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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

女はいくつになっても枯れない!
自分にしか撮れない作品のために戦い続ける。

浜野佐知(はまの・さち)

浜野佐知(はまの・さち)


映画監督
株式会社旦々舎 代表取締役


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旦々舎

「男ジャパン」と徹底的に戦う生き方

写真提供:株式会社旦々舎

 私がこれまで一貫してやってきたことは、「男ジャパン」と戦うことです。「男ジャパン」とは、男を中心に構築されている日本社会のことですね。 私が映画界に入った頃は、女のスタッフなんていない時代。女子トイレはなし、女性の部屋はなし。要するに、女であることが許されないという環境です。だから、男と同等になろうとしたわけです。男に負けないよう、男を超えていこうとした。つまり女を捨てようとした。男並みに扱ってもらえないと仕事がさせてもらえない、そういう時代だったんです。

 いま思うと笑い話ですけど、男のスタッフと一緒に1升ビンの酒をラッパ呑みして急性アルコール中毒でぶっ倒れたこともありました。山の中で女子トイレがなかったときには、「女はトイレ1つで大騒ぎする、だから女を現場に入れたくないんだ」と言われ、「こん畜生!」と思って、男と並んで立ちションしたり。そういうバカバカしいこともしましたね。

 どれもこれも必死で自分のポジションを得るためにやったことですけど、今考えると、そんなバカバカしいことはない。私が今、自分の人生で反省するところがあるとすれば、そんなふうに女を捨てて、男と同等になろうとしたことですね。きちんと女として女性として戦う方法というのは、他にあったんじゃないだろうかとは思います。 やっぱり、女は女としてきちんと立つべき場所をもって仕事をしていかないといけない。でも「男ジャパン」の中で女が生き抜いていく方法というと、男に媚びを売って女のポジションを確保していくか、私みたいに男にケンカを売ってのし上がって、男並みになっていくか、そのどちらかですよね。美しい女だったら化粧する方法もあるだろうけど、私は化粧する代わりにサングラスをかけた。サングラスは戦闘服です。20歳になったときサングラスをかけはじめました。ところが、還暦過ぎると目も悪くなってくるし、老眼になるし、そろそろはずしたいんだけど、いつの間にかトレードマークになっちゃって、今さらはずせない(笑)。

映画づくりの根底にあるのは「怒り」

写真提供:株式会社旦々舎

 自分がやりたい仕事をやりぬくためにはどうしたらいいか――。映画界という男社会の中で自分が本当に撮りたいものを撮るには、やはり自分が会社をもつしかない。それで34歳のとき「株式会社旦々舎」という製作会社を立ち上げました。 これが不思議なもので、女は何もないと本当に差別されるのに、プロデューサーというポジションになってお金を扱うようになると、それはそれなりに男も言うことを聞いてくれる。こっちがお金を払う立場ですからね。多くの女性が起業する理由がよくわかります。

 「男ジャパン」で女性が自分らしく生きていくには、自分の仕事、自分の会社、自分が自由に生きられる居場所をもたないと難しい。旦々舎を始めて、私もやっと本当に自分の撮りたいものが撮れるようになってきました。 「決して男社会に媚びない」というのが、私の信念なんです。媚びるくらいなら喧嘩を売る。ここまでやってこれたパワーは、ひたすら怒りですね。「こん畜生!」ですよ。あらゆるものに怒るんです。正しく怒れるっていうことが、人を押し上げていくエネルギーになるんですね。怒らないとダメです。諦めちゃダメです。怒りたいことは世の中に山のようにある。女であればこそ、社会のなかに山のようにあるはずなんです。それをいちいち女だから仕方ないとか、世の中の仕組みがこうだから仕方ないとか、会社のポジションがこうだから仕方ないとか、そんなこと思っちゃダメなんですね。

 社会に対する怒りは、私が育った環境と無関係ではありません。父は私が10歳のとき急死しました。小市民的なちっちゃな平和を守って暮らしていた家族が、ある1日を境にガラッと変わってしまった。母は専業主婦でそれまで働いたことがなかったのが、その日から働かないと10歳と7歳の子供たちを育てられない。では働かなければ食っていけないその母親に、世間は何をしたのか、行政は何をしたのかっていうのを、私はつぶさに見て大きくなりました。父親がある日突然死んだという、他の家庭にない不幸に見舞われただけなのに、その不幸に追い討ちをかけるような差別をするこの日本社会は何だ!――そう思いました。

監督になって等身大の日本女性を描きたい

写真提供:株式会社旦々舎

 私が子供の頃は、静岡市内の七間町あたりにはいっぱい映画館がありました。「銀幕」という映画専門の新聞があって、1週間に1回、金曜日に出るんですが、それを見て今週はどこの映画館に行こうかというのが、家族の唯一の楽しみで、急死した父親の最期の言葉も「お父ちゃん、今日頭が痛いんで映画行けないかもしれない、ごめんね。来週は必ず行こうね」でした。 母子家庭になって、母が外へ働きに出るようになると、やっぱり寂しいわけです。それが映画館通いを始めたきっかけです。バカバカしいですけど映画館の中に父親がいるような気がしたのかも知れません。

 映画館であらゆる映画を観るようになると、日本映画に出てくる女性像が全部ステレオタイプで、しかも役割別に分けられていることに気付いたんです。聖母のような母、貞淑な妻、父親の言うことを聞く素直な娘。性的な関係をもつのは愛人という家の外にいるポジションの女――みたいな。そして必ず愛人は家庭を壊す悪者ですね。そういうふうに分けられているのを見て「それはおかしいだろう」と。しかも、描かれ方が男に都合のいい女ばっかり。高校1年ぐらいだったと思います。うちの母親だって一生懸命働いて仕事もすれば、妻だったこともあり、女もやりながら一生懸命生きてるじゃないか、何で映画の中の女だけ「お帰りなさいませ」なんて三つ指ついているんだっていうのが、最初の疑問です。

 ちょうどその頃、ヨーロッパからヌーベルバーグの映画がたくさん入ってきて、フランス女はカッコいいわけです。赤いハイヒールに赤いコートの裾をなびかせて、キャリアを磨き男を使って仕事している。 もう完全にこれはおかしいと思いましたね。日本映画の女だけ、なぜこんなふうに描かれなきゃいけないんだ!と思って調べてみたら、女の監督が1人もいなかった。「そうか」と思いました。女の監督がいないから男にとって都合のいい女性像しか出てこない。じゃあいっそのこと私が監督になって、地を這うようにがむしゃらに生きてる母のような等身大の日本女性を映画で描こうと思ったのが、監督になりたいと思ったきっかけです。

誰も撮らないから自分が撮る意味がある

写真提供:株式会社旦々舎

 実は『百合祭』を撮るとき、「こういう企画の作品にお金出してもらえませんか」と何人かの男のプロデューサーにお願いしたのですが、「ババアのセックスなんかだれが見たいんだ?」と言われましたね。男の目から見ると、ババアのセックスが売れるとは思わない、もっと言えば年をとった女に価値を見つけられない――そういうことだと思います。映画館主も同じで90%以上が男ですから、結果的に『百合祭』は海外を回るしかなかった。 高齢者の性や同性愛など、ある意味物議をかもしだすようなテーマで映画を作っているのは、それが私の武器だからです。誰に認められなくても、それが私の戦う武器なんですね。

 私は1本1本命がけで撮っています。それも、野垂れ死にを覚悟で撮ってるわけです。なぜなら、それが私だからです。私にしか撮れない映画を撮りたいからです。誰でも撮れるようなものは、私が撮る必要がないわけで、絶対に誰も撮らない、撮りたがらない、撮っても意味がないと思われるような、でも私にとっては大変に意味ある――そういうテーマを撮っていきたい。

 基本的に私が撮る映画は、差別される側の視点に立っています。もう1つ、女性のセクシュアリティーを私は解放したいという思いもあります。私が40年近く、400本に及ぶようなピンク映画を生み出してきた中で、まだ成し得ていないことは、「囲われ、フタをされ、自由に飛ぶことの出来ない女性の性を、女の手に取り戻す」ということです。女の性は男のものでも、家族のものでも、社会のものでもない。ましてや、産業でもない。女の性は女のものなんです。1人1人の女たちが自分の性をその手に取り戻してもらいたい、取り戻そうじゃないかというのが、わたしが映画にこめるメッセージです。
『百合祭』では、年をとった女性のセックスという、社会がタブーとしてフタをしているものに爆弾を投げ込んで、そのフタを破壊したいと思いました。いくつになっても枯れちゃだめなんです。絶対枯れちゃだめ。というか、枯れないんですよ。枯れさせられているんです。「男ジャパン」にとって枯れない女は必要ないからです。そういう「男ジャパン」が作り上げた男に都合のいい常識に、私は石を投げつけたい。女は枯れない!100歳になっても枯れない!人間は枯れない!私はそう思います。

次回作は念願のオール静岡ロケ

写真提供:株式会社旦々舎

 私は小中高を静岡で過ごしまして、実家は今も静岡にあります。静岡は自分のふるさとですね。帰るといったら静岡しかないわけです。ですから「故郷に錦」じゃないけれど、静岡で映画を撮りたいという思いはありました。お陰さまで、静岡で支援する会も立ち上げていただき、本当に感謝しています。
 また、『百合子、ダスビダーニヤ』の原作者の沢部ひとみさんは御前崎出身。主人公の湯浅芳子も浜松の悠々の里で亡くなっている。そういう意味で監督、原作、主人公の3人全員が静岡にゆかりがあるということですので、これはもしかしたら「静岡で撮れ」という何かのお導きかなと思っています(笑)。

取材日:2010.08



徳島県生まれ 静岡県静岡市育ち 東京都在住


【 略 歴 】

1968 専門学校在学中に映画製作プロダクションに入社するがすぐに退職し、フリーの助監督に。
以後、300本を超えるピンク映画に携わる
1984 株式会社旦々舎を設立
1998 『第七官界彷徨‐尾崎翠を探して』で初の一般映画の監督デビュー
2001 『百合祭』を発表
2002 トリノ国際女性映画祭で『百合祭』が準グランプリを受賞
2003 フィラデルフィア国際レズビアン&ゲイ映画祭でベスト・ワン賞
2006 『こほろぎ嬢』を発表

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