さくや姫プロジェクト|トップページ

本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

学び続ける姿勢と脳天気なチャレンジ精神で、
チャンスを成長に変えるIT企業のトップ。

木村玲美(きむら・なるみ)

木村玲美(きむら・なるみ)



浜松総務部有限会社 代表取締役


- WEBサイト -

浜松総務部有限会社
twitter

一生懸命の「自己満足」から脱皮するには?

 近頃の若い方を見ていると、頑張りすぎて、力が入りすぎている人が多いような気がします。一生懸命に勉強して資格も取ったのに就職できないという人、こんなに頑張っているのに誰も私を認めてくれないと感じている人、社会のなかで自分は空回りしている気がするという人……そういう人がたくさんいるんじゃないでしょうか。
 勉強して資格をとることも、頑張ってキャリアを積むことも大事だとは思います。それを全面的に否定するつもりはないのですが、頑張りすぎている人たちが忘れがちなのは「その技能をどう役立てるか」ということ。会社という組織のなかで、自分がどう機能し、組織として何をし、どういう成果を上げるのか――。「自分が何をしたいか」「自分に何ができるか」ということ以前に、「何が求められているのか」をきちんと把握することが大切です。
「一生懸命やっている」というのは、あくまでその人自身の話だと思うんですね。社会のなかで生きている限り、「誰かに求められること」をやらない限り、どんなに一生懸命やっても自己満足に過ぎません。
 私は大学卒業後、業界も職種も異なるさまざまな仕事を経験して、現在、浜松総務部というIT企業で代表取締役を務めています。最近、浜松市内の小中学校などでお話をさせていただく機会があるのですが、「自分ができること、やりたいこと、求められていること、このバランスを考えることがすごく大切だよ」ということを、子供たちに話しています。
「自分ができること」を増やすには勉強が必要で、「自分ができること」が増えると、実は「やりたいこと」も増えます。「自分ができること」「やりたいこと」が増えてくると、「求められていること」とにヒットする確率も高くなるでしょう。「自分がやりたいこと以上に求められていることは絶対にあって、そこに目を向けると社会でもっと活かされる自分になれるよ」と、子供たちにも言うんです。「自分じゃなく、周りを見ようね」「将来に対する考え方、見方を変えようね」。――実はすごくシンプルなことだと思うんですね。

「売ろう」とする営業マンはうまくいかない

 私は静岡県内の大学を卒業して、東京の出版社に就職しました。編集の仕事がしたいという漠然とした希望はありましたが、何も考えずに就職したというのが本当のところです。しかし私の希望に反して、配属先は営業。「自分には絶対できないし、向いていない」と思いました。どんな希望や夢をもっていても、それを手を広げて受け止めてくれる環境なんて、現実の社会にはないものだなと思いましたね。以来、私は仕事に対して「自分はこれがしたい」というものが基本的にないんです。でも一方で、「自分がやるべきことが向こうからやってくる」という感じはあります。
 営業といっても、個人向けのセールスではなく、顧客は企業。教育プログラムや組織開発プログラムなどのパッケージ販売に向けて、新規顧客を開拓する仕事でした。それぞれの顧客に向けにプログラムを企画し、オーダーメイドでツールを制作するのですが、数千万円もする高額商品です。形のある商品があるならまだしも、雲のような形のないものに、誰が数千万円も払うのかと思いましたね。
 しかし、いくつかの気付きがありました。まず、「営業という仕事は、売ろうと思ったら絶対に売れない」ということ。「売りたい」というのは、私の「成績を上げたい」という願望に他なりません。顧客は、私のために存在しているのではないわけで、売ろうという気持ちで臨んだら受け入れられないだろうと思いました。
 私たちが提供する商品は、企業の経営方針として人事政策や組織政策がまずあって、そこに組み込んで活用されるものです。ですから、顧客企業の経営方針や課題を共有しなければ、絶対に売れない。課題解決の方法を顧客と一緒に考え、そのなかの一部分に商品を取り入れてもらう――そういう商品の根本的な特性に、入社半年ぐらいで気付いたんです。
 それで人材育成や組織開発について勉強しはじめました。当時は社会教育に対し、国が助成金を出していたので、支援の仕組みを調べるなどの情報を集め、顧客の課題解決に向けて包括的なアプローチを試みたわけです。

入社1年目で全社トップの成績を達成した戦略

 結果、売れましたね。「第一次ベンチャーブーム」と言われた時代で、情報サービス産業が伸び盛りの頃でしたから、大手企業よりIT系にターゲットを絞ったんです。どのIT企業でも、経営者が次の一手を模索している時期で、社長に直接会わせてもらうアプローチに切り替えたところ、目に見えて受注が伸び始めた。入社1年目でしたが、全社で営業成績がトップになったこともありました。目標達成率100%は当たり前。最低でも120%を目指していました。
 人材育成や組織開発というのは、スパンの長い、長期計画での取り組みです。一方で、営業の仕事は、一度に大きな実績を上げようすると、どうしても自転車操業になってしまいます。なので、例えば3年計画を一緒に立てさせていただいて、今期はここまで、来期はこのくらいと、計画のなかに発注を盛り込む形でアプローチしてみたんです。そうすると、営業もあまり大変でないし、顧客の方でも取り組みの基礎部分が徐々に積み上がって行きます。大企業を狙って一度に大きな受注を取る方法もあると思いますが、私の場合、中長期的に顧客の事業計画に関わって行く。このアプローチは今も変わっていません。
 当然、「売っておしまい」ということはなく、その後のフォローアップやモニタリングにも関わらせていただきます。一緒に計画を立て、研修や調査を実施し、その成果を「見える化」し、次につなげていく。教育は成果が見えにくいものですから、いかに「見える化」するかがポイントです。長期計画のなかで、段階的にどういう状態を実現していくのか、その状態をきちんと定義し、チェックするサポートまでを行って初めて、次の仕事の可能性が見えてくるわけです。

「食わず嫌い」だったパソコンの活用術を習得

 出版社の営業を5年間やった後、結婚を機に退職しまして、熊本にあったあるメーカーの研究所に転職しました。当時の熊本では、女性の求人のほとんどに「25歳以下」という条件がついていて、なかなか仕事が見つからなかったのですが、とにかく何でもいいから仕事がしたくて、実は嘘を言って入社しました。
 求人では「パソコンができること」が必須条件だったのですが、93年当時、私はパソコンができなかった。大企業でもパソコンが1人1台には程遠い時代です。前の会社でも、パソコンが必要な業務はすべて庶務の女性にお願いしていました。仕方ないので採用が決まってから、ノートパソコンを購入しまして、何とか入社に間に合わせました。要するに自己投資ですね。
 結果的に、パソコンはものすごく自分の勉強になりました。職場はフレックスタイム制だったので、朝早く出勤している研究者にパソコンの活用法を教えてもらい、いろんなことがわかってくると、どんどん面白くなっていきました。要するに単なる「食わず嫌い」だったわけです。
 私の仕事は、研究業務の成果のデータベース化や、マニュアルやプレゼンテーション資料作成です。プレゼ資料は、ひと言で言うと、研究成果を経営陣に示し、次の研究予算を引き出すためのもので、その研究がいかに今後の商品開発を下支えするものかを、長期的な事業計画のもとでアピールするわけです。
 研究は主に磁場解析の基礎研究で、私にとっては未知の世界です。何のことかわからない素人の私が、研究内容を理解し、その意義をプレゼ用の書類に落とし込む過程では、前の会社の経験が役に立ちました。プレゼ資料に求められるのは、技術がどうこうという話ではなく、その技術が、今後の事業や将来的な利益にどう寄与するかということです。経営陣も技術面での専門家ではありませんから、わかりやすい資料を作るうえで、私の素人目線は重宝されましたし、事業計画の立案には、前職の経験を活かすことができました。業種も職種も違う仕事でしたが、経験は役立てられるものだということを知りました。

フロントで営業するなら女性社長になるしかない

 次に転職したのは、浜松の会計事務所です。夫の転勤で、熊本から浜松に引っ越したんです。最初の職場で、事業計画など経営の根幹に関わる仕事をしたので、またそういう分野に戻りたいと思いまして、コンサルティング部門のある比較的大きい会計事務所に就職しました。大きいと言っても、スタッフは数十人。それまでの2社がいわゆる大企業だったので、数十人の規模だと、何かチャレンジしたいことがあるとき、手を挙げさえすれば、割合すぐに実現しました。自分の勉強したことが、仕事で役立てられるのが面白かった。
 その会計事務所では、「経営会議」というスタイルでコンサル業務を行っていました。ステークホルダ全員を巻き込んで事業計画を立て、目標値を数字に落とし込み、月1回の経営会議でモニタリングするんです。そういう流れ全体を一貫してサポートするサービスが、パッケージになっているんですね。サポート役を務めるインストラクタの養成講座に、私も参加しました。
 仕事は面白かったのですが、2年で辞めました。実は離婚しまして、離婚を機に、自分のキャリアも周囲の環境もすべてリセットして、ゼロから出直そうと考えたんです。
 リセット後、勤務したのが、浜松総務部有限会社です。会計事務所の同僚が会社を立ち上げるというので、私も出資したんです。最初はIT化支援の業務を、ちょこちょこお手伝いしていたのですが、ある大手企業からオファーがあったとき、営業部隊に加わることになって、フロントに立たざるをえない状況になってしまった。営業してみて実績が上がってくると、「フロントに立ってる人が代表のほうがいいよね」という声が上がって、「じゃあ代表、替えちゃおうか」と。そういう軽いノリで代表取締役になり、現在に至ります。
 女性が会社のフロントに立つとき、代表取締役か取締役かとではものすごく大きな差があります。はっきり言って、男性がトップで2番手が女性というのでは意味がない。ものすごく現実的な話なんですけれど、2番手では営業的に役に立たないんです。つまり、2番手の女性が来ても、「2番手と話をしても仕方ない」と思われてしまう。ある商工会議所の課長さんにもアドバイスされたのですが、「フロントに立って営業するなら、代表になったほうが信頼されるよ」と言われたんです。代表になって今年で13年目になりますが、確かにそうだと思いますね。代表はいわば「会社の顔」ですから、仕事しやすいのは事実です。

1本の論文から始まった資格取得と新規ビジネス

 浜松総務部は、設立当時、会計業務のアウトソーシングや中小企業支援業務がメインでした。しかし、98年に業務転換しまして、現在はウエブシステム開発などのソフトウエア業、セミナー研修などの教育事業、コンサルタント事業を行っています。現在、特に力を入れているのは、教育とコンサルタント事業です。
 業務転換にともなって、会社の形態も変えました。基本的にプロジェクト単位で外部人材を巻き込み、会社的には人を増やさない方針に転換したんです。社員は私を含めて4人。ITの最新技術にふさわしい優秀な人材は、常駐で抱え込まなくても、社外に目をやればたくさんいます。つながりさえあれば、プロジェクトごとに最適な人材を確保することは可能です。
 こうした業務と組織の転換は、私が「ITコーディネータ」というITコンサルタントの資格を取得したことが、そもそものきっかけです。なぜ資格を取ったかは、これまた笑い話なんですが、ある日、浜松の知人が電話してきて「あさってまでに小論文を書いて、それが通れば、試験なしでITコーディネータになれて、しかもITコーディネータを養成するインストラクタにもなれる」と言うんです。知人はITコーディネータ制度の設立関係者の1人で、第1期生の公募に思ったほど人が集まらず、困っていたときに、私を思い出して電話してきたようです。作文は得意ですので、これまた軽いノリで応募してみたら、何と通ってしまった!
 ITコーディネータのインストラクタ養成講座に参加したのは全部で30名。政府の高官やIT紛争の調停員、大学の先生、大手企業のエンジニアなど、プロフェッショナルばかりでした。この講座で、私はものすごく大きなチャンスをいただいきました。
15日間の講座が終わったとき、あまりに講座が楽しかったので、受講した仲間の1人と「本を作ろう!」と盛り上がったんです。これは最終的に、ITコーディネータ養成のための教育サービスプロジェクトの立ち上げと、ITコーディネータ向けのテキスト編纂を、日経グループさんと一緒にやらせていただくビジネスとして実を結びました。
 受講メンバーの有志10人で、NPO法人ITCメトロを設立したということもあります。私が現在、浜松を拠点に東京や全国各地で仕事ができるのは、講座に端を発する出会いによるところが大きいですね。

知識や経験より重要なのはその人の「可能性」

 ITコーディネータ養成の教育サービスプロジェクトも、全8冊のテキストの編纂も、実は私が、リーダーを務めさせていただきました。
「本を作ろう!」と盛り上がった仲間というのは、日経グループの社員で、今では私の親友の1人なのですが、その彼に「君がチームリーダーになって進めてくれ」と言われたんです。もちろん「できません」と最初はお断りしました。ところがこう言われたんです。「誰かに声を掛けるときは、その人の知識や経験じゃなく、その人の可能性に期待して声を掛けるもんだよ。やったことなければ、死ぬ気でやればいいじゃない」。
 おだてに乗りやすい私は、「そういうもんかな」と思いまして、言われるがままにお引き受けしたんです。その経験が自分にとってどれほど掛け替えのないものになるか、そのときは想像だにしていませんでしたね。今思うと、本当にありがたいチャンスをいただきました。
 テキストを作るにあたっては、コアメンバーで徹底的な議論を行いました。ときには「もう1度言ってみろ!」ぐらいに白熱する場面もありましたが、そういう経過があって、今はいい仲間になっています。NPO法人ITCメトロは、このときのコアメンバーで設立しました。
 半年間で8冊のテキストを仕上げる作業は、我ながら涙ぐましい苦労の連続でした。実際の編纂作業では、コアメンバー以外の受講仲間にも声を掛けまして、全部で30人のコンセンサスを取りながら、内容を詰め、制作を進めていったのですが、想像を絶する至難の業であったことは間違いありません。というのも、私以外のメンバーは、各分野のそうそうたる方々だったんですね。皆さん確固たる主義主張があり、それぞれの思惑もあり、考え方も違いますから、1つにまとまるのは、ある意味、不可能に近い。それで「皆をコーディネートできるのは、君しかいない」と、私に白羽の矢が立ったわけです。
 またしても、やらざるをえない厳しい状況に追い込まれたのですが、しかしそのおかげで、自分にとって大きな実績が生まれました。思うに、自分の身に降りかかることで、無駄なことは1つもないんですよね。それは乗り越えられそうもない挫折や困難もそうだし、自分のキャリアには関係なさそうに見える仕事もしかりだと思います。私は今までに1度も、IT企業の社長を目指したことはありませんが、そういうチャンスにつながっていく伏線のようなものは、最初に勤務した出版会社の営業時代から脈々とあって、実は全部つながっているように思います。

やりたいことができる環境は向こうから訪れる

 やりたいと思ったことは、口に出して言ってみるといいかもしれませんね。たとえ思いつきでも、言ってみることに意味がある。というのは、口外すると、向こうから環境がやって来るんです。でも、多分ほとんどの人は「やりたい」と言いながら、実際は「やらない」。結局、やるかやらないか、それだけだと思います。面白がって「仕方ないな」とやってみるか、「今は時期じゃない」と思うか、その違いだけです。
 ほとんどの人が「今は時期じゃない」と思うわけですが、その理由は、自分の都合なんですね。自分が結果を、躊躇しているだけ。できない理由は、いくらでも探せます。環境は自分が「今」と思うときに整うわけじゃありません。やりたいことをできる環境はあるんです。ただ、ほとんどの人がそれに気付かないだけだと思います。
 静岡大学の大学院に行ったのも、まさしく口に出してしまったところから始まっています。私はITの専門家でもないし、なりゆきでITコーディネータになってしまったので、かねてから体系的に勉強しなきゃと思っていたんです。あるとき静岡大学の学長に偶然お会いする機会があって「勉強しないといけませんよね」と言ったら「うちの大学に来なさい」と。何日かしたら願書が送られてきて、「これは逃げられないな。受けてみるだけ受けてみようかな」と勉強を初めて、受かったまでは良かったのですが、その後は本当に苦労しました。
 静岡大学大学院では、その翌年から社会人コースができたのですが、私のときまでは一般コースのみ。仕事が忙しくなって単位を落としたり、2年間休学したり、結局6年かかって修士論文も仕上げて卒業しました。大変でしたが、改めて勉強は大事だと思いました。ただ知識をため込むために勉強するのではなく、大事なのはアウトプットすることです。アウトプットすることで、また新しい人のつながりが生まれて、それが楽しい。
 私は「中小企業におけるCIO機能の考察」というテーマで修士論文を書いたのですが、その縁で、電子政府の構築に携わるCIO補佐官の会合で、論文を発表させていただく機会をいただきました。また論文の内容は、浜松総務部のビジネスにもつながっています。大企業の経営企画やIT部門、情報子会社から中小企業まで、企業の規模に関係なく、企業のイノベーション計画を策定し、CIOの役割やステークホルダのマネジメントにまで落とし込むCIO育成は、当社独自のアプローチです。

ポジティブな気持ちになるだけで環境が変わる

 2011年4月から、高野山大学大学院の密教学研究科通信課程で勉強しています。仕事や今関わっていることに直接関係ない分野でも、学び続けることが大切です。視野が広がることが、結果的に仕事でも生きてくるように思いますね。
 なぜ高野山、なぜ弘法大師、なぜ密教と思われるかもしれません(笑)。仏教には以前から興味があったんです。20歳のとき京都の東寺のお坊さんに「あなたは念が強い」と言われたことがありました。どういうことですかと聞いたら、「念が強いとはすなわちエネルギーが強いということ。あなたのエネルギーは今、負の方向に向かっている」と言われたんです。「ものの見方や感じ方が変わったときに、そのエネルギーがプラスに転じるときがある。そのとき、あなたを取り巻く環境は一変する。そのことをよく覚えておいてほしい」。
 30代の半ばに、そういうことを感じたことがありました。浜松総務部の仕事に関わるなかで、フェーズが変わったというか、自分の周囲がガラッと変わったなと思う瞬間があった。自分自身でつかもうと思ってもつかめそうもない仕事を、周りの人が次々声を掛けてくれるようになったのは、それからなんです。
 何が変わったかを考えてみると、ものごとをポジティブに考えるようになったということ。人に対して、批判的でなくなったということ。自分が変わると、これだけ環境が変わるものかと、つくづく感じました。

日本人本来の強さを取り戻すために密教を学ぶ

現在、日本の多くの企業が取り入れている経営手法やマネジメント理論は、欧米の価値観に基づくものがほとんどです。たとえば、私は「ファシリテーション」について勉強したことがありますが、根底には「コントロール」という西洋人的な概念があります。暗黙知でさえコントロールのもとに置かれてしまう。
 そういう西洋人的な考え方より、日本人にしっくりくる考え方があるはずだと思うんです。例えば、仏教では「すべてのものは関係性で成り立っている」と考えます。固有の物事に特徴はなく、組み合わせや関わり方で、万物が構成されているという世界観なんです。
 私が学び続けている理由、高野山で学んでみようかと思った理由の1つは、ビジネスにもつながる、日本人らしい実践的な考え方を見出したいからです。密教は非常に実践的なんです。勉強すること自体、意味がないとされていまして、教えをそれぞれのフィールドで活かす、それぞれの人生で活かすことが大切だと説かれています。
 また、人間の欲、煩悩も、密教では肯定されています。欲とは要するにエネルギーで、エネルギーを否定すると、元気に生きることができませんし、社会も元気になりません。問題は欲の向け方ですね。つまり欲のもち方を変えるだけで、人はもっと良く生きることができるし、社会も良くなっていく。
 日本人には本来、日本人としての強さがあると思うんです。それをどこかで放り出してしまったために、今日のように弱くなってしまったのではないでしょうか。修士論文のテーマは、これから絞り込む予定ですが、いずれにせよ将来に向けて学ぶことは非常に多いと感じています。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」「転がる石に苔はつかない」が、私の座右の銘です。これからも、学び続け、数多くの機会をいただいたことに感謝しつつ、何事も「できない」とは思わずに、脳天気に「できる」方法を考えていける自分でありたいと思っています。

取材日:2010.11



静岡県焼津市生まれ、浜松市在住


【 略 歴 】

1987 静岡県立女子大学卒業後、リクルート入社
1995 浜松総務部有限会社の企業に出資し入社
1998 浜松総務部有限会社 代表取締役に
2000 ITコーディネータインストラクタ養成講習に参加
NPO法人ITCメトロを設立。専務理事に就任
2010 静岡大学大学院 情報学研究科修士課程 修了

一覧に戻る(前のページへ)