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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

会員みんなが「野田のそば打ち名人」。
できることを元気で続けて、地域が元気になる。

鎌倉亀代(かまくら・かめよ)

鎌倉亀代(かまくら・かめよ)



野田山びこ会 会長



婦人会から「山びこ会」へ

「野田山びこ会」のメンバーは今、16人。女性ばかりです。母体は婦人会なんですが、その前はもともと男の人たちが中心の、農業振興会のような会が地域おこしの活動を始めたのが最初でした。当時はまだ拠点みたいなものはなくて、朝市をやったり、あちこちでイベントがあれば出向いて行ったりしていました。その中で、じゃあ婦人会でも何か出そう、ということになって、漬物やそばを出し始めた、それが山びこ会の始まりです。
 そうこうしているうちに、おおもとの会は解散になって、でも婦人会は活動を続けていくことになって。正式に「野田山びこ会」という名前になったのは81年でした。
 この野田地区は、昔は100軒ぐらいあった大きな地域で、その中5つの部落から、女性たちが有志で出てきていました。私は、義父が最初の活動に関わっていて、それを手伝う形で参加したのがきっかけでしたね。まだ結婚してこの地区に来て4年ぐらいの頃でした。最初は本当に「手伝い」って感じ。当初、30人ぐらいメンバーがいたんですが、やっぱりみんな、仕事に行き始めたりすると、こちらの活動ばかりにかかりきりにはなれないんですね。なので、若い人が出たり入ったりして、結局13~14人で落ち着いています。
 今平均年齢が70代。私も今年61歳になるんですけれど、私が一番若いんです。

名物はこの地に伝わる「そば打ち」


 今の「佐久間町民俗文化伝承館」が開館したのは90年でした。建物は江戸時代の農家を移築したもの。この北条峠あたりの民俗的なものを展示していて、その中のレストラン「蕎麦どころ」で、私たちが打ったそばを出しています。米と大豆を炒って作る伝統食「とじくり」やこんにゃくもすべて手作り。昔からあるものを、そのままお出しするのがいいんですよ。せっかくここまで来て下さるんですから、地元のものでおもてなししよう、という気持ちがありますね。
 ここのそば打ちは変わっていましてね。普通、そば粉を練って伸ばして切るでしょう。でもここのそばは、丸めた生地の上から、麺棒で、トントントン、トントントンって打つんです。正真正銘の「そば打ち」、この方がコシが出るんです。
 こういうそば打ちは、ずっとこの地域で女たちが普通に、家庭で作っていたやり方です。歴史は分かりませんが、この辺りでは本当に、当たり前に作られてきたそばなんです。今、メンバー16人全員、そばを打ちます。私は、嫁ぎ先ではお姑さんが打っていたので、ここに入ってから始めたんですが、もっと上手な人も大勢いますよ。
 私の出身地は、佐久間町から少し上にある水窪町です。昔から、私のように嫁に来たり、反対に向こうに嫁に行ったり、そういう行き来が、佐久間と水窪にはあったようです。水窪でもとじくりを作るし、ここ独特のそば打ちも、水窪でもみんな家庭でやっていたこと。同じ、信州側の文化圏なのね。だから、みんな上手にできるんですよ。

自家製粉、地元の味にこだわる。

 そばは、この地域で作っているものだけ使っています。今は自分たちの製粉所もできて、地元の農家の方が休耕田で育ててくださったそばを買って、自分たちで製粉します。農家の方も高齢化していて、畑仕事も大変なんだけど、楽しみで作ってくださっていますね。ここができたばかりの頃は、よそからそば粉を買っていましたけれど、やっぱり地場産品を使いたいという思いが強くて。それで6年ぐらいしてレストランの横に加工所を作りました。そばを本格的に作り始めたのはそれからですね。
 それまでのそばは、なかなかいい味が出せなくて、しかも切れやすかったんです。卵を混ぜてみたり、練り方を変えたり、いろいろやってみましたけれど、それでもだめで、練りを覚えたくてそば打ち名人のところにそば打ちを習いにも行きました。丁寧に親切に教えてくれましたよ。今のそばができたのは、その人のおかげ。水だけを使って、切れないそばが打てるようになりました。
 もちろん、その方は普通のそば打ちをなさいますけれど、私たちは私たちのそばの打ち方でね。熱湯で練る人も多いけれど、それだとそばの香りが飛んじゃう。だから私たちは水で練って、注文がある分だけ打って、打ち立てをお出しします。作り置きはしないです。レストランの方で様子を見ながら、足りないから打って、という感じ。打ち立てでないと全然違うんですよ、香りも味も。
 新そばのシーズンやゴールデンウイークぐらいには、東京などからもわざわざそばを食べにみえてくださる。だから、おいしいものを食べていただきたいんです。ここの土地の、昔からのおいしいものをね。

集まって働いて。発散の場にも

 私たちのお給料は本当に最低限の分だけですが、こんなに30年以上も続いてきたのは、会員がみんな「利益は会で使う」と考える人だったからだと思うんですよ。
 ここでそばを打ったりして利益が出るでしょう。そうやって出た利益は、そば粉とか道具とか、いろんなものに投資しなきゃならない。みんな、そういうことに理解があるし、手を貸すことを惜しまないのね。自分の畑で採れた野菜を会のために持って来たり、山菜も自分たちで採りに行ったものしか使わない。買うのは調味料などの最低限のもの。それをまったく普通にやってるんです。会のため…あるいは、会のためとも思っていないかもしれませんね。犠牲的精神なんて全然ない。そうやってこの会は成り立ってるんです。儲けをそれぞれが懐に入れようとする人がいたりすると、会としては存続できないですから。
 ただ、逆にまったくの無償ボランティアだと続かないですよ。だからみんな、年金にプラス少し、ぐらいの気持ちでやっています。ここでの活動が、ストレス解消にもなりますからね。みんなでここへきて、好きなことをしゃべる。いやなことがあっても介護疲れがあっても、ここで同じような境遇の人たちにしゃべる。それで「大変だねえ。私も大変だよ」って言い合う。たまにはお客さんもその輪の中に入って、一緒にお菓子を食べたりしながらね。だから新しい人が入ってきたときには、私は必ず言うんです。「ここで見たこと、聞いたことは、ここだけでおさめて、外では言わないように」って。
 だって、私たちがこうして寄り合って、一緒にそばを打っていても、そういうことは、何をどうすることもできないんですよね。介護や家族の問題にしても、聞くだけでどうすることもできない。ただ、分かってあげられることが大事なんです。聞いて、大変だねえって言葉をかけて、それだけでいいかなと思うんです。具体的に力にはなれないけれど、聞くことはできる。その瞬間は、大変なことも忘れられるでしょう?

70代活躍中。元気に「今」を維持する

 今、そば打ちの人、つゆを作る人、だんごを作る人、こんにゃくを作る人、そばを挽く人、といった感じで役割分担していて、それぞれ得意分野もありますが、本当は全員が全部できます。そういうふうにしないと、誰かが具合悪くなったとき、そこへ入れないですからね。みんな本当に長くやってきた人たちで、どんなに忙しいときでも、暗黙の了解で流れができているから、体にしみついちゃっているのね、仕事が。今こうだから、次に何をして…っていうのが、言わなくても分かるんです。もう70歳過ぎている人も多いけれど、若い人よりもうんと働きますよ。
 基本的にここに新しく入ってくる人は、自分の仕事を終えて、子育ても一段落した人たちだから、60歳超えていたりする人が多いんです。そうすると、新しく仕事を覚えるのもひと仕事。新しく入ってくる人もいるけれど、私たちはもうペースができてしまっているから、最初はみんなこのペースになじむのに大変みたいです。忙しいときはこちらも大変になってしまうから、お客さんの少ない時期に、ゆっくり覚えてくださいって言うんです。
 今一番の課題はやっぱり高齢化でしょうか。今までずっとやってきたことはできるんですけれど、新しいことを始めるっていうのは難しいですね、みんな年が年だから。メニューも、途中でいくつか変えたり、新しいお菓子を作ってみたりもしたんです。でも、新しいものを作り出すっていうのはけっこうエネルギーが必要なんですね。若い方なら、新しいものもどんどん取り入れてやっていくんでしょうけれど、私たちは、今の状態を維持していくことで手いっぱい。80歳近い人に新しいことを覚えなさいっていうのは、やっぱり難しいんですよ。
 だから私たちは、今あることを精いっぱいやっていく。みんなでワイワイやって、ここに来るのが楽しみだって思えるこの場所で、ずっと健康で元気に働き続ける。よそみたいに繁盛させたり、爆発的に広げようっていう気もないですから、それでいいんじゃないかなって思います。

できることを、みんなで。

 私ももう30年ぐらいここで活動をしていますが、気負ってやっているつもりは全然ないし、義父の手伝いをするうちになんとなくそういう流れになって、車の運転もできるから、毎回出ていたという感じでしょうか。この会に入りたい、とかそういうことも考えず、特に抵抗もなく、気が付けば生活の一部になっていた、という感じ。
 ただ、こうして会の活動などでもPTAでも、民生委員もやりましたけれど、外に出ることに関しては、わが家は義母が理解があった人でした。イベントなどだと、朝4時半に出勤、なんて時もありますけれど、出かけるときはいつも子供の面倒は全部見てくれたんですね。それで私も安心して出られました。思えば私は幸せだったですね。
 会長になって7年目ぐらい。でも会長はたぶん私でなくても、みんなができると思いますよ。立ち上げの頃からいる会員がほとんどで、内部でゴタゴタもめることもないし、みんなこの会のことも、野田のこともよく分かっている。使命感なんてことも、考えないですよ。本当に当たり前に、普通に、自分たちができることをやっていて、できることを、一生懸命続けている。こういうグループだから、やっていけるんです。

取材日:2011.2



静岡県浜松市生まれ 浜松市在住


【 略 歴 】

     
1950 水窪町山住(上村)生まれ
1981 「野田山びこ会」には発足当初より在籍。
子育てが一段落したころから本格的に活動を始める
1995 「農村ときめき女性」に認定される
2003 「野田山びこ会」会長に就任

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