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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

人生には最期まで自由と尊厳とQOLを。
高齢者が安心できる「もうひとつの実家」を提供。

安達美由紀(あだち・みゆき)

安達美由紀(あだち・みゆき)



おざいしょ 代表取締役


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託老はうす おざいしょ

接し方を変えると患者が変わることを実感

 私は17歳から約40年間、看護師としていろいろな病院に勤務してきました。最初は、兵庫県の公立豊岡病院。その後、浜松に引っ越してきて浜松鉄道病院、三方原病院の精神科、そして静岡の老人医療で先駆け的な存在である西山病院――。看護師として医療の現場で感じたことは、そのまま「託老はうす おざいしょ」の立ち上げと、私たちが提供してきた介護サービスのあり方につながっています。
 三方原病院に勤務しはじめた1960年代は、社会的にも、精神疾患の患者さんに対する偏見が強くて、病室ひとつとっても、罪人をかこっておくかのような、ひどい環境でした。その点、三方原病院は非常に先進的で、当時の渡辺庸一院長が「精神病の患者さんも1人の人間として対応しなければいけない」という考えをおもちでした。スタッフのなかには、そういう方針に抵抗感のある人もいたようですが、私は、それが当然だと思っていたので、渡辺先生の方針をすんなり受け入れることができました。
 患者さんに対して、こちらが受け止める態度で接すると、それまでモノを投げたり、乱暴な態度だったのが、次第に穏やかになっていくことがわかりました。じっくり話を聞いてあげること、そばに寄り添うことが、どんなに大切なことかを経験しましたね。自分にとって大きな収穫でしたし、現在の「おざいしょ」のケアのあり方も通じています。

県内初の老人病院で目の当たりにした介護の現実

 やがて、渡辺先生が新しい病院を立ち上げられるということで声を掛けてくださり、1981年の開業時から西山病院に勤務しました。静岡県内初の療養型病院です。「1人ひとりの患者さんを丁寧に診ようね、ゆったりやろうね」とスタートしたのですが、フタを開けてみるととんでもない状況で、とにかくあちこちの病院から重度の患者さんがどんどん搬送されてくる。認知症の方もいましたし、長年寝たきりで褥瘡(じょくそう)、つまり床ずれがひどくなった患者さんもいました。褥瘡にウジがわいていて、「どうしてこんなになるまで……」という患者さんがいたのが忘れられません。ショックでしたね。そんなふうに、最初から予想していない事態だったわけです。
 在宅で介護していたご家族が「もう限界」だと、病院に連れてこられるケースも結構ありました。訪問看護を始めるにあたって静岡に研修に行ったとき、あるお年寄り夫婦のお宅でこんなことがありました。寝たきりのご主人を奥さんが介護されていたのですが、褥瘡が袋状態になっていて、中から何か出てくるんです。何と米ヌカだったんですね。「米ヌカを詰めると、悪いものを吸い取ってくれるし、米ヌカの栄養分が吸収できる」と、どこかで聞いたらしいんです。
 研修に同行してくれた看護婦さんは、以前からこのお宅を担当していて、「行くたびに注意しているのに、次に行くと、また米ヌカが入っている」と言うんです。でも、このおばあちゃんにしてみたら、ご主人に一日も早く良くなってほしいという一心で、米ヌカを入れているわけです。寝たきりの家族を放っておいているわけではなく、一生懸命やっているけれど方法が間違っている――在宅介護している家族のためにも、このような一生懸命な気持ちを大切にしながらサポートすることが必要だと感じました。

重症患者に向き合うことで病棟が落ち着いた

 第二西山病院「西山ナーシング」を立ち上げるときには、院長先生と皆で、どういう病院にしたらいいかを考えました。それまでは、重症の患者さんと比較的軽症の患者さんとが混在していたので、「西山ナーシング」は、軽症患者さん専用にして、「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)」を実践しようということになりました。今でこそあちこちでQOLの重要性が言われていますが、当時は「QOLを実践しなさい」と言われても、「QOLって何ですか?」って感じでした。
 QOLのプログラムもありませんでしたから、庭の草むしりを一緒にしたり、おしゃべりしたり、歌を歌ったり……。「私たちは看護婦ですから」という態度で接するのではなく、患者さんと一緒に時間をすごすということから始めました。療育音楽に出会ったのも、その時期です。
「西山ナーシング」は、その後、重症患者さんの治療病棟、リハビリ病棟、そして重度の認知症患者さんの病棟に変わりました。目が離せない認知症の患者さんがたくさん入院され、畳敷きの病室だったのですが、変な音がするなと思ったら畳をかじっていたり、ゴム手袋を食べていたり……。そのたびに大騒ぎになるわけですけれど、そのうちその患者さんは「こういう人だから、皆気をつけて」ということになってしまった。「どういうケアをしていこう」ということでなく、大変な人を排除するような雰囲気が生まれてしまったわけです。
 それはちょっとおかしいんじゃないかと思いながらも、日々の忙しさに追われて、対策を講じるまでには行かなかったのですが、1990年前後に施設基準の法改正があったとき、ヘルパーさんが一挙に増えたんです。「ここを逃したら病院は変わらない」と思いまして、ある重度の認知症の患者さんに職員を1人つけて、「この患者さんと1日生活してね」というローテーションにしてみました。
 歌を歌ってもいい、一緒にボール投げしてもいい、おしゃべりしても何でもいい。とにかく一緒にすごしてほしいという要望に対し、「他のスタッフが忙しく動き回っているのに、自分だけ……」と言う職員も、なかにはいました。
 看護師には大きく分けて2通りあると思いますね。「治療向き」の人と「ケア向き」の人。私自身は「ケア向き」なのだと思います。治療中心の現場では、目の前にあることに振り回されて、落ち着いて患者さんを診ることが難しいですし、医療は日進月歩で進歩して行きますから、ついていくのも大変です。でも、三方日病院の精神科に勤めたとき、「これなら私にもできる」と思ったんです。西山病院は療養型病院ですから、ケア中心の看護が必要だ、思っていたわけです。
 そのうち、「今日は〇〇して1日すごしたわ」という報告が、だんだん増えていきました。重度の患者さんが「大変」なのは、私たち職員の目が、患者さんに向いていなかったからなんですよね。皆が無意識に視界から排除していたのだと思います。それが、ちゃんと向き合うようにしたことで、患者さんも落ち着いてきて、最初はマンツーマンでしたが、次第に2人、3人と増やしていって、最終的に4人の重度の患者さんを1人の職員で診れるようになりました。そういう仕組みを作ったことで、病棟全体が以前より落ち着いていくようになりました。

大病院でのケアのあり方に限界を感じて……

 西山ナーシングは当時、3病棟あって、患者さんが200人ぐらいなのに対して、看護師が20数名、ヘルパーさんが60数名いました。もちろん厚生労働省の基準は十分満たしているわけですが、個別な対応もできる行き届いたケアは難しいですね。夜間ともなれば、1病棟に看護師が1人、ヘルパーさんが2人です。
 私たちは患者さんに対し、「待っててね」と言うことが、当たり前みたいになっていました。「待っててね」と言った後、別の仕事をやっているうちに遅くなったり、忘れてしまったり……。そういうことが日常化しつつあって、「『ちょっと待って』はやめよう」という標語を作って、ナースステーションに貼ってみたこともあります。
 足がむくんで「だるい」と訴えている患者さんがいて、マッサージしてあげたら気持ちいいだろうなと、手のあいていそうなヘルパーさんを見つけて「マッサージしてあげて」と頼みますよね。そうすると「すみません、私まだ『仕事』があるので」とかえってくる。マッサージが「仕事」でないみたいなことではいけないと、口を酸っぱくして繰り返していたのですが、意識改革はなかなか難しかった。
 ヘルパーさんの仕事というのは、「おむつ交換の時間」「配膳の時間」ごとに流れ作業になっています。要するに、その流れから外れたくない、流れ作業以外のことをして「さぼっている」と見られたくない――ということなんです。
 でも、お年寄りには「待って」がきかないこともあるわけです。例えば、「トイレに行きたい」と言っているとき、「ごめんね、ちょっと待っててね」と言われてしまうと、「次は誰に言おう」と思案しているうちに漏らしてしまったり。「待って」に間に合わないということが何度かあるうちに、「あの人はおむつだね」となっていくわけです。そういうことが、私としてはとても辛かった。
 やはり大きな病院の場合、私たち職員に対し、ケアしなきゃいけない患者さんの数が圧倒的に多すぎるんです。「このままじゃ、自分が思うようなケアはできない」。そう思って、定年よりも2年早く、病院を退職することにしました。

実家のような高齢者の居場所「おざいしょ」

 ケアに対する考え方は、三好春樹さんの影響も大きいです。三好さんは特別養護老人ホームに勤務した後、理学療法士の資格をとられて「生活とリハビリ研究所」を設立された、介護分野の第一人者ですね。講演会で三好さんのお話を聞いているうちに、「やっぱり個別にきちっと向き合わなきゃいけない」と思うようになりました。
 あるとき、横浜と町田で託老所を始めた方を訪ね、見学に行ったら、ものすごく時間がゆったり流れていて、「どうしてだろう」と思ったんです。やはり利用者の人数が少ないんですよね。病院のように大勢の患者さんがいると、気持ちはあっても、なかなか手が回らない。であれば早く退職して、そういう場を作ろうというのが、私の原点です。
当時は、市と県に届け出をするだけ――届けといっても「こういう施設を始めます」と口頭で言うだけだったんです。97年4月に、「託老はうす おざいしょ」を始めました。「おざいしょ」というのは、静岡弁で「実家」の意味です。スタッフは、介護福祉士の資格をもっているという友達、病院時代の同僚、それと近所の方でお料理の上手な人、私の4人。全部女性です。場所は現在の建物のすぐ近くにある、空き店舗を貸してもらいました。
 特に宣伝はしなかったのですが、地元の新聞が記事で紹介してくれたことで、2人の利用者でスタートしました。利用者よりスタッフのほうが多い時期が2~3年続いて、3年目ぐらいから徐々に増え始めましたね。
 宿泊が始まったのは、1年たった頃です。本当に狭いところにベッドを置いて、職員は畳の上に寝て、自主事業として、デイサービスと泊りを一緒にやっていたんですよね。そのうち泊りの人数が増えてきて、宿泊専用の「おざいしょ庵」を2001年に作りました。「おざいしょ」の隣にある、もとは工場だったところを改装したんです。

地域の協力があって続けてくることができた

 2000年に介護保険制度が施行されて、「託老はうす おざいしょ」でも2001年10月から介護保険に参入することなりました。利用者が増えるのにともなって、お断りしなきゃいけないケースが増えてきて、「何とかしなきゃ」と思って空き家を探していたところに、「おざいしょ」の近所の方がご自分の土地に「建ててあげようか」と言って下さった。本当に有難かったですね。地域の方には、立ち上げのときから、いろんな意味で本当に助けられています。2004年、「共生はうす おざいしょ・みなみ」ができました。
 当初は、高齢者のデイサービスに障害者のデイサービスと託児所を併設して、いろんな人が支え合って「共生」する場を作ろうと思ったんです。例えば、車いすの人が段差で困っていたら気軽に手を貸してあげられる、そういう子供たちに育ってほしいという願いをこめて「共生はうす」としたんです。ところが、託児も障害者のデイサービスも思ったように増えなくて、2006年に認知症のデイサービスに切り替えました。
 「託老はうす おざいしょ」は昨年、地主さんが新しい建物を建てるということで閉所を余儀なくされまして、現在、デイサービスは「おざいしょ・みなみ」に集約しています。「おざいしょ庵」も、初代の建物は今年の春に取り壊されることが決まっています。昨年から近くの民家を借りて、新しい「おざいしょ庵」がすでにスタートしています。

お年寄りの尊厳を守り個性と自由を尊重する

 「託老はうす おざいしょ」では、「何時から何時までは何をする」というプログラムは特に作っていません。お昼ごはんとおやつの時間が決まっているくらいですね。あとは何をしていても良くて、ベッドで横になって居眠りしている人もいれば、テレビ見ている人もいる。基本的に自由なんですが、QOLに心掛け、遊びながらリハビリする「遊びリテーション」や療育音楽などを取り入れています。
 誰だって日によって気分も違いますし、何をしたいかも違います。食事の好みにしても、味をみながら介助すると、「ちょっとしょっぱすぎるかな」ということに気付いたり。食事介助は本来、そうあるべきだと思います。なかには食べ終わるまでに1~2時間かかる人もいます。他の人は皆一緒にテーブルで食事しますが、そういう方は、スタッフがその方のペースに合わせて最後まで介助します。
 お風呂も、うちの場合、普通のお風呂に入っていただいています。他の施設ですと、ベッドが上下して、寝たままで入る機械浴が多いのですが、三好さんもおっしゃっていますけれど、座ることさえできれば普通のお風呂に入れるんです。要は、浴槽の高さと椅子の高さをそろえるんですね。そうすれば、抱き上げて持ち上げる必要もなく、ご自身で足から浴槽に入ることができます。「ここのお風呂はいいなあ。ちゃんと入った気がする」と、よく言われます。
 たとえ今は身体の自由がきかない方であっても、私たちがお預かりしているのは、立派に子育てをなさってきたお父さんやお母さん、社会人として素晴らしい功績を残されてきた方たちなわけです。そういうことを考えると、それぞれの自由や個性を尊重しないような対応の仕方や、ロボットみたいに食事介助するなどということは、とんでもないことだと思います。

ケアの質を保ちつつ健全に経営していく難しさ

 私たちがお世話をするだけじゃなくて、ご家族はどういうお世話をされているのか、お互いに情報交換することも大切ですね。ご家族と利用者の間に入ったはいいけれど、うまくかみ合わなくて苦労したこともあります。あまり入り込み過ぎてもいけませんが、ご家族と協力し合うことはとても重要です。ケアの質を上げることができますし、職員の自己啓発にもつながります。
「是非、『おざいしょ』での様子を見て行ってください」と、ご家族にはよくお願いしています。介護のプロとしてアドバイスをすることもありますが、あまり無理強いしてしまうと、逆に負担になってしまってしまうので、ご家族の余力にも配慮しながら、お話をさせていただいています。
 行き届いたケアと言っても、必ずしもマンツーマンがいいとは限らなくて、必要な場合はマンツーマンにしています。例えば、気分が落ち着かないようなときには、ゆっくり隣に座って話を聞いてあげるケアをする――そういうことが必要だと思います。通い始めの頃はどうしても落ち着かないので、マンツーマンで一緒に過ごすことが多いですね。スタッフとできるだけ早く顔なじみになって、「ここに来れば誰かがちゃんと話しかけてくれるし、話も聞いてくれる」という安心感ができてくれば、信頼関係が構築できます。そういうなってくれば、家族レベルに到達するのは無理でも、家族の次ぐらいに、気軽に話ができ、安心してすごせる場になってくるのではと思っています。
 ケアの質は、利用者とスタッフの人数の問題もあります。トイレへの誘導ひとつとっても、目が行き届いてさえいれば、しぐさだけでわかりますし、満足していただいているかどうかも、表情を見ていれば以心伝心でわかるわけです。
 しかし利用者の数が増えれば、当然そういうケアはだんだん難しくなります。スタッフは現在、40~60代が中心で、パートの人も入れて22人。交替制で勤務しています。もう少しゆったり、こじんまりした雰囲気がほしいと思っているのですが、入所を希望される方は増えていますし、経営的なことも考えると、現実的にはなかなか難しい部分もあります。
 私の退職金は、「おざいしょ」を立ち上げて最初の数カ月で、全部なくなりました。私自身は長いことずっと無給で、資金繰りに困ると主人にサポートしてもらったりしながら、赤字経営をしのいできたというのが正直なところです。でも「いつになったら採算が合うのか」ということについては、あまり考えていなかっというのも事実で、介護保険ができ、宿泊の利用者が増えて、何とか採算がとれるようになってきました。
 ケアの質を保つにはそれなりの数のスタッフが必要です。厚生労働省が提示している職員数では、とても今のようなお世話はできませんが、スタッフを増やせば採算的には厳しくなります。料金を上げるか、スタッフ数に対する利用者数を増やすか、どちらも難しいとなれば、コスト削減を図るしかないでしょうね。

いつでも3人の娘たちにバトンタッチできる

 実は私の3人の娘も、「おざいしょ」のスタッフとして働いています。長女の准子は、子育て中なのでパートですが、経理を担当してくれています。次女の貴子(のりこ)は、2005年から「おざいしょ・みなみ」の管理責任者です。介護保険のことは、私以上に詳しいですね。今ではここのことを全部仕切ってくれています。三女の由紀子は、看護師の資格をもっていて、聖隷病院で視能訓練士として勤めていた経験もあります。「おざいしょ」の生活相談員です。
 私が仕事をしていたので、3人とも、勝手に大きくなってくれたという感じなんですが、やはり頼もしいですね。「もっとこうして」と言いたくなる場面がないわけではありませんが、パソコン関連の業務や経理処理などは、すっかり娘たちをあてにして任せています。実は去年の年末、ちょっと体調を崩してから、私自身の勤務を少しずつ減らしています。でも、いつでも3人にバトンタッチできるかなと思っています。その点はとても安心しています。
 この14年間、「おざいしょ」を通じて、本当にたくさんの出会いがありました。なかには、もう亡くなられた方もいらっしゃいますが、私のなかでいまだに忘れ難く印象に残っているのは、最初に「おざいしょ」の宿泊を利用されたおばあちゃまです。いつでも「ありがとう、ありがとう」と、おっしゃってくださって、お世話するほうとしてもすごく気持ちがいいんですよね。
 多分その方は、私たちと関わり合う以前から、そういう生き方をしてこられたんだと思うんです。感謝の気持ちをもつということの大切さと同時に、いいお世話をしてもらえるかどうかは、自分のありようなんじゃないかと、その方を通して感じました。私はまだまだかもしれませんね。 もちろん誰しも、誰かのお世話になりたくはありませんけれど、それは選択できないことです。自分がそうなったら、やはり「おざいしょ」でお世話になるのでしょうが、娘やスタッフに気を遣わせたり、うるさがられるのではないかという心配もあります。
 素直に「ありがとう」と言える、可愛いおばあちゃんでありたいなと思います。

取材日:2011.1



京都府生まれ 静岡県浜松市在住


【 略 歴 】

1957準看護師資格 取得
1960~1965浜松鉄道病院 勤務
1974~1981三方原病院 勤務
1981~1996西山病院 勤務
1997託老はうす おざいしょ 設立
2001有限会社おざいしょ 設立

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