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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

生後2週間の娘の爪切りで自らの「母性」を自覚。
古くて新しい7つの物語で男女共同参画を説く。

奥山和弘(おくやま・かずひろ)

奥山和弘(おくやま・かずひろ)


静岡県立吉原高等学校 校長


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静岡県立吉原高等学校 校長室だより

昔話にみる「男らしさ」「女らしさ」の不自然さ


 昔むかし、あるところにキンタローという名の男の子がおりました。色白で、目はパッチリとしていて、それは可愛い男の子でした。
 キンタローはある日、村の相撲大会に出場することになりました。「男の子は、元気に相撲をとるものだ」。そう言う大人たちによって、無理やり相撲大会に、参加させられることになったのです。
 実はキンタローは、相撲が好きではありませんでした。お人形遊びをしたり、きれいな花を見たりするほうが、ずっと好きだったからです。
 一方、キンタローの幼なじみの女の子「クマ」は、「相撲大会に出場したい」と申し出ました。力持ちのクマは、男の子に負けない自信があったからです。
「土俵は男だけの神聖な場だ」という村人もいましたが、クマは相撲大会に参加できることになりました。そして、キンタローと対戦することになったのです。
 勝負は、あっけないものでした。力持ちのクマを相手に、キンタローはコロリと一瞬で負けてしまったのです。
 ――これは、私がつくったオリジナルの「金太郎」です。昔話の設定を借りて、「花や人形が好き」「相撲で女の子に負けてしまった」といった、私自身の子供時代を物語にしました。
「金太郎」や「桃太郎」など、日本の昔話には、男らしさや女らしさという「枠組み」が、歴然と存在しています。しかし、私自身がそうであるように、その「枠組み」に当てはまらないケースも、現実社会にはあるわけです。
 こうして、男らしさや女らしさの「枠組み」をひっくり返してみると、浮かび上がってくるのは、その不自然さですね。さらに、そこから見えてくるのは、男女共同参画社会の根本的なあり方です。

言葉の力を信じ、物語で伝える男女共同参画


 私は大学を卒業して、国語教師になりました。しかし、高校時代の夢は、漫画のストーリーを作る原作者でした。『巨人の星』や『柔道一直線』、『あしたのジョー』など、日本の漫画史上に残る名作を、リアルタイムで読んでいた世代です。原作者の梶原一騎氏みたいになりたいと、憧れていたんです。
 一方で、高校3年生のとき、森鴎外の『舞姫』に出会いました。本当に感動しましたね。感動のあまり、家に帰るや、4歳年下の妹に、ストーリーを現代語訳しながら聞かせました。
 これが、私の初めての授業です。原体験とも言えますね。文学の感動とともに、その感動を伝える喜びを知ったんです。教員になりたいと思ったのは、「誰かと感動を分かち合いたい」という素朴な思いからです。
 教師になって「自分にしかできないことは何か」と考えたとき、思いついたのが漫画でした。「そうだ、漫画を使った授業をしよう!」ということで最初に試したのは、漢詩を8コマの漫画にするというもの。当時は、今のようにインターネットも豊富な映像資料もありませんでしたから、例えば黄河を、小川のように描く生徒も、なかにはいました。つまり、漫画によって、詩のイメージを生徒たちがどのぐらい理解しているかがわかったわけです。
 中学校に赴任していたとき、「俳句のイメージを絵画にする」という課題を与えたこともあります。とても刺激的な試みでしたね。
 句のなかにある「死にどころなく」「万緑」といった箇所は、なかなか絵になりません。生徒たちは言葉からイメージを膨らませ、絵にしていく難しさを通じて、結果的に俳句の勘どころみたいなものをつかむことができたようです。絵を描くことによって、言葉がもつ力に気付いたんですね。
 言葉の力とは、私自身にとっても、非常に重要なものです。私がその後、男女共同参画に関する自分の意見や見方を発信していく際、物語という枠組みを伝達手段にしたのも、言葉の力を信じているからです。物語は私にとって、いちばん自然な伝達手段だと、言えるかもしれません。

家事に参加することが自分の幸せにつながる

 私が男女共同参画推進に関わるようになったのは、1995年、静岡県教育委員会に異動したのがきっかけです。この人事は、仕事に留まらず、自分の人生にとって大きな転機となりました。
「男女共同参画」という考え方に共感したことで、教育委員会を離れた後も、男女共同参画推進に向けた啓発活動を、個人的に続けています。男女共同参画やジェンダーに関する著書を出版したり、県内ばかりでなく全国各地で、講演をさせていただいております。
 最初は単なる「仕事」にすぎなかった男女共同参画に、ここまで深く関わるようになったのは、ある統計データがきっかけでした。
「家事は妻がすべき」と思っている共働きの夫の結婚満足度は、「家事は夫婦同等にすべき」と思っている共働きの夫に比べて低い――そういうデータです。当時の私は、「家事は妻がすべき」と思っている共働きの夫で、結婚生活に対し、密かに不満を抱いていました。
 そのデータを見て、気付いたんですね。「私は、自分で自分の首を絞めているんだ。幸せになるには、私自身の価値観を変えればいいだけなんだ」と、まさに目からウロコでしたね。「自分も家事をやることが大事なんだ」と思いました。
 私の実家は農家で、両親とも働いていました。母は毎日、農作業から戻ると、1人で食事の支度や洗濯などの家事をしていました。それが、当たり前の光景だったんです。
 農家ですから、おじいさんやおばあさん、父の兄弟もいる大家族でした。食事ひとつとっても、多いときには、9人分を用意していましたね。しかも、当時はガス器具や電子レンジといった便利なものはありません。「嫁」ですから、お風呂に入るのも、母がいちばん最後でした。
 そんな母を見て、2歳くらいの私は「お母さん、かわいそう」と言ったそうです。本当に辛かったのでしょうね。その言葉を、母はずっと覚えていました。
 しかし、「かわいそう」と言ったはずの当人に、かつての記憶はなく、自分が結婚してからも、「家事は妻がするもの」ということに、何ら疑問をいだくこともありませんでした。
 私の妻は、数学の教師です。「教員という同じ仕事をしているのに、家に帰ると、自分がすべての家事をしなければならない」という不満を、彼女は結婚以来、感じていたのだと思います。思い起こせば、そういう不満をほのめかしたこともありました。

結婚20年でできあがったフレキシブルな役割分担

「男だって家事をしなきゃ」と気付いたその日、家に帰って、妻に宣言したんです。「自分は、料理はできない。だから料理は、今までどおりやってほしい。その代わり、洗いものは、私が死ぬまでやるから」と。
 国語の教員なので、大げさというか、つい誇張した表現になってしまうんですね(笑)。いずれにせよ、「家事はお互い、得意なことをやろう」と約束しました。以来、私が担当するようになったのは、食事の後片付け、洗濯物を干し、乾いたらたたんで収納すること、お風呂を入れることとお風呂場の掃除、ゴミの分別とゴミ出し。結婚して、既に10年がたっていました。
 そんな家事の役割分担は、その後しばらく続きました。私の帰りが遅くて、外で食事を済ませてきたときでも、台所には必ず洗いものが残っていましたね。「自分は食べてないのにな」とは思いましたが、約束は約束ですから(笑)。
 それからさらに10年ほどが過ぎ、私は藤枝東高校に赴任しました。藤枝には、私の実家があるので、単身赴任することにしました。
 赴任に先立ち、ゴミの分別法や出し方を、妻に教えました。10年も私に任せきりだったので、ルールが変わったりして、わからなくなっていたようですね。
 2年間の単身赴任を経て、わが家に戻って来ると、どういう心境の変化か、妻がこう言ったんです。「お互いに忙しいから、これからは、できるほうが、できる家事をしよう」と。結婚20年にして、妻との関係性が変わったことを、実感しましたね。

男性にも「母性」があることを発見した娘の子育て

 長女が生まれたのは、私が34歳のとき。子育てを妻1人に任せるのは、物理的に難しい面もあったので、生まれた当初から、私もできることは手伝っていました。
 生後2週間くらいのとき、娘の爪を初めて切ったことは、いまだに忘れられない出来事です。2週間目の赤ちゃんですから、本当に指が小さいんです。妻は「私には怖くてできないから」と言うし、かなり緊張しましてね。ちょうど夏で、びっしょり汗をかきながら、爪を切ったんです。 10本全部の指を切り終わったとき、赤ん坊の手のひらに、自分の指を添えたら、キュッと握り返してくれたんです。それはもう、何とも言えない快感でしてね。
 思えばそのとき、いわゆる「母性」が、自分の中にも目覚めたのだと思います。それまで観念的だった「わが子」が、その瞬間、実感として押し寄せてきた。実は、そのとき切った娘の爪は、今も宝物として残してあります。将来、娘に子供ができたとき、見せてあげるつもりなんです。
 育児日記も、娘が5歳くらいになるまで、ほぼ毎日つけていました。「こんな言葉を覚えた」とか、「お風呂で水面をピチャピチャ叩いた」とか、子供の成長を、つぶさに思い出すことができます。
 言葉を覚えていく過程で、いろんな言い間違いをするのも、すべて克明に記してあります。一連の記録は、後に書く物語のなかで、随所に活かされています。
 よく「母親には母性本能がある」と言う人がいます。しかし、私は自身の経験をとおして、「母性」は、男性である自分のなかにも存在すると確信しました。

娘と過ごす時間を与えてくれた東京への単身赴任

 娘が2~3歳の頃、静岡県教育委員会による「派遣研究生」という制度で、1年間、東京大学の研究生として学ぶチャンスがありました。
 派遣研究生に選ばれたとき、私は正直、非常に有頂天になっていました。「東京で、思いきり羽を伸ばせるチャンス」くらいに考えていたんです。 ところが、「行ってもいいけど、行ったきりはダメ」と、妻にクギを刺されましてね。結局、2週間に1度は帰省し、夏休みなどの長期休暇中も、資料をすべて郵送し、家で勉強することになりました。
 ところが、これがとても良かった。土日は、妻が部活動で出勤なので、娘と2人で過ごすことができたんです。週末の2日間、ずっと子供と一緒にいるなんて、学校に勤務しているときにはできないことです。ちょうどオムツをとる時期で、私がトレーニングしてあげることもできました。そういう時間がもてたことで、娘との間に、絆が生まれましたね。
 辛かったのは、その翌年。私が、県下屈指の名門野球部の副部長になったことで、子供と接する時間が、一転してほぼゼロになってしまった。1年のうち元旦以外は活動する野球部だったので、夏休みに花火をすることもできない。夏前から買っていた花火は、封を開けることがないまま9月になってしまいました。
 ある日、いろんな事情が重なって、奇跡的に夜までの練習がなくなったことがあります。「花火ができる!」と、飛んで帰ると、庭先で3歳の娘が言うんです。「お父ちゃん、今日は夢のような日だね」
 何とも不甲斐ない気持ちでした。花火をするなんていう、ささやかな喜びさえ、自分はこの子に与えていないのか、と――。猛反省しまして、自分の仕事より、娘の幸せを優先しなければと、心に誓いましたね。
 現在、娘は大学生です。今でも、父娘のいい関係を保つことができていると思います。いろんな相談もしてくれます。私が講演するときは、小学生の頃から、会場に連れて来ていたのですが、その甲斐あってか、男女共同参画についても、興味をもって勉強しているようです。

男女共同参画の学びがつまった7つの物語が完成

 教育委員会で、男女共同参画について学びはじめた頃、私が担当していた講座で、ある受講者の方がこんなことを言ったんです。「桃太郎の世界では、おじいさんが山へ柴刈りに行き、おばあさんが川で洗濯をしていて、何も問題なかった。あれこそ理想の世界だ」
 私は、その言葉がずっと頭を離れず、何らかのかたちで、反論したいと思っていました。
 あるとき、ふとひらめいたのが、「おばあさんが柴刈りをしたいと言い出したら、どうなるのだろう」ということ。さらに、桃から生まれてくるのが女の子だったら、鬼が島を会社に見立ててみたらと、想像がどんどん膨らみ、昔話の「桃太郎」の枠組みを借りて、新たな物語を作ろうと思い立ちました。そのなかに、男女共同参画について学んできたことや、私自身の経験を整理し、織り込んでみたいと思ったのです。
 こうして誕生したのが、『モモタロー・ノー・リターン』です。桃から生まれた「桃子」と、男女共同参画に目覚めたおばあさん、最初は戸惑いながらも、徐々におばあさんの生き方を受け入れ、自らも成長していくおじいさんの物語です。おじいさんには、家事をしていなかった頃の私自身の姿も、投影されています。
『モモタロー・ノー・リターン』は、1997年、各県の男女共同参画推進の担当者が集う会議で紹介したことがきっかけとなり、口コミで評判が広まっていきました。製本し、要望があると、実費でお分けしていたのですが、増刷を重ねて、発行部数は合計1万部に達しました。ありがたいことですね。人形劇や紙芝居の形で、上演されることもあります。
 そうした反響に気を良くしたこともありまして、最終的には、金太郎や一寸法師、浦島太郎などをベースにした、7つの物語が完成しました。男女共同参画に関する学びの幅が広がると、ジェンダーや育児、少子化問題、家族論、DV(ドメスティック・バイオレンス)など、さまざまな問題を取り上げてみたいと思うようになったんです。
 父親の育児参加の推進をするために、「イクメン」をテーマにした『こぶとりじいさん』ならぬ『コブつきオジさん』も書きました。私自身の育児の体験も、随所に織り込まれています。
 今年5月、『モモタロー・ノー・リターン&サルカニ・バイオレンス』を、十月舎から出版しました。実は、全国からの要望に、私1人で対応するのが難しくなり、5~6年前から、増刷を打ち切っていたんです。知人から声を掛けてもらったことで、すべての物語を収録した本を、世に送り出すことができました。

「平均像」でなく一人ひとりの個性を見ることが大切

 男女共同参画に関する活動を始めて、気が付けば15年以上になります。全国各地で講演もさせていただいていますが、以前に比べ、聞きに来てくださる方の知識の差が広がっていることを感じます。男女共同参画について、初めて話を聞くという方もいれば、大学で専門的に勉強したという人もいる。裾野が広がっているように感じます。
 ただし、ある程度の知識をおもちの方でも、男女共同参画について、誤解されている場合もあります。
 例えば、一方では男女共同参画を呼び掛けているにもかかわらず、「男性と女性は違うから、自治会長は男性にやってもらいたい」と言うケース。その人が考える「男性と女性の違い」とは、一体何だろうと、私なりに考えてみました。
 多分、「平均的な男性」と「平均的な女性」の違いを、一般化して捉えているのでしょうね。つまり、女性のなかには、リーダーシップに長けた女性がいるとは考えず、あくまで「平均像としての女性」しか見ていない。
「平均値を一般化しない」は、私が日頃、心掛けていることのひとつです。同様に、「一部を捉えて全体化しない」も、肝に銘じています。例えば、ある女性が何らかの失敗をしたのを見て、「だから女はダメなんだ」と、決めつけてはいけないということです。
 今後は、個人的な活動に留まらず、学校でも職務として、男女共同参画の視点を活かしていきたいですね。若い世代の生徒たち、そして教職員に対する啓発にも取り組んでいきたい。
 前任校では、ロングホームルームの時間をいただいて、全校生徒を対象に「人権講話」のなかで、男女共同参画について話をする機会がありました。以前に比べると、学校内の男女共同参画はかなり進んでおり、男女別でない混合名簿が当たり前になりましたし、教材の挿絵などにも配慮が行き届くようになってきています。
 しかし、まだまだ不十分な点はあります。男らしさや女らしさというジェンダー問題の実例として、新聞記事などの資料を使ったり、私の著書を紹介したり、できるだけ身近なところから、わかりやすく、生徒たちに新たな気付きを与えていきたいと考えています。
 これからの社会で求められるのは、「適材・適時・適所」です。男性でも女性でも、適材を適所で活かすこと。同時に、できるときに、できる人が、フレキシブルに行うということが大切ですね。
 わが家には、20年以上の歳月をかけて、少しずつ築いてきた家族のあり方があります。結婚当時に比べれば、男女共同参画という点で、かなりの進歩があったとは思いますが、「100点満点」と、自信をもって言うことはできません。
 しかし、そういう価値観に向かって、日々、できることに取り組む努力をしながら、不完全さを受け止め、改善していくことが大事なんじゃないかと思います。私自身、今後も一歩一歩、前進しつづけていきたいと思っています。

取材日:2011.6



静岡県藤枝市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

1977大学卒業後、国語教師として、静岡県立浜松北高等学校に赴任
1982浜松市立西部中学校教諭(中高交流人事)
1991静岡県教育委員会派遣研究生として、東京大学教育学部の研究生に
1995静岡県教育委員会 社会教育課指導主事として、男女共同参画推進を担当
2003静岡県教育委員会 生涯学習企画課 課長補佐
『「男だてら」に「女泣き」――ジェンダーと男女共同参画社会入門』(文芸社)を出版
2005『ジェンダーフリーの復権――男女共同参画社会へのステップ』(新風舎)を出版
2006静岡県立藤枝東高等学校教頭
2009静岡県立掛川西高等学校 副校長
2011静岡県立吉原高等学校 校長
『モモタロー・ノー・リターン&サルカニ・バイオレンス――昔むかし、ジェンダーがありましたとさ……』(十月舎)を出版

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