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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

教師として「人」を育ててきた経験を活かし、
女性人材の発掘に尽力した初代館長。

林のぶ(はやし・のぶ)

林のぶ(はやし・のぶ)



静岡県男女共同参画センター「あざれあ」 初代所長



ふれあいと自立と参加の拠点「あざれあ」


「あざれあ」がオープンしたのは、1993年。私は立ち上げからずっと関わってきたこともあり、最初の5年間、初代の所長を務めさせていただきました。「あざれあ」設立のテーマは、「ふれあいの拠点、自立の拠点、参加の拠点」。3つのテーマの最初の文字をとって「フジサン」と、ひと言で言える理念を掲げて、プロジェクトをスタートしました。
 なぜ「あざれあ」が設立されることになったか、ちょっと歴史を遡ってみますと、1985年にわが国は「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」いわゆる「女子差別撤廃条約」を批准しまして、翌86年に「男女雇用機会均等法」が施行されました。
 そうした国の動きを受けて、静岡県でも「婦人のための静岡県計画」が、86年に策定されました。「あざれあ」は行動計画を推進するにあたっての拠点ですね。「新しい総合的な拠点が欲しい」という声は、当時すでに3,000を数えた県内の女性団体や婦人グループからも上がりました。
「あざれあ」という拠点をつくる一方で、準備段階から取り組んだのは、県内の女性団体や婦人グループのプラットフォームの役割を果たす「あざれあ交流会議」の設立です。県内各地の団体・グループに参加を募り「ふれあいの拠点」とするのが大きな目的ですね。 
 実は「あざれあ」が設立される以前、「婦人会館」という施設があり、「婦人協会」という団体がプラットフォーム的な役割を果たしていました。しかし、参加団体が県内を網羅するには至らず、新しい会館のスタートを機に「発展的解消」を経て、「あざれあ交流会議」は発足しました。発足にあたっては、多くの方々にご協力いただきました。

「しずおか女性カレッジ」を開講し人材を発掘

 3つのテーマのなかで最も力を入れたのは、やはり「自立の拠点」です。女性たちが社会参画するためのエンパワーメント、女性の人材発掘とその支援です。「育成」なんていうのはおこがましいので、あくまで「支援」ですね。
「あざれあ」オープンの年に「しずおか女性カレッジ」を開講しました。第1期生30名の定員には2倍以上の応募がありまして、週に1回、さまざまな分野の講師を招いて授業を行いました。2年間、最後の締めくくりには、卒論も書いていただいたんです。皆さん本当に熱心に学ばれていましたね。
 95年には、「地域研究塾あざれあん・るねっさんす」を開講しました。これはカレッジで学んできたことを、実社会で活かすためのステップとして、調査手法、まちづくり、プレゼンテーションのノウハウなど学ぶ実践的な講座です。
「カレッジ」も「るねっさんす」も、開講した頃から、「学びは行動によって完結します。学びを地域に還元してください」と、繰り返しお願いしてきました。その甲斐あって、卒業生のなかには、現在、地域でさまざまな活躍をされている方が多数おられます。
「自立の拠点」としての機能のなかで重要な要素に「情報発信」があります。男女共同参画社会の実現に向けた啓蒙ツールとして発刊した、情報誌「epoca(エポカ)」もその1つですね。図書館には大学の卒論が書けるレベルの文献をそろえようということで、選書には非常に力を入れました。女性の自立には家庭生活とのバランスが欠かせない、家庭の安定があってこそ女性は社会的な実力が発揮できるといった観点もくみしまして、今で言う「ワークライフバランス」の先駆けのような、こだわりの蔵書となっています。
 もう1つ力を入れたのが相談事業です。「あざれあ」の設立当時は、県内に10人の女性弁護士がいらして、その方たち全員がローテーションで協力してくださった。なかでも中心的な役割を果たして下さったのが、熱海の橋本裕子弁護士ですね。弁護士の方以外にも、フェミニストカウンセラーの波田あい子さんにスーパーバイザーになっていただき、相談員のスキルアップに努めましたね。

静岡県庁で女性が初めて務めた課長と次長に

 私が男女共同参画関連の業務に携わるようになったのは1987年、静岡県県庁の生活環境部婦人課長になった頃からです。とは言いましても、もともとは行政畑の人間ではなく、静岡大学教育学部中学校教員養成課程を卒業しまして、中学校の教師、幼稚園の園長、小学校の教頭などを務めてきました。
 実は私は、静岡県職員として「女性の課長第1号」だと言われています。辞令をいただいたときは、複雑な気持ちでしたね。特に気負いはありませんでしたが、県の職員で女性が管理職になるのは、教員と薬剤師と生活改良普及員の方々が、キャリアと経験を活かせるポストだけという時代でした。静岡県庁100年の歴史で、初の女性課長だったために、当時は新聞やテレビなどで随分騒がれましたね。
 職場では教員時代も含めて、女性であるためにいろいろな苦労も経験しましたから、「後に続く女性たちには同じ思いはさせたくない」という気持ちも当然ありました。婦人課長の名刺には、「男女が共に担い共に築く心豊かな社会を目指して」と書きました。与えられた責務の大きさを思うと、しっかり勉強しなきゃいけないし、これまで1歩1歩前進してきた男女共同参画の取り組みを、後戻りさせるようなことがあってはならないと、責任の重さに背筋が伸びる思いでした。
 1991年からは静岡県環境・文化部の次長として、「あざれあ」の設立に深く関わるチャンスをいただきました。93年3月に定年退職しまして、その4月から5年間、「あざれあ」の所長を務めさせていただいたんです。
 いうなれば「あざれあ」は、自分自身の仕事の集大成であり、設立準備から関わってきましたから、自分の思いをすべて形にしたところとも言えます。準備から誕生、その後の運営までを、女性が中心になって動かすチャンスをいただいた、そういう仕事ができたことは、非常に幸せでしたね。

自ら県内を歩き女性のネットワークを構築

 課長の辞令をいただいたとき、教育委員会の上司から、2つのことを言われました。「あなたは教育行政は十分経験してだろうが、行政はまた違う。新しい世界で泥にまみれになって困らんことを願う」というのが1つ。もう1つは「あなたの課せられた仕事は、たくさんの女性人材を発掘することです」。つまりこのとき既に、私が与えられたミッションは決まっていたんですね。即日、知事部局出向の辞令をいただきました。
 課長を務めた5年間は、とにかく全県下をくまなく歩き回りました。地域婦人会や各市の女性の会、職域団体の女性部など、地域の婦人活動が盛んになり始めた時代です。外に出掛ける私を見て、悪口を言う人もいました。「県の課長というのは、席に座っていて人を呼びつけるものだ」と。そういう反発も一部からはありましたけれど、自分から出向いて県の行動計画を説明すると同時に、自分の目で各地の婦人会活動を見て回って、県下のどこに誰がいるかも把握しました。そうしたネットワークづくりが、「あざれあ交流会議」設立に向けた準備活動につながっています。
 もう1つ、課長時代の大きな任務は、「あざれあ」の建設用地の候補地を選び、最終的な買収に漕ぎつけることでした。施設としての使いやすさを考えた場合、立地条件は非常に重要だと思いまして、静岡駅の1キロ圏内に用地を獲得しようと奮闘しました。駅から700メートル、新幹線からも建物が見える理想的な条件の用地を獲得できまして、それが現在の「あざれあ」の成果につながっているのだと思います。
 環境・文化部の次長になってからは、設計プランや設計図の作成、最終的な建設工事、そして開館までを推し進めてまいりました。
 実は設計図は一度、描き直しをお願いしているんです。その結果、誕生したのが、あのユニークな上から見るとS字型の建物ですね。静岡県のSです。当初、矩形だった建物のアウトラインにアールをつけたことで、駐車場をうまく吸収すると同時に、空間内部にもあれだけのゆとりが生まれたんですね。さらに天井を高くしたり、車椅子の方も行き来しやすいよう廊下を広くしたりということもお願いしました。設計士さんには「普通、描き直しなんてしない」と言われましたね(笑)。最終的には面白い仕事だったと言っていただきましたけれど。

「日本一」を目指し文化の香り高い施設を

「あざれあ」の建物には、随所に物語があるんです。全部をお話しはじめたらきりがないのですが、トイレひとつとっても、こだわりがあります。やはり女性に快適に使ってもらいたい場所ですから、パウダールームを設けたり、着替えができるようにしたり、細かな点まで配慮しました。周辺の集会施設の方々が、視察に来られたほどです。
 当時の静岡県知事からは「とにかく日本一の施設に」ということが言われていました。それで美術品には、静岡出身の傑出した女性作家の作品を取り入れて、文化の香り高い施設にしようと。私自身、美術鑑賞が好きでしたので、それは楽しい仕事でした。
 ちょうどその頃、県立美術館で大久保婦久子先生の作品を拝見しまして、皮革の素材感とダイナミック感に「これだ!」と思ったんですね。当時、大久保先生はまだ文化勲章賞を受けられる前でしたが、「あざれあ」は女性の感性を表現する場だと思っていましたから、先生の作品はぴったりだと思ったわけです。
 知事にはかりましたところ、すぐに了解してくださり、ツテを頼って大久保先生を訪ねて行きました。実は予算的には現在の作品の4分の1の大きさが先生の作品の相場だったのですが、先生が建設中の「あざれあ」まで見に来てくださり、現在のサイズにしましょうと言ってくださった。その後、図柄の候補が3種類できあがりまして、先生が「あなたの一存で好きなのを選びなさい」と。選ばせていただいたものが、「あざれあ」の1階ロビーにある作品です。
 大ホールの緞帳は、日本画家の秋野不矩先生にお願いしました。秋野先生は旧磐田郡二俣町、今の浜松市天竜区のお生まれです。先生のアトリエがある京都の美山町まで何度か足を運びまして、いろいろとやりとりさせていただいた結果、「初冬」の原画を使わせていただけることになり、大ホールを格調高く彩る緞帳が完成しました。この一件では、静岡県女連にご協力をいただきました。
 3階の「こどもの部屋」にも、非常に思い入れがあります。お手本になっているのは、視察に行ったドイツのレーゲンスブルグの幼稚園です。子供は暗いところや高いところが大好きですよね。そういう子供心をくすぐる空間構成や家具の写真をベースに、それを再現したのが、あの「こどもの部屋」です。
 茶室も、茶室建築の第一人者、堀口捨己先生のお弟子さんの早川正夫さんにご指導いただきながら、静岡の若手建築家が腕を振るったんです。材料は決して高価なものではありませんが、壁塗りひとつとっても質の高い造りになっているんですね。でも、そういうことはなかなか気付いてもらえません。
「あざれあ」の基調カラーは紫です。紫というのは、赤と青の中間ですよね。駅のトイレのサインなどを思い出していただけばおわかりのとり、赤は女性、青は男性。とすれば「男女共同参画」を表す色は紫ということなんです。
 そんなふうに、「あざれあ」には細部に至るまで1つ1つ、こだわりと思い入れがあります。開館から5年間は、私たちがどんな思いで「あざれあ」を作ったかや、美術品や設備をめぐるさまざまなエピソードを、来場者にお話しさせていただく機会がありました。県民の日にセンター見学会を開いたり、各地から視察に訪れる女性団体もたくさんありましたね。スタッフの間にも「自分たちの拠点」という意識があったのだと思います。そういうことが年々少なくなってしまったのは、とても残念なことです。

4大卒の女性は結婚できないという時代に

 1998年3月に「あざれあ」の所長は退任しましたが、つながりは今でもあります。「しずおか女性カレッジ」と「地域研究塾あざれあん・るねっさんす」の卒業生による「木曜の会」に、私も入れていただいているんです。
 現在の私の役割は、「あざれあ」を巣立っていった卒業生たちの活動を見守って行くことですね。やはり、作りっぱなしというのではいけないと思うんです。私には、皆さんが世の中に羽ばたいていくための責任、スタートを切らせた責任があると思っています。送りだした以上は、親が子を見守るように、最後まで見届けて役割が完結するんじゃないでしょうか。
 その辺は、私が長年、教員をやってきたということと無関係ではありません。
 私は静岡大学で、中学高校の体育と社会科の教員免許を取りました。中学と高校を通じて陸上部に所属しまして、特に高校時代は、陸上まっしぐら(笑)。大学に合格したときは、担任の先生に「いつ勉強したんだ?」と不審がられたほどです。でも、運動と同じぐらい読書が好きで、大学の専攻も国語か社会を希望していたんですが、入試の面接で教官に説得されて、専攻は体育になりました。
 体育科の女学生は、当時、私を含め学年にたった2人。それもそのはずで、私たちは静岡大学の体育専攻で、初の女学生でした。そもそも4年制の大学に行く女子が少なくて、「4年制に行ったら結婚できない」と言われるような時代。跳び箱でもサッカーでも、何十人もの男子学生と一緒に授業を受けましたから、それはもう随分と鍛えられましたね。
 教師になりたいと思ったのは、一種の憧れがきっかけです。今では信じがたいと思われるかもしれませんが、実は中学生くらいまで、私はものすごく内気で、自分から積極的にものが言えない子供だったんです。先生というのは、生徒に対して自分から声を掛ける立場ですよね。それで「自分もそういう人になりたい」と思ったのが始まりです。

人間の成長に関わり続けるのが教師の役目

 最初に赴任した中学校で、子供たちが私につけたあだ名は「リキさん」。力道山の「リキ」です。黒の上下のスポーツウエアで、髪をアップにして、真黒に日焼けした私の顔を見た女生徒に、「先生、口紅つけたほうがいいよ」と言われました(笑)。
 1967年から7年間勤務した静岡大学の付属静岡中学校では、女性の教員が家庭科と体育、2人だけでした。そもそも中学校の教員に女性が少ない時代。私は上司から、「女子生徒のロールモデルとして、体育の授業が終わったらきちんとスーツに着替えて、保健の授業をするように」と言われましてね。生徒たちは思春期という難しい時期ですから、私が男子と女子、双方の仲介役を務めるなんていうこともありました。
 例えば、「男子の体臭がひどいのを何とかしてほしい」という女子の要望を男子に伝えると、今度は男子から「女子はちゃんとブラジャーしてきてほしい」と。性に対して、最も敏感な時期ですから、「刺激するのは相手に失礼なんだよ。ブラジャーぐらいしてきなさい」というような役割をしましたね。
 実は私はひとり息子が3歳のときに、離婚しています。深夜に及ぶ仕事で毎日帰りが遅い私を、待ち切れず、飲みつぶれて待っている夫は、私が帰って来ると暴れ出すんですね。ある日息子が「お母ちゃん、逃げよう」と――。母子家庭になりましたけれど、母が強力にサポートしてくれました。わが家に「もう1人の主婦」がいたおかげで、私は仕事を続けてくることができたんです。
 そうした離婚の経験を、保健の時間、家庭管理について話すなかで、「結婚というのは1人よがりはダメなのよ」「周囲に逆らって生きていくってことは、それなりの障害も覚悟しないといけない」「皆から祝福される結婚相手を」と、生徒たちに話したのを覚えています。
「先生、中2の私たちに、よくあんな話したね」と、いまだに交流がある教え子たちから言われることがあります。シングルになった教え子から、「『ひとりになっても頑張れる』という先生の言葉を思い出して、私も頑張っています」という言葉を聞くと、教師として、それなりの役目を果たせたのかなと思います。教師の仕事というのは本来、そのくらい気の長い人間の成長に関わる仕事なんですよね。

「試金石」として鍛えられたから今がある

 大学時代に中学高校の教員免許をとったわけですが、中学校に勤務していたのは全部で12年間だけです。1974年に静岡県教育委員会の中部教育事務所へ異動となりまして、6年間勤務した最後の年、「通信教育で小学教員免許を1年間で取るように」という至上命令が出されたんです。すでに45歳でしたから、大学時代のようなわけにはいきません。文字通り、地獄のような1年間でした。
 なぜ免許が必要かといえば、「女性は小学校の管理職」というレールが敷かれていた時代だったからです。私が85年に教頭になったときも、静岡市内で女性の教頭は2人だけでした。
教育事務所には、同級生が3~4人いましたが、私以外は全員男性で、免許は私と同じ中学高校免許だけ。でも「小学校免許を取るように」という至上命令が出たのは、唯一女性の私だけでした。彼らがすぐに中学校教頭のポストに就いたのに対し、私は小学校勤務で教員を3年間、幼稚園の園長を2年間務めた後、小学校教頭の辞令が出ました。
「同じ仕事をするにも、女っていうのは、こんなに鍛えなきゃいけないものか」と思ったものです。実際、教育事務所では上司に「お前が試金石になるんだぞ」というようなことを言われましたね。私自身は「試金石」の連続で鍛えられて、強くなりました。子供の頃、あんなにおとなしかったことを、今はもう誰も信じてはくれませんから(笑)。

「あざれあ」に込めた思いを知ってほしい

 いろいろ辿って行くと、私自身は、静岡大学で「女性で4年制の専科で体育科」を選んだあたりから、いろんなことが始まっているんでしょうね。同時に社会的にも、男女共同参画に向かう潮流が、生まれはじめていたのではないでしょうか。
 1985年に批准された「女子差別撤廃条約」から数えると、日本の男女共同参画の歩みは、四半世紀を過ぎました。しかし残念ながら、男女共同参画が目指す本質的な部分が、今もって社会に浸透しきっていないように感じることもあります。家庭や職場で女性の立場が強くなっていること自体、疎まれるような風潮がありますよね。最終的には人権に関わる問題なのに、「女性が威張っている社会はいかがなものか」という次元でしか語られないのは残念です。
 私が「あざれあ」を退いて、早いもので10年以上が過ぎてしまいました。私はあくまで県の職員として「あざれあ」の設立をはじめとする男女共同参画事業に関わってきたにすぎません。しかしながら、私たちが当時、どんな思いを込めて「あざれあ」を誕生させたかについては、今後も皆さんの胸にとめておいていただければ嬉しいです。
 男女共同参画社会はまだ完全には実現していないかもしれません。しかし少なくとも現在に至るまで、どう発展を遂げてきたかについては、若い方も含めもっと知っていただきたいですね。私は今日、そういう気持ちで、お話させていただきました。今後どんな社会にしていくかは、皆さん1人ひとりにかかっているように思います。

取材日:2011.1



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1957静岡大学教育学部 中学校教員養成課程 卒業
1962静岡大学教育学部付属静岡小学校 文部教官教諭
1967静岡大学教育学部付属静岡中学校 文部教官教諭
1983静岡市立西奈幼稚園 園長
1985静岡市立大河内小学校 教頭
1987静岡県生活環境部 婦人課長
1991静岡県環境・文化部 次長
1993静岡県 退職
1993~1998静岡県女性総合センター(現・静岡県男女共同参画センター)「あざれあ」 所長
2004~2006静岡市教育委員長
2006地方教育行政功労者 文部科学大臣表彰 受賞

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