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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

2人の母に学んだ欲張りな人生を、
太陽のような明るさで生き抜く日本旅館の女将。

安田昌代(やすだ・まさよ)

安田昌代(やすだ・まさよ)



楽山やすだ 代表取締役社長 女将
伊豆の国市観光協会 会長


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伊豆長岡温泉 旅館 楽山やすだ
伊豆の国市観光協会

どんなときもお客様に笑顔を振りまける女将に

 「女性としてどう生きるか」は、古今東西、永遠のテーマですね。私の場合、実家の母と嫁ぎ先の義母、2人の母が、女性として素晴らしい生き方を示してくれました。家庭を守り、子供を立派に育て、夫を支えながら家業をこなし、女性らしさも捨てない――男女共同参画ということが叫ばれるずっと前に、そういう生き方を、自分の努力で勝ち取ってきた女性がいたわけです。2人の母に、私はどれほど人生を導かれたかわかりません。
 私の実家は、沼津で家具店を経営していました。戦後日本の高度成長の波にのって、商売はぐんぐん急成長という時代。私は4人兄弟の一番上で、子供の頃から日本舞踊をやっていたり、短大の英文科を出ましたから英語もちょっと話せたり。そういう部分が、伝統ある旅館の新しい女将さん像に求められていたのでしょうね。主人とはお見合いで結婚しました。
 お見合い話は他にもいっぱいありましたし、周囲からも「お前に女将が務まるはずがない」と言われまして、本当にお断りするつもりだったんです。ところが、主人がとても熱心に言ってくださって、地味だけれど、とても誠実そうだったので、「駆け足でついていく人より、私の欠点も許してくれそうな人のほうがいいかな」と思うようになったんですね。
 先代の女将である義母は、嫌なことや大変なことがあっても、太陽のような明るさで、旅館と家庭を引っ張っていった人です。商売で何が大事かを心得ていて、「お客様が大好き」と心から言える、旅館のために自分のすべてを捧げられる女将でした。
 その代わり、社員にはものすごく厳しかった。「旅館というものはまず清潔であるべき」と、毎日必ず自分の足で歩いて、全館をチェックするんです。社員には厳しいけれど、お客様がいらっしゃるとパッと振り返ってにっこり「いらっしゃいませ」と言える。後ろで社員を厳しく叱っていても、振り返った瞬間、お客様には女将さんの顔になれるんです。私も見よう見まねで、そういうことができるようになりましたが、義母ほど一途に女将業に打ち込めているかどうかは、ちょっと自信がありません。

苦労を隠して微笑んでいられるのが本当の苦労

 仕事には厳しかった義母ですが、姑としては優しい人です。自分がお姑さんに仕えて大変な思いをしてきましたから、私のわがままも許してくれたし、家庭的なことでは厳しくなかった。とはいえ、1日のうち仕事が95%ぐらいでしたからね(笑)。
 朝早くから夜は10~11時ごろまで、1時間の休憩もなく、1年間365日休みなしです。その間に、仕事も主人や子供のことも、すべてやりなさいと。「私も当たり前にやってきたのだから、あなたもできて当然」と言われましたね。義母は決して意地悪を言っているのではなく、それが女将というものだと確信しているわけです。夫が旅館組合の組合長など対外的な職務を果たせるよう、自分が旅館を守り、いつもおしゃれで、3人の子供たちを育て上げ……義母自身、そんな典型的な女将でした。
 義母は今94歳で、車椅子こそ使っていますが、元気です。私が観光協会の会長を引き受けたとき、「大変だろうから」と言って、老人ホームに入居しました。ときどき帰って来ると、旅館の入り口から自分の部屋に行く間に、「ガラスが汚れてる」「そこ拭き掃除して」とか、現役を引退して40年近くたちますが、その辺は相変わらず厳しい。心情的には今も大女将なんだと思います。
 私が嫁いで間もないころ、ときどき実家に帰って泣きごとを言うと、「愚痴が出るようでは、まだ本物の女将ではないわね」と、母に言われました。「あなたの苦労はまだ本当の苦労じゃない。その苦労を隠して、あなたが太陽のように微笑んでいたら、私はあなたが苦労していることを認めてあげる」と言われました。母は11年前に亡くなりましたが、今思い出してもすごい言葉ですよ。母は実際、そういう女性でした。

家と旅館のために鬼にも蛇にもなりなさい

 夫は1992年、54歳という若さで亡くなりました。がんとわかって、わずか3カ月の間に逝ってしまった。それまでの10年間、3代目の社長を継いだ夫とともに、旅館の経営にも関わってきたので、銀行のことや税金のことなど、ひと通りのことはわかるようになっていました。
 夫が亡くなったとき、義父は「旅館はやめてもいいよ」と言いました。義父は経営の大変さをわかっていたのでしょうね。「お前ひとりではできない商売だから」と言われたんです。でも、義母が引かなかった。「やめるなんてとんでもない」と言いましてね。世の中はまだ景気のいい時代で、売上げも十分ありました。今考えるとよく引き受けたなと思いますが、まさか今のような不景気の時代が訪れるとは、当時は予測できませんでした。何とかやっていけるのは、主人や義父が私にいろんな仕込みをしてくれたことと、周囲の人たちが力を貸してくれているおかげです。
 私は大学を卒業した後、すぐに結婚しましたから、会社勤めの経験がありません。夫はものすごく几帳面な人で、それこそ書類をきちんと準備することから銀行との交渉まで、経営に必要な実務を教えてくれました。義父は戦時中、税務署に勤務した経験がありまして、経費の計上の仕方をはじめ税務関係のことを学びました。お茶を出しに行って小耳にはさんだことなども含め、夫や義父、義母の言葉1つひとつが、私にとってはすべて勉強になりましたね。
 夫の死から立ち直ることができたのは、ひとえに責任感があったからです。旅館を経営していかなきゃならない、子供をちゃんと育てなきゃならない、義父母をみていかなきゃいけない――この3つの責任感です。
 実家の母にこう言われたんです。「あなたは旅館と安田家を守るために、鬼にも蛇にもなりなさい」と。「ひたすら守り抜いて、そのために誰かに悪く言われることがあっても、それは我慢しなさい。世間は最終的に、家をいかに守ったかという部分しか見ないものだから」と言われたんです。
 実際、世間からは「キツイ女将さん」と言われていたと思いますよ。でもそれは承知の上のことだから仕方ない。そういう気持ちで20年近くやってきて、私が旅館と家を守ってきたことを、世間は評価してくれているように思います。

夫が残してくれた社会的信用を糧に女将業を

 夫は自分がどういう病状にあるかを、最期まで知らずに亡くなりました。「あと5年たてば、いい薬ができますから頑張りましょう」と、主治医の先生は希望をもたせてくれましたが、長男は当時、医大の4年生だったんです。「ステージ4」と聞いたとき、「多分、1年以内だよ」と言っていました。
 リンパ腺のガンというのは全身ガンで、治療は相当きつかったと思います。もう20年近く前の話ですから、治療も薬も今ほどは進んでいません。1年違ったら、だいぶ違っただろうなと思うと残念ですね。
 旅館や息子たちの今後について、夫に聞いておきたいことはいろいろありました。でも「自分はもう長くないんじゃないか」と悟られてはいけないと思いましてね。さり気ない質問で、考えを確かめていきました。「息子たちには、自分で決めた道を歩ませてあげよう」「困ったことがあったら、皆で相談して決めればいい」というのが、彼の基本的な考え方でした。
 夫が残してくれたいちばん大きなものは、やはり社会的信用ですね。嘉一郎という名前から「仏のカイッちゃん」と呼ばれるくらい、いい人だった。旅館組合でも、周囲の意見や希望を聞いて、皆さんから慕われるまとめ役でした。
 でも私には、仕事上、とても厳しかったですよ。「家ではあんなにうるさいことを言うのに、よく仏のカイッちゃんなんて言われるわ」と思ったこともあります。でも、それはやはり家の看板のためですからね。そうして夫と看板を守ってきたおかげで、私の代になっても、観光協会から「会長に」という声が掛るのでしょうね。それはとてもありがたいことだと思っています。

都合のいいように考えることも生きるコツ

 「安田家」を「楽山やすだ」と改称したのは2003年です。長男は医学の道に進みましたが、海外の大学でホテル経営を学んだ次男が、戻ってきたんです。旅館名だけでなく、お客様へのおもてなしも時代に合わせ刷新しようということで、全館を畳敷きに改装したり、食事をダイニングで出すスタイルに変えました。次男はその後、結婚しまして、若女将と3人で「楽山やすだ」をやっていこうと思っていたんです。
 ところが3年前、「自分はどうしてもこの商売だけで一生を終わりたくない」と、横浜の大学院に入学しまして、卒業後、就職してしまったんですね。お嫁さんのほうは、子供ができて、子育てに忙しい時期なので家にいないといけない。残念ですけれど、仕方ないです。時代も違いますし、うちぐらいの規模ですと、3人では、もて余してしまうかもしれません。
 私自身、旅館の仕事をしながらの子育ては確かに大変でした。「子供たちには可哀想なことをした」という後悔や負い目も、「ない」と言っては嘘になります。夜の10時や11時までフロントで仕事をしていましたから、その都度、誰かにみてもらったり、実家を頼ったり。
 それはそれでいい面もあったとは思います。長男も次男も主人に似て真面目だったので、勉強面での心配もありませんでした。男の子ですから、母親にべったりというより、世間が育ててくれたのは良かったのかもしれません。
 でも、同じことが今の人にできるかと言えば、それは難しいでしょうね。息子とはいえ、私はやはり、人の人生にレールを敷きたくないんです。それぞれに力だめしのチャンスを与えてあげたい。
 今は息子へ完全にバトンタッチするまでの過渡期、私が「楽山やすだ」を預かっているという状態です。「ひとりで大変」だなんて言わずに、自分の都合のいいように考えることにしたんです。私はひとりでやっていくほうが性に合ってるのかもしれない、これで良かったのだと思うようにしました。だって、そのほうが気が楽じゃないですか。楽しく生きるうえでのコツみたいなものですね。

トップより難しい「橋渡し」と「接着剤」

 安田の家に嫁いで、今年で45年になります。自分が若女将だった頃から、息子夫婦と一緒に仕事をした経験までを通じて、人と人との「橋渡し」とか「接着剤」というのが、一貫して自分の役割のように思いますね。
 先代と一緒に仕事をしていた頃は、これまでのやり方を貫こうとする義母とどんどん新しいことをやろうとする夫とがぶつかるわけです。その間を「橋渡し」するのが私の役目でした。責任を取るのは当人たちなわけですから、どんな場合でも、面と向かって反対してはいけません。聞き役とアドバイザーに徹して、どうしたらアイディアが実現するか、人と人をつないだり、人と情報をつなぐ「接着剤」になってサポートする。実現に向かう流れを作るわけです。
「接着剤」ですから、自分自身を押さえて、目立たない存在でいなければいけないんですが、うまくいったときには、感謝されますよね。「橋渡し」や「接着剤」の役割は、トップよりもずっと難しい。息子たちと仕事をするようになってからも、私の役目は同じです。
 こういうことを学べたこと、体得できたことは、本当に良かったと思っています。専業主婦として家庭に納まっていては、なかなかできない経験をさせてもらいました。もっと楽な道もあったと思うんですが、私はいつも、あえて困難な道を選んできましたね。よく人生の本に書いてありますが、そういうことが人生を豊かにするんだと思います。

「脱・草食系」を増やせるかどうかは女性次第

 世の中には男と女、2種類しかないわけですから、両方が協力しあったほうが、力が発揮できると思うんです。今の若い女性たちに申し上げたいのは、男性が自分の力を発揮できたり、もち前の力を伸ばしていくには、女性にしかない母性の力が必要だということです。男性にもっと活き活きと生きてもらうために、私たち女性が何をすべきかを考えることが」重要なんじゃないでしょうか。
 最近、「草食系男子」などということが言われますが、責任は男女どちらにもあって、「もう少したくましくなって」と背中を押すのは、女性の役割だと思うんです。「雌鶏がつつけば、雄鶏が時を告げる」とはよく言ったもので、男性あっての男女共同参画だと思うんですね。特に齢をとってくると、男女の力の差は如実です。お客様を見ていても、圧倒的に女性のほうが強い。
 ある方がこんなことを言っていました。「男性は人間ですが、女性は人間ではありません。女性は大自然です」。いい言葉ですよね。本当にそうだと思うんです。女性は大地や海によくたとえられますが、男性はある意味、その上で踊らされている「人間」というわけです。
 これからは女性の側に、大きな気持ちで男性を受け止める心が、必要なんじゃないでしょうか。経済状況から言っても、今はちょうどいい時期だと思うんです。男性たちを草食系で落ちぶれさせたままにするか、いい意味での男女共同参画の担い手にさせるかは、女性の考え方ひとつ、努力の仕方ひとつだと、私は思います。

取材日:2011.2



静岡県沼津市生まれ 伊豆の国市在住


【 略 歴 】

1966 伊豆長岡温泉 安田家に嫁ぐ
1994 夫の死去に伴い、有限会社ホテル安田 代表取締役社長に就任
2001 静岡県旅館組合 女性部長
2007 伊豆の国市観光協会 会長

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