男性と平等に仕事ができる世界で生きてみたい
弁護士を目指すようになったのは高校2年生のときです。女性の幸せは、一流大学を卒業し、財閥系企業に入った男性と結婚することという時代でした。私の母校は東京都内でも有数の進学校でしたが、進学指導があったとき、奥様になるためにふさわしい女子大や短大へ行くということを勧められたんです。もちろん専業主婦というのも立派な仕事なのですが、高校生の私の目には、個性や能力が発揮できる仕事には映らなくて、夫の出世で女性の幸せが決まるという点も、どうしても受け入れられませんでした。
当時、女性が一生の仕事をもつ場合、辛うじて許されたのは専門職です。両親も学校の先生も、公務員、教員、医者、薬剤師だったらいいだろうと言いました。それで、私なりに専門職といわれる職業を1つひとつ検証していきました。ところが、よくよく調べてみると、専門職であっても男女平等からはほど遠いわけです。仕事上は、男女の関係のない専門性が求められても、職場という観点で見た場合、リーダー役は全員男性なんですね。
ある日、テレビで「判決」というドラマを見ていましたら、女性弁護士が出てきたんです。女性なのに自分の判断で仕事をしていて、上司である男性弁護士たちも、彼女の能力や仕事の仕方を受け入れている。弁護士が実際にどんな仕事をするのか、全くわかりませんでしたが、私も男性と平等に仕事ができる世界で生きてみたい――そう思ったのが、弁護士を目指すきっかけです。
当時、女性が一生の仕事をもつ場合、辛うじて許されたのは専門職です。両親も学校の先生も、公務員、教員、医者、薬剤師だったらいいだろうと言いました。それで、私なりに専門職といわれる職業を1つひとつ検証していきました。ところが、よくよく調べてみると、専門職であっても男女平等からはほど遠いわけです。仕事上は、男女の関係のない専門性が求められても、職場という観点で見た場合、リーダー役は全員男性なんですね。
ある日、テレビで「判決」というドラマを見ていましたら、女性弁護士が出てきたんです。女性なのに自分の判断で仕事をしていて、上司である男性弁護士たちも、彼女の能力や仕事の仕方を受け入れている。弁護士が実際にどんな仕事をするのか、全くわかりませんでしたが、私も男性と平等に仕事ができる世界で生きてみたい――そう思ったのが、弁護士を目指すきっかけです。
静岡県で2人目の女性弁護士としてスタート
私の母校である明治大学は、1929年(昭和4年)、女性だけの法律専門学校を設立し、日本初の女性弁護士を世に送り出した歴史があります。昔は、法学部の卒業者だけに司法試験の受験資格が与えられたのですが、女性は法学部に入ることさえ許されず、唯一、明治大学だけが、女性に門戸を開いていました。私が入学した頃は、明治大学を卒業し女性弁護士になられた先輩たちが、各地で講演したり、本を出版されたり、女性のための法律相談を開設したり、男女平等や女性の地位向上に向けた活動を始めた時代です。しかし、法学部1,000人中、女性は30人足らずでした。
司法試験に合格したのは、明治大学大学院を修了した1972年です。大学院に進学したのは、司法試験に合格できず、挫折のまま終わるのが嫌だったので、税理士の資格を取ろうと思ったんです。「合格しなかったら結婚」と周囲から言われていたこともあります。現在は、法科大学院ができ30%の合格率ですが、当時は、受験者4, 000人のうち500人程度の合格率ですから、今より難しかったと思います。
1975年、熱海に橋本裕子法律事務所を開設しました。熱海を拠点としたのは、夫の実家が熱海だったということもありますが、当時は、熱海に若手の弁護士が全くいなかったというのが大きな理由です。東京オリンピックがあった60年代からバブル経済が崩壊する90年代初頭まで、熱海は日本でいちばん高級旅館が集まっている地域と言われていました。「お金持ちのまち」という印象が強かったのでしょうね。ちょっとした事件でも、東京などの弁護士に依頼すると、高額な弁護費用を請求されたという話を聞かされました。「地元にいる弁護士がいたら」という声があることも聞きました。
それで司法研修所卒業後、他の法律事務所に勤務することなく、文字通り白紙の状態から、自分で事務所を始めることにしたんです。私は静岡県で2人目の女性弁護士でした。
司法試験に合格したのは、明治大学大学院を修了した1972年です。大学院に進学したのは、司法試験に合格できず、挫折のまま終わるのが嫌だったので、税理士の資格を取ろうと思ったんです。「合格しなかったら結婚」と周囲から言われていたこともあります。現在は、法科大学院ができ30%の合格率ですが、当時は、受験者4, 000人のうち500人程度の合格率ですから、今より難しかったと思います。
1975年、熱海に橋本裕子法律事務所を開設しました。熱海を拠点としたのは、夫の実家が熱海だったということもありますが、当時は、熱海に若手の弁護士が全くいなかったというのが大きな理由です。東京オリンピックがあった60年代からバブル経済が崩壊する90年代初頭まで、熱海は日本でいちばん高級旅館が集まっている地域と言われていました。「お金持ちのまち」という印象が強かったのでしょうね。ちょっとした事件でも、東京などの弁護士に依頼すると、高額な弁護費用を請求されたという話を聞かされました。「地元にいる弁護士がいたら」という声があることも聞きました。
それで司法研修所卒業後、他の法律事務所に勤務することなく、文字通り白紙の状態から、自分で事務所を始めることにしたんです。私は静岡県で2人目の女性弁護士でした。
「女性による女性のための弁護士」という自覚
私にとって、忘れがたい仕事の1つに、弁護士になって間もない頃、弁護人を務めた殺人事件があります。熱海に住む女性が舅を殺害したという事件だったのですが、当時は刑法200条に「尊属殺人罪」がありました。子が親を殺すなど直系尊属を殺害した場合、血の繋がりに関係なく、死刑か無期懲役のみでした。
1973年に最高裁で違憲判決が出されて以来、適用されなくなり、95年には刑法改定で削除されましたが、当時はまだ反対意見もありました。なぜ殺さなければならなかったか、被告の女性に事情を聞き、弁護したわけですが、判決で執行猶予がつきました。殺人に執行猶予がつくのは、異例中の異例です。家庭内でのお嫁さんの弱い立場や忍従の日々を、裁判官に理解してもらえたんだと思います。この事件を機に、「女性による女性のための弁護士」として、この地域で頑張っていこうという自覚をもつようになりました。
旅館が多い熱海には、場所柄、夫の暴力から逃れて全国各地からやってくる女性が、たくさんいらしたんです。旅館は住み込みで働けますから、シェルターのような役目を果たしていたんでしょう。景気が良かった時代には、旅館のお給料以外にチップがもらえましたから、5年、10年と働き続けると、経済的にも安定してきます。そうやって経済的にも精神的にも自立できて、生きる自信が出てきた段階で、皆さん離婚訴訟に踏み切るわけです。そういう女性たちの離婚訴訟に関わる機会もありました。
1973年に最高裁で違憲判決が出されて以来、適用されなくなり、95年には刑法改定で削除されましたが、当時はまだ反対意見もありました。なぜ殺さなければならなかったか、被告の女性に事情を聞き、弁護したわけですが、判決で執行猶予がつきました。殺人に執行猶予がつくのは、異例中の異例です。家庭内でのお嫁さんの弱い立場や忍従の日々を、裁判官に理解してもらえたんだと思います。この事件を機に、「女性による女性のための弁護士」として、この地域で頑張っていこうという自覚をもつようになりました。
旅館が多い熱海には、場所柄、夫の暴力から逃れて全国各地からやってくる女性が、たくさんいらしたんです。旅館は住み込みで働けますから、シェルターのような役目を果たしていたんでしょう。景気が良かった時代には、旅館のお給料以外にチップがもらえましたから、5年、10年と働き続けると、経済的にも安定してきます。そうやって経済的にも精神的にも自立できて、生きる自信が出てきた段階で、皆さん離婚訴訟に踏み切るわけです。そういう女性たちの離婚訴訟に関わる機会もありました。
県内の女性弁護士が「あざれあ」の法律相談に
日本社会では1980年代の中頃になっても、女性社員はお茶くみしかさせてもらえなかったり、大卒女子は採用しない大企業が数多くあったり、「30歳定年説」や、いわゆる「肩叩き」による結婚退職の強要などの問題がありました。少しずつ社会が変わりはじめた背景には、85年に女子差別撤廃条約が批准され、翌年、男女雇用機会均等法が施行されたこととともに、女性の判事や弁護士の活躍があると思います。女性が生きにくい現状に対し、1つひとつ違憲判決を勝ち取って、社会の方向性と価値観を変えていったんです。
当時は、マスコミも、女性の判事や弁護士の奮闘ぶりを大きく取り上げまして、社会的な変化を後押ししました。女性の法律家が、それまで以上に社会的な脚光を浴びるようになったのはこの頃です。
国の動きを受けて、静岡県でも政策を打ち出そうと、86年に「静岡県婦人問題推進会議」を設立し、私も法律の専門家として、委員を務めさせていただきました。91年からは、静岡県が主催する「婦人問題通信講座」で講師を務めました。静岡県立大学の美尾浩子先生が中心となってスタートした講座で、女性の社会的地位や権利について、法律的側面から話をしました。
「あざれあ」が93年にオープンしたときには、女性が女性のために手助けできる法律相談窓口を作ろうと提案しまして、当時、県内に12人いた女性弁護士に声を掛けました。皆さん協力してくださることになり、12人が交代で、法律相談に応じました。離婚や相続など、家庭の問題に関わる相談に対し、私たちの法的な知識と実務経験を活かすことができたと思います。今思い返しても、県内の女性弁護士全員が参加というのは快挙でした。
99年からは三島市の男女共同参画プラン策定会議の委員を務めさせていただいています。男女共同参画社会づくりに対する取り組みに対し、2001年に内閣官房長官表彰を、2008年には静岡県から表彰されました。
当時は、マスコミも、女性の判事や弁護士の奮闘ぶりを大きく取り上げまして、社会的な変化を後押ししました。女性の法律家が、それまで以上に社会的な脚光を浴びるようになったのはこの頃です。
国の動きを受けて、静岡県でも政策を打ち出そうと、86年に「静岡県婦人問題推進会議」を設立し、私も法律の専門家として、委員を務めさせていただきました。91年からは、静岡県が主催する「婦人問題通信講座」で講師を務めました。静岡県立大学の美尾浩子先生が中心となってスタートした講座で、女性の社会的地位や権利について、法律的側面から話をしました。
「あざれあ」が93年にオープンしたときには、女性が女性のために手助けできる法律相談窓口を作ろうと提案しまして、当時、県内に12人いた女性弁護士に声を掛けました。皆さん協力してくださることになり、12人が交代で、法律相談に応じました。離婚や相続など、家庭の問題に関わる相談に対し、私たちの法的な知識と実務経験を活かすことができたと思います。今思い返しても、県内の女性弁護士全員が参加というのは快挙でした。
99年からは三島市の男女共同参画プラン策定会議の委員を務めさせていただいています。男女共同参画社会づくりに対する取り組みに対し、2001年に内閣官房長官表彰を、2008年には静岡県から表彰されました。
70歳を過ぎたら法律家として社会貢献したい
弁護士が扱う案件は、いわば世相の映す鏡です。離婚の中身も、時代とともに変わってきました。かつては気の毒な立場の女性が「自分の身を守るため、子供の将来を守るために離婚したい」というケースが多かったのですが、最近は「他に好きな男性がいるから離婚したい」「自分自身のために生きていきたいから離婚したい」「夫とは話題も価値観も合わないから離婚したい」というケースが増えています。離婚の年齢も若年化していて、離婚後は比較的すぐに再婚なさる。相手は年下だったり、初婚だったり。その辺りは結婚や離婚に対し、女性だけでなく男性の意識も変化しているためでしょう。
リーマンショック以降、日本経済が落ち込んでいることは、私たちが扱う案件にも表れています。4~5年前からは、倒産やサラ金などの事件が増えていますし、リストラや勤務時間の短縮で、夫の在宅時間の増加に伴う家庭内でのトラブルもあります。
なかでも非常に気の毒なのは、専業主婦の離婚です。かつては離婚しても、パートなどの勤め先がありましたが、食べていける仕事を見つけること自体、ますます困難になっています。「年金分割制度」は、そういう背景もあって生まれたのだと思いますが、制度ができたところで、もはや「バラ色離婚」という時代ではありません。家を売るにしても、返済が残っていれば、オーバーローンになりますし。
そういう厳しい現実を前に、離婚を踏みとどまって、家庭内別居に甘んじている方は多いと思います。専業主婦だった方が私に離婚訴訟の依頼に来るのは、何とか正社員になって、ちゃんと食べて行けるようになったときです。女性の自立や男女平等に対する社会的意識は確かに高まりました。しかし一方で忘れてはならないのは、自立のためには経済力が必要という大前提ではないでしょうか。
私は今年で63歳になります。裁判と言うのは「法廷闘争」というくらいですから、やはり闘いなんです。社会がこれだけ変化しているなかで、自分の進退を考えたとき、やはり70歳をひとつの区切りにしようと思っています。健康と気力を保って行くためにも、裁判は70歳まで。その後は、経済的な理由で弁護士に依頼できない方のための法律相談や、県や自治体のお手伝いをしていきたいと思っています。
70歳まであと7年あります。その間に、若い弁護士に仕事を引き継いでいくとともに、私に託された仕事の整理をしなければいけないと思っています。
リーマンショック以降、日本経済が落ち込んでいることは、私たちが扱う案件にも表れています。4~5年前からは、倒産やサラ金などの事件が増えていますし、リストラや勤務時間の短縮で、夫の在宅時間の増加に伴う家庭内でのトラブルもあります。
なかでも非常に気の毒なのは、専業主婦の離婚です。かつては離婚しても、パートなどの勤め先がありましたが、食べていける仕事を見つけること自体、ますます困難になっています。「年金分割制度」は、そういう背景もあって生まれたのだと思いますが、制度ができたところで、もはや「バラ色離婚」という時代ではありません。家を売るにしても、返済が残っていれば、オーバーローンになりますし。
そういう厳しい現実を前に、離婚を踏みとどまって、家庭内別居に甘んじている方は多いと思います。専業主婦だった方が私に離婚訴訟の依頼に来るのは、何とか正社員になって、ちゃんと食べて行けるようになったときです。女性の自立や男女平等に対する社会的意識は確かに高まりました。しかし一方で忘れてはならないのは、自立のためには経済力が必要という大前提ではないでしょうか。
私は今年で63歳になります。裁判と言うのは「法廷闘争」というくらいですから、やはり闘いなんです。社会がこれだけ変化しているなかで、自分の進退を考えたとき、やはり70歳をひとつの区切りにしようと思っています。健康と気力を保って行くためにも、裁判は70歳まで。その後は、経済的な理由で弁護士に依頼できない方のための法律相談や、県や自治体のお手伝いをしていきたいと思っています。
70歳まであと7年あります。その間に、若い弁護士に仕事を引き継いでいくとともに、私に託された仕事の整理をしなければいけないと思っています。
取材日:2011.2