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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

家事も子育ても「頑張りすぎない」が大切。
タイで見つけたのんびり暮らしを、ただいま実践中!

鈴木伸二(すずき・しんじ)

鈴木伸二(すずき・しんじ)


主夫



役割分担でなく「できるほうが、できることを」

 わが家は妻と私、もうすぐ4歳になる長女の千優の3人家族。妻も私も家事をしますが、分担の割合でいうと私が7〜8割ぐらい。どちらかというと、私が「主夫」を務めています。
 掃除や洗濯ものの取り込み、娘の保育園への送り迎えは私の仕事です。普段の買い物は、パートが休みの日や土日に、家族で行きます。食事も作りますけれど、妻の方がキャリアも長くて上手なので、私は後片づけ担当になることが多い。妻は特別支援学校の教員として、私は飲食店の本社で事務のパートとして働いています。
 こうした役割分担は結婚当初から続けています。私は2004年、9年間勤めていた産業用機械メーカーを退職しまして、独立行政法人国際協力機構(JICA)による青年海外協力隊のメンバーとして、タイに2年間、赴任しました。
 私よりも少し後、妻は、協力隊の別グループのメンバーとして、タイに赴任してきました。現地で開かれた協力隊員どうしの交流がきっかけで出会い、帰国後に結婚したんです。
 私の場合、会社を退職して協力隊に参加していましたが、妻は公務員なので、現職参加。妻自身、結婚しても仕事を続けることを望んでいましたし、私も結婚のために、仕事を辞める必要はないと思っていました。
 協力隊を終えて帰国したとき、私は42歳。経済的な状況も、私自身の年齢的にも、すぐに正社員の仕事が見つかる状況ではありませんでした。それで、私がパートとして働き、それ以外の時間は家事をすることにしたんです。
 とくに抵抗は感じませんでしたね。というのは独身時代、ひとり暮らしが長かったんです。加えて会社員だった頃、職場の先輩に共働きの夫婦がいて、「先に帰ったほうが、食事の支度をする」という話を聞いたことがあります。「夫婦でも、できるほうが、できることをやれればいいんだな」と思いました。
 私たちも、特別に話し合いをして、役割分担を決めたとかいうわけではありません。自然と、互いができることをやってきた結果、私が主夫を務めるスタイルができあがった。2007年に千優(ちひろ)が生まれた後も、そうしたそれまでの生活スタイルに、子育てが組み込まれていったという感じですね。

朝は子供の「やる気」を引き出して前向きに

 毎朝、私と妻が6時ごろ起床し、2人で食事の支度をします。娘は7時頃、自分で起きてきます。妻は7時半には出勤しますので、私と妻は先に朝食を済ませてしまうことが多いですね。娘と一緒に妻を見送った後、今度は、娘に朝ご飯を食べさせます。
 顔を洗ったり、歯を磨いたり、着替えたりといった身支度も、最近は自己主張が出てきて、何でも自分でやりたがります。手を出したいと思いつつ、なるべく本人のやる気に合わせますね。その間に、私は簡単な掃除をしたり、妻が干しきれなかった洗濯物があれば、それらを干したり。8時半、娘を自転車に乗せて、保育園まで送ってきます。
 私のパートは9時からなので、それに間に合うよう、保育園まで送り届けなければなりません。日によっては、途中の道端で、何か面白いものを見つけて「あそこに面白いものがあるね」と、話をしながら保育園に向かいます。
 いろんなことに興味をもつ時期ですから、子供の意思を尊重してあげたいとは思いつつも、悲しいかな現実は、そうそうパートに遅刻するわけにはいきません。順調に行けば5~10分の道のりですが、いつも娘のペースに合わせてあげられないのが、辛いところです。どこまで折り合いをつけるかは、子供との駆け引きのようですね。娘の気持ちを、うまい具合に保育園に向かわせるような言葉をかけてみるなど、いろいろ工夫しています。

「家と仕事の往復」に疑問を感じて協力隊へ

 会社員時代は、半導体エンジニアや産業機械エンジニアとして働いていました。現在のパートの仕事や、青年協力隊での仕事は、自分の専門分野とは必ずしも一致していません。しかし、それまでの仕事のなかで獲得してきたコンピュータの知識や、自分なりに取得してきたスキルなどが役立っています。
 30歳を過ぎた頃、半導体部品製造メーカーから産業用機械メーカーに、転職しました。転職先では、機械製造の最終工程で、設計仕様に合っているか、信頼性の点で何らかの問題がないかなど、製品をテストや検査をする品質保証の部署にいたんです。
 勤めはじめて7年ほどたったとき、その部署の責任者となり、数人の勤務状態の管理や仕事を分担するなど、管理側の立場にもなりました。もちろん、責任のある仕事を任されることは、それなりにやりがいもありましたし、仕事自体は苦痛ではありませんでした。
 しかし、責任者となった頃から「自分は、この会社で一生、この仕事を続けていていいのだろうか」という疑問をもつようになったんです。とにかく忙しくて、毎日、会社と家の往復だけで、1日が終わってしまう。「何年後には、だいたいこんな役職に就いて、こんな仕事をするんだろうな」という、将来の道筋が見えてくる一方で、それが会社と家の往復でいいのか――と考えるようになったわけです。
 青年海外協力隊のことは、以前から知っていました。「人生を変えてみたい」という期待と、「長い人生のうち、一度ぐらいは、外国で生活してみたい」という思いが、協力隊への参加と結びついたんですね。さらに「エンジニアとしての知識や経験を、海外で役立てることができるなら……」と思いまして、会社を辞め、参加を決意しました。
 2004年、コンピュータ技師として、タイに赴任することが決まりました。赴任先は、タイ北部のチェンマイに近い工業専門学校でした。日本で言う工業高等専門学校、いわゆる「工専」のような学校です。
 私に与えられたミッションは、これまで会社の仕事で培ってきた知識とは少し違うもので、インターネットをはじめとする、コンピュータネットワークの整備や構築のサポートです。ときどき学生に日本語を教えることもありましたね。しかし、自分の専門分野ではなくとも、自分の知識を役に立てられることは、嬉しかったですね。

家族との時間を大切にしていたタイの人々

 赴任中、私が何よりも刺激を受けたのは、タイの人々の日常の暮らし方でした。タイと日本のいちばんの違いは、時間の流れでしょうか。仕事も生活も、すべてがのんびりしていました。
 例えば、タイの子供たちは、学校が終わると、親の職場に来る子もいるんです。私が勤めていた学校でも、職員の子供たちが、職員室にやって来て、親の仕事が終わるのを、遊びながら待っている。親は親で、子供が待っていますから、ある程度、仕事が終わると、定時前でも子供と帰宅してしまうんです。
 日本では、絶対にありえないことですが、タイでは、それも普通なんです。誰もとがめないし、文句を言う人なんて、ほとんどいません。もともとの文化がゆったりしているせいか、日本よりも家族を大切にしていて、ギスギス働く人が少ないからかもしれません。
 そういう暮らしを間近に見たことで、私のなかの「日本人的普通」が、根底から揺さぶられたのだと思います。帰国後も、「日々の生活は、もっとのんびりしていてもいいんじゃないか」と考えるようになりました。
 会社の仕事であれば、頑張れば頑張っただけ、それなりに成果は上がるでしょう。しかし、日々の生活で頑張りすぎれば、どうしても気持ちがギスギスしてしまう。頑張ったところで、いい成果は生まれない気がします。
 大切なのは、頑張りすぎないこと。家事も子育ても頑張りすぎない。そういう価値観が、生活という場面では、「アリ」なのだと思います。
 とくに子育ての場合、自分がいくら頑張ったところで、子供は、親の思うとおりにならないのが常です。自分の思惑と異なっていても、「それもアリ」と受け入れられる心構えが大切ですよね。
 タイでの2年間の経験が、現在のわが家の生活スタイルにつながっているんです。

子供に熱があっても男性社員は休めない?


 子供が熱を出したときなど、保育園からの緊急の連絡は、私のところに来ます。職場には申し訳ないと思いますが、そういうときは、仕事の途中でも、帰らせてもらっています。
 職場になるべく迷惑をかけないためにも、食事や睡眠など、娘の健康管理には、日頃から気を付けていますね。何かあった場合、ご近所をはじめ、地域の人たちに助けていただかなければならないことも発生してくるので、行事などには、できるだけ参加するようにしています。
 しかし職場では、男性である自分が、子供の病気などを理由に、仕事を中断することについて、十分な理解は得られていないと感じることもあります。同じパートという立場でも、女性が「子供が熱を出したので」と早退しても、「仕方ないですね」と受け入れてもらいやすいのですが、私の場合、何となく周囲の風当たりが強くなる気がします。
「子育ては女性がやるもの」という固定観念もあるでしょう。一方で、「男でないと、ちゃんとした仕事はできない」という強迫観念があるのかもしれない。いずれにせよ、日本社会では、男性の役割が、極端に仕事に偏りすぎているんじゃないでしょうか。
男性の育児休暇についても、同じことが言えると思います。「男性社員の育休は取りにくいもの」と言われて久しいわけですが、それは企業の管理サイドの問題じゃないかと、私は思うんです。
 私も会社員時代、管理職を経験しましたが、ケガや病気などで、突然、何週間も休まなければならないことはあります。しかし、危機管理の一環として、一時的な欠員があっても、業務を遂行できるシステムを用意するのは、会社の責任だと思います。社員が育児にを理由に1週間の休暇もとれない状態で、いざというケースに、どう対処するのでしょう。

「男も女も、家事も仕事も」を社会が作るべき

 日本は今後、男女ともに、仕事にも家事や育児にも参加できるシステムを、社会全体でつくり上げていく必要があると思いますね。
 ご存知のとおり、男性の正社員でさえ、賃金が右肩上がりになる気配がないわけです。これまでの生活水準を保つためには、今後ますます、男性も女性も仕事をしなければいけない。夫婦の共働きが、必然となっていくのではないでしょうか。
 しかし、そのためには、出産や育児に際して、職場を一時的に離れる人が、ちゃんと現場復帰できる仕組みや、男性も育児に参加しやすいシステムなども、今後、当たり前にならないといけない。仕組みを実際に機能させるには、個々人の意識を変えていく必要もあるでしょう。
 出生率が減少傾向にあるわが国の現状を踏まえると、育児に対し理解を示さない企業は、結果的に、自分の首を絞めているんだと思いますね。なぜなら、子供が少ないということは、将来、働き手も顧客も失うことになるからです。
 私が考える男女共同参画のイメージというのは、社会的もしくは文化的背景を考慮したうえで、男女が同じスタートラインに立ち、お互いの立場を尊重できる社会。「男女平等」とは違いますね。力仕事でさえ「男女同じようにできなければならない」とか、「会社の社員数も男女同数でなければならない」という、間違ったイメージで語られることがよくありますが、そういうことではないと思います。仕事の内容を考慮した結果、男性が多い職場、女性が多い職場ができるのは、自然なことではないでしょうか。
 日本では、いまだに女性の出産や育児を、仕事上の能力の差として差し引いており、昇進などでも差をつけているように思います。それが、日本の社会的な価値観だとしたら、とても残念な気がしますね。

子供のペースに合わせられる心のゆとりが肝心

 実は、静岡市女性会館「アイセル21」が主催する「カジダンイクメンフォトコンテスト」で、2009年には最優秀賞、2010年には特別賞をいただきました。2回とも、応募したのは、撮影者である妻です。びっくりしましたね。
 2010年の応募作は、娘が2歳になるちょっと前の写真です。最初は、ちゃんと食べさせようと頑張っていたのですが、さっきもお話ししたように、なかなか親の思うように行かないのが常。それで、どうせなら一緒に楽しんじゃえと(笑)。
 月並みですが、子育てしてみて気付いたのは、世の中のお母さんたちが、いかに大変かということ。なかでも専業主婦の方たちは、1日中、子供と一緒にいるわけですよね。新聞やテレビなどで、虐待をなどのニュースを聞くたびに、お母さんも気の毒だなと思います。追いつめられてしまったんだろうなと……。
 道端やスーパーで、子供を叱っているお母さんたちを見ると、「気持ちはわかるなあ」という共感の半面、「大人にとってはどうでもいいことでも、子供にとっては楽しいんだよな」と感じます。
 以前、静岡県男女共同参画センター「あざれあ」で、NPO法人ファザーリング・ジャパンの代表理事である安藤哲也さんの講演を聞いたことがあります。安藤さんは、子育ては、子供のペースに合わせてやるしかないと、おっしゃっていましたが、私も同感ですね。
 大人の考えで、子供を動かそうとしても、思うようにいかないのは仕方ない――そんな割り切りができてからは、できるだけ子供のペースに合わせるようにしています。しかし時折、「かみさん、早く帰ってこないかな」と、内心、願うような気持ちでいることもありますね。
 娘は、まだ親の手が必要な年齢ですが、成長とともに、親に対する接し方も変わってくるでしょう。臨機応変にやっていくしかないでしょうね。そろそろ厳しくしつけておかないと、思春期になったとき困るかな、という悩みもあります。
 これだけ一緒にいるのに、ときどき「保育園に送り迎えはママがいい」と言われたりするんです……。他の子供たちは、ほとんどお母さんが送り迎えをしていますから、無理もないのですが、正直、かなりへこみますね(笑)。
 名前のとおり、優しい子に育ってほしい。単に優しいだけではなく、人の痛みが分かる優しさ、強さを兼ね備えた優しさをもった人間に育ってくれれば、と願っています。

取材日:2011.6



新潟県出身 静岡県静岡市在住


【 略 歴 】

1986大学卒業後、半導体メーカーに就職
1995産業機械メーカーに転職
2003会社を退職
2003~2005JICAによる青年海外協力隊でコンピュータ技師としてタイに赴任
2006結婚を機に静岡市に転居。飲食店本社でパート勤務を開始
2007長女誕生

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