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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

地域の仲間を巻き込み、地元の魅力を発信。
「母なる海」の大らかさが小さな漁村を元気にする。

監物知利子(けんもつ・ちりこ)

監物知利子(けんもつ・ちりこ)



特定非営利活動法人戸田どっとこむ 理事長


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HEDA.JP 伊豆 戸田 情報
元気に町おこし!NPO法人戸田どっとこむ

戸田が観光客で「どっと混む」にぎわいを

 私は生まれも育ちも旧戸田村です。2005年に編入合併されて、現在は沼津市戸田となりました。人口は約3,600人。主な産業は漁業と観光です。
 静岡県には富士山が見えるスポットがたくさんありますが、戸田港から望む富士山は本当に素晴らしい。漁師さんたちが遠洋へ漁に出るときには、水平線の向こうに船が見えなくなるまで、家族がずっと手を振っている――そんな光景が、戸田には今も残っています。
 地域の深刻な問題は、過疎化と高齢化です。若者の数はどんどん減っていて、全人口の3割以上が高齢者なのに対し、若者の比率は1割以下。戸田には高校がなく、バスで通える学校は1校だけなので、中学を卒業すると親元を離れ、下宿しながら高校に行く子も多いです。そのまま大学に進学したり、就職したり、戻って来ない場合も多いですね。
 そういう場所なんですが、戸田には雄大な景色や伝統文化、とれたての野菜や海産物など、昔から変わらない魅力がいっぱいあります。私が「戸田どっとこむ」の活動をしている根底には、まずは地元の人たちが戸田の良さに気付き、自分たちが育った田舎を誇りに思ってもらいたいという思いがあります。「うちの田舎、すごくいいところだよ。今度来てみない?」と、自信をもって言える若者が増えれば、戸田はもっと魅力的な田舎になると思うんです。
 2003年に任意団体「戸田どっとこむ」をつくったときには、沼津市への合併が決まっていました。「戸田が埋もれてしまうかもしれない」という危機感もあり、私たち自身が発信しようと、ホームページ「戸田どっとこむ」を立ち上げました。残念ながら「heda.com」というドメインは使われていたので、やむなく「heda.jp」となってしまいましたが、もう1つ「観光客で『どっと混む』地域にしたい」という願いが込められています。

イベントの反響で地域の文化遺産を再認識

「戸田どっとこむ」設立の直接的なきっかけは、松城家住宅の一般公開イベントでした。明治6年(1873年)に建てられた松城邸は、伝統的な建築様式と洋風のモチーフを併せもつ、民家としては日本で最も古い「擬洋風建築」です。松城家は戸田で何代か続く名家で、当時はまだそこで生活されていたんですね。築100年を優に過ぎていますから、瓦やなまこ壁の修繕には、莫大な費用が必要です。個人での維持管理が困難になってきたため、地域の文化財として保存する方法はないかと検討されていました。
 ちょうどその頃、私は戸田村が公募した観光振興事業委員会に参加し、委員長を務めていました。あるとき、村の観光課から「地域の歴史と文化の活用事業」として何か新しいことはできないかと相談を受けまして、松城家住宅での公開イベントを提案したんです。イベントのボランティアスタッフを募集したところ、20代から70代までの男女が58人集まり、それが「戸田どっとこむ」立ち上げメンバーとなりました。サイトだけでなく、イベントのポスターやチラシも自分たちで作ろうと、皆でワイワイやるのは楽しかったですね。
 イベントは朗読会やコンサート、展覧会など盛りだくさんで、来場者は1日で何と800人!うち半分は「一度は松城家住宅の邸内を見てみたい」という地元の人たちでした。口々に「こんな素晴らしい住宅が戸田にあったのか」と感激してくれましてね。思惑どおり「どっと混む」イベントとなりました。
 予想を上回る反響があったので、2003~04年にかけて全部で6回、松城家住宅のイベントを開きました。松城家住宅を建築史の観点から評価してもらうために、専門家を呼んだシンポジウムを行ったこともあります。保存に向けた署名活動に集まった署名は4,700人。その甲斐あって、松城家住宅は2005年に国重要文化財に指定され、2006年、沼津市の所有財産となりました。

地元の魅力を語れる住民の観光ガイドを養成

 一連のイベントの最終的な目的は、松城家住宅を起点に戸田の魅力を掘り起こし、地元の魅力を自分たちで発信していく地域おこしにあります。そういう意図は、活動をしていくうちに、メンバー皆が共有する目的になっていきました。なかでも、ボランティアスタッフを対象にしたガイド養成講座は、地元の魅力を自分たちの言葉で語れるようになったという大きな成果がありましたね。
 松城家住宅もそうですが、地元の人間として、何となく知っていることはたくさんあります。でも養成講座を受けたことで、知識が体系化され、客観的に捉えられるようになると、それまで当たり前のように見ていた景色が、違って見えてくるんですよね。豊かな自然もある、おいしいものもある、文化や歴史もあるというふうに、地元に対する認識そのものが変わっていった。
 私もそうですが、ずっと住んでいると、地元の良さっていうのは、あまりにも身近な空気みたいなものです。それが一度、その魅力に気付いてしまうと、次はそれを誰かに伝えたくなる。「すごいすごい」と誰かが言い出すと、周囲も「すごいすごい」と言い始める――そんな相乗効果があります。
 それまで戸田を訪れた観光客に「ここには何もないね」と言われると、観光業者さんたちは、土肥にある「象牙会館」や修善寺の「虹の郷」など、近隣の観光スポットを紹介していました。でも実は戸田は、日本で初めて洋式船を造った近代造船技術発祥の地ですし、明治時代にロシアとの交流もあった。そういう文化遺産もちゃんとあるわけです。ガイドの勉強をしながら、私たちは地元に対しもっと自信をもっていいんだということがわかってきたんです。
 同時に、行政や地元の観光協会との連携も少しずつ生まれてきました。祭やイベントがあるたびに、「どっとこむでも何か企画してくれないか」という依頼をいただいています。

高校時代のボランティアが地域活動の原点

 私の家族は、もともと戸田の人間ではありません。両親とも東京育ちで、東京で商売をしていましたが、戦後の大変な時期に、縁があって移り住んできました。なので、戸田に親戚はいないんですね。でも、戸田は小さな村ですから「〇〇に住んでいる、〇〇さんの長女」というように、何者であるかを知ってもらうこと、地縁のつながりがとても重要なんです。そういう意味で、よそから来た両親は苦労もあったと思いますね。私も子供の頃、家で家族と話す言葉遣いを学校ですると、「おかしな喋り方」と笑われたものです。今思い出すと、子供ながらに一生懸命、周囲になじもうと努力していました。
 若い頃は、とにかく外に出たいと思っていました。戸田を離れて、いろんなことに挑戦して、自分を試してみたいと思っていましたが、経済的な事情でそれがかなわなかった。元気いっぱいでしたから、もの足りなさはありましたね。ですから自分から思い立ったことでなくても、誰かに頼まれれば、できる限り精一杯やろうという姿勢が、いつしか身についたのだと思います。
 最初にボランティアに関わったのは、高校2年のときでした。私の母校は、土肥高校という、戸田から唯一バスで通える学校です。あるとき各校1人の代表に選ばれて、県が主催する1週間くらいのリーダーズ研修に参加しました。子供向けの手遊びや歌を教わって、研修から帰って来ると、戸田の村役場から呼ばれまして「地域の子供会を作りたいから手伝ってほしい」とお願いされました。当時は、地域にまだ子供会がなかったんですね。「友達も誘って」と言われましたけれど、当然無償ですし、子どもと遊ぶ活動に協力してくれそうな友達は見当たりませんでした。お年頃ですしね。
 仕方ないので、1人で戸田にある18の自治区を回って、学校から帰ってきた子どもたちに「お姉ちゃんと遊ぼう」と声を掛けました。子供たちは喜んで集まってきましたね。遊びのメニューも自分で考えて、ドッジボールしたり、縄跳び教えたり。そのうち子どもたちが私を待っててくれるようになって、2年間、毎週土曜日に、あちこちの地区に出向いて子供たちの遊び相手をしました。大変でしたけど、それなりに面白かったですね。

村役場の新人職員として激務をこなした日々

 高校卒業後は、戸田村役場の総務課に勤務しました。子供たちと遊んだ2年間の活動を踏まえて、各地区のお母さんたちと協力しながら、いよいよ子供会をつくることになりました。今の学童保育にもつながるボランティア活動です。
 本業の仕事は、給与関係や共済組合、退職手当組合などの事務、電話交換、文書受付など、新人であるにもかかわらず5つも6つも仕事を任されました。困ったことに、私の配属が、前任者が退職されて空いたポストだったために、実務を教えてくれる人が誰もいなかったんです。朝の8時から夜中の11時頃まで、毎日すさまじい忙しさでした。やればやるほど仕事が増えていくんです。そのうち財政の仕事も任されて、電卓がない時代ですから、億単位の計算なんかも自分で計算したり、そろばん弾いたり。給料明細も手書きで縦と横を合わせて、170人の職員の全員分を出すのに1週間くらいかかる。今思い出しても、気が遠くなるような作業です。でも、任された仕事ですから、やるしかない。
 総務課ですから、仕事にはよく「地方自治法の〇条によって……」みたいなことが出てくるんです。当然、何のことかさっぱりわかりません。それで毎週1回、朝6時半の船に乗り、沼津から電車に乗って県庁まで聞きに行きました。わからないところ全部に印をつけて、六法全書を抱えて、3カ月ぐらい毎週通ったんです。
 ところが皆さん忙しそうで、田舎から出てきた小娘に対応してくれる時間は、なかなかないわけです。ようやく昼休み前になると「何?」と聞いてくれて、「申し訳ありません。よろしくお願いします」と、1つひとつ教えてもらった。そのうち「今度は電話でもいいよ」と言ってくださって、訪ねていっても、守衛さんは顔パスになりましたね(笑)。

乳飲み子を抱きながら保母を目指して勉強

 私は頼まれると嫌とは言えない性格なんです。「どうして私なんかに頼むのかな」と考えていくと、「よっぽど困っているから頼むのだろうし、無碍に断ったらその人は困るだろう」と思ってしまう。私に白羽の矢を立ててくれたのは、「ちゃんとやってくれるだろう」という期待もあるでしょうし、私が中途半端に投げ出すのが嫌いなことを、相手もわかっているわけです。だから「大変そうだな」と内心思っても、自分への挑戦だと思ってやってみる。やり遂げたときには、自分だけでなく相手も喜んでくださる。
 でも、村役場に勤務して5年ぐらいたったとき、職場結婚を機に退職することにしました。ある意味、燃え尽きちゃったんですね。当時の不文律として「共働きはノー」という雰囲気も確かにありましたが、私自身、少し休みたいと。「子供ができたら自分で子育てしてみたい」と思っていましたから、それまでとは違う生活に憧れていた部分もありました。
 しかし現実はそう甘くはなくて、子育てをしていくには共働きでないと厳しいことがわかりました。娘が2歳のとき、子守りをしながら保母の資格を取る勉強をしまして、1979年から地元の保育園に勤めました。もともとはそれほど「子供が好き」というタイプではなかったのですが、仕事をしていくうちに面白くなってきて、いろんな勉強もしていくうちに、奥深さもわかってきました。

努力だけでは成し得ない厳しい現実に直面

 保育園の仕事で学んだことは、子供のことというより、「自分の努力とか頑張りだけでは、成し得ないこともある」ということです。たとえ、それが子供のためになることだとしても、周囲の条件が整わなければフタをされてしまう。自分1人の努力なんて簡単だと思いましたね。でも、人間として許せない、見過ごせないことというのはあります。見過ごしたら、自分が加担したのも同然だと思いました。
 長く孤立した苦しい状況のなかで、「自分は今、何を学ばなきゃいけないのか」を考えました。それは自分の力でしか解決できないことですよね。今ここで、何を学ぶべきなのか、自分に何が足りないのか、天を仰ぎました。
 家族はそんな私を、ずっと支え続けてくれました。なるべく辛い気持ちを見せないよう努めましたけれど、主人も娘も実家の両親も皆が悲しんで、悩みましたね。ありがたいと思う一方で、心配をかけて申し訳ないという気持ちも強かった。でも、最終的には自分の力で立ち上がるしかないと思いました。
 体調も崩しました。私だけでなく主人も具合が悪くなって、食事療法が必要になったので、保育園は退職させてもらいました。私の後遺症はかなり強くて、強度のストレスが原因で、一時は走ろうとしても足と手がバラバラになってしまう。もともと走るのは得意だったのですが、ちゃんと走れるようになるまで、10年ぐらいかかりました。
 テレビや新聞で、「いじめられる方にも原因がある」というコメントをする人がいますけれど、あれは絶対間違いですね。いじめるほうが絶対的に悪い。世の中には、いろんな人がいるんです。遅い人も早い人も、のんびりしている人も潔癖な人も……。そういう人を受け入れられない、受け入れる許容度がないから、排除しようとするわけです。自分と違う人を大勢の力で排除しよう、頑張っている人の足を引っ張ろうというのが、いじめです。いじめを受けたほうは、事件の被害者になったり、心の傷を負ったり、人生が狂ってしまったりしますけれど、いじめたほうには「いじめた」という自覚さえない場合もあります。ほとんどの場合、何ら糾弾も受けません。
 いじめが原因で不登校になってしまう子がいますけど、1度逃げるのは悪くないと思いますね。逃げることで抵抗するのもいいし、少し休むのもいい。そういうことに負けない学力を、自分の力で培うのもいいと思います。「いじめを苦に自殺」というニュースを聞くたびに思うのは、苦しかったろうな、でも死ななくてもよかったのに。生きていればいろんな人に出会えたろうに――ということです。「人の心は変化していくものだから、今だけのことだから大丈夫だよ」と言ってあげたい。別の場所で生きていくのもいい。場所を変えることで、違う視野が広がる可能性もあるでしょう。
 今思い出しても、あの頃は辛かったなと思いますが、不思議と戸田を離れることまでは考えなかったですね。退職は仕方なかったですけれど、戸田から完全に逃げ出してしまったら、自分の生き方として納得がいかない。自分は間違っていないということを、そういう形で表明したかったのかもしれません。

人との交流こそボランティア活動継続のカギ

 保育園を辞めた後は、娘の学校のPTA活動をしたり、量販店や歯科医院などに勤務しました。1994年に戸田村の「女性の会」支部長を務めた関係で、95年、環境活動任意団体「戸田せっけんの会ラ・メール」を立ち上げました。廃食油を海に流さないためのボランティア活動なんですが、伊豆の国市韮山での取り組みを知って素晴らしいと思い、戸田でも始めたんです。石鹸作りの機械を村に申請して購入してもらい、給食センターなどの廃食油を使って、今も週に1度、リサイクル石鹸を作っています。
 本当によく落ちるんですが、肌にやさしい石鹸なんです。地味な活動ですけれど、地元の小学校を回ったり、県の大会で発表したり、「戸田の海を守ろう」という啓蒙活動に貢献できているのではないでしょうか。
 石鹸作りのノウハウは、その土地の水や気候によって微妙に違いますから、私たちも研究を重ねてきました。同じ取り組みをしたいという方には、私たちのノウハウをお教えしています。そもそも営利目的の活動ではありませんし、戸田だけでなく日本全国の海がきれいになること、石鹸作りによってあちこちの地域おこしが実現することが、ラ・メールの活動の趣旨です。
 なぜボランティア活動に参加するのかといえば、生きがいにもつながる自己実現という目的が、まずあると思うのですが、さらに地域のためになったり、誰かのためになればもっと面白い。活動を通じて、いろんな出会いもありますね。ラ・メールでも、イベントや視察など、さまざまな交流があって、それが新しい発見や「また頑張ろう」というメンバーの励みにつながります。活動を継続させていくには、そういう交流が大切です。

大手術を機にボランティアへの専念を決意

「戸田どっとこむ」や「ラ・メール」の活動でいつも感じるのは、何事も1人では楽しくない、皆が楽しくて初めて自分も楽しいということです。そういう気持ちは、私がなぜ地域のボランティア活動に関わっているかという理由にもつながります。実は98年、脊髄黄色じん帯骨化症だとわかって、頸椎と胸椎を切断する大手術を受けました。そのとき、1つの大きな気付きがあったんです。
 脊髄黄色じん帯骨化症は、原因がよくわからない難病です。術後1カ月間は、ずっと寝たきりで、寝返りも思うようにできませんでした。「一生、車椅子になるかもしれない」と言われましたが、「きっと前みたいに元気になる」と、心の中では自分を信じていました。動けない間は、どんなに強い意志があっても、身体が元気でなければ何もできないことをつくづく感じましたね。
 少し良くなって、やっとお風呂に入れるようになったある日、私はストレッチャーに乗せられ、人間洗濯機みたいな介護用浴槽に入れられました。全裸の私は、完全にお任せ状態です。そういう状態ですと、恥ずかしいとかそういう気持ちはすっ飛んでしまうものなんですね。看護婦さんたちは皆タンクトップ姿で、「大丈夫ですよ。手だけはつかまっていてくださいね」と、本当に気持ち良く身体を洗って下さった。
 ジーンと涙が出てきましてね。人間はひとりでは生きていけない、誰かの助けがあって、お互い支え合いながら生きているんだな――そう感じました。うまく言えないのですが、人間が生きるとか死ぬとかいうことについて、そのとき実感みたいなのがあったんです。それで、「これからは仕事でもお金でもなく、自分にできることをボランティアとしてやっていこう」と心に誓いました。
 3ヶ月たって退院したときには、まだ寝たきりでした。外を歩けるようになるまで、半年くらいかかりましたね。最初は10分ぐらい起きていると背中が痛くなって、起きたり横になったりの繰り返しです。退院して1~2年の間は、毎日がリハビリ。起きていられる時間を11分、12分と増やしていきました。
 でも療養中も家に引っ込んでいるということはなくて、数時間起きていられるようになった頃から、ラ・メールの石鹸作りを再開しました。今はこうして元気に走り回っていますけれど、背中の筋肉を全部切断しているので、無理をすると背中がぷっくり腫れてきます。疲れると、周りの仲間が背中をマッサージしてくれます。

地元のおばさんの魅力が売りの「ぷ茶店」

 2009年7月、戸田港の船着き場前に「みなとの駅ぷ茶店(ぷちゃーてん)」をオープンしました。幕末に海難事故で戸田に漂着した、帝政ロシアの「プチャーチン提督」にちなんで、「ぷちゃーてん」です(笑)。空き店舗になっていたのですが、戸田の表玄関ですから、シャッターが下りているのは、あまりに寂しい。それで観光客が船を待つ間、お茶を飲んだり、お土産が買える場所として活用したいと、沼津市に補助金を申請したんです。
 最初は「うちのお土産が売れなくなる」という反対の声もありましたが、「ここはあくまでアンテナショップですから、売りたいものがあれば何でももってきてください」と、逆にお願いしたんです。土産物だけでなく、農家の方がもってくる季節の野菜や果物なんかもあります。売上げの1~2割を、私たちのマージンとしていただいています。
 ぷ茶店では「戸田どっとこむ」のガイド派遣もやっています。お向かいには観光協会もあるのですが、こちらはあくまで「地元のおばさんの独断と偏見の混ざった勝手な言い分」というのが売りですね。店の常勤スタッフは私を含めて4人。結構、リピーターのお客様もいらして、この雰囲気と私たちのキャラを愛してくださっているんです。
 ぷ茶店の営業は、毎週金~月曜日の4日間です。運営は何とかトントンというところですね。でもスタッフの人件費までは出ていません。年間230日全員無償のボランティアです。家賃は市の補助をもらっていますが、売上げは光熱費などの管理費で全部消えてしまう。それでも、戸田を好きになってくれるお客さんが1人でも増えてくれたらいいなと思いながら、活動を続けています。

住民と観光客のハッピー効果が地域の活力に

「戸田どっとこむ」の活動を初めて今年で8年になります。地元の人たちも、私たちの活動を理解してくれていますし、いろいろなお願いに対しても「あんたたちが言うなら」と協力してくれます。戸田の人たちは、1人ひとりお願いに行くと、皆さん親切です。
 最近、力を入れているのは、「ぷ茶店」から松城家住宅に向かう通りを「プチャーチンロード」として、回遊性のある観光ルートを作ること。もう1つは、戸田を「タチバナの里」として、売り出していくことです。戸田にはミカンの原種であるタチバナの群生地が残っていて、5~7月、花が咲く時期には、村じゅうが高貴な香りに包まれます。数年前から、タチバナの原種の保護と植林活動、それにタチバナのジャムやリキュールを造って、特産品として販売しています。「プチャーチンロード」と「タチバナの里」で、戸田らしい地域おこしがしたい。
 これからもずっと、仲間と一緒に活動を続けていきたいですね。「利他への強い思いは必ず実を結ぶ」と信じています。私には、大事にとっておくものはたくさんありますが、失うものはありません、そのときどきで「良かれ」と思うことは、どんどん実践していきたい。そこからまた新しい出会いが生まれて、「どっとこむ」のメンバーや戸田の人たち、戸田を訪れる人たちの「面白い」「楽しい」というハッピー効果が広がっていって、若い人たちも育って、戸田がもっと元気になってくれたらいいなと思っています。

取材日:2011.1



静岡県沼津市生まれ 沼津市在住


【 略 歴 】

1968静岡県立土肥高等学校 卒業
戸田村役場に就職
1995環境活動任意団体「戸田せっけんの会 ラ・メール」設立。会長に就任(~2005)
2003まちおこし任意団体「戸田どっとこむ」設立
2007NPO法人「戸田どっとこむ」に。会長および理事長に就任

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