一人ひとりと向き合える「小規模多機能型」介護
私は2006年、56歳のときに起業し、2007年8月に認知症の方をはじめ介護が必要とされる方々にサービスを提供する「2人3脚」を立ち上げました。「2人3脚」では「小規模多機能型居宅介護」と「グループホーム」の二つを柱に、利用者の方やご家族に寄り添う介護を目指しています。
小規模多機能型居宅介護は1ヵ月25名までの登録制で、1日15名までの「通い」を中心に、9名までの「泊まり」、訪問介護などを組み合わせたサービスです。通常のデイサービスでは、9時頃から16時頃までのサービスになることが多いのですが、ここではご本人やご家族の希望に応じ、24時間365日のサービスを提供しています。夕飯を食べて20時頃に帰られる方もいらっしゃいますし、朝早くからいらっしゃる方もいます。ご家族のお仕事の都合に合わせて時間を組むことももちろん可能です。
グループホームは認知症と診断された方に対するサービスで、介護職員と9名の入居者の方が共同生活を送っています。入浴、排泄、食事などの日常生活のお世話や機能訓練を行うほか、調理や掃除、洗濯などの作業はスタッフと共同で行います。包丁で野菜を切ったりする作業は生活リハビリと言って、普段は使わない筋肉を動かしたり脳を活性化する効果もあるんです。顔馴染みのスタッフとともにそれらの作業を行い、家庭的な雰囲気の中で一日を過ごしていただいています。
「2人3脚」の利用者は28名ほど。それに対してスタッフは31名います。多くても一人のスタッフが3人の利用者をケアすればいい態勢を整えているのですが、これが私が以前から望んでいた介護の形なんです。私は、看護師としてこれまで多くの認知症の方々の治療に関わってきました。ですが、患者さん一人ひとりとじっくり向き合い、私が考える最高の看護を行うことは現実的に難しく、長い間ジレンマを抱えていました。病院で仕事をする上で、56歳という年齢に対する評価は決して高くはないことを感じることもありましたが、「まだまだできる!」という気持ちもありました。そこで起業を思い立ったんです。
「やればできる」と43歳で母校の専攻科へ
私は、市立沼津高校衛生看護科の第1期卒業生なんです。看護師への憧れのようなものはなかったんですが、当時は奨学金がもらえたので、親に迷惑をかけずに済むなと思って選んだんですよね。卒業後は、准看護婦として沼津市内の病院に勤務した後に結婚、その後は専業主婦として15年以上子育てに専念していました。
子育てが一段落し、再び働き出したのは36歳のとき。漠然と老人看護をしてみたいと思い、富士市にある精神科単科の鷹岡病院に入職したのは39歳のときでした。勤め出すと、もっと上を目指したい、もっと知識を得て患者さんにいい看護をしたいという気持ちが生まれ、正看護師免許を取得するために母校の専攻科へ入学したんです。それが43歳のときのことです。
受験勉強は1年かけてしましたが、大変でしたね。今日は国語、明日は看護の勉強と数学、というように、プログラムを自分なりに立てて計画的に勉強しました。看護師の仕事や家事をこなしながらだったので、夜の8時から11時頃まで集中的に勉強し、休日は1日費やして勉強、という感じで一生懸命やっていました。
当時の思い出としては、高校生だった娘が「お母さん、お母さんの苦労はよく見てるから、落ちても私がご褒美をあげる」と言ってくれたこと。私の姿が子供たちにいい影響を与えていると思って、気持ちが少し楽になりましたね。
入学してからも、真剣に勉強しました。無遅刻無欠席で、風邪も引かなくて。もし休んでしまったら、この先生のお話はもう二度と聴けないという意識がすごくありましたね。だから、風邪は卒業した途端に引きました(笑)。仕事も辞めて勉強に専念していたので、クラスメートはみんな私のノートを使って試験勉強していました。懐かしいですね。43歳の生徒を受け入れたのは学校としても初めてのことだったそうですが、卒業式では答辞を読ませてもらったりもして、今ではみんないい思い出です。
学生に戻って実感したのは、やればできるということ。若い子みたいに一夜漬けはできないけれど、何回も繰り返すことでだんだん暗記力もついてくると感じました。年齢は関係ないですね、やる気があればできるんです。
理想の介護を目指して練った事業計画が認められる
正看護師免許を取得した後は、鷹岡病院へ戻りました。2年目からは主任となり、4年目には県下初の認知症疾患療養病棟(現老人性認知症疾患治療病棟)ができ、その病棟の看護課長になりました。課長として勤務していた頃は、それはもう忙しかったですね。勤務表を作ったりと、管理業務にも追われていました。看護に関しても、規模の大きな病院になると、マンツーマンというわけにはいきません。ですが私は、やるべきことは患者さん一人ひとりを理解し、寄り添うことだと感じていたんです。それで、自分の理想とする介護を実現したいと思い、約10年の勤務を経て起業する決心をしたわけです。
起業するにあたっては、経営者として一から学ばなければならないと考え、1年間で27の研修を受けました。お茶の出し方、名刺の出し方、電話対応の仕方などから学んだんです。この新人研修では様々な方との出会いがあり、「起業の際には協力するよ」と声を掛けていただきました。私の学ぶ姿勢が幸運な出会いを与えてくれたのかもしれませんね。
それと、起業する際に必要になるものはやはり資金です。私には起業できるほどの資金も担保もなかったので、銀行と借り入れの交渉をしなければならなかったんです。時間は十分にありますから、施設の建設から運転資金、人件費など実際の運営、返済計画などについて細かく計算し、自分なりに事業計画を練りました。それは、私が理想とする介護を形にするためにはどうすればいいかを考える作業でもありました。そして、完成した事業計画と私の介護への思いが銀行を動かし、1億2000万円の借り入れをすることができたんです。
当初イメージしていたのは、グループホームとデイサービスからなる施設です。それが、市の介護保険課で「小規模・多機能サービス」について知ったんです。これは、平成18年度から新たに始まった制度で、利用者や家族の状況に応じて「通い」「泊まり」「訪問」など様々な介護サービスを24時間365日提供するというものです。介護が必要になっても、住み慣れた地域で自分らしく暮らせるよう、高齢者の生活エリアに密着してサービスを行えることを知り、「これは私のやりたいことだ」と思いましたね。そう思って生まれたのが、グループホームと小規模多機能型居宅介護からなる「2人3脚」です。
看護師ならではのスムーズな医師との連携も強み
「2人3脚」では、看護師、介護福祉士、ケアマネジャーなど介護の専門家が利用者の方のケアを行います。私自身が看護師ですから、すべての方の情報を細かく記入し、看護師レベルでの記録を取ることは徹底しています。鷹岡病院をはじめ、医療機関との連携も取れていて、先生にはいつでも情報提供できるようにしていますし、利用者さんの日常の変化についてお伝えすることも可能です。点滴や痰の吸引、在宅酸素療法などを施すこともできるので、なかには病院では落ち着かないと、2人3脚に入院し治療をされる方もいらっしゃいます。
20名以上の方を診ていただいていますから、現在は先生も認知症の方一人ひとりへの対応の仕方を理解してくださっています。以前は利用者さんを連れて医療機関を1日に何往復もすることがあったのですが、先生のほうから「往診しましょうか」と言っていただき、現在は往診に来ていただいているんです。
以前、ある利用者さんがよく転ぶのが目につくようになったことがあったんです。何で転ぶのかな、おかしいなと思っていて、その方のかかりつけの先生に診ていただいたのですがよくならない。それでいつもここに来ていただいている先生に診てもらったところ、肺炎だと分かったんです。認知症の方は、苦しくてもそれを訴えることができないんです。転んでいたのは、痛いところがあって体が思うように動かなかったから。でも、高齢者の場合、肺炎でも高熱がでるわけではなく分かりにくいんです。この方の場合は、ここにいるときの食事の様子や身体の変化を記録していたことと、先生もその方のことを普段からよくご存じだったことで発見につながったんです。
スタッフの中には、看護師の下で医療面についても勉強したいからと「2人3脚」で働き始めた人もいるんです。人材育成も大切ですから、定期的にスタッフ会議や勉強会を行い、よりよいケアが行えるように努めています。
スタッフとともに自らも学ぶ姿勢をもって活動
たとえば、ここでは「センター方式」を取り入れています。正式には「認知症のためのケアマネジメントセンター方式」というのですが、認知症のご本人をよりよく理解し、その方について知るための道具の一つとして介護施設などで用いられています。ケアマネジャーを中心に、ご本人とご家族、介護の関係者が共通のシートを使ってお互いの思いやアイデアを出し合い、できることを深く探っていくんです。私は看護師をしているときにケアマネジャーの資格を第1期目で取得しました。2人3脚では、月1回このセンター方式の勉強会をスタッフと行い、各自発表してもらっています。
もちろん、私自身も学び続けています。私は、認知症に関わる人たちを中心とした「認知症の人と家族の会」の役員をしているのですが、そこでのグループワークや講演活動、認知症に関する電話相談に応じるボランティア活動などを行っています。また、福祉施設の視察のためにデンマークを訪れたこともあります。
先日は、新たに立ち上げられた若年性認知症の集いに参加しました。そこでは、ご本人、ご家族などの当事者による体験発表がありました。一人の方は私との関わりもある方なのですが、鬱病と診断され、3年間も認知症との診断が下されなかったんです。その方は高校の先生だったので、うまく教鞭がふるえず、またきちんとした診断がされなかったことでその間とても苦しまれました。しかもその3年間で症状が進行してしまって……。進行具合は人によって異なるものですが、若年性認知症の恐ろしさを感じました。もう一人の方は、ご本人がお話されたのですが、勤務先の会社の上司が気づいて早期発見できたんです。それで適切な治療を受けることができたため、今でもボランティアをしたり、バイクに乗ることもできるそうです。
認知症において、早期発見、早期治療というのはすごく大事なことなんです。ですから私は講演をしたり、ブログを活用して訴えたりしています。一般の方にも認知症について学んでいただいて知識を持ってもらえれば、早く気づくこともできるし、自分たちが望む介護も受けやすくなるんです。
地域と繋がり、社会貢献できることが喜び
ブログは2年ほど続けているのですが、毎日必ずその日の出来事や訪れた場所で感じたことなどを自ら書き込むようにしています。最初はパソコンのことがまったく分からなくて、講座を受講したんです。でも、ちんぷんかんぷんで(笑)。それでも、分からないながらも何とか自分で立ち上げたんです。今ではYouTubeを入れたり、結構テクニックを使えるようになったんですよ。
ブログには、医学講座や認知症ケアのポイント、Q&Aなどのカテゴリーもあり、自宅で介護をされている方からコメントをいただくこともあります。たとえば、ある方から「認知症の妻の介護をしているが、下着を買うのに困ってインターネットで買ったらサイズが合わず無駄になった」というコメントがあったんです。その方は、介護中だと分かるマークを身につければ堂々と買い物もできるし、女性用トイレにも入れるとおっしゃっていて。その声をもとに「認知症の人と家族の会」が県に働きかけ、全国初の「介護マーク」が生まれたんです。
このように、私が様々な集まりに出席したり、メディアを通して発信を続けるのは、地域や社会との繋がりが大事だと感じているからでもあるんです。以前、地元の小学校で認知症サポーター養成講座を開催したことがあるのですが、それがきっかけになって「2人3脚」にも子供たちが遊びにきてくれるようになったんです。地域の方々とも、防災訓練を共同で行ったりと交流を深めています。実は、今は息子が運営を手伝ってくれているのですが、彼も地域密着にこだわり、私では思いつかないようなアイデアを出してくれるんです。たとえば、近隣の方々に無料の食事券をお配りして食事に来ていただき、施設を見学していただいたり。「2人3脚」は地域で暮らす人のための施設ですから、皆さんに知っていただき、身近に感じてもらえることでよりよいサービスも提供できると思いますね。
「2人3脚」はひとつの大きな家族なんです。お年寄りがいて、若いスタッフがいて、70歳を過ぎたスタッフもいる。それにご家族や地域の方々、行政がそれぞれ支え合い、2人3脚をしているというイメージですね。
私自身は、これからも認知症について学ぶ姿勢を持ち、得た知識をスタッフや利用者のご家族をはじめ、多くの人に伝えていきたいですね。それが次のステップへと繋がると思うんです。そして、それらの活動が地域や社会貢献に結びついていくことが私のいちばんの喜び、私の生命の源になるんです。
取材日:2011.2