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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

1箱の布地から始まった26年間の活動。
アジア各地の「わが子」が未来を切り開くために。

河村惠子(かわむら・けいこ)

河村惠子(かわむら・けいこ)



セブの少女たちに布地を送る会 代表



布地を送って路上生活する子供の「手に職」を

「8,000円あればフィリピンで路上生活している子供が1年間学校に通える」という話を聞きましたのは、高校の同窓会の会場でした。今から26年前、1984年のことです。8,000円なら何とかなりそうだなと思いまして支援を始めたんです。奨学金を送ったのは、セブ島に住んでいるアイリーンという16歳の少女でした。
 私の母校は静岡星美学園、今の静岡サレジオ高等学校でして、母体となっている「サレジアンシスターズ」という修道会は、青少年教育を使命としています。創立者であるドン・ボスコとマリア・マザレロが、裁縫教室を開いて少女たちの健全な育成を目指したという伝統を引き継ぎ、世界各国で学校や養護施設を運営しています。
 貧しい少女が自立するには、勉強とともに「手に職」が必要ですね。私も洋裁が好きで家に生地があったものですから、奨学金と一緒に夏物用の布を送りました。
 ところが数カ月たっても何の連絡もない。変だなと思っていましたら、現地にいるシスターから連絡がありました。「あなたが送ってくれた布は50人分の教材として使わせてもらいましたよ」とおっしゃるんです。フィリピンは当時、83年にアキノ氏の暗殺があったり内政が不安定で、どうやらアイリーンは内戦に巻き込まれて行方不明になってしまったらしいんです。
 連絡をくれたシスターは「また布を送ってほしい」と言われました。洋裁は職業訓練のなかでも、とくに就職に有利なんだそうです。でも向こうだと布地は高価です。また送りますとお約束して電話を切りました。
 私の活動は、そんなふうに始まったんです。電話をくれたシスター・アニーはそれ以来、活動のパートナーであり、26年来の友人です。

確実に現地に届けることで支援の輪を広げた

 早速、友達や周囲の人たちに協力をお願いしたり、環境雑誌に掲載するなどして、セブに送る布地を集める呼びかけをしましたところ、全国各地からたくさんの布地が送られてきました。亡くなられたおばあちゃんが洋裁をやっていて、押入れいっぱいに残っている布を捨てるのは忍びないと送って下さった方もいました。ある生地メーカーさんは、1年たつと流行遅れになる布をしまっておく倉庫が満杯になってしまい、新しい倉庫はお金がかかる、捨てるにしても廃棄処分費用がかかる、でもせっかく織った布は捨てたくない――ということでたくさんの布地を送ってくださいました。
 一度送って下さった人たちが、「ここにもってくれば確実に現地で使ってもらえる」「貧しい子供たちの役になっている」と、他の方に紹介してくださったことでも支援の輪が広がりましたね。多い時は毎日のように発送していましたが、最近は月に5~7回です。送料だけで年間100万円近くかかるので、仲間とバザーをしたり、いろいろ工夫しています。
 布地は現在、セブ島以外にもマニラやミンドロ、カンボジア、ベトナムに提供しています。布以外にもボタンやファスナー、針や糸、文房具や靴、それに奨学金を支援しているのですが、物品を送ることができないベトナムには、年に1回、手渡しに行っています。他の国々にも、毎年1回は出かけるようにしています。
 サポートした子供たちのなかには、洋装店を開いた子もいます。私がアイリーンの次に奨学金を送った3人は、臨床検査技師、小学校の国語の先生、貿易関係の仕事と、かつて路上生活していたことが信じられないくらい立派になり活躍しています。現地のシスターは子供たちが奨学金をもらった後も、自立するまで見守っています。子供たちも学ぶ場所さえあれば、一生懸命勉強して、生きていく方法を自分で切り開いていくんです。

アジアの若者が学ぶ職業訓練校と寄宿舎を建設

 シスター・アニーはセブ島の後、フィリピンで7番目に大きいミンドロ島に赴任されました。
 ミンドロ島には少数民族のマンギャン族が住んでいます。マンギャン族はもともと肥沃で広大な土地に住み農業で生活していましたが、第2次世界大戦のとき戦禍を逃れて山岳地帯に逃れて以来、山地に住むことを余儀なくされています。というもマンギャン族が山地に逃れている間に、多数派であるタガログ人が彼らの土地に移り住み、戦後も住み続けて結果的に土地を登記してしまったからなんです。
 先祖代々の土地を失ったマンギャン族はそれでも、山岳の狭い土地で焼畑農業や狩猟をしながら独自の文化を守ってきました。ところが10年前くらいから、彼らは再び山を追われています。政府が山岳地帯に高速道路を通す計画をしていて、ときどき軍も介入して死傷者が出ています。そんなわけで、ミンドロ島では山から下りてきたマンギャン族が街で物乞いをする姿も珍しくありません。
 シスター・アニーがミンドロ島に赴任した頃、修道会はマンギャン族のための職業訓練学校を運営していました。ところがその学校には校舎がなく、雨が降ると生徒たちは一斉に帰ってしまい2度と戻って来ない。手に職さえあれば、どこでも何とか生きていけるのに「ここの若者は怠け者だ」とシスターがぼやいていたんですね。
 2001年に初めてミンドロ島に行ったとき、「職業訓練学校の建設をしたら、いくらかかりますか?」って聞いてみたんです。そしたらシスターが200万円だって言うんですね。ちょうどそのとき、静岡市の選挙管理委員をしたときの収入が、通帳に振り込まれたまま使わず手元にあったんですね。「あ、私あるんだ」って気付いたんです。「いける」とすぐに思いました(笑)。それですぐにゴーサインを出しました。
 2003年に校舎を建設した「メアリー・ヘルプ・オブ・テクニカルスクール」ではマンギャン族の若者に、1年間、農業と漁業を教えています。今年の卒業生は43人。多い年には60人が卒業しました。一家に1人農業のできる人がいれば、家族は食べていけます。 2005年からは寄宿舎も建設しました。マンギャン族の若者は住むところがなくて、男の子も女の子も、それまでは野原に寝泊まりしていたんです。宿舎があれば1年間、安心して勉強できます。これには、知人や私の息子も協力してくれまして、2007年に完成しました。300万円でかなり大きな寄宿舎ができたんですよ。寝室、勉強部屋、応接間、食堂とキッチン、洗面トイレがあって、生活するのに困らない設備が整っています。
 その他にもヤギやブタ、ニワトリ、水牛といった家畜を導入したり、給水塔を建設して養魚池もつくりました。2008年には食品加工所も建設したんですよ。現在はフィリピンの有機農業のモデル農園として、他の地域からも若者が学びに来ています。
 2009年5月、訓練生たちの招待で夫と一緒に卒業式に参列させていただきました。感激のあまり号泣している若者を見て、私ももらい泣きしてしまいました。
 ミンドロ島以外にも、他国の支援団体と協力して、学校や寄宿舎を建設しています。カンボジアには他の支援者と協力して、05年に小学校を、今年はベトナムとカンボジアにも新たに職業訓練校ができました。
 実は今、ミンドロ島には寄宿舎がもう1つ欲しいなと思っています。そうすれば、もっとたくさんの若者が山から下りてくることができます。

日本の子供たちにボランティアの喜びを伝える

 近所の清水第7中学校は、民間人を活用した授業を行っていまして、私も09年から年に1回、アジアの子供たちの話をさせていただいています。食べるものがあって、病院にかかることができて、安全な飲み物があって、安心して眠る家があって、学校へ行くことができて、というのは世界の人口の5分の1。その4倍にもなる人たちは、生命の危険にさらされながら生きている――そういうお話をすると、みなさん、すごく真剣に話を聞いてくださるんです。
 最近は「情報の時代」ですから、アジアやアフリカに恵まれない人たちがいて「自分も何かできないかな」と思っている人は大勢います。でも行動に移すとなると大人だって大変ですよね。それが今の生徒さんたちは「じゃ鉛筆集めよう」って動いてくださるんです。すごいなあと、つくづく思いますね。
 ボランティアっていうと、気負ってしまう人もいると思うんです。例えば、「鉛筆1本あげるぐらいでは何にもならないんじゃないか」、そう思う方もいるでしょうけれど、そういう気持ちの人が100人集まれば100本の鉛筆、300人集まれば300本。現地ではものすごく助かるんですね。だから、みんなが心を寄せることの大切さを、伝えたいと思っています。
 あと援助物資を送るとき、「これは清水第7中学校の生徒さんたちが集めたものです。この荷物が到着したら、彼らにお礼の手紙と写真を送ってください」と必ず書いて送るんですね。そうすると向こうのシスターは、現地の子供たちがもらった文房具を手にしている写真とお礼の手紙をメールで送ってきます。中学生たちはそれを見て、「このペンケース私が寄付したものだ」「これは私の」っていうふうに喜んで見てくれます。確実に届いたとわかることが、とても重要なんですね。向こうの子供たちが嬉しそうな顔をして写った写真が中学生の心に残す印象は、未来の可能性を秘めていると言ってもいいでしょう。
 ボランティア活動では、こういう細かなフォロー、それと寄付として預かったお金についての報告が非常に重要ですね。どこへ送ってどういう子供の役に立ったかということは、きちんと報告しなければなりません。そのあたりはこの26年間、ちゃんとやってきたつもりです。向こうから礼状が届くと、私自身、やって良かったなと思いますし、次につなげていくことができます。この活動は支えてくださる方がいて成り立つものです。私たちの活動では、一度参加してくださった方は、ずっと長く関わってくださっています。
 06年には、日本の大学生をスタディーツアーで現地に案内しました。今の若い方たちの行動力はすごいです。当時、まだ静岡県立大学の学生だった松野下琴美さんは、現場を見た翌年、「私フェアトレード、フィリピンでやりたい」って単身で現地に乗り込んだんです。若い人って本当にすばらしいって感心します。
 そういう活動を通して、新しい援助活動の種をまいているかなあとは思います。日本の若い人たちに世界の貧困の現場をもっと見てもらいたいです。私は年齢的にも、あと10年できるかなあと思っています。次の世代にそれを引き継いでいただきたいですね。

取材日:2010.08



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1984 フィリピン セブ島で路上生活する16歳の少女への就学支援を開始
1996 初めてベトナムを訪問し奨学金と支援教材を手渡す
1999 カンボジアに奨学金、布地、文具を送付する支援開始
フィリピン ミンドロ島に職業訓練校校舎を建設
2005 イタリア人の支援者と協同でカンボジアに小学校を建設
カンボジアのバッタンボン市の学校に調理室と黙想堂を建設
フィリピン ミンドロ島に寄宿舎を建設
フィリピン ミンドロ島に食品加工所を建設
2010 他国の支援団体とともに、ベトナムとカンボジアに職業訓練校および寄宿舎を建設

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