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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

ヤマトタケルゆかりの地に茶店を開いて20年。
子供の頃から伝え聞く郷土の歴史を語り継ぐ。

成澤政江(なるさわ・まさえ)

成澤政江(なるさわ・まさえ)



文化茶屋「御坂堂」 店主



家康を教えてくれた祖父が最初の歴史の先生

 私が「徳川家康」を知ったのは3歳のとき。その頃は家康の愛称である「権現さん」と呼んでいました。私の祖父は、乳飲み子の弟をおんぶして、私の手を引き、近所のお屋敷へ毎日散歩に連れて行ってくれました。明治元年生まれの私の祖父は、茅葺き屋根職人で、当時80歳を過ぎていました。
 お屋敷というのは広大なお宅で、正面の長屋門は、普通の人がくぐることは許されていません。皆、脇にある勝手口みたいなところから出入りしていましたが、祖父は堂々と門をくぐり、庭の松の木まで、私たちを連れていきました。私や弟のちっちゃな手をとると、「この木を触ってごらん」と、ゴツゴツした幹に掌をこすりつけるんですね。あるときなど、子供が精一杯両腕を伸ばしても、到底届かない松の幹に抱きついてごらんと言われ、「じいちゃんと一緒におまじないをしよう」――そう言いました。
 そのお屋敷は、駿河の豪農として名高い良知惣右衛門のお宅で、家康が亡くなった場所でもあります。家康はたびたび惣右衛門宅を訪問し、負傷して介抱してもらったこともあったそうです。祖父の散歩は近所でも有名で、「今日も権現さんの木触りが来た」と言われていました。 「権現さんはこのお屋敷で亡くなられたんだよ」と教えてくれたのは祖父です。「権現さんはこの松の木に馬をつないだんだよ」という祖父の言葉どおり、松の幹には手綱の跡が見てとれました。
 祖父のおかげで徳川家康は、歴史上の人物というより、私にとってとても身近な存在となりました。

お転婆で有名だった「屋根屋の嬢ちゃん」

 私が現在、郷土の文化や歴史の語り部として活動をしているのは、そういうおじいさんの存在とともに、母の影響があります。母は毎晩、私たちを寝かしつけながら「昔々あるところに、1人の女の子がいました」という物語を聞かせてくれました。
 母は3年前に亡くなりましたが、実は先祖に武士をもつ家の生まれで、4歳のときに私の祖母にあたる母方の実家に引き取られました。生前、私に出生の秘密を打ち明けることはありませんでしたが、私が嫁ぐとき、父がこっそり教えてくれたんです。毎晩、聞かせてくれた女の子の物語は、母自身が5歳まで過ごしたお屋敷での思い出話だったんですね。
 私は焼津の古い農家に生まれました。おじいさんの代までは茅葺き屋根職人もやっておりましたが、父の代からは農業一筋。コメ、ムギ、ナシ、イチゴ、モモ、トマト、キュウリなど、本当にいろんなものを大量に作っていました。敷地内では牛やニワトリも飼っていましたね。私は5人兄弟の4番目。兄を1人、肺炎で亡くしています。
 母はよく、私と弟を伴って、兄のお墓入りに行きました。そしてある家の前に行くと、わざわざ立ち止まって、手を合わせていました。誰もそんなことはしないので、母の習慣を不思議に思いました。さらにその家からおじいさんが出てくると、今度はその人が立ち去るまで、深々とお辞儀をする。
 母はどちらかというとプライドが高くて、周囲に愛想を振りまくタイプではありませんでした。後からわかったのですが、そのお宅は、用宗城の水軍の武将であるお殿様のお宅でした。今でこそ「母はそういう生い立ちだから」と理解できますが、子供心に「どうしてなんだろう」と眺めていたことは、かえって私の印象を強烈にしたのかもしれません。
 そんなふうに私の子供時代には、祖父や母の思い出や記憶の中に息づいていた江戸時代や武家社会が、ごく身近な物語として存在していて、焼津の豊かな農村風景や往時の駿府の繁栄の名残とともに、一種の原風景として心に刻み込まれたのだと思います。小学校時代は、父が歴史の先生となり、家康や用宗城について教えてくれました。
 でも勉強が好きだったかというと、そうでもなくて(笑)、小学生の頃は、学校が終わると暗くなるまで遊び回っていました。挙句の果てに、よそのお宅で夕ご飯までいただいて帰って来たり……。そうすると「屋根屋の嬢ちゃんが、うちでご飯食べて行った」なんて、すぐに評判になってしまう。

「愚痴は言わない」決意がさまざまな活動に

 結婚したのは、22歳のときです。夫の実家も大きな農家でしたが、私の両親は結婚に猛反対でした。「お姑さんと一緒に暮らすなんて、お前には無理」と言われましたが、お嫁に行くなら、でんと大きいお屋敷や広々とした土地のある旧家が良かった。農業は好きだし、「うちが作っていないものも栽培しているよ」と、母を説得したんです。
 親の反対を押し切っての結婚でしたから、「結婚してからは絶対に親には心配をかけまい」と心に誓いました。意地もありましたね。実家の母は嫁に行くとき、「どうしても嫌なことがあったら戻ってきなさい」と言ってくれましたが、そう言われるとなおさら、泣き顔を見せず、演技であっても楽しく見せようと思いました。
 ですから、お嫁に来て以来、愚痴はこぼしたことは一度もありません。それは夫も含め、誰に対してもですね。
 私が嫁いで3年ぐらいたったとき、ミカンの価格が下がり始めました。それで、うちだけでなく周囲のミカン農家は次々、働き盛りの男性が、勤めに行くようになったんです。農業をやめたわけではありませんから、その分の労働は当然、年寄りや嫁が引き継がざるを得ない。私も一番目の子供を出産したとき、ほとんど産みっぱなしで、お昼にミルクをあげるとき以外は、義母に子守りをお願いしました。朝から日が暮れるまで、義父と一緒に農作業です。ゆとりのある生活を夢見て結婚しましたが、現実は厳しかった。
 ですから、全く苦労がなかったわけでじゃありませんね。40年近く農家の嫁をやっていれば、いろんなことがあるのは、むしろ当然でしょう。でも愚痴は言いません。その代わり、ストレス解消の方法を考えて、実践してきました。郷土の文化や歴史の語り部、地元の小中学校での梅干し教室、御坂堂の設立といった活動です。

子供の頃から何があっても「へこまない」

 いちばん最初に始めたのは、今から30年ぐらい前、野菜や果物の無人販売所です。今でこそ日本全国いたるところで見かける無人販売所ですが、当時、小坂では私が初めてでした。
 家族や親戚は大反対しましたね。成澤家の本家は、徳川家康公ゆかりの久能山東照宮の宮司を務めた一族です。「乞食みたいに小銭もらうなんてみっともない」「そんなに困っているならお金あげようか」とも言われました。近所の人たちも、「成澤さんとこの嫁っ子はあんなところで商い始めたけれど、お客が来るもんかね」と疑心暗鬼だったようです。
 しかし実際には、毎日そこそこの売上げがあしました。1日1,000円売上げがあれば、おいしいお肉が買えたり、子供たちのおやつ代にできたり、結構、家計の助けになります。周囲からいろいろ言われても、プラス部分だけに目を向けようとしました。私、基本的にへこまないんですよね。それは小さい頃から、ずっと変わりません。もちろん自分が間違っているときは謝りますけれど、悪いことをしているわけじゃありませんから、自分の中でいいように捉えようとしました。
 しばらくすると、誰も何も言わなくなりましたね。そればかりか、近所の農家は皆、無人販売所を始めました。
 小坂地区の小中学校で、郷土の歴史についての話をしたり、梅干しや梅ジャムの作り方を教える活動は、もう20年ぐらい続けています。息子たちが中学生だった頃は「お母さん来るなよ」と嫌がられました(笑)。長男が卒業するとき、校庭に植えた梅の木も実をつけるようになって、毎年1,000キロ近い梅を漬けています。
 歴史の話は、自慢じゃありませんけれど、自分でも把握できないくらい豊富なレパートリーがあります。徳川家康、戦国武将、ヤマトタケル、用宗城……。あと、薬草や薬膳の話をすることもあります。薬草の知識は、子供の頃、母から教わったのが最初ですね。公民館やFM局など、いろんなところから話をしてほしいという依頼がありますし、テレビや新聞、雑誌の取材も数えきれないくらい。最近は、大河ドラマの関係で「お江をテーマに」という講演のリクエストが多いです。

郷土の歴史と文化を伝える文化茶屋を開店

「文化茶屋 御坂堂」は1991年にオープンしました。今年で20周年を迎えます。3人の子供がだんだん大きくなって高校生くらいになったとき、こんなたくさん歴史の勉強をしてきたのに、このまま農家でミカンとお茶を作って一生終わっていいのか――と思ったんです。どうせ生きるなら、もうちょっと何かやりたい、やっておかないと損なんじゃないかと思いまして、主人に相談しました。
 単に休憩や買い物のできる茶屋ではなく、いらした方が小坂の歴史や文化について見たり、聞いたりできる場にしたいという構想を話しましたら、すぐに賛成してくれて「協力できることがあれば手伝うよ」と言ってくれました。整地や建物の建築作業は、主人と私が仕事の合間をぬって、1年がかりでやりました。
 小坂には、1200年前の奈良時代につくられた「万葉の道」があります。ヤマトタケルが小坂に立ち寄ったという言い伝えもありますから、小坂の「小」を「御」として、「御坂堂」としました。場所は、満観峰を目指す登山道の入り口、近くにはお不動さんがあります。
 義母には最初、反対されましたね。「小坂には人に伝えられるような歴史はない」と言われました。地元からも初めのうちは「あんなとこにエライもん作っちゃって……」という声がありましたが、私が小中学校で歴史の話をしていることが少しずつ知られるようになって、状況が変わって行ったのだと思います。
 オープン当時の営業は、農作業が休みになる日曜と祝日。20年前は今ほど、中高年の登山やハイキングが盛んではなくて、しばらくの間、お客さんは1日に3人ぐらい、10個作ったお餅が半分しか売れないこともありましたね。歴史の話をしてほしいに呼ばれる先々で、「御坂堂」の宣伝をさせてもらいました。口コミで少しずつ知られるようになったのだと思います。

日々の農作業の疲れをリフレッシュできる

 先ほども申し上げましたが、「御坂堂」のいちばんの目的は、物販ではありません。しかし、基本的に私1人でやっていますので、1日中、語り部でしゃべり続けるわけにもいかないので、手作りのお餅や和菓子、お惣菜、みそ、梅干し、わが家で採れたミカンや果物、野菜などの販売をしています。オープンから数年たった頃、食品加工や飲食業の資格も取得しました。野菜や果物は、近所の農家にも声を掛けて、もってきてもらっています。10年ぐらい前から、ようやく収益が出るようになりました。
 登山やハイキング目的の観光客以外にも、地元のお年寄りが立ち寄ってくれます。なかには1日中、遊んでいる人もいますね。お茶も出るし、お菓子やおでんもありますから、500円ぐらいあれば1日過ごせます。今は祝日は除き、毎週日曜とお不動さんの縁日がある毎月28日にオープンしています。雨でも台風でも開けます。
「御坂堂」では、万葉の道やヤマトタケルについて話すことが多いですね。語り部は普段の農作業と違い、身体は休ませられますが、頭は結構使います。リフレッシュという意味では、いい循環です。

江戸時代の素晴らしい女性たちを本にしたい

 お江もそうですが、私の頭の中には、お市の方、濃姫、千姫など、戦国から江戸時代にかけての女性たちがたくさん「生きて」いるんです。女性たちの生き方は、史実以上の興味があります。なかでも私が好きなのは、徳川秀忠の母君のお愛の方。
 徳川家康は若かりし頃、浜松城に住んでいました。お愛の方は、27歳で側室に上がり、38歳で亡くなっています。その10年間を文字どおり家康に捧げ、秀忠と忠吉を、2人の子を産み、しっかりと育てています。お愛の方の内助の功あって、家康は苦難の時代を乗り越えることができたんですね。
 もう1人、私が素晴らしいと思うのは、家康の母である於大(おだい)の方。いろいろなエピソードがありますが、家康が5歳で織田家に人質になってからも、遠くからずっとわが子の成長を見守り続けていました。「信長に託しておけば、わが子は絶対に安泰」という先見の明で、家康に贈り物をするときには、必ず信長にも同じものを贈ったそうです。母の知恵ですね。非常に賢く、穏やかで、神仏を大事した方だそうです。
 お愛の方も於大の方も、女性として、最高の生き方をしたと思います。それは現代にも通じるものですね。彼女たちの人生が、私には絵巻物のようなイメージで見えてくることがあるんです。それは私の特技でしょうね。
 いつか、江戸時代のすばらしい女性たちの生きざまについて本を書きたい。それが私の次の夢です。

取材日:2011.2



静岡県焼津市生まれ 静岡市在住


【 略 歴 】

1991文化茶屋「御坂堂」を開設
1994静岡県農産漁村ときめき女性 認定
2003静岡市民景観大賞 受賞

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