問題に直面し、深く悩んでいます。「安全地帯」にいる大人の声が、届くわけがない。
 先回りをしたり、約束を強要するのも、禁物です。テストや入試、就職や結婚など、先々の心配までもち出して、できもしない約束を無理にさせる先生がよくいます。子どもたちは、先生のそういう行為によって、さらに自分を責め、自分で自分を追い込んでしまいます。
 仲良しの友人や成績のいい同級生に、不登校の子どもの面倒を見させようとする先生もいます。毎朝、登校時間に迎えにいかせたり、学校に来るよう説得させたり……。これは本人にとっても、友人たちにとっても、辛いだけの体験です。
 担任する生徒が不登校になれば、先生は保護者と同じようにショックを受けます。そういう大人たちの心を受け止める場を用意することも、私たち医者の務めだと思いますね。

小児科医の不足解消に女性医師の活用は不可欠

 病院が実現しなければならないことのひとつに、「女性医師にとって働きやすい職場づくり」があります。ここ数年、医師不足の問題があちこちで叫ばれていますが、小児科はそのなかでも、特に深刻な医師不足に直面しています。もともと女性医師の多い領域ですから、彼女たちのマンパワーを活用しなければ、今後、医療現場が立ち行かなくなるのは、目に見えています。
 世の中全体では、これほど産休や育児休暇が一般化しているにも関わらず、女性医師の場合、産休さえままならないのが現状です。妊娠を機に、仕事を続けたくても、辞めざるをえないケースがほとんどですね。一度、現場を離れてしまうと、子育てをしながら再就職先を探すのは、至難の業です。「当直ができない」「長時間勤務ができない」という理由で、女性医師は、現場からどんどん排除されています。
 確かに、当直は医者として重要な職務ですし、1人抜けてしまうことでのフォローは、そう簡単でないかもしれません。しかし、勤務時間が短くても、「働きたい」という意志のある女性医師は、1人でも多く仕事をしてもらったほうがいい。外来診療だけでも担当してもらえば、現場は円滑に回るはずです。
 私は焼津市立総合病院に勤務していた頃、育児中の女性医師の雇用や、産休後の女性医師の現場復帰を積極的に行ってきました。「さくや姫」である増井礼子医師も、その1人です。

焼津に子どもたちのためのユートピアを作りたい

「女性医師にとって働きやすい職場づくり」ということもありますが、男女共同参画社会の実現に向けては、「子どもが育つ社会」「子どもを大切にする社会」の実現が、重要だと思いますね。子どもは、社会を継承し、存続させる存在です。医師不足解消のために医学部を誘致するといっても、医者になる子どもがいなければ、結局、社会は滅びてしまう。わが国の少子化問題は、そのくらい深刻な段階に来ています。
「子どもが育つ社会」とは、「安心して子どもを産み、育てることができる社会」。さらには、「子どもたちが自立した大人に成長し、社会に貢献できる人間に育っていく過程を支える社会」です。言うは易しですが、実現はそう簡単ではありません。
 私にできることは、あくまで実践です。風邪をひいた子どもたちを診察すること、子どもたちの悩みに耳を傾けること、お母さんたちを元気づけること、お父さんたちにお母さんをサポートさせること……。そうして家族を再生させることで、子どもたちが元気になっていく社会づくりに貢献したいと考えています。
「ほりお小児科」は、今後10年ぐらいは続けていきたいと思っています。10年たつと、私も、後期高齢者の仲間入りです。どこまでできるかわかりませんが、80歳で現役の医師はたくさんいますし、頑張っていきたいですね。
 実は、私には夢があるんです。思春期の子どもを中心に、居場所のない子どもたちが暮らせるユートピアみたいなクリニック併設の施設を作ること――。私が目指すのは、地域医療ですから、場所は焼津近郊。昔から海が大好きなので、立地は海辺の高台がいいですね。かなうかどうかわからない夢ですが、いつチャンスが訪れるかわかりませんからね。子どもたちにとっても、私にとっても、ユートピアと言えるような場所を作りたい。
 38歳で医学部に入学してから、すでに30年近くがたちました。いろんな出会いがありましたね。最近、不登校だった少女が、突然、赤ん坊を連れて、訪ねてくることがあります。わが子を小児科にというとき、まず私のところを選んでくれるということが、最近、増えました。少なくとも「あんな先生のところへは行きたくない」とは、思っていないようですから、なかなかの成果と言えるかもしれません(笑)。
 これからも、子どもや親たちに寄り添い、彼らの悩みや苦しみを、同時代に生きる人間として、受け止めていけたらいいなと思っています。

取材日:2011.7



兵庫県生まれ 静岡県焼津市在住


【 略 歴 】

1966東京大学 工学部原子力工学科 卒業
1968東京大学大学院 工学系研究科原子力工学専攻修士課程 修了
1973東京大学大学院 工学系研究科原子力工学専攻博士課程 退学
1988東京大学 医学部 卒業 
東京大学医学部附属病院 研修医
1989太田西ノ内病院 小児科
1993東京大学医学部附属病院 小児科 助手
1995焼津市立総合病院 小児科
2002焼津市立総合病院 小児科長
2008焼津市立総合病院 副院長
2009ほりお小児科 開業

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