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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

「助けてほしい」と「力になりたい」をつないで、
すべての人に「居場所」のある社会を。

杉本彰子(すぎもと・しょうこ)

杉本彰子(すぎもと・しょうこ)



特定非営利活動法人 活き生きネットワーク 理事長


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活き生きネットワーク
活き生きネットワークの日々の出来事

託児から介護まで「家族の機能」をサポート

 「活き生きネットワーク」は、「助けてほしい」という人と「力になりたい」という人を結ぶ活動をしています。ちょっと前まで、「お金を払って子供を預けるなんてとんでもない」とか、「お年寄りの世話を他人に頼むとは何事か」という風潮がありました。「嫁がやるのが当たり前」という古い体質も残っていました。
 ところが、女性の社会参加や核家族化が進んだこと、さらに最近はひとり親家庭や転勤族などが増えて家族の形が多様化したことで、これまで家族が行っていた機能を「外注化」せざるをえなくなってきた。「子供が熱を出したけれど今日はどうしても会社を休めない」という緊急時のサポートのほか、介護や家事のお手伝い、高齢者のデイサービス、ベビーシッター派遣、障害者の自立支援や生活訓練など、「高齢者支援」「障害者支援」「子育て支援」を中心に、家族の代わりとなる「準家族」としてサポートしています。
 家族機能の外注化には、いろいろなメリットがあります。家族のために家事や介護をするのは、ある意味、当然のことですから、その都度「ありがとう」とは言われないでしょうし、お金がもらえるわけでもない。介護などのケアも、プロではないので行き届かなかったり、うまくいかないこともあるでしょう。
 しかし外注化すると、他人どうしですから一定の距離感があります。それなりの訓練や教育を受けたスタッフが対応しますから、丁寧に接するのは当たり前ですし、「ありがとう」という言葉も介在します。サポートが入ることで時間的、精神的なゆとりが生まれ、家族はそのぶん社会貢献や自己実現もできます。時代と世の中の流れは、着実にそういう方向へ変わっていると思いますね。

10代から80代までが自分を活かせる職場

 高齢者と障害者と子供はよく「社会的弱者」という言われ方がされますが、私は一度もそう思ったことはありません。高齢者が第一線で活躍している分野はいろいろありますし、「高齢社会・日本」ですから、世の中は今後ますます高齢者が中心になります。障害者にしても、自分ひとりでは歩けなくても思考や知的面ではしっかりしている人、目や耳が不自由でも大学院を卒業し教鞭をとっている人もいます。また、よく言われるように「子供は世の宝」です。託児は「宝物を授かっている」も同然ですね。
 しかし誰でも「困ったとき」というのはあるわけです。問題はそういうときなんです。「家族に障害者がいるから何時に帰らなきゃいけない」ということはあるでしょう。でも誰かがお手伝いすれば、他の人と何ら違いはない。困ったときというのは誰にでもあることですから、高齢者・障害者・子供イコール弱者ということではないと思いますね。困ったときに助け合う対象者にすぎません。
 ちなみに、「活き生きネットワーク」で働いている人の最高齢は82歳。今年は65歳以上が12人、80代も2人います。「うちのおばあちゃん、暇だとボケちゃうから働かせてよ」とか、70代という方が「働かせて」ということはたくさんあります。
 高齢者は人生の経験豊富ですから、デイサービスでの「愚痴聞き係」をやってくださったり、みなさんそれぞれが得意な分野――車の運転とかお掃除、田舎料理、草取りなどを活かしていただきます。若い人に草取りを頼むとすぐ腰が痛くなっちゃいますけれど、さすが長年農家という方は、70歳を過ぎてもキレイに根っこから草取りをしてくれます。スピーディーな仕事ぶりは舌を巻くばかりです。
 誰でも何かしら特技があり、なかには資格をもっている人もいます。働ける曜日、頻度、時間帯を聞いて、得意な分野とともに登録する。人材を活かせる・活かせないは、コーディネートの問題です。求人票に「年齢問わず」と書いてあっても、10代から80代までの人に門戸を開いていて、実際に合格させる事業所は珍しいでしょう。しかしこの「何でもアリ」がNPO法人ならではの持ち味だと思います。

障害者の母親は「キャリア」をもつ貴重な人材

 障害者のお母さんのなかには、お子さんとペアで活き生きネットワークを活用するケースがあります。お子さんにはデイサービスの生活訓練や居宅サービスといったサポートを頼み、お母さん自身はお子さんを預けている間、ヘルパーやケアマネジャーの資格をとって働く。なかには離婚して母子家庭になり、大変な生活をしている人もいます。しかし、うちで助け合うことで、お子さんもお母さんも社会的に自立していける道が開けるんです。
「私ももう年だから、子供をプールや映画館まで連れて行ってもらいたい。子供が1日遊びに行っている間、私も何かできませんかね?」という方もいます。障害者のお母さんは、車いすを動かすのが上手かったり、唾液やたんの吸引に慣れていたり、「こういう発作のときは放っておいても平気だよ」とドンと構えていらしたりと、経験豊富な方が多いんです。それはある意味「キャリア」なんですね。子供が小さい時から随分泣いてきた人たちですから、人の痛みがわかる「寄り添いの専門家」とも言える。「ヘルパーの資格を取ってくれたら介護の仕事もできますよ」と言ったら、最初は「私でも資格なんて取れるかしら?」なんて言ってますけど、やってみたら、周囲には喜ばれてお金までもらえる。「私、お父さんに内緒でお小遣いたまっちゃうわ」なんて言ってますよ(笑)。
 障害者だけでなく高齢者のご家族もペアで見えることがあります。高齢者さんをデイサービスに預けると1日2000円くらいの自己負担です。一方、仕事をすれば1時間800円くらいもらえますから7時間働くと5600円の収入が得られます。ちょっとでも介護の経験のある方がヘルパーの資格を取って、プロとして仕事をするようになると、他のスタッフのやり方なんかも見て、「こういうときにはこんな言い方をすればいいんだ」ということもわかってきて、自宅で1対1で向き合っていたときと、接し方が変わってきます。

助け合う地域のつながりが世の中を変える

 託児ルームでは、緊急時とか一時的に困っているときのために、0歳児から小学生までのお子さんをお預かりします。上の子供が近くの病院に入院するので下の子を預かってほしいとか、静岡に結婚式に来たからとか、今日はどうしても残業をしなければならないので学童が終わる6時過ぎから1時間預かってほしい――そんなふうに利用されています。母子家庭になってしまい「子供がいるのでなかなか働けない」というお母さんが、助けを求めてこられるケースもあります。
 若いお母さんが、子育てが思うようにいかなくてイライラして、つい子供につらくあたる。あたるだけならいいけど暴力ふるってしまう――なんていうことがありますよね。確かにムカっとくることだってあると思うんです。そういうとき、ほんの1~2時間、子供を預けて美容院に行くとか、買い物に行くとかできれば、戻って来る頃には「〇〇ちゃん、ごめんね。ママ、ちょっとキレイになったでしょ。ありがとうね」と、来たときとは全然違ういい笑顔で子供を抱っこするんです。疲れていたんだなって思うんですよ。たった1~2時間、息抜きできて、子供にあたらなくて済むのなら、家族という枠にこだわらず、皆で支え合えばいいと思うんです。
 私は昔、静岡駅に近い紺屋町に住んでいました。子供が4人、おじいちゃんとおばあちゃんもいて、ご飯が足りないと、母はよく向かいの家からご飯もらってきたり、お醤油を借りに行ったり、昔はそういう隣近所での助け合いがあった。
 そういうことが難しくなった今の世の中では、近所どうしや家族の機能も外注化する時代なのだと思います。外注化して家族以外が家の中に入ることで、親子関係は殺伐という見方もあるでしょうが、一方で他人が入ることで、双方の悩みも聞いてあげたり、風通しがよくなるという可能性もあります。活き生きネットワークを中心に「準家族」のような助け合えるつながりが地域に生まれれば、もっと住みやすい世の中になると思うんです。

大家族のような和やかな時間が流れる喜楽庭

 活き生きネットワークの施設に「喜楽庭」があります。ここは、高齢者のデイサービス、障害をかかえる方たちの通所施設、託児ルーム「エンジェルハウス」という3つの機能をもつ複合デイサービス施設で、1階の広い部屋では、ごく日常的に高齢者と子供と障害者が一緒に過ごしています。
 こういう光景が当たり前になったのは、喜楽庭の前身で2001年にオープンした「デイサービスあんどう」の時代からです。高齢者や障害者をお預かりしていたのですが、2階が託児所になっていて、子供たちが1階に下りていくと、高齢者は本当にニコニコ喜ばれて、抱っこしたり、あやしたりします。そうなると高齢者は単に施設の「利用者」じゃなく、高齢者が子供のおじいちゃんやおばあちゃんの役目をするわけです。昔の大家族ではよく見られた光景ですよね。 障害者はときどき大声を出すこともあって、高齢者は当初、彼らに面喰っていました。それがやがて、「別にそういう人がいてもいい」「一緒にいるのが当たり前」となってきて、そのうち障害者が作ったクッキーを「おいしいね、これ」なんて話しかけるようになって。
 でも1日中ずっと一緒にいるわけではないんです。午後になると子供たちはお昼寝、障害者さんたちは散歩、高齢者はビデオ観賞とか陶芸教室というふうにバラバラの時間もあります。高齢者、障害者、子供たちが一緒に過ごしている光景はとても和やかです。彼らにとっても、もう1つの家庭で過ごしているような時間なのではないでしょうか。

ありがとうの言葉から輝きを取り戻す若者たち

 高齢者や障害者、その家族、離婚して子供を抱えたお母さん……。とにかく、うちにはいろんな事情をかかえた人が来ます。いじめにあって学校に行けなくなったとか、高校を中退したとか、ずっとひきこもっていたという若者、家族に脳梗塞のお母さんがいるとか、生活苦の人など、いわゆる「ワケあり」な人が多いですね。基本的に「ノー」とは言わないのがうちの方針です。できる限りすべての人を活かしたい。
 ここにはいろんな仕事がありますから、それぞれにぴったりなスタイルを選ぶことができます。居宅支援や訪問介護向きの人、施設や病院向きの人、この子は訓練的なところがいい、作業的な仕事がいいなど、1人ひとりの役割や居場所を探すわけです。雇用形態もさまざまで、ボランティアから入る人もいれば、時間の上限を決めて時給で働く人、ケアマネジャーや看護師という資格をもって月給制の人など多様です。みんな本当に一生懸命やりますね。ここに来ると、皆さん人のためになろうと、勤勉に働くようになっていきます。
 大きい施設では流れ作業でやらざるをえないことも、うちは規模が小さいので、1人ひとり対応します。喜楽庭の定員は、一般の高齢者が15人、認知症型が10人、障害者の成人が10人、障害者の児童が10人、託児ルームは10人。それぞれの言ったことをちゃんと聞いてあげられる人数と距離感なんです。10人以下という規模が、昔の大家族のような形態の限度ですよね。
 訪問介護でも1対1で、ゆっくりお話を聞きながら作業をしていきます。洗濯や掃除の仕方、ご飯の作り方、メニューや味付けなど、少しずつ相手の好みに合わせていきます。それまで寂しい思いをしていたところに、話し相手はできる、世話はしてくれる、しかも介護保険制度が活用できて料金も安い。お年寄りにしてみたら最高です。自ずと「ありがとう」という言葉も出ますよね。
 たとえば、高校を中退して引きこもっていたような若者がうちに来ると、最初は漢字もあまり書けなかったりするわけですが、子供たちの面倒を見ていると「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ばれて頼りにされる。一方でおじいちゃんやおばあちゃんからは「あんた肩叩き上手だね。スゴイね」なんてほめられて、「ありがとう」と感謝されるわけです。そうすると、「ここが自分の居場所」と思うようになり、「もう一度勉強したい」「この人たちの役に立つよう資格も取りたい」という気持ちになってきます。「高校の夜間に行ってみない?」と背中を押されて再び学校に通い始め、地域にも慣れ、社会性も出てくると、そういう子たちはますます輝き出します。
 自分が辛い思いを経験した子たちというのは、優しいし連帯感もあります。ここでは年長者も温かく見守っていますから、自分の居場所ができて心が安定するのでしょうね。自分をありがたがってくれる人がいる、自分を見ててくれる人がいるということで、学びたい、もっと上を目指したいという気持ちになるのだと思います。

母子家庭で困った経験が助け合いの原点

 私たちの活動は、儲けよりも「うちにしかできない仕事」「うちが断ったら他には頼めない仕事」というのが多いです。介護保険でカバーされる事業では9割を国が負担してくれますが、託児ルームをはじめ、助け合い活動ではそういう補助金がなく、収入ベースで言えば大変なところもあります。しかし、利用者のことを考えればあまり高い料金設定はできません。困っている人や、緊急の依頼が多いので、儲からなくてもやる部分は多いです。
 ただボランティアではなく、あくまで仕事としてお金はいただきます。ボランティアにもいい面はありますが、お金が介在するからいいこともあるんですね。お金が介在するから、スタッフの教育もできますし、サービスの質も担保しなければいけない。ボランティアの良さもありますが、無料だと利用者がだんだん慣れ合いのようになって「やってもらって当たり前」みたいになってしまいます。
 私は28歳のとき、夫を突然死で亡くし、2歳10カ月と生後11カ月の女の子2人を抱えて、ある日を境に母子家庭になってしまった。社宅は出なきゃならない、就職先も見つけないといけない、子供たちの保育園も探さなきゃいけない。夫はまだ31歳でしたから、生命保険もほとんど入っていませんでした。勤め先が見つかってからも、子供が熱を出せば会社を休まないといけない。「自分は元気なのに社会的責任が全うできない」と、緊急時にお願いできるベビーシッターを探していました。
 夫と死別して引っ越した共同住宅に、同じ境遇の母子家庭が住んでいて仲良くなりました。それが、活き生きネットワークの望月洋子専務理事です。彼女と意気投合し、お互いに助け合うことで、寂しい思いもせず生きてこられたのだと思いますね。準家族の原点は、そこから生まれました。
 1983年、私たち2人で「静岡働く母の会」を立ち上げました。会員登録制で、病児保育をはじめ、困りごとがあったとき助け合う会です。その後、もっとビジネスとして成り立つ家事代行をということで、86年に「静岡ウーマン」を設立しました。「家庭の困りごとを何でもサポートします」という原点は「働く母の会」と同じですが、実際にはお掃除や内装クリーニングの仕事が中心でした。「あそこは仕事が丁寧だよ」という口コミでリピーターも多く、かなり繁盛しましたね。
 NPO法人「活き生きネットワーク」が誕生したのは99年です。「静岡県初のNPO」ということでも随分話題になりました。

1人でも多くの人が「活き活きと生きる」ために

 最後に、なぜ「活き生きネットワーク」なのか、というお話をしましょう。
 私の恩師に、「ハシ先生」こと橋本祐子さんという方がいます。国際赤十字で最高の栄誉である「アンリー・デュナン賞」を世界で初めて受賞した女性です。ハシ先生にお会いしたのは、私が「青少年赤十字」のメンバーとしてボランティア活動をしていた高校1年のときです。先生は当時、日本赤十字社の青少年課長を務めていらっしゃいました。世界を駆け回って活動されている姿とともに、話しかけてみると優しくて、1人ひとりを思いやる器の大きさに感銘を受けました。ハシ先生とはその後、20代のときに再会し、先生のお宅で開かれていた勉強会に何度か参加させていただきました。
 夫が亡くなって間もない頃、夜中に思わずハシ先生に電話してしまったことがあるんです。泣きながらお電話した私に、ハシ先生は「こんな時に電話してくれて、師である喜びを感じます」と言われ、「あなたは今、生きていても死んでいるのと同じです。どうか活き活きと生きてください」と励ましてくださいました。翌日、先生から「活き活きと生きる」と書かれたハガキが届きました。
「活き生きネットワーク」の命名は、このとき、ハシ先生の言葉がもとになっています。
 ハシ先生におハガキをいただいた後、鏡の前に立ってニコニコつくり笑いをして、「いつも笑顔でいよう」と心に誓いました。そしたら、私を見て上の娘が「お母さん元気になったの?」と言って、外に遊びに行くようになったんです。ハッとしましたね。私がニコニコしていると、娘も元気になっていくのがわかりました。会社でも「杉本さん、この頃、元気になってよかったですね」と言われて、皆が心配してくれていたことに気付いて感動しました。私が元気になると、皆も喜んでくれる。一生懸命ニコニコ元気に振る舞うようにしていったら、本当に元気になってきて、前向きに行動できるようになりました。
 私はこれまで、望月専務や活き生きネットワークの支援者に支えられてきました。今も仲間であるスタッフや準家族である会員さんなど、たくさんの人たちに囲まれています。私は本当に幸せ者だと思うんです。
 1人でも多くの人に活き活きと生きてほしい、そのためのネットワークを構築したい――そういう気持ちで毎日活動しています。


※小澤悠香(「活き生きネットワーク」リフォーム部)

取材日:2010.11



静岡県静岡市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1983助け合い活動の原点である「静岡働く母の会」を発足
1997「有限会社静岡ウーマンホームネットワーク」設立
1999特定非営利活動法人「活き生きネットワーク」として認証を得る
2000介護保険制度が始まり、居宅支援および訪問介護事業を開始
2001通所介護事業所「デイサービスあんどう」オープン
2002託児ルーム「エンジェルハウス」オープン
2003障害者支援費制度が始まり、居宅介護、知的障害者・児童デイサービスを開始
複合デイサービス「喜楽庭」をオープン
2005病児保育の厚労省委託「緊急サポートネットワーク事業」開始
2006障害者自立支援法が始まり、自立訓練、生活訓練、児童デイサービス、居宅介護、移動介護を開始
2007「再チャレンジ支援功労者賞」(内閣総理大臣賞)受賞

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