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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

毎月16日の「十六市」で、
富士宮と商店街とおかみさん仲間を元気にした老舗の3代目。

増田恭子(ますだ・きょうこ)

増田恭子(ますだ・きょうこ)



増田屋本店 取締役専務
富士宮駅前通り商店街振興組合 理事長
富士宮市フードバレー推進協議会 委員長


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曽我漬の増田屋本店
富士宮駅前通り商店街・中央商店会

スーパーの登場で商店街は「苦悩の時代」に


 私は創業大正7年、富士宮市で90年以上続く「増田屋本店」の3代目です。生まれも育ちも富士宮で、この60年間、「富士宮駅前通り商店街」とともに人生を送ってきました。増田屋は「曽我漬」という富士宮名物を製造・販売しています。
 富士山のふもとにある富士宮市には、現在6つの商店街がありますが、歴史はとても古くて、平安時代から続く「富士山本宮浅間大社」の門前町として栄えた時代から続いていると言われています。祖父がここで商売を始めた大正7年(1918年)には、既に富士山の観光ブームが始まっていました。
 最初はたくあん漬けを製造・販売をしていましたが、1932年にこの一帯で大火があり、まちの大部分が焼失しました。「曽我漬」は、その復興の証しとして、祖父が弟と一緒に作り上げたオリジナル商品です。戦争で商売は一時中断しましたが、戦後の観光ブームが本格化すると、2代目を継いだ父が、市内外のあちこちを回って曽我漬を卸し売りしました。
 戦後の復興期から高度成長期の1960年代にかけては、富士宮の商店街に活気がみなぎっていた時代です。店主たちには皆勢いがあって、商店街に振興組合を立ち上げるなど、組織化を進めました。駅前商店街には旅館やお土産やの他に、八百屋、魚屋、肉屋など、生活産品を扱う店もひととおり揃っていました。
 商店街の苦悩が始まったのは、1970年代のなかばです。駅前に8階建てのスーパーができたことで、生活産品の店は大打撃を受けました。後継者問題や駅周辺の再開発などもあいまって、昔から商売をしていた個人商店はだんだん姿を消していきました。私が主人と結婚して、一緒に増田屋本店を継いだのは、ちょうどその頃、1973年のことです。その後13年の間に、5人の子供にも恵まれました。

勉強会やまちづくりで変わり始めた商店街

「これはいよいよ何とかしないと」と、商店街で危機感が高まったのは、90年に入って、駐車場つきの大型ショッピングセンターが郊外に次々とオープンしはじめたときです。客足がぱったりと遠のいて、商店街の人たちは口ぐちに「困った、困った」と言っていました。私は商店街の事業委員として、大売り出しや商業祭などのイベントの企画をしていたのですが、「困った、困った」と言っているだけでは仕方ないので、皆で危機感を共有して、力を合わせるしかないと思いました。それで商店街のおかみさんたちに呼びかけて勉強会を始めたんです。
 店のおかみさんというのは、意外と世界が狭くて、同じ商店街に店を構えながら、お互いにどんな商売をしているかを知らなかったんです。店番としてずっと家にいなければなりませんし、子育てや家事にも忙しくて、ほとんど出歩けません。それで最初は2カ月に1度、スーパーの店長さんやJR富士宮駅の駅長さんなど、身近にいるリーダ-たちを呼んで、お茶を飲みながら話を聞く会を開きました。接客も見よう見まねの自己流でしたから、通信教育で接客やおもてなし、クレーム対応の仕方などを勉強もしました。自分たちの手で「留守番人生」を返上しようと、動き出したわけです。
 そういう勉強会を5年間くらい続けまして、2000年に誕生したのが「富士宮駅前通り商店街おかみさん会」です。設立メンバーは10人。私が初代の会長になりました。
 同じ頃、富士宮市の市街地活性化事業の手はじめとして、約60名の市民が参加するまちづくりワークショップが行われていました。「富士宮やきそば」によるまちおこしも、そのワークショップがきっかけで生まれたんですね。私はおかみさんたちの勉強会と並行して、ワークショップにも参加していました。
 あるときおかみさんの間で「どこで買物しているか」という話になって、ほとんどの人がスーパーへ行っていることがわかりました。隣近所で買物をしませんから、商店街にどんな店があるのか、実は商店街の人たち自身、よく知らないことに気付いたんですね。
 それで、まずはお互いをわかり合おうということで、富士宮市内に当時8つあった商店街が一目でわかる地図を作成することになりました。お互いを知ることが大きな目的ですから、私も含め、各商店街の担当者が1軒1軒の店を訪ね、お店の基本情報やいちばんの得意商品や店のこだわり、店主のコメントなんかを聞いて回って、1年かけて8商店街すべてのマップが完成しました。

思いがけず月例イベントになった「十六市」

 地図は「きてみてちょマップ」と命名しました。私たち富士宮駅前商店街のマップが第一弾として完成しましたが、「はい、できました」とただ渡すのでは誰ももらってくれないだろうと思ったんです。それで他からも人が大勢来るようイベントをやろうと。おかみさんの会はずっと勉強ばかりして「実践」したことがなかったので、地図になぞらえて「きてみてちょカーニバル」を企画しました。おかみさんの会のデビューです。
 場所は商店街の空き地。小さなテント張って、皆で作ったお惣菜やおはぎを売ったり、ワークショップの仲間や電気屋さんに協力してもらって子供たちが描いた富士山の絵をスキャンして、おうちのパソコンに送るサービスをやったり。当時は今ほどネットや携帯メールが普及していませんでしたから、それをイベントの目玉にできたんです。地域の子供から大人までを巻き込むのが狙いでした。
 儲けるつもりはなかったのですが、結果的に1万円くらい収益が出て、マップも配れて、地域の人たちも集まってくれて、良かった良かったと終わりました。それが忘れもしない2000年6月の16日――。
 そんなふうに最初は1回だけのつもりだったんです。ところが、市役所やまちづくりの仲間が「こんなに人が集まるんだし、またやったらいい」とおっしゃる。ちょっと儲けも出たし、じゃあということで、翌7月の16日にまたイベントをすることになりました。16日だったので、「十六市(じゅうろくいち)」がいいと名前も付けて、開催の時間も16時からと決まって、それから毎月16日に富士宮駅前通り商店街の十六市を開いてきました。

臨機応変の柔軟性が10年間続けられたカギ

 気がつけば十六市を始めて10年が過ぎました。何らビジョンも建前もなく始まって、行き当たりばったりで無理をせず、おかみさんたち皆が面白がってやってきたのですが、それが結果的に良かったのだと思いますね。開催時間にしても最初は16時からでしたけど、毎月だんだん暗くなっていって、11月ごろにはもう真っ暗で何も見えない。それで今度はお昼の12時からに変わったんですが、夏が来たら「暑すぎる」という声があって(笑)。最終的に朝10時からに落ち着きました。
 最初は空き地を会場にしていましたが、2002年からそれぞれの店の前にテーブルを出し、自分たちの商品を販売するようになりました。理由はいくつかあります。フリーマーケットの参加者が増えたこと、店番があるために十六市の会場に出かけられないおかみさんが出てきたこと、商店街の道路整備が完了して店舗前の舗道にスペースができたこと、会場と店が離れていると、十六市のお客さんに自分たちの店を覚えてもらえないこと。おかみさんたちの顔を売ることも十六市の大きな目的ですし、本来、お客さんがまちを歩いて人通りが生まれることが、商店街の活性化につながりますから。
 ところが、「商店街を歩いて一周するのは億劫」「前みたいに会場を1カ所にしてほしい」というお客さんの声が聞こえてきました。そこで考えたのが「ショッピングウォ-クスタンプラリー」です。スタンプは100円でも、1,000円でも1個押してもらえて、5個たまると三角くじが1回引けて景品が当たります。「歩くのが大変というなら、歩いてもお得にすればいい」と思ったわけですね。スタンプがもらえるのは、最初「おかみさんの会」の店だけでしたが、「フリーマーケットでも押してもらいたい」という要望があり、今はすべての出店者が対象になっています。

オリジナル商品で「実験」の場となる十六市


 2008年頃からは、十六市でしか買えないオリジナル商品も登場しました。増田屋の曽我漬を使った商品もあります。1つは「京風寿司処 柳屋」さんとのコラボレーションで、近所の「棹地(さおち)神社」にちなんだワサビ入りのお稲荷さん「棹地いなりずし」。「授産所ふじさん」の自家製のあんぱんに、ちょっとだけ曽我漬を入れた「曽我アンパン」というのもあります。甘くてピリッと辛い他にはない味が人気です。
「十六市どら焼き」も人気です。これは駅前商店街のお隣の中央商店街にある「まるじゅう」さん、大正13年創業のどら焼きで有名な老舗のオリジナル商品です。実は十六市の出店者が増えて、2009年、市のエリアを中央商店街まで広げたんです。そのとき、まるじゅうさんにお願いしてオリジナル商品を作ってもらったんです。嬉しかったですね。2つの商店街が一つになれた記念です。抹茶やさつまいも、ブリーベリーなど、2カ月ごとに味が変わって行列ができることもあります。
 こういう商品開発やコラボレーションは、十六市がなければ実現しなかったでしょうね。新しいアイディアを活かせる場、マーケティングや商品開発の実験の場としても、月に1度の市が活用されています。フリーマーケットではいろんなものを売りにくる人がいます。たとえば、商店街で売っているものをより安い価格帯で売っていたりすると、それが自分の店の品揃えを改めて考えるきっかけにもなります。
 今、日本のあちこちの商店街でシャッター通り化が進み、個人商店の経営がますます厳しくなっています。もちろん時代の流れもあります。でも、商売の仕方が行き詰ってしまう原因の1つに、老舗としてのプライドが邪魔をして値段を下げられなかったり、売り方を変えられずに堂々巡りになっていたりということもあるんじゃないでしょうか。
 十六市を10年続けてくるなかで、普段売っていないものを試しに売ってみたり、売り方を変えてみたり。それが、自分たちの商売の仕方を考えるきっかけにつながることもあります。駅前商店街の店舗数はおかげさまでこの10年間、それほど減っていません。空き店舗も現在は1軒だけです。

アイディアの実践は自分たち自身の人材育成に

 おかみさん会のメンバーは現在14人。繰り返しになりますが、10年続けてこられたのは、男性と違ってビジョンもなく行き当たりばったりでやってきたこと、無理をしなかったことがポイントです。女の人は基本的に真面目なんですよね。だからビジョンを決めちゃうと、それに沿ってキッチリやろうとします。先に決まりをつくってしまうと、他の新しい意見が出てきたとき、なかなか身動きがとれません。
 おかみさん会では、自分たちのアイディアを比較的すぐ実行に移してみるんです。もちろんうまくいかないときもありますけど、難しいかなと思ってもやってみて、失敗したら何が悪かったかを、反省会でみっちりと話し合う。そこで次のアイディアも生まれます。毎月、実験しているようなものですよね。
 誰かが「私はこれをやりたい」と言ったのに対し、お互いに協力し合い、準備していくことを繰り返すうちに、それぞれ得意な分野ができてきて、自分の役割を自分で拾い上げるチームプレイが生まれてきます。要するに私たちは十六市によって、自分たちの人材育成をしてきたことになります。

今後は「なくてはならない存在」を目指す

 ビジョンこそありませんでしたが、十六市を始めたとき、10年後の6月16日まで続くかどうかをひとつの目安にしていました。失敗しながらも何とか10年続けてくることができて、まちの人たちにも「うるさいおばちゃんたちが何かやってる」くらいは、知ってもらえたんじゃないでしょうか。10年でここまで来ましたから、今後はビジョンが必要になって来るでしょうね。
 2009年、十六市の10周年イベントとして、「あい&ゆうき健康フェア」をやりました。皆さんに喜んでもらえる企画は何だろうと考えたとき、「雨の日でも人が集まるのは健康相談しかないよ」ということになったんです。せっかくなら1回きりでなくということで、4~6月の3回、市や業者さんに協力してもらい、骨密度、血圧、体脂肪の測定と、健康器具や介護グッズの展示販売をやりました。業者さん集めには、近所の介護施設の方がとても一生懸命協力してくれました。
 車いすとかおむつとか、いざというときにどれを選んでいいかわからないということは、結構あると思うんです。介護にしても、自宅がいいのか施設がいいのか、入浴サービスはどこがいいのか、わからないことだらけですよね。高齢化は否応なく進んでいます。近所の気軽に行ける健康相談は、これからの商店街の役割を考えるうえで、1つのヒントだと思います。
 商店街の社会的な役割、地域の人たちの生活に受け入れられるあり方について、これからの10年間で考え、カタチにしていかなければならないと思っています。やめてしまうのは簡単です。やめずに、いかにカタチを変えて存続させていくか、「商店街がないとまちが成り立たない」と言われるには何をすればいいか。商売だけでなく、健康とか文化という側面も含め考えていく必要があります。

これまでの出会いと経験を地域に還元したい

 商店街も含め、まちを元気にする人材が育っていくにはどうしたらいいかということも、今後の大きなテーマです。私たち自身がいい高齢者になってくことも重要でしょうね。なるべく早く自分たちの席を譲れるよう、自分たちも変わってかなきゃいけません。いろんな人の意見を拒まずに聞いたり、アイディアは必ず試したりというおかみさん会の方針を貫いて、次の世代に対しても「やってごらん」って言えるようでありたい。それが、その後もさらに次の世代へと受け継がれるんだと思います。
 若い世代で「地元も捨てたものではない」と思っている人は増えていると思うんです。なので、自分たちがいいと思ってやってきたことを続けながら、まちづくりが途絶えることなく続いていく方向づけをしていきたい。まちづくりの後継者は、商売をやっている人に限らず会社員でもいいわけです。私たちとは違うスタイルの人材の登場にも期待したいです。 増田屋では主人と私と妹に加え、5人の子供たちがそれぞれの個性を活かして家業をサポ-トしてくれています。大学で経済を勉強した次男と三男は、新しいノウハウも取り入れながら、自分たちのやり方で経営を考えてくれています。長男はフリ-カメラマンをしながら、主人の製造を手伝ってくれます。とても頼もしい後継者たちです。
 おかみさんの会は、5年前に佐藤文代さんに会長を引き継ぎまして、私は現在、富士宮駅前通り商店街振興組合の理事長としてまちづくりに関わっています。他にも、富士宮商工会議所や富士宮市フードバレー推進協議会、ふじのみや食のひらめき会、静岡県商店街振興組合連合会など、いろいろな役員をお引き受けしています。
 商店街の活動やまちづくりを通して、いろんな人に関わり、いろんな体験を積み重ねることができました。そうやって養ってきた栄養分を、今後は地元にため、他のまちのためにどんどん役立てていきたい。そして最期を迎えるころには、小さな消しゴムみたいに役を終えられたらいいなと思っています。

取材日:2010.12



静岡県富士宮市生まれ 富士宮市在住


【 略 歴 】

1970株式会社増田屋本店 入社
2000富士宮駅前商店街「おかみさんの会」発足。初代会長に
「きてみてちょカーニバル」が好評だったのを受け、7月から毎月1回開催の「駅前十六市」をスタート
2001富士宮駅前通り商店街振興組合 理事長
2005富士宮市フードバレー推進協議会 委員長
2006企業組合ふじのみや食のひらめき会 理事長
静岡県知事褒賞 受賞
2007富士宮商工会議所 副頭取(~2009年10月)
2009静岡県商店街振興組合連合会 理事長
内閣府男女共同参画社会づくり(女性チャレンジ賞)受賞

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