青年海外協力隊員として保育指導に従事
大学時代に英語を学んでいたのですが、周りの友人に留学する人が多く私自身も海外に興味を持っていました。一方で、将来の役に立つかなと思い当時の保母資格も取得していたんです。卒業後は地元の高松市役所に就職したのですが、新聞で青年海外協力隊の募集広告を見て、海外でボランティアとしてお役に立てるところにとても惹かれてしまって。市役所を1年半で退職し、協力隊員としてマレーシアに派遣されることになりました。
保母資格を持っていたので、現地では保育士養成のための業務にあたりました。配属されたのは入植地と呼ばれる、ジャングルを切り拓いてパーム椰子やゴムの木を植え、現地の若い世代の人たちが移り住んだ村。大都市には幼稚園や保育園のような施設がありましたが、入植地では当時はまだまだ施設は整備されておらず、幼児教育に対しての意識も低いものでした。しかし、現地ではプランテーションという大規模農園の管理のため夫婦共働きをしなければならず、託児所がどうしても必要だったんです。それで、保育士を養成する人が求められていたわけです。
保育士として派遣されたのは、マレーシアでは私を含めた3人が第1期生だったんです。ですから、現地の人たちの反応も「幼児教育って何?」という感じで、指導をする私たちも手探り状態でした。
最初は日本にいるときの感覚で、「何かしなきゃ」と焦りを感じながら一生懸命働いていたんです。でも、現地の人に「今日やって」と言っても「明日」という返事が返ってくる。明日になってもまた「明日」。そのうち、私も「明日でいいや」と思うようになりました。現地の人のペースで、彼らの生活習慣に合わせていかなければ、結局は相手が動いてくれないんです。それでは意味がないですよね。そう気づいてからは私自身がだんだんとそういう状態を受け入れられるようになり、自分なりの指導方法を見出せるようになりました。
活動期間は2年だったのですが、私たちは1期生だったこともあり、任期を延長して保育指導についてのマニュアルを作らないかという話がありました。そこで3人で作り始めたんです。当初は1、2ヵ月で完成させるつもりだったのですが、難しかったですね。3ヵ月たっても終わらず、ベースが出来上がったら今度はマレーシア語に翻訳する作業も待っていて。しかも、完成したら今度はこのマニュアルをどうやって活用するのか研修をしてほしいと言われたんです。
研修では、マレーシア全土の保育士管理をしている女性職員や現地の保育士など40人くらいを集めて行いました。座学の他、子供になりきって工作をしたり体操をしたりもしたのですが、これは楽しかったですね。結局すべて終えたときには8ヵ月が経っていました。大変なこともありましたが、マレーシアでの日々は本当に充実したものでした。当初は、「ボランティアをしなければ」とか、「指導をしなければ」という、今思えば生意気な思いがありましたが、それは大間違いで、結局は私のほうが色々なことを学ばせてもらいました。
家業を手伝う生活に迷いを感じ、子連れで再渡航
帰国後は、日本国際協力センターの研修管理員をしたり、青年海外協力隊訓練所の語学講師として働いたりしました。活動を通じて出会った夫に同行して、西アフリカのモーリタニアに滞在したこともありましたね。そして帰国後は、夫の実家である蒲原に移り住み、家業のサクラエビ漁を手伝うことになったんです。3人の子供にも恵まれ、懸命になって仕事をしました。ところが、7、8年経った頃に、とても苦しくなってしまったんです。
私は若いころに活躍というほどのことをしたわけではないけれど、結婚し、家庭に入って子育てをしていたら、本当に社会から取り残されてしまった感覚に陥りました。漁業の仕事も本当に一生懸命やっていたんですが、すごくむなしくなってしまって。自分が年をとって子供が大きくなった頃に何かしたいと思っても、本当にできるのだろうか。先のことを考えるより、今が大変な時期だとしても子育てしながら自分がやりたいことを同時にやれないだろうか。そう感じていたときに、JICAの調整員募集の広告を見てしまったんです。そして面接を受けに行きました。
その頃、マレーシアで協力隊員として働いていた人の中には、精神的に疲れてしまう方が出始めていました。そこで、ある程度年齢を経ていて、社会経験もある人を調整員として採用することで、現場を落ち着かせたいという意図が先方にあったようです。ですが、私のスタンスは「子供を3人連れて活動したい」というものでしたので、選んでくださった方はずいぶんと革新的だったと思います。現在は子供を連れて調整員になられる方もいらっしゃいますが、当時は既婚者の、しかも子連れの女性が調整員になるのは前代未聞のことだったそうです。
海外での子供たちとの生活で自らも成長
幸い主人も理解してくれましたので、私が38歳、長女小4、長男5歳、次男3歳のときに4人で再びマレーシアに赴きました。最初は楽天的に、子供は人を雇って面倒を見てもらえば働けるだろうと思っていたのですが、さまざまなトラブルもあって思うようにはいきませんでした。結局次男は一人だけ現地の幼稚園に通わざるをえなくなり、帰りも迎えにいけずかわいそうな思いをさせました。
ただ、お弁当だけは毎朝手作りしていました。日本食レストランのお弁当を手配することもできたのですが、ここで手を抜いたら子供たちは私のことをなんてひどい親だと思うだろうなと思ったんです。最近になって娘がそのときのことを思い出したように「お母さん、あのときよくやってたよね。ああいうことって大事だよね」と言ってくれたので、ああ、私の気持ちを分かってくれたんだな、よかったなと思いました。
子供たちにとっては、海外というこれまでと全く異なる環境に置かれることで価値観の違いを学び、より広い視野が身に付いたと思っています。たとえば日本では当たり前に食べることができるけれど、そうではない場所もあるということを身をもって知ることができ、彼らにとっても貴重な体験になったのではないかと思います。
私自身はと言いますと、調整員の仕事を通して現地のボランティアの方々と関わるなかで、彼らが落ち着きを取り戻すことができ、役割を果たせたと思っています。私自身の経験を元に、杓子定規にはいかないこと、それでも焦ることはないということ、じっくりやればいいんだということを伝えた結果、気持ちが安定したようでした。
狭いと感じていた社会から離れ、広い世界を見ることができ、そして十分に働かせてもらったことで「それじゃあもとの場所に帰りましょう」と自然に思うことができましたね。自分のやりたいことができたという満足感を得ることができました。
現在は魚食普及や子供たちへの食育指導に注力
帰国してからは、以前と同じように主人の仕事の手伝いをするようになりました。一緒に漁に出るわけではないのですが少しでも多くのことができればと、翌年には一級小型船舶操縦士免許も取得したんです。今は、主人が船上で作業をしなければならないときに操船することもありますね。一方で、静岡県の水産振興審議会委員や法務省から委嘱された人権擁護委員などの活動にも積極的に関わるようになりました。
現在は魚離れが進んでおり、どうしたら魚を食べてもらえるのかという視点で提案をさせていただいています。その一つが、親子の料理教室の開催です。漁協の女性部のみなさんを巻き込んで企画し、告知資料やレシピ紹介の資料も手作りして始めました。イワシのおやきやサクラエビのチヂミなど、栄養士さんと考えたメニューをお子さんと一緒に作ったのですが、気づいたのは子供たちよりお母さんたちのほうが魚の調理に抵抗がある人が多いということ。魚を調理する習慣がない家で急に「魚を食べて」と言っても難しいということを実感しました。ですが、小さな子は大人の真似をしたい、お手伝いをしたいという意識が強いので、調理にも興味を持ってくれます。親子の料理教室を通じて魚のよさを知ってもらい、「魚が食べたい」と子供から親御さんに働きかけてもらえれば、魚料理に馴染みのない大人も動かすことができるのではと考えています。
人権活動は9年ほど行っています。当初は年に1、2回、人権擁護の日の啓発活動としてたすきをかけてティッシュ配りなどをしていましたが、全然理解されている感じがしませんでしたね。人権擁護とは、誰かがやらせることではなく、自ら立ち上がってすることが本筋なんです。ですから、一人ひとりの意識が高まるよう活動しています。幼稚園で紙芝居や絵本の読み聞かせを行ったり、小学校を回ってひまわりを「人権の花」として咲かせる運動を広めたりと、他の委員さんと連携し、協力しながら今後も人権教室を開いていきたいと思っています。
子供は、日本でも海外でもどこでも同じですね。真剣に向き合い、何か伝えたいということを訴えかけると、相手も興味を持ってくれるんです。たとえ言葉が通じなくても、心と心が通じ合うことができると思います。
食の欧米化や国内自給率の問題など、食を巡る問題はたくさんあります。伝統的な食文化も薄れつつあります。そんな現状のなかで、魚食普及や子供たちへの食育指導、地産地消の推進を図っていくことで、未来の担い手である子供たちとその親御さんたちの生活がより豊かなものになるよう願っています。
取材日:2011.2