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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

「遠州沖ちゃんクラブ」の立ち上げから10年。
地域をもっと元気にする塩づくりを目指して。

鈴木副江(すずき・ふくえ)

鈴木副江(すずき・ふくえ)



遠州沖ちゃんクラブ 副会長



昔ながらの天然塩づくりで地域おこしに挑戦

 「遠州沖ちゃんクラブ」を立ち上げることになったのは2002年。完成したばかりの沖之須コミュニティセンター「いこい」を拠点に、地元住民による地域活動をやろうというのが、ことの発端です。私はその頃、40年間勤務した役場を退職し、「いこい」の事務局長として地域活動の企画や運営に携っていました。役場の職員時代、「いこい」の設立に関わったこともあって、地域を元気にするお手伝いがしたいと思っていたんです。
沖之須の区長さんをはじめ仲間5~6人で、「何をすればいいか」という話をしていたとき、誰かが「そういえば、昔はこの辺りの海で塩をつくってたよね」と言ったんですね。「天然の塩づくり?それはいいじゃん」「やってみるか」ということになりまして、「いこい」の調理室で塩づくりをやってみたんです。近くの海から海水を汲んできて、グツグツ煮詰めていったら、真っ白な塩ができました。
 自分たちで本格的な製塩ができるかどうかわからなかったので、西伊豆の土肥へ視察に行きました。土肥では以前から、地域おこしの一環として天然塩をつくっていて、干物の加工などにこだわりの塩を使っていたんです。気安く「教えてください」なんてお願いして大丈夫かなという心配をよそに、土肥の人たちは「やんなさい、やんなさい」と、とても好意的に勧めてくれました。背中をグッと押された気がしましたね。 製塩を始めるには、いろいろと準備が必要でした。西伊豆町にある海産センターにご協力いただき、遠州灘の海水に合った製塩法を指導してもらったり、製造責任者が必要だというんで、私が代表者として講習を受けに行ったり、海水の成分検査をしてもらったり……。
 その一方で、地元の人たちに呼び掛けて、塩づくりのメンバーを募集しました。出資金は1人1万円。全部で68人集まりました。こうして誕生したのが「遠州沖ちゃんクラブ」です。メンバーのなかに大工さん、左官屋さん、電気屋さんがいたおかげで、塩づくりに必要な平釜、煙突、大きなビニールハウスといった設備は、あっという間にできあがりました。
 天然塩の名前は当初、「副ちゃん塩」という意見があったんです。製造責任者である私は、昔からあだ名が「副ちゃん」なんですね。さすがに「それだけはやめてほしい」とお願いして、沖之須の沖の字をとって「遠州沖ちゃん塩」と名付けました。

「にがりブーム」到来で予想外の大ヒット

 売上げは思った以上に伸びていきました。販売は、地元のスーパーや道の駅などが中心で、ときどきお祭りやイベントの会場でも販売しました。大ブレイクの到来は2004年です。お昼のテレビ番組で「にがりは健康にいい」と、みのもんたが言ったのがきっかけとなって、日本全国の「にがりブーム」に火がついたんですね。
 実を言うと私たちはそれまで、にがりを捨てていたんですね。にがりというのは、海水を10時間以上、平釜で煮詰めた後、塩の結晶を取り出すときにできる副産物です。マグネシウムやカリウムといった天然ミネラルが豊富に含まれていて、お茶やコーヒー、ご飯を炊くときに1~2滴まぜると、身体にいい効果があると言われています。
 ブームを逃す手はないということで、それまで捨てていたにがりをボトル詰めして「遠州沖ちゃんにがり」として売り出してみました。そしたら売れて、売れて……。2004年だけで売上げが約1,000万円に跳ね上がりました。びっくりしましたね。でもその後、にがりの原液を一度に大量に飲んだ人が重体になるという事故が起きて、ブームはあっけなく終息しました。にがりは現在、豆腐の原材料として業者向けに卸すなど、それなりに安定した売上げがあります。

10年目の課題を前に副会長にカムバック

 「沖ちゃんクラブ」は来年、設立10周年を迎えます。立ち上げ当時に比べると、メンバーの高齢化が進み、68人いた仲間も今は49人。作業は週2回から1回に減って、生産量も減少しました。売上げ云々ということではなく、問題は、会を結成した当時のようなワクワク感が足りなくなってきたということです。10年たって、運営の方法など、見直さなければならない部分もあります。「初心に帰る」時期に来たということかもしれません。
 私は「いこい」の事務局長を2004年に退いた後、顧問として、運営から少し離れた立場で塩づくりに参加していました。それが昨年、メンバーからお呼びがかかりまして「沖ちゃんクラブ」の副会長を任されることになりました。
 製塩というのは結構、重労働なんです。いちばん大変なのは海水を運ぶ作業ですね。男性のメンバーは朝4時ごろから海水を汲み上げて、製塩所に運び入れます。立ち上げ時からでは、皆10歳年とったわけですから、「えらい、えらい」という声が聞こえてくるのは仕方ないですね。10時間もの間、釜の火をたやさずに海水をグツグツ煮続けるのも、根気のいる仕事です。
 後継者づくりのためにメンバーの若返りを図りたいところなのですが、新しい人を仲間にすることに対し抵抗を感じているメンバーもいます。その辺が難しいところですね。活動はあくまで地域の人たちのための自主的な活動ですから、皆の合意や納得が必要です。一方で、製塩の道具はメンテナンスが大変で、設備を維持していくためには、ある程度の生産量と売上げを確保しなければなりません。
 10周年を機に「沖ちゃんクラブ」の今後の方向性について、メンバーにアンケートを配ろうと思っています。変革の必要がある部分は変えていく決断が必要でしょうね。販路の拡大についても何らかの手を打たないといけません。静岡空港や県内の大型量販店などでも扱ってもらえるよう、私自身、既にあちこちに足を運んで営業しています。イベントやお祭りなど、「沖ちゃん塩」を販売させてくれるところへは積極的にはたらきかけていきたい。
 売れることも大切ですが「参加することに意義あり」という考え方もあると思うんです。出かけていけば、いろんな人たちとの出会いがあります。塩を介してつながりを広げていくことも、「沖ちゃんクラブ」の大きな目的だと思うのですけれど、設立から10年たつと、マンネリ化というか「どうせ大して売れないよ」みたいな雰囲気も正直あって、そういう閉塞感を何とかしたい。
個人的には、地域おこしの活動に関心のある人や、フットワークのいい人材を増やしていくのがいちばんだと思っています。せっかく作った会ですから、惰性ではなしに、皆が楽しいと思う活動として続けていきたい。

青天の霹靂だった夫の事故死を乗り越えて

 私は生まれも育ちも、ずっとこの沖之須です。実は「沖ちゃんクラブ」を立ち上げた翌年の2003年、主人を交通事故で亡くしました。朝、いつもどおり「行ってきます」と出かけて行って、帰りが遅いなと思っていたら病院からの電話で「ご主人が交通事故に遭われて、大変危険な状態です」と告げられて……。
 駆けつけたときには、もう呼吸がありませんでした。よくテレビドラマでそういうシーンがありますけれど、まさしく青天の霹靂(へきれき)でしたね。「元気に出て行った人がどうして?」と思いました。主人が亡くなったことについて、なかなか実感がもてませんでした。
 クラブの仲間たちは私を心配して、頻繁に訪ねて来てくれましたね。仲間がいることのありがたさを身にしみて感じました。できるだけ忙しくしていることで気を紛らわせていました。息子は姿かたちが主人そっくりなんですね。息子が勤めから帰って来ると、「あ、帰ってきた」と思ってしまったり……。でも息子も辛かったと思うんです。だから私がいつまでもメソメソしていちゃいけない、気持ちを切り替えようと、何度も自分に言い聞かせました。
 そんなとき、司馬遼太郎の「人間の素晴らしさは自分のことを悲観的に思わないことです」という言葉に出会ったんです。本当にその通りだと、その言葉を胸に刻み込んで、前向きに生きようとしました。夫の死を受け入れられるまで、3年ぐらいかかりましたね。

塩づくりの活動を通じて地域に恩返ししたい


 主人は仕事一筋の人でしたが、「沖ちゃんクラブ」のメンバーで、仲間と塩づくりを始めてからは、夕飯の食卓で地域の活性化についてよく議論しました。電気関係の仕事をしていたので、製塩の作業所を作るときも一役買って出てくれました。「沖ちゃん塩」の活動を大切にしていきたいというのは、そういう主人の思い出と無関係ではありません。
 私は一人っ子で、父を戦争で亡くしています。でも不思議と寂しい思いをせずに大きくなったんです。それは友達や職場の人たち、近所の人たちのおかげだと思うんですね。主人を亡くしたときも、地元の人たちにどれほど助けられたか知れません。1人でいるとダメになりそうなときも、仲間と一緒にいれば安心できるし、いろんなおしゃべりをしていれば無条件に楽しい。
 塩づくりを通じて地元を元気にしていきたいと思うのは、自分を育ててくれた地域への恩返しという気持ちが強いです。「沖ちゃん塩」のおかげで、地元に仲間がいることの心強さや安心感、一緒に活動していくことの楽しさを知ったのは私だけじゃないと思います。皆でそういう気持ちを共有できるのは素晴らしいことですよね。
「沖ちゃんクラブ」の副会長として、再び役目を仰せつかったことは、自分にとってとても大きな励みにもなります。私は今、67歳ですけれど、いくつになっても周囲の人たちに必要とされることは、素直に嬉しいと感じますね。

取材日:2010.12



静岡県掛川市生まれ 掛川市在住


【 略 歴 】

2002大須賀町(現・掛川市)役場を退職したのを機に、沖之須コミュニティセンター「いこい」の事務局長に就任
「遠州沖ちゃんクラブ」の立ち上げに携わる
「遠州沖ちゃん塩」発売
2005大須賀町 町議会議員
2010「遠州沖ちゃんクラブ」副会長

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