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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

ジェンダー平等の実現なくして、日本の未来はない!
「寝た子を1度は起こす」社会学者。

犬塚協太(いぬづか・きょうた)

犬塚協太(いぬづか・きょうた)


静岡県立大学国際関係学部国際関係学科 教授
静岡県立大学男女共同参画推進センター 副センター長


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静岡県立大学

「男らしさ」や「女らしさ」は男女共通の敵

「男女共同参画」という言葉は、”gender equality”という英語から来ています。直訳すれば「ジェンダー平等」。「ジェンダー」とは、この場合単なる性別ではなく、社会のなかで「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という固定的な役割を振り分け、一定の拘束力をもつ「規範」として捉えられているものです。
 私が考える「ジェンダー平等社会」とは、多様な性があることを前提に、どの性のあり方に生まれても、そのことが社会で生きていくうえで、有利にも不利にもはたらかない社会。多様性を尊重し、容認しあい、共存する社会です。
 わが国に「男女共同参画社会基本法」が誕生し、今年で12年になります。法律が施行されたことで、社会的な変化や進歩はあったと思いますね。
 例えば、昨年12月に策定された「第3次男女共同参画基本計画」では、「男性にとっての男女共同参画」について言及しています。これは、今までになかった視点です。「男性も変わらなきゃ」という視点が打ち出されたことは、注目すべきポイントです。
 男女共同参画基本法が、男性のためのものでもあり、自分にも関わりのある問題だという男性の自覚を促せば、ジェンダーをめぐる問題への関心が高まるかもしれません。男女共同参画を成功裏に導くには、「女性のための運動」という境界線を凌駕する、視野の拡大が必要です。
 もとをただせば、男女共同参画が目指すのは「ジェンダー平等社会」なわけですから、改めるべきは、ジェンダーなんです。ジェンダーによる縛りは男女共通の敵であり、共同戦線を敷いていく戦略は、非常に有効だと思いますね。

「なぜ寝た子を起こす?」という反感に反発

 私の専門は、家族社会学と呼ばれる分野です。ジェンダーの授業も行っているのですが、授業では家族や労働、教育など、毎回テーマを変えて、「社会の隅々に至るまで、こんなにジェンダーがはびこっている」という事実を提示しています。改めて見つめ直してみると、私たちの社会は、ジェンダーに支配され尽くしています。
 しかし大多数の人は、日常生活における多様な性のあり方について考えることはまずありません。なぜなら、私たちには一生涯、性別がついてまわるからです。戸籍に登録された性別は、パスポートも、入学書類も、家を買うときにさえ提示させられます。自分の身分を示すときには、必ず性別が伴う。日本は、そのくらい性別にこだわる社会です。なので、私たちのなかには、赤ん坊のときから、ジェンダーが深く浸透し、染みついている。
 授業の最後には、毎回、学生にレポートを書いてもらいます。そのなかで必ず出てくるのは、「驚きました」「初めて知りました」という感想。ジェンダーは、そのくらい巧妙に、日常生活のあらゆる部分にまで、埋め込まれてしまっているんです。
 皮肉な言い方ですが、ジェンダーにとらわれていても、何の苦しみも悩みもなく、毎日ハッピーに過ごしている人はたくさんいます。
 ジェンダーに関わる研究や活動に対し、男女共同参画に批判的な人たちが必ず言うのは、「なぜ寝た子を起こすんだ?」ということ。「せっかく幸せに寝ているのに、わざわざ目を覚まさせる必要がどこにあるんだ!?」
 確かに余計なお節介かもしれません。けれど、1回は言わせてもらいたいんです。「あなたが幸せに眠っている家が、火事で燃えていますよ」と。
 火の手が上がっていることに気付いて、起きて逃げるか、そのまま眠り続けるのか――最終的にはその人自身の判断です。でも、100人に1人かもしれませんが、私が起こしたことで「良かった、焼け死なずに済んだ」と言ってくれる人がいれば、私はその人のために、他の人も起こさせてもらいたい。

母の葛藤に耳を傾けたことが家族研究のきっかけ

 私が、なぜ家族について研究しようと思ったのかについては、いくつか理由があります。決定的な動機は、私自身の家族に、いろいろ問題があったということ。
 父と母と私と弟――。世間的に見れば、普通の4人家族です。家庭内暴力(DV)があったわけではありませんし、父は一生懸命仕事をし、専業主婦である母は、家事や子育てに日々忙しくしていました。両親とも、子どもに十分な愛情を注いでくれていました。
 けれど私の両親は、決して相性のいい夫婦ではありませんでした。女性の生き方や、女性が仕事をもって働くということ、さまざまな家庭のあり方について考える発想が、父には全くなかった。それが母にとっては、我慢できなかったんですね。母が自分の思いや考えをぶつけても、全く話が噛み合わない。まさに、暖簾に腕押しという状態でした。
 私は物心ついたときからずっと、母の不満を聞かされてきました。価値観が合わないことで、母は相当フラストレーションをため込んでいて、私は、ひたすら聞き役に徹しました。そうするうちに、「女性にとっての幸せは結婚すること」という、世の中ではごく当たり前に受け止められていた、女性の人生のイメージが、自分のなかでことごとく打ち砕かれてしまったんです。
 母はよく、「専業主婦を何十年も続けてきた今、自分には何もない」と言っていました。手に職があるわけでも、何か能力を身につけているわけでもない。資格もない。結婚生活に不満を覚えても、自分が今世間に放り出されたら生きてはいけない。
 母の実家は、戦国時代から続く旧家の家系で、小さい頃から、何の苦労も知らずに育てられてきました。親戚には、明治生まれで医者になった女性など、社会で活躍した女性が少なからずいたそうです。
「自分も頑張れば、いろんな可能性があったのに……」と、母は自分の生き方を後悔していました。「お嬢さん大学」と呼ばれる女子大を卒業した後、大学に残る道もあったのに、結局はお見合いをして、結婚してしまったんだそうです。
 母の人生に、大きな影響を与えた出来事が、もう1つあります。私が大学2年生のとき、父が経営していた会社が倒産し、母も働かなければならなくなったんです。
 生まれて初めての経済的な苦労は、母にとって、自分の無力さを思い知らされる経験でした。母は、父を責めたりはしませんでした。むしろ、いざというとき、自分で自分の身を守れない不甲斐なさを責めていたんです。
 母は、58歳で亡くなりました。心身ともに疲れ果てて、生涯を閉じたと言えるかもしれません。

父母の関係性から見えてきた家族をめぐる社会問題

 私は、母という鏡をとおして、女性が自分の人生をしっかり生きるということはどういうことなのか、女性の自立がどんなに大切なことなのかということを、考えざるをえませんでした。
 母のような思いをいだく女性が、1人でも少なくなるためにはどうしたらいいのか――。そういう思いで、現在の道を選んだのだと思います。
 私は、子どもながらに、母の胸の内に耳を傾け、共感や同情もしていました。しかし、心のどこかで、突き放して見ている部分もあったんですね。「文句ばっかり言うけれど、本当にやる気があるなら、どうして若いときにそうしなかったのか」「そんなに不満なら、飛び出して自分で頑張ればいいのに」と、思うことがありました。一方、父に対しては、決して悪い父親ではないと思いながらも、「これでいいと思っているのだろうか」と、批判的な思いがありました。
 自分の両親ながら、ある種、冷めた目で見ていたのでしょうね。どちらからも、一定の距離を置いていたんです。だからこそ、気付くことができたんです。
 母は、なぜ息子である私を不満のはけ口にしていたのかを考えてみると、母には、自分と思いを共にする仲間がいなかったんです。もし、他の女性たちと声を上げ、何らかの行動を起こし、社会に繋がることができたら、母の人生は、随分、違ったものだったはずです。しかし実際のところ、母には、誰かと思いを分かち合える場がなかった。だから、いちばん身近な私に、訴えるしかなかったんでしょうね。
 また、母は多分、家を飛び出したくても、女性が自由に飛び出していける社会でないと、感じていたのだと思います。さらに、父のある意味「能天気」な態度は、父に限ったことではなく、当時の日本の多くの男性に共通するものだと気付いたんです。
 かわいそうだと思いましたね、母も、父も……。どちらかが本質的に悪いのではなく、「これは社会の問題なんだ」と思いました。問題があるのは、社会の仕組みそのものであって、それが女性に不利にはたらいている。両親をとおして、日本社会における女性と男性のあり方が見えてきたわけです。

女性学の登場で家族社会学の流れが変わった

 家族社会学は、私が家族について勉強を始めた80年代の初めに、その流れが大きく変わりはじめました。それまで、1950~70年代初頭にかけては、世界的にも「近代家族」というモデルだけに集中して、研究が行われてきたんです。近代家族とは、夫婦と子供からなる核家族をベースに、夫は外で仕事をし、経済的に家族を支え、妻は家庭で家事や育児に専念するというモデルです。
 私が家族社会学の道を選んだのは、大学3年生のとき。70~80年代にかけて、欧米の女性たちの間で、ジェンダーやフェミニズムという考え方が注目され、それまでの家族のあり方に対し、疑問が噴出しはじめたんです。
「これから面白くなるぞ」と思いましたね。ジェンダーやフェミニズムのムーブメントは、近代家族の枠組みにとらわれたそれまでの家族の研究に比べ、かなり刺激的でした。
 しかし、当時のフェミニズムは、社会のなかで、まだ孤立した運動に留まっていました。というのも、男性はもちろん女性たちにも、運動に対する支持が、なかなか得られなかったからです。また、その頃の日本社会は、高度経済成長の名残に酔いしれていましたから、既存の近代家族や女性の役割などに対し、本質的な疑問が沸き起こるところまで進んでいませんでした。
 ところが、80年代後半になると、海外の影響もあり、「日本でも女性学をつくろう」という動きが出てきます。「ジェンダー」という概念は、当時まだ曖昧で、女性学を学問的に定義することから始まりました。女性自らが当事者意識をもち、自分たちの立ち位置を見据え、それをどう変えるべきかを社会に対し訴えること――女性学の地盤を固めるために、それは必要な段階でした。

居場所が見つからなかった20代後半の孤独

 しかし、フェミニズムやジェンダー、女性学に関わる女性たちに共感していたにもかかわらず、当時の私は、男性であるがゆえに受け入れてもらえなかった。その一方で、大学院の同期は男性ばかり。私のようなテーマを研究をしている仲間は、他にいません。
 家族やジェンダーを選んだばっかりに、男性研究者である私は、いわばマージナルな立ち位置に、置かれてしまったんです。
 孤独でしたね。自分の居場所のない状況について、できるだけ客観的に見るようにしていました。そういうスタンスを守ることは、研究を続けていくうえで、とても大事だとも思いました。
 そうわかっていても、あまりタフではない私は、病気になってしまったんです。いわゆる引きこもりですね。学校にも行けなくなり、卒業まで、他の人の倍くらい時間がかかりました。
 こんな研究をしていても、いつモノになるかわからない、就職先もあるかどうかわからない……。せめて、同じ研究をしている仲間がいればいいのだけれど、そんな人もいない。周りには、優秀な人がたくさんいましたから、「自分はダメだな」と思うことも多かった。コンプレックスの塊でしたね。
 私は20代後半を、自信を完全に失ったまま過ごしました。苦しかったけれど、最終的には「自分にできることはこれしかない」「周りに認められなくても、自分はこれをやるしかない」――そう割り切ることができたおかげで、コツコツと研究を続けてくることができたんです。
 かっこいい言い方に聞こえるかもしれませんが、私は、成功者や社会的に強い立場の人には、全く関心がないんです。むしろ社会のなかで立場の弱い人、苦しんでいる人に目を向けたいという気持ちで、社会学を志してきたんです。
 社会体制のどこに問題があり、どう変えていけばいいのか――。国家という権力装置に対峙し、その立場から、家族というテーマに取り組んでいます。

取り組みと意識になお隔たりのある静岡の現状

 男女共同参画社会を実現しないと、日本社会は今後、立ち行かなくなると思うんです。これは、社会学的な観点での推測であり、私の確信であり、私の信念でもあります。先ほど、「家が火事で燃えている」と言ったのは、そういう意味なんです。
 例えば、日本社会は、「少子高齢化を解決する」という大きな課題をかかえています。課題解決のためには、ジェンダー平等の実現が不可欠だと、私は考えています。増える一方の高齢者を、少なくなる一方の労働力人口で支えなければならないわけです。そんなとき、人口の約半分を占める女性に、「専業主婦として家にいてくれ」というわけにはいきません。
 ここまでは、誰もが言うことです。なぜ、そこにジェンダー平等という視点が必要なのかと言えば、このままでは、新たな「性別役割分業」が起こる可能性が高いからです。男性は仕事、女性は家事や育児に加えて、外でも仕事をしなければならない――という状態を、女性が喜んで受け入れるはずがありません。男性も家事や育児に参加して、初めてバランスがとれるんです。
 これからはジェンダー平等を、社会の課題解決の「手段」とするだけでなく、その実現を「目的」としなければなりません。
 地域の課題についても、男女共同参画の視点を導入することが、今後ますます必要となってきます。
 静岡県や県内の市町による男女共同参画の取り組みは、全国的に見ても、前向きなものとして評価できます。しかし、県民の意識に着目すると、まだまだギャップが大きいと感じますね。
 静岡県は、もともと製造業と中小企業が圧倒的に多い地域です。高度経済成長型の産業構造が続いていることが、近代家族的な家族のあり方や考え方に、影響しているのかもしれません。
 大切なのは、地域の特徴を見極め、その地域に合った男女共同参画活動を実践していくことです。男女共同参画は、これまで啓発中心の活動がメインで、生活や地域活動を、上滑りしていた感があります。ジェンダー平等をしっかり浸透させていくには、市町が個別にかかえている課題に対し、男女共同参画のアプローチを有効な「手段」として活用することも、検討する価値があるでしょう。
 新たな発想や視点を導入することで、地域の課題に対する取り組みはどう変化し、どんな成果が上がったのか――そのように目に見える結果を出すことが、各地域に男女共同参画を定着させるうえで、非常に重要だと思います。

研究と活動はジェンダー平等実現のための両輪

 ジェンダー平等社会に向けた私自身の活動は、大きく分けて、4つの分野があります。
 まず、家族社会学やジェンダーという専門分野の研究です。自分なりの研究や調査は、他のすべての活動の基本になっています。
 大学での授業も、ジェンダー教育という重要な活動のひとつです。先ほどもお話ししましたが、ジェンダー意識は、若い世代の間にも、しっかりと根付いてしまっている部分が多々あります。学生に対し、きっちりと啓発教育をしていくことは、研究と同様、私が長年取り組んできたことですし、今後も続けていきたい。
 3つ目は、大学内における男女共同参画推進です。2008年に立ち上げた「静岡県立大学男女共同参画推進センター」では、副センター長を務めており、教職員のワークライフバランスの推進や、女性研究者の育成に取り組んでいます。
 今年6月には、大学の開学25周年に合わせ、「男女共同参画推進シンポジウム――グローバリゼーションとジェンダー」を開催しました。社会学者としてジェンダー関連の著書も多い上野千鶴子さんなどをお招きし、学生や教職員、一般のお客様も含め、200人以上の方にお越しいただきました。
 4つ目は、静岡県内の自治体やNPOなどでの地域活動です。各地での講演のほか、男女共同参画に関する計画立案に対し、アドバイスを行っています。なかでも「アイセル21 静岡市女性会館」を運営するNPO法人「男女共同参画フォーラムしずおか」では、理事として、さまざまな市民活動に携わっています。
 学生時代からこれまで、家族やジェンダーの研究を続けるなかで、迷いに迷い、行ったり来たりしながら、挫折もたくさん経験してきました。そんな自分を支えてきたのは、「ジェンダー平等社会の実現は必要である」という学問的信念です。
 もちろん、私の研究も活動も、今なお途上です。これからもいろいろな人たちと繋がりながら、研究と活動の両輪を実践していきたい。

家事は役割分担せず「できるほうがやる」が基本

 私自身、自分の家庭をもつに際して、「理想をかたちにしたい」というほどの意気込みはありませんでしたが、両親の夫婦関係が反面教師になったことは間違いありません。
 男性の自分が家事をすることについても、「特別に立派なことではない」「ごく普通の日常の作業にしたい」と考えていました。連れ合いがどう見ているかは知りませんが、自分としては、家事も育児も、やれることはやってきたつもりでいます。
 わが家では、拘束的な家事分担は決めずに、その都度、手のあいたほうが、どんどんやるということにしています。例えば、連れ合いがご飯を作っていれば、その間に私が洗濯物を干し、翌日には、それが逆転というようなことを、結婚以来、ずっとやっています。
 最近、朝食の準備と、自分と息子の弁当を私が担当し、夕食は連れ合いが作るというパターンが、固定化しつつあります。しかし、今はたまたまお互いの生活サイクルがそうなっているというだけで、状況に応じて変わることを、連れ合いも私も当然だと思っています。
 さまざまな場面で、男女共同参画を推進する以上、言行不一致はいけないと、肝に銘じているのですが、実は反省もあります。
 例えば、最近、仕事量が増えるのにともなって、ワークライフバランスが崩れ、どうしても帰りが遅くなってしまう。連れ合いは保育士として、肉体的にもきつい仕事をしています。トータルで見たら、彼女の家事の分担量が、だんだん多くなっていますね。申し訳ないと思っています。
 私にとって今の家族は、生きていくうえで、いちばんの支えです。連れ合いや子どもたちと土台の部分で繋がっているということを、自分を生み育ててくれた親に対して以上に強く感じます。そんな家族に巡り合わせてもらったことに、とても感謝しています。

取材日:2011.6



兵庫県生まれ 静岡県静岡市在住


【 略 歴 】

1986東京大学文学部社会学専修課程 卒業
1991東京大学大学院社会学研究科修士課程 修了
静岡県立大学国際関係学部 助手
1997静岡県立大学国際関係学部 専任講師
1998静岡県立大学国際関係学部 助教授
2005~NPO法人男女共同参画フォーラムしずおか 理事
2007~静岡県立大学国際関係学部 教授
2008~静岡県立大学男女共同参画推進センター副センター長

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