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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

大学副学長、金融トップの妻と八面六臂の活躍で
女子学生のロールモデルに。

大村知子(おおむら・ともこ)

大村知子(おおむら・ともこ)



静岡大学名誉教授
学術博士



自身の経験を語り後輩たちの活躍を支えたい

 私が静岡大学で女性初の副学長にと要請されたとき、興直孝学長は私に、「静大のお母ちゃんになって」とおっしゃいました。男女共同参画という言葉さえ学内で聞くこともほとんどなく、何の取り組みも行われていない学内の状況を打開し、女性たちの指針となるような存在になってほしいと。そこで、男女共同参画・学生生活担当副学長として任に当たることになりました。そして、定年退職までの2年間、周囲の協力と支援を得て男女共同参画憲章の制定、男女共同参画推進室の設置などに取り組み、学内におけるワーク・ライフ・バランスの基礎づくりをめざしたのです。
 私は、大学院家政学研究科修了直後に結婚、三島市に住む夫とその家族と生活しながら、日本大学三島高校や短期大学部で非常勤講師を務めていました。その後、短大の助教授を経て静岡大学に赴任することになったのは、当時、静大教育学部の学部長だった勝井晃先生のお言葉によるところが大きかったように思います。「研究者や教育者としての顔だけでなく、家庭生活や地域との関わりをもちながら働いている、そのさまを女子学生に見せてほしい」。そうおっしゃっていただいたんです。
 それまで私は、自分の家庭生活のことについてはなるべく職場ではふれないようにしていました。子どもが病気のときも平静を装い、幼稚園児をかかえているときに海外出張を命じられ、内心ではどうしようと思っているときにも、顔には一切出さず「はい」と。子どもがいるから、家庭があるから「できません」とは絶対言わないようにと気を張っていました。それが、「家でこんなことがあってこんなふうに思った」「こんなふうに対処した」という話をしてもらいたいと言っていただいたことで、すごく気持ちが楽になったんです。また、生活者としての自分に価値を見出してもらえるのであれば、そこに新たな私の役目もあるのかなと思いました。それまでもとても恵まれた環境で仕事をさせていただいていましたが、それで「じゃあ、静大にいってみよう」と決心したのです。
 私にはこれまで、研究、教育、社会参加と家庭生活を両立し、双方の面で憧れるようなロールモデルが身近にはいませんでした。ですから、私が経験してきた多様な出来事から知ったこと、わかったこと、失敗したこと、工夫したことなどを語ることで、後輩や教え子の活躍を支えられたら。彼らのステップアップに寄与できたら。そう願っているんです。

自身の経験をもとに女性研究者の勤務環境を改善

 かつて私が困ったことをひとつでも改善したいという思い。そして、三島市男女共同参画プラン策定とその推進の座長としての経験。それが、静岡大学で男女共同参画推進に取り組むにあたっての私の出発点でした。理系の女性研究者を増やすという国策によった事業「女性研究者と家族が輝くオンデマンド支援」もその1つです。
 女性研究者がワーク・ライフ・バランスを保ちながら働き、家族とともに輝くために、必要なときに必要な支援を受けることができるのが「オンデマンド支援」の特徴です。出産、育児、介護などにより、研究活動の支援を必要とする研究者に対する「研究支援員」の配置や、学会出張時の託児費用の支援。看護・介護休暇の新設や短時間勤務の導入、育児・介護休業の取得促進など。私は、家族がいることや自宅と大学が距離的に離れていて通勤時間が長かったうえに要介護の高齢者がいたことから、どうしても仕事をもち帰り夜中に自宅で残業をすることが多かったです。育児や介護に携わる人は夜中まで研究室にこもって仕事をするわけにはいきませんから、在宅勤務や短時間就労を想定したサポートも考えました。
 私が副学長に就任して間もなく、全学の教職員と大学院生を対象にしたアンケート調査も行い、そこから上がった生の声も反映しています。男女共同参画担当になったことで、私のところには本当に様々な要望や多くの意見も寄せられるようになり、それらも取り入れる努力をしました。なかでも多かったのが、学内保育所設置を希望する声です。実現するには課題も山積していましたが、運営する保育事業者との交渉や経費の問題など1つずつクリアし、今年(平成23年)4月に正式に発足しました。推進室立ち上げから4年越しでの実現です。このように、まずは種をまき、後を受け継いだ人たちの手によって花開いたものもたくさんありますね。ゼロからスタートした男女共同参画推進ですが、学内に着実に浸透していっていると思います。
 何か新しいことを始める際には、とにかく声を上げ続けることが大切ですね。たとえば昨年新設された浜松地区の女子寮の建設を提案したときは、浜松キャンパスには女子学生が少ないから必要ないのではという声もありました。しかし、「遅くまで実験があるから近くに寮があれば親も安心するのではないか」「静岡にあって浜松にないのは不公平ではないか」と言い続けるわけです。次第に共感者も増え、関係者と候補現場に足を運び、ここになら建設できそうだと具体的なプランを検討したり。そうするとだんだん女子寮をつくろうという雰囲気ができてくるんですね。要望することがすべて実現するわけではないけれど、言いださなければいつまでも実現しないんです。そのことは副学長でも附属幼稚園長としても、管理運営をしていて実感しました。「出来ない理由を考える」より、「出来ること探しを」が私のモットーです。

将来家庭に入ることも見据え、研究分野を選択

 私の専門分野は被服学です。高校生のとき、米国留学から帰ったばかりの英語の先生に家政学を志望しているなら「被服は文化や芸術、化学などいろんなことを総合的に学ぶ学問だからなかなかおもしろいよ」と言われ、ああ、そうだなと思ったのです。1年生のとき、当時はキャンパス開放など皆無だったにもかかわらず、憧れていたお茶の水女子大学にトコトコと出掛けていき、教務課で「卒業生はどんな職業に就いているのですか」なんて生意気に聞いたりもしました。「まずは合格することを考えなさい」と言われましたけれど(笑)。私の父と姉が教員、母も私が2歳まで教員でしたから、私も将来は先生になるのかなと漠然と考えていたのかもしれません。
 大学に入学してからは外国映画をよく観るようになったのですが、そのときに気になったのが、女優さんたちが着ていた洋服。身体にぴったり沿っているのに手を上げても動作がスムーズで着崩れもしていなくて、「どうして?」と思ったんですね。後に恩師となる柳澤澄子先生の研究室を訪ねて質問してみると、外国のパターンの本を貸してくださって。専門用語ばかりの英語に悪戦苦闘しつつも夢中で読んだのを覚えています。
 柳澤研究室に出入りするようになり、私は被服構成学にのめりこんでいきました。被服構成学とは、人間の身体に合った衣服設計をめざす学問ですが、人類学や解剖学の見地から人間の身体を解明していく体型学についても学びます。医学博士の柳澤先生の研究は本当に奥が深く、おもしろくてやめられないという内容でしたね。先生の研究室は日本工業規格(JIS衣料サイズ)制定の中心で活気に満ちていましたし、当時の最先端の研究ができることも魅力でした。
 また、被服構成学の研究は、実験室にいなければ仕事がすすまない化学などの分野とは違い、研究の場を選ばないという利点がありました。その頃は、卒業後は結婚し家庭に入ることを基本に考えていましたから、実験室での仕事もありつつ、自分の家でも研究ができる分野を選んだほうが、長く研究を続けられるという直感的な思いもあったのです。

生活に密着した研究をコツコツと続け成果を得る

 お茶の水女子大学には、私が入学した年に我が国最初の家政学の大学院が設置されました。大学院に進学したのは、研究者になりたいと思ったからではなく、純粋に研究が楽しくてもっと勉強したいと思ったから。そこでは、学部と大学院との与えられた期間を活かし、中学生の体型変化を3年間個人追跡し、衣服設計の基礎研究をしました。1人の人間の成長過程をずっと追う研究報告はそれまで日本ではほとんど無かったですし、中学生は思春期で身体が変化する時期ですからおもしろかったですね。大学院を修了し、結婚した後も何人かの追跡を続け、高校卒業までの6年間分のデータを得ました。
 私はこれまで、家庭生活の一方、研究成果として100を超える論文をまとめました。その中に、震災時の衣生活の実態に関する研究があります。研究の発端となったのは、1995年に起きた阪神淡路大震災の際に、研究仲間が被災したこと。研究者に元気を出してもらうには研究することがいちばんということで、一緒に被災者の調査を始めたんです。震災に関わる研究で住居や栄養に関するものはたくさんありますが、衣生活についてはいまだに私たちのものしかありません。そこから得たデータをもとにいろんな提言をしたり、国際学会での発表もしたりと、この研究は広く認められる結果となりました。
 3年間、被災地神戸に通って感じたのは、「バリアフリーの衣服」の大切さ。震災後、おしゃれな神戸の人たちがみんな、スニーカーにパンツというスタイルで生活していたのは印象的でしたね。震災という状況に置かれたときには衣服にも「バリア」が生じることを実感しました。バリアのない、本当に着やすい衣服とはどんなものなのか。高齢者にとってはどうか、障害がある人や幼児にとってはどうか。この研究では、個人に合わせた衣服設計についてあらためて考えることになりました。
 このように、実験室にこもらず、生活に密着した研究をコツコツと続けることが私の独特の研究スタイルです。仕事の加速の仕方は1人ひとり違っていいはず。私は、莫大な研究費用をかけなくても暮らしの知恵を活かしながら、研究一筋の生活でなく社会と多様に関わり、様々な年齢の人と関わりながらも、「もっとよい暮らし方があるはず」「別の視点で考えるとどうかしら?」と、いつもアンテナを高くしてきたことで、いつの間にか成果を上げることができました。そんな研究者人生もあるのです。

信用金庫創業家の嫁として家事や介護を担う


 夫とは、院生時代にはすでに婚約していました。ですから、夫は私が修士論文を書いたり、研究をしているところもすべて見ていましたが、それらのことに対して最初から理解してくれていたんです。おかげで、私は結婚して家庭に入ってからも、母校に週1回通いながら、職業としてではなく研究を続けることができました。
 とはいえ、結婚から7年間は主婦業が基本、週2回非常勤講師として家庭科を教え、趣味で研究室通い、という生活を送りました。私が嫁いだ大村家は、三嶋大社と平安時代から何百年もの間深く関わってきた家であり、夫の祖父は三島信用金庫創業者の大村善平です。夫自身も第4代理事長を務めました。そういう家ですから、嫁である私に対する教育も大変厳しいものでした。
 当時は夫と両親に弟、妹もいる大家族で、祖父母も健在でしたから、よく働きましたよ。この頃の経験が、後に家事の手順や手早さを身につける上でとても役立ったと思います。たとえば、お正月や大社のお祭りのときなどには50人以上の分の料理番とお酒番を基本的に私1人でするわけです。おせち料理の準備では、年末から桶いっぱいのゴボウを切ったり、ひき肉10㎏で肉団子を6時間余かけて揚げたり。初めての正月は、立って座って、ご挨拶してというふうに動き回っていたら、3日間で晴れ着の裏が擦り切れんばかりになりました。まさに目がまわる忙しさで、それはもう、がんばり甲斐がありましたね。
 さらに、私は義母の介護を42歳から18年間続けました。脳出血の後遺症による認知症だったのですが、最後の2年間以外は自宅介護でした。「過ぎてみれば短い」なんてことはないですね。本当に長い時間でした。義母をかかえてお風呂に入れたり、夜に徘徊することがたびたびあった3年間は、いつでも義母を追いかけられるように、寝る時もいつでも外に出られる服装でいました。
 介護して10年目には、今度は私が脳出血で倒れました。幸い麻痺や言語障害も起こらず、3週間余で復帰できましたが。それ以降は外野から介護の「完璧」を要求されなくなったということはあります。家族をはじめ、「私も頑張るから、若奥さんは大学を続けて」と30年近く通い続けて支えてくれたお手伝いさんなど、さまざまな人の力を借りることができ、なんとかやりきることができましたね。

仕事と両立するための子育ての工夫とは

 私が家庭生活と仕事を両立できたのも、家族の支えがあったからにほかなりません。教授会などでどうしても家に帰れないときには、夫が早く帰ってきて食事を出してくれましたし、夫が転勤になったときには2年間の単身赴任を受け入れてくれました。夫とは本当に、さまざまな面でこれまでずっと支え合ってきたんです。
 子どもたちは、小さい頃から習い事をいろいろしていました。ただ、親が付きっきりで面倒をみるわけにはいきませんから、様々な工夫もしましたね。幼稚園内にあるピアノ教室は放課後児童クラブがわりにもなりましたし、娘が3歳でクラシックバレエを習い始めたときは1人で着替えができるように特訓しました。1人でバスに乗ってお稽古に行けるよう、最初は子どもだけバスに乗せ、それを後ろから車で追いかけて降りたのを確認するというシミュレーションを繰り返したり。着いたらすぐ電話、帰りのバスに乗る前にも必ず電話をすることや、バス停へのお迎えには必ず私が行くことなど、安全のためにいろんなルールをつくりました。そしてそのなかで、子どもたち自身でできるところを増やしていったんです。
 私共は、小学生の時は、先ず基本的生活スキルを身につけさせたいと考えていました。息子はボーイスカウトで上下関係を学んだり、生きる力がついたと思っています。体を鍛えるために、息子は水泳と剣道、娘は水泳とバレエを続けました。私の帰りが遅いと「おばあちゃんの具合が悪いみたいだからお粥にしたよ」と言って、ご飯を土鍋に移して蒸らしおいてくれたりもしましたね。高校受験の際に言ったことは、「義務教育は中学までなのだから、なぜ高校にいきたいのか説明し、お父さんに受験をお願いしなさい」。自分の生活に責任をもち、自身でコントロールする力がなければ、家を出て下宿生活の遠くの大学にも行かせないというのが我が家の方針だと言い渡しておきました。一方で、私は「勉強しなさい」とは言いませんでした。その代わりに、受験勉強をしている子どもたちと並んで博士論文を書いたんです。
 私はお金の使い方もちょっとユニークで、娘の7歳の七五三の着物は貸衣裳で済ませたんです。周囲からは「大村家の子にちゃんと誂えた晴れ着を着せないなんて」と言われましたけれど。娘はかぞえの6歳からお茶を習っていましたので、着物は何着もつくりましたから、一度着るだけのものにお金をかけるよりもっとほかに使い道があるだろうと。それで、長男が6年生の冬に子ども二人を連れて、実家からのお祝いを貯金してあったのを使ってヨーロッパ旅行に行ったんです。後日、成長した子どもたちから本当に楽しく、ためになる経験だったと感謝されました。
 また、長男が5年生になって友達が塾通いを始めた時、いかない分の「つもり積立貯金」を始めたのですが、高校生になったときに2人してカタログを取り出し「貯金でこのグランドピアノを買いたい」と言ってきて。それで求めに応じました。結果的に高校進学も大学進学も順調でしたから、子どもたちにとってもより有意義なお金の使い方ができたと思いますね。

高齢期の女性の好ましい社会参画を模索

 私が今申し上げたような自分の家庭での話を学生にすると、みんなすごく興味津々!!でした。さらに「昨日、おばあちゃんが朝ご飯を食べさせてくれなかったなんて言ったんだけれど、私はあえてその食器を洗わないでおいて、違う器で3食分用意してきたのよ。そうすると後で他の人が器を見ればちゃんと食べたってわかるでしょ」なんてことを話すわけです。私は「Teacher」ならぬ「Tea茶」だって言うんですけれど(笑)。研究室でのお茶飲み話がずっと後になって役に立ったなんてことも言われるんです。勝井学部長のお話をきっかけに、いつの間にかそれが私自身のカラーになったような気がします。私の教え子たちは、結婚出産後も仕事や研究を続けている人が多いのですが、うれしいことですね。そこには「Tea茶」も少しは役立っているのかもしれません。
 私は家政専攻の学生たちに、「オール5でなければ家庭科の先生にはなれないのよ。だから、家庭科に誇りをもって教えなさい」といつも言ってきました。家政学は生きる力の基礎であり、家庭科は全教科を網羅しなければ教えられませんから。研究者の私は発電所であり、教師になるあなたたちは変電所だとも言いました。発電所から電源を得て、それをいい電気にして次の生徒に伝えなさい。そのために良質な変電所になって下さい。そう語ってきました。とてもうれしいことに、卒論指導をした卒業生が、小・中・高の教員から博士号を取得した大学教員まで、「よりよく生きる」ための教育に大勢たずさわっていて、頼もしいです。
 最近の私は、いろんなところでお話をさせていただいたり、ボランティア活動をしたりと相変わらず忙しい毎日です。地域の方たちともどんどんコミュニケーションをとっていきたいですね。大学を退職してすぐの4月に町内の老人クラブに入ったのですが、そこでもお茶飲み話に近い形で卓話をさせていただいたりします。高齢者の靴の選び方や履き方なんて話をすると、その方たちの靴の選び方が変わったり、公民館に長い靴べらがないのはよい履き方をするのには不便だと言ったらすぐに用意していただいたりと、効果があるんですよ。楽しみながら地域貢献をしていきたいという気持ちもありますね。
 私自身については、職業と家庭を両立し、家族それぞれが輝いているロールモデルが身近には見つからなかったように、仕事を終え第2の生き方を選ぶ上でも憧れるようなロールモデルが身近に見つからないので、現在模索しているところです。一生懸命仕事をしてきて、それを終えたらまたあんな人生があるんだっていう希望が1つでも見えると楽しいじゃないですか。ですから、「大村さんみたいにああいうようにやりたいな」と後に続く人が思えるような過ごし方を探していきたいと思っています。そして、このことが私にとってもこれからの生きがいになると思っています。

取材日:2011.11



東京都生まれ 三島市在住


【 略 歴 】

1992静岡県立沼津東高等学校 卒業
1966お茶の水女子大学家政学被服学科 卒業
1968お茶の水女子大学大学院家政学研究科(被服学専攻)修了
日本大学三島高等学校 非常勤講師(~1972)
1970日本大学短期大学部家政科 非常勤講師 (~1975)
1975日本大学短期大学部家政科 専任講師(~1980)
1980日本大学短期大学部家政科 助教授(~1984)
1984静岡大学教育学部(被服学)助教授 (~1995)
1995静岡大学教育学部(被服学)教授(~2009)
2005~08静岡大学教育学部附属幼稚園園長 併任
2007~09静岡大学 副学長(男女共同参画・学生担当)
2008~09静岡大学男女共同参画推進室長 兼任
2009静岡大学名誉教授
静岡県男女共同参画センターあざれあ運営評議員
静岡市男女共同参画審議会 会長 など

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