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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

「まとめ役」の特技を活かし農家の女性たちを連携。
年商1億を上回る直売所の立役者。

海野フミ子(うんの・ふみこ)

海野フミ子(うんの・ふみこ)



静岡市農業協同組合 理事
JA静岡市女性部販売所 アグリロード美和 代表


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JA静岡市
JA静岡市女性部

農家の嫁にはなりたくなかった少女時代

 私は農家に生まれました。家族が12~3人もいる大きな農家で、私は7人兄弟の下から2番目。小学校の頃すでに一番上の兄にはお嫁さんがいて一緒に暮らしていました。姑も小姑も大きいおばあさんもいて、子供心に「うちのお義姉さん大変だな。農家の嫁って大変だな」と思っていました。
 昔の台所というのは暗くてジメジメしていて、今みたいに快適じゃないわけです。そういうところで家族みんなの食事を準備したり、洗濯機もない頃だから井戸で洗濯したり、お風呂も薪で沸かす。子供を3人かかえたお義姉さんが、農作業をしながらそういう仕事を一生懸命やっている姿を見て、「嫁さんて何なんだ?」って思いました。「農家の嫁なんか絶対いやだ」と思っていましたね。でも心のどこかで、「こういう状態は何とかしなきゃいけないよな」と、子供ながらに思っていた気がします。
 高校を卒業して看護大学に行きたかったのですが、受験に失敗してしまって、「浪人なんてとんでもない」という時代でしたから、仕方なく就職したところが「静岡県厚生農業協同組合」でした。厚生病院の経営や、農家の健康指導をする農業団体です。私は事務員としてデスクワークをしたり、栄養士や保健婦の上司について県内のあちこちの健康講座や栄養講座、お料理教室でお手伝いしていました。
 講座に来ている農家の女性たちを見て思ったは、「今日学んだことを、この人たちは家に帰ってちゃんと役立てられるのかしら?」ということ。どんなにためになる知識や情報も、農家で活用されなければ何の意味もありませんよね。そんなふうに思ううちに、「私、農家の嫁してもいいわ」と思うようになったんです。

大反対されて突き進んだ農家の跡取りとの結婚

 実家が農家ですから、「農家の嫁に」という話はたくさんありました。主人も知人に紹介してもらった1人です。最初は「あまりステキでもないし、こんな人いや」と思っていたんですよ(笑)。でも、せっかく紹介してもらったのだからということで話をしてみると、とっても合う部分があったんですね。農家の嫁というのは「労働力」としてもらうのが当たり前の時代です。ただ黙って嫁ぎ先の家風に合わせて、子供を産んで、仕事をしてくれればそれでいい。ところが主人は、「あんたが考える農業をやればいい。農業やりたくないならそれでいいし、勤めたいなら勤めればいい。習い事をしたいならやればいい」と言ってくれたんです。
「そんなふうにうまくはいかないだろうな」と、内心思っていました。でも、そういう考え方に惹かれたんですね。「ステキじゃないけど面白い人だ」と思うようになりました。何回か会ううちに「将来的には1人でできる農業を目指していかないと、これからの農業はだめなんじゃないか」――そんなことも言っていました。
 主人は8人兄弟の末っ子です。兄さんたちは農業を嫌がって、それぞれ近所に分家していて、末っ子ですが跡取りなんです。私の家族は結婚に大反対でした。「長男ならともかく、末っ子の跡取りなんて苦労しにいくようなもんだ」。姉の1人が農家に嫁いでいましたから、「お前は農家なんかに嫁に行かなくていい。サラリーマンのところに行け」と。
 しかし変なもので、反対されると突き進む年頃だったんでしょうね。今なら「確かに親の言うとおりだ」と思いますけれど(笑)。最初に母が「お前がそう言うなら」とわかってくれて、主人と結婚することになりました。親が言ったとおり、やっぱりいろいろ苦労はありました。

公然と外出するために作ったバレーボール大会

 姑は厳しい人でしたけれど意地悪ではなかった。普段は仲良くやっているんですが、週末になると義姉さんや義兄さんたちがやってくるわけです。実の親子ですから当然、姑とは仲がいい。当たり前ですよね。でも当時の私は未熟でしたから、皆の昼ごはんを準備しながら「お義母さんはいつもは私をあんなに可愛がってくれるのに、今日は違うじゃない」なんて、やきもちをやくわけです。
 毎日、朝から晩まで働きどおしでしたが、たいしたお小遣いももらえませんでした。実家に帰るときお土産も買えない。でも、実家から帰って来るときはお土産をもって帰るのが普通なんですね。うちだけでなく、どこの農家でもそうでした。帰って来ると当然のように「お土産、何くれた?」と聞かれます。「向こうに行くときには何もくれないのに、そんなのおかしいじゃないか」って思うわけですね。でもどこの農家でもそうなのだから、ただ黙って、泣きながら耐えるしかない。泣くしかないんです。想像はしていましたけれど、農家の嫁の力というのは弱いなと感じましたね。
 近所の嫁が集まって井戸端会議をすると、皆が同じ話をします。いつの頃からか、農家の嫁が集まれる場をつくらなければいけないと思うようになりました。周囲に対し何ら引け目も感じずに、公然と1日遊べる方法はないかと――。
 私は学生時代、バレーボールをやっていたんです。それで「町内でバレーボールをやりませんか」と周囲に声をかけて、町内会長のところにも「女性たちでバレーボール大会をやるから、町内会長杯を出してください」と頼みに行ったり。それがうまくまとまったんですね。
 この辺りは今でこそサラリーマンも住んでいますが、当時は全部農家で、メンバーは全員農家のお嫁さんです。農家の嫁の考えていることは、だいたい同じです。私たちは自分のお金をもっていませんから、どこかに行きたくても夫や家族に言いにくい。それで、「とにかく家から一歩出ることが大事」と思ったんです。
 つまりバレーボールは、家から一歩出るための手段なんですね。農家の嫁は休みもなく毎日毎日仕事するのが当たり前でしたから、そうでない1日があってもいいんじゃないかと。あまり頻繁だと怒られちゃいますが、「隣の〇〇さんも、△△さんも、皆行くんだから」と言えます。堂々と外出するという目的のために、私たちは気持ちを1つにできたのだと思います。
 まあ、今でこそそんな言い方をしますけれど、その頃はバレーボールが楽しくて楽しくて。日々のストレスの発散ですよ。練習が終わるとささやかな慰労会をやって、皆好き勝手なこと言って、大笑いして。楽しかったですね。町内会のバレーボール大会は、主催者は変わりましたが、今でも続いています。私自身は20代後半から10年間ぐらい続けていました。

「まとめ役」という特技で農家の女性を結束

 もう1つ私が立ち上げたものに、町内会主催のお茶会があります。この一帯はお茶の産地で、うちもそうですが、お茶農家が多いんですね。ところが、どの農家も自分の家ではいちばん安いお茶を飲んでいる。困るのは、お客さんが来てもそういうお茶を出すこと。それじゃお茶の消費拡大にはつながりませんよね。お茶農家が「うちで作ったいちばんおいしいお茶をどうぞ」とお客さんに薦めるような産地にしたい――そう思いまして、若い人たちも巻き込んで、おいしいお茶のいれ方などを勉強する「茶計の会」を1988年に立ち上げました。
 メンバーはお茶農家の女性です。「玄関先には茶びつを置いて、お客さんが来たらまずお茶をいれましょう」ということを呼びかけました。こういう活動に町内会も賛同してくれまして、1989年には町内会主催のお茶会を開催しました。お茶会は今やこの美和地区の重要な年中行事です。最初の年はたった200人のお客さんでしたが、22回目となった今年は2,000人が来場しました。
 バレーボールやお茶会とともに、後のJA女性部の活動につながったのが、地域の消防団の奥さんたちによる活動です。私の主人が消防団長をやっていたとき、たまたま県が主催する消防団の大会に出ることになりまして、うちに集まった消防団の役員たちが飲みながら話をしていました。「どうせ出るなら優勝しないと。でも優勝するためにはどうしたらいいかね」という話になったとき、「それはやっぱり家族の協力だよな」と言うんです。毎日、朝も夜も半年間練習するわけです。そんなとき「また出かけるの?」っていうんじゃなく、「大変だね、頑張って優勝してよ!」って言ってくれたら頑張っちゃうよなって話していたんですね。
 それで、消防団の役員の奥さんたちを集めて団員たちを応援したら優勝するかもしれないと思ったんですね。早速、奥さんたちと話をして、炊き出しとか、おにぎりや味噌汁、冷たいジュースの差し入れをすることになりました。その甲斐あってめでたく優勝しまして、祝賀会をやったり、それはそれは盛り上がって……。 一緒に頑張って勝利を勝ち取った仲間というのは、ものすごく連帯感が強いんです。このときの奥さんたちは、私がJA女性部の支部長になったとき、全員役員になってくれました。もともと結束が固いのでうまくいくわけです。私は彼女たちにどんなに助けられたかしれません。
 私はまとめ役をかって出るのは苦にならないんです。主人も「それがお前の特技だ」と言っています。皆をまとめて成果を出す。成果というのは、今までにない活動の可能性を少しずつこじあけて、実現させていくことです。それが私の性分のようなのですが、私ひとりで完成させることはできません。仲間がいて初めて、日の目を見る成果なんですね。

予想外の大盛況に沸いた女性たちの朝市

 95年に私がJA女性部の支部長になったとき、やるべきことははっきりしていました。まずは女性部のメンバーを増やすこと。当時はオレンジの輸入自由化の影響もあって、農家の収入が厳しくて、パートに出る女性が増えていました。遺跡の発掘とか工事現場の仕事が多かったですね。そうなると、日中、農村から女性がいなくなってしまう。何とか田畑に近いところに仕事はないかと思っていました。
 それで、JA女性部のメンバーにアンケートをとってみたんです。そしたら「朝市をやりたい」っていう声がかなりあって「こんな田舎で朝市やっても売れないだろうな」とも思いましたが、皆の希望があるならやってみようと。野菜と一緒に弁当や惣菜、姑に教わったこの土地に伝わる特産品なんかを作ったら売れるかもしれないと思って、農協に働きかけて加工所を作ってほしいという要望を出したんです。
 ところが、「忙しい農家のお母さんがそんなことできるわけない」「年に何回かしか使わないようなものにお金は出せない」と大反対されちゃって……。「私たち、毎週きちんとやります」と説得したんですね。実際、毎日試作したり、運営形態をどうするか話し合ったり、皆で一生懸命、手作りで作り上げてきたんです。
 朝市をスタートしたのは96年。毎週末の土日だけ、美和街道沿いで始めました。当時、JA女性部に登録していたのは190人ぐらい。そのうち新しく加わった人も含めて100人が朝市のメンバーになりました。
 初めての朝市の前日は本当に不安でね。チラシを出すお金もなかったので、お客さんが来てくれるかどうかわからない。何人かで手分けして知り合いのところを歩いて、「明日、朝市がありますから来てください」と言って歩いたんです。ふたを開けてみたら大盛況でした。「3~4万ぐらい売れたらいいな」「残っちゃったら皆で売り歩くのカッコ悪いな」なんて思っていたのに、初日でいきなり十数万円売り上げがあった。びっくりしましたね。
 まあ、おかげさまで売れたんですけどね、売るということが恥ずかしくて、みじめで、涙出てきました。私たち「ものを売る」ってことを知らなかったんですよ。ミカンでもお茶でも、それまで収入は口座にかなりまとまった金額で振り込まれます。たかだか100円なんて言葉が悪いかもしれないけれど、そういうお金をもらうっていうのが、恵んでもらうみたいで情けなくて恥ずかしかった。
 朝市は2年間続きました。売り上げは1年目が1,000万円、2年目は2,000万円。これだけ売れたのは、農家の女性たちの誠意のおかげですね。本当にとれたての野菜をもってきてくれた。なかには5時起きで加工品を作った人もいます。買ってくれた人たちは、食べてみておいしいと思ったのでしょうね。「今度はお友達も誘って来てね」と言えば、本当に誘ってきてくれた。会員さん1人ひとりの努力が、お客さんをつなぎとめたんだと思います。

売り上げは年々ウナギ上りで今年は1億を突破

 朝市がブームになってきて、辺りの交通渋滞がひどくなってきたことと、加工品を売る際の衛生管理の問題もあって、99年に直売所を作ることにしました。現在、事務所としてつかっている10坪ぐらいのスペースを借りるにあたっては、朝市のときとは違って毎日営業することが条件で、「3年やってうまくいかなかったら女性部の直売はやめ」と最初に釘を刺されました。
 直売所の名前は「アグリロード美和」。オープンは12月に決まりました。1年で最も野菜の種類も収穫量も少ない時季です。加えて、それまで週末に出せるくらいの量しか栽培していませんでしたから売るものがなくて、最初の半年は本当に大変で赤字でした。
 それが6月も後半になる頃から、ジャガイモだのタマネギだの少しずつ野菜がとれはじめて、夏になる頃にはもう足の踏み場もないくらい。お客さんも増えて、どんどん売れるんです。隣がAコープというスーパーだったので人通りはある。値段は隣より安くつけるようにしていましたから、それは売れますよ。安いうえに、こっちはとれたてですからね。
 売り上げは毎年1,000万円ずつウナギのぼりで伸びて8,000万円までいった。ところがちょうどそのとき、隣のAコープがつぶれてしまったんです。別に私たちのせいじゃないんですよ。A コープ静岡が縮小するなかで、ここも閉店になってしまった。アグリロードも一緒につぶれちゃ困るなと心配しました。ところが、Aコープだったところを農協の営農センターと半分ずつ使うことになって、2004年、現在の店舗で再スタートを切ることになりました。
 今度の店舗は100坪と、前の直売所の10倍の広さですから、新装オープンのチラシを入れたりしましたけれど、開店まで不安で不安で……。オープンの日はどうなるか心配で、早く起きて様子を見に行きました。そしたら開店前から人が集まり出して、そのうち並び始めて、開店したとたん大混雑ですよ。レジが2台しかないもので「いつになったらレジやってくれるんだ。遅い!」ってお客さんに怒られちゃった(笑)。忘れもしませんよ。「すいません」って謝ったり、泣いてる子供にかぼちゃのケーキ配ったり、大わらわです。
 アグリロード美和のお客さんは現在、1日300~400人ぐらい。皆この地域の人たちですね。今も毎朝、開店前から30人くらいのお客さんが並んでいます。オープン当初から「地域の人たちに毎日の食材を提供すること」を目指していましたから、その目標は達成できましたね。今年の売り上げは年間1億700万くらい。生産者にお客さんがついているんです。商品に名前が書いてありますから、「あの人が作った〇〇がいい」という口コミもあります。
 一方、出荷しているのは170人くらい。もちろん全員JA女性部のメンバーです。毎日出荷する人もいますが、裏山にわらびや山菜がでる時期だけという人もいます。ここまで伸びたのは、生産者の頑張りが大きいと思いますね。最初は、「自分の家で食べるぶん以外にもう1袋、余分に種をまいてください」と、次の年は「前年より1万円分余分にとれるように作付計画してください」――そんなふうに、農協にも協力してもらいながら指導してきました。
 たくさん出荷してくれる人は、だいたいいいものを作っていますね。自信があるからたくさんもってくる。でも、皆がもってきてくれたものを全部売り切るよう、店頭への出し方などは工夫しています。売り切れるとホッとして、「明日は出さないつもりだったけど、売れちゃったから明日も頑張ろうかな」と思ってくれますよね。 レジ担当の人には、「買ってくれる人だけがお客さんだけじゃないよ」と言っています。「出荷してくれる人も大切なお客さんなんだから、『いいの作ってくれてありがとう。明日も持って来てね』とか『お客さんが昨日おいしいって言ってたよ』とか、必ず声をかけるようにしてねと言っています。

女性がお金をもって輝き出すと農村も変わる

 週末の朝市を始めてから今年で14年になります。いろんなことが大きく変わりましたね。まず、アグリロード美和のメンバーは全員、自分の貯金通帳をもつようになりました。「女性メンバー本人の通帳じゃないと振り込まない」というのが、最初からの条件なんです。でも、96年に朝市を立ち上げたとき、「貯金通帳なんかないよ」という人が半分以上いたんです。びっくりしましたね。要するに農家の嫁は、家計の管理をさせてもらえないということです。「通帳を作ると、『うちの嫁は家の経済を握ろうとしている』と言われちゃうな」と心配している人もいました。「おばあちゃんの通帳ならあるけど……」という人もいました。まず、自分のハンコを作るところから始めたわけです。
 毎月少しずつお金が振り込まれるようになっても、皆お金を使いませんから、少しずつたまっていきます。そうしてお金をもつようになると、何が変わるって、自信がもてるようになるんです。農協女性部の旅行なんかでも、それまでは姑に遠慮して「行きたい」と言えなくて、「隣の人に言ってもらおうか」なんて悩んでいたのが、「私、自分のお小遣いあるから行かせて」と言えるようになる。自分の意思をはっきり言えるようになったんです。子供たちに対しても自分のお金で学費を出すとか、いい影響を与えたと思います。
 さらにしばらくすると、皆キレイになってきた。それまで農家の嫁は化粧なんかしなかったけれど、お金がまわるようになると化粧もするようになる。服なんかでも、昔はだいたいお古みたいなのを着ていた。私も義姉さんがもってきてくれるから、着ないと悪いし、似合うとかどうかとかは関係なかったわけです。でも、自分が気に入ったものを買うようになると、やっぱりその人はキレイになりますよね。
 お金をもって堂々としてきて、そこに化粧や服が加わってくると、それはもう全然違いますよ。女の人がいきいきと輝くようになってきました。男の人だって悪い気はしないんですよね。出かけるときも気持ち良く送り出してくれる。そのうち、だんだんと農作業も男の人が1人で農作業やるようになってきたわけです。昔は奥さんが女性部の活動に行っちゃったせいであれができない、これができないって愚痴をこぼしてた男の人たちが、今は普通に1人で仕事してます(笑)。

少子高齢社会を乗り切るには女性の視線が必要

 そうやって男性たちが私たちの活動を認めてくれたことで、JAの総代も今までは全員男性でしたけれど、美和地区では3分の1は女性に譲ってくれた。JA静岡市では、502人いる総代のうち、現在、113人が女性です。もうここまでくれば、女性が発言するのは当然という感じです。農村はやはり農協単位で動きますから、女性の理事を出すことが大事です。理事も最初は私1人でしたが、今は3人。私は3分の1が女性というくらい増えていいと思っていますから、もう少し増やす努力をしてみたいです。
 町内のことも、女性の視点で動かせるようにならないと、少子高齢社会は乗り越えられないと思いますね。やっぱり男と女というのは考え方の細やかさが違う。
 女性部のメンバーが消費者と一緒にやっている「生消菜言倶楽部」という活動があるんですが、先日初めて、倶楽部の畑でできた野菜を学校給食用に納品しました。私たちが作ったおいしくて安全・安心な野菜を、もっと地域の学校や病院の給食で役立てたい。男の人にそういう発想はありませんね。学校給食だといっても他より高く買い取ってくれるわけではない、ある程度、数がそろっていないといけない、その日の朝もっていかなければいけない――そんな面倒なこと、男性はやりませんよ。
 でも、それは違うと思うわけです。「子供を育てる」「子供に地域の食を味わってもらう」というのはとても大切な、高い安いという次元の問題じゃない。こういう発想は、やはり女性の視点だと思うんですね。食に関わる分野では特に女性が決定権をもつ立場にいないと、世の中は変わらないと思います。
 女がきちんとものが言える社会じゃないと、いろんな歪み――非行や家庭内暴力の問題などはなくなりません。どこでも言われていることですが、子供が健全に育つためには、やはり食が重要です。それは高齢者も同じです。最近、高齢者の栄養失調が問題になっていますね。この間も、栄養失調で倒れて救急車で運ばれた人がいました。高齢者のひとり暮らしは、どうしても栄養が偏ってしまいます。近所の女性がちょっと目をかけてあげればと思いますね。豊かな最後を送るためにも、女性の役割は大きいです。
 自分だけが頑張るのではなく、これからは後継者を育てていかないといけないと思っています。理事だけでなく、いろんな立場の女性が育っていかないといけない。3年後に「アグリロード美和」の建物を建てかえる計画があります。それまでは女性部の代表としての責任を果たさなきゃと思っていますが、後は若い人たちに頑張ってもらわないと。ここ美和地区には頼もしい女性がたくさん育っていますから、何も心配していません。

取材日:2010.11



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1965静岡県厚生農業協同組合に就職
1968結婚して農業を始める
1987「茶計の会」を設立。町内会主宰によるお茶会をスタート
1995JA静岡市美和支部の女性部支部長に就任
1996農産物加工所および朝市をスタート
1998直売店「アグリロード美和」を開設
2005JA静岡市理事に就任
静岡県農林水産振興会 表彰
2007内閣府女性チャレンジ賞を受賞
2008農林水産省「地産地消仕事人」に認定

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