いつのまにか紙の魅力にとりつかれてしまった
祖父の代からのふすま・障子紙の卸問屋に生まれました。当時忙しかった両親のかたわらで、紙をおもちゃにして遊んでいましたので、紙は当たり前に身近にあるものでした。気がつけば、東京で紙のメーカーに就職し、そこで、夫となる折り紙作家の山口真と出会いました。そしていまも、長引く景気の低迷にもかかわらず、紙と離れられない毎日を過ごしています。
ふすま・障子紙しか知らなかった私は、紙のメーカーに勤めて、さまざまな和紙に出合うとともに、その使い手となる多種紙工芸の作家のかたがたの存在も知っていきました。そのころ、折り紙・和紙人形・押し絵・ちぎり絵・水引・厚紙工芸などが全盛期でした。折り紙は古い・野暮ったいという気がして縁がなかったのですが、折り紙作家と結婚したことで、そのイメージはすぐに大きく変わりました。主人の作品はシンプルでかわいいと人気で、『レタスクラブ』や『家庭画報』などにも掲載されました。そんな作品も、紙の選び方によっては魅力がなくなり、その逆なら、それはすてきなものに変わってしまうさまを経験し、さらに紙の魅力にとりつかれてしまったのです。
ふすま紙も折り紙も、また、多様な和紙類も、私のなかでは同じ和紙。使い手に魅力が伝わるような選び方、扱い方を紹介していきたいなと感じるようになっていきました。特に、ふすま・障子紙をはじめ、和紙そのものが生活から遠のいているいまだからこそ、身近で使いたくなるようなおしゃれ感ある実用の和紙小物を、銀座や京都の和有名店でもみられない、増武商店オリジナルのすてきな和紙小物類を、店におきたいのです。その企画にいま夢中です。
私のこだわりの品が店を飾る
12年前に父が突然亡くなり、そのまま引き継いで商いを続けていたときは、朝の5時起きですよ。20キロもあるふすまの袋をいくつも担いで、がんばりました。
ところが、住宅事情の変化で需要が激減しました。卸問屋としては厳しい状況になっていくなかで、思い切って7年前に店をリニューアルしました。封建的な生家は「やめなさい」と反対でしたが、夫の「やってみたら」の後押しがとても力になりました。現在は、個人のかたにもふすま・障子紙の販売も続けながら、和紙全般・和紙小物類を取り扱う店に変わっています。
けれども、増武商店はわがままな店です。私が納得したものでないと仕入れません。紙1枚、小物1つに熱い思いをそそいでいます。すべて、山口都がすすめる和紙・和紙小物たちばかりです。
小物類は、オリジナル物が半分を占めるようになってきました。徹底的にかわいくてすてきなもの。それは、和紙という素材の制約の多いなかで、最大限に実用に役立つものをと考えて製作しているものです。自分が持っていたくなるか、自分が使ってみたくなるか、いつも自分と厳しい格闘をしています。そんな商品を、店には珍しいおしゃれな若い男性のお客様が手にされて、「かわいい! かっこいい!」といってくださったときには、もう天にも昇りそうな気持ちになりましたね。いつも、お客様の声に支えられている私です。
ずっとずっと紙と一緒!
私は商人です。商人でなければならないのですが、企画・作り手・教室開催と多方面から和紙と向き合ってしまっていて、もうとめることができない私がいます。私の頭のなかの引き出しには、やりたいことがいっぱい詰まっていますが、そうそう開けていられないのです。だって、いまは商人の顔を前に出して、店を切り盛りしないといけない状況なのですから。数字をみると逃げ出したくなる商売ですが、和紙とのつながりを切ることはできません。なにも自慢できることのない私ですが、確信をもって言いたいこと、言えること、それは、和紙を思う気持ちとすてきに活用させる技術、これだけはだれにも負けません。というより、負けたくありません!
和紙の研究家や学者や芸術家も知らない、和紙工芸の本にも載っていない、長い間和紙を手にしてきた私だけが知っている和紙の身近な魅力を、店から盛りだくさんにお伝えしたいのです。
かわいくて、おしゃれで、役に立つ、そんな私の独自の和紙観をこれからもたくさんの人に伝えることができるように、店内で和紙教室を開いています。和紙を通しての出合いを楽しんでもらいたいのです。
これからも、紙とともにずっとずっと過ごしていきます。
取材日:2010.10