16歳でFM Haro!のラジオパーソナリティに
FM Haro!でラジオ番組の制作スタッフになったのは、浜松市の国際交流協会HICEでボランティア活動をしていたことがきっかけです。踊りや歌が好きだったので、サンバを日本人に教えたり、ブラジルの遊びを日本の子どもたちに教えたり。ポルトガル語と日本語のバイリンガル講座も行っていました。「ぴよぴよクラス」という、日本の小学校に入学する予定の外国籍の子どもたちに、日本の学校文化を体験してもらう教室にも参加しましたね。周りは大学生の支援員ばかりだったのですが、半ば強引に(笑)仲間に入れてもらったんです。何かあればとにかく参加したいと思って、いろんなことをしていました。家族と一緒に浴衣のコンテストに出て、優勝したこともあるんですよ。そんな中で知り合った方がFM Haro!の制作にかかわっていて、「やってみない?」と声をかけてくれて。当時は16歳で、軽い気持ち半分、勢い半分で「やります!」と答えたんです。
その後すぐ、今も続けている番組「アミザージ・ハママツ」のパーソナリティを担当することになったのですが、最初は本当に難しかったです。ひどいですよ、そのときの放送は(笑)。番組は事前に収録しているのですが、一人での収録は緊張もしました。ただ、スタジオでみんなとわいわいとおしゃべりするのは楽しかったですね。リスナーの方からは「漫才の番組でしょ」と言われることもありました(笑)。
始めてから半年間くらいは、番組内で紹介する話題も決まっていて、プロデューサーやディレクターが録音や編集も担当してくれたので、私は現場で話すだけでよかったんです。それが、いろんなことを少しずつ覚えてきたところで、「編集もやってみないか」と言っていただいたんです。現在は、話す内容を考えることから始め、選曲、収録、編集と一連の作業を担当しています。編集は今でも難しいなと思いますが、新たにパーソナリティのルーカスが加わったことで、できることの幅が広がりました。私は一人でこもっているのが好きじゃないんです。誰かが隣りにいるだけでもすごく励みになるんですよね。
いつも明るく、自分の言葉で伝えることが大事
「アミザージ・ハママツ」は、日伯の移民100周年を記念して2008年に始まった番組で、毎週日曜日18時から19時までの1時間で放送しています。相互の文化交流によってお互いの友情を深めていくのが目的で、話題は地域にかかわることが中心。内容に応じて日本語とポルトガル語を使い分けながら進行しています。内容は、ボランティアや国際交流活動、ブラジル人のイベントなどの紹介から、ごみ処理や交通規制などの生活情報まで。以前FM Haro!でパーソナリティをしていて、今はブラジルに滞在している人が、現地からの情報を伝えてくれるコーナーもあります。今は、私とルーカスとで、話の合間に曲を挟んだりフリートークをしたりと自由にやっています。
編集作業については、始めた頃とはやり方がかなり変わりました。慣れないうちは、取り上げる話題を決めたら、それについて調べ、そこから話す内容を絞って原稿にするという作業を行っていました。でも、原稿を作る手間だけでなく、それを話し言葉に置き換えたり、話す練習もしなくてはならなくて、本当に時間がかかっていたんです。それなのに、収録したものを聴くと棒読みでロボットがしゃべっているみたいで。カチカチに編集されていることにも違和感がありました。それで、たとえ言い間違いがあっても勢いを大事にし、生放送のように流すことにしたんです。そうすれば間違いも笑ってもらえるし、私の明るさも伝わるかなと考えました。
今はもう、原稿も作っていません。調べたことを自分の知識とした上で、それを自分の言葉で伝えるようにしています。そのほうが、原稿を丸読みするよりずっといいですね。自分の言葉だから自然に話せるし、聴いてくれている人により伝わっている実感があります。そういう感じっていいな、と思っているんです。
一人で収録しているときには、テンションが落ちないように、立ちあがってジャンプをしたり手を振り上げたり。曲を流している間に気を抜くと、次にマイクを入れたときにまたテンションが下がってしまうので、歌いながら次のコーナーを待つこともあるんです(笑)。
リスナーには、体調が悪いときでも、ストレスを抱えているときでも、ラジオを通して元気で明るい声を届けなければいけないんです。相手に元気を出してもらうための放送なのに、私に元気がなかったらよくないし、せっかく聴いてくれている人に申し訳ないですよね。だから、どんなときでも常に明るい声で話すように心がけています。
高校中退後、働きながら定時制高校に再入学
来日して浜松に来たのは4歳のときのことです。保育園に入ったのですが、周りは全員日本人。その頃は日本語がまったく分からなかったので、先生が絵を描いてくれたり、ジェスチャーをしながらやりとりをしていたのを覚えています。当時の連絡ノートがまだあるのですが、持ち物などを全部絵にして描いてくれてあるんですよ。先生には感謝したいです。おかげで、日本語を覚えるのに苦労した記憶はないし、自然に話せるようになりました。
その後は、ブラジルでの義務教育を終了するためにブラジルに戻った時期もあります。15年間日本で暮らしていたので、ポルトガル語の勉強をする必要もあったんです。ブラジルにいても、「痛っ」とか「大丈夫?」とか、とっさのときには日本語がでちゃうんですよね(笑)。
高校は、浜松で演劇コースのある私立高校に進学しました。歌やダンスをしていたことで受けてみたらと勧めてもらい、合格することができたんです。入学後は演劇部で活動したり、友達を集めてダンスをしたり。日本舞踊の授業などもあって楽しかったですね。ですが、当時は世の中の状況が変わって両親の仕事が減っていて。病院や歯医者にいく余裕もなく、家の冷蔵庫の中身も空になってしまうほど苦しい時期でした。私も、学校に内緒でアルバイトを3つ掛け持ちしながら通っていたのですが、結局高2の12月に中退せざるをえなくなりました。
FM Haro!で制作スタッフとして働き始めたのは、ちょうどそういうときだったんです。上司から「高校は卒業したほうがいい」と言われ、私はここで働きながらお金を貯めて、1年後に定時制の高校に行くと答えました。ところがその上司は「そんなのだめだよ。今年の4月からいきなさい」と受験費用を負担してくれたんです。学校がスタジオと自宅の中間にあったため、業務交通費としてその区間のバスの定期代を出すという話もしてくれて。私はお金は必ず返そうと決め、中退した4ヵ月後に今度は定時制の高校に通い始めました。
何も分からない世間知らずな私を採用してくれ、手を差し伸べてくれたことには、本当に感謝しています。もう、どうしたら恩返しができるんだろうと考えると困ってしまうほど。ラジオ局での仕事を通じてたくさんのことを覚え、いろんな場所に行き、いろんな人との出会いを与えてもらったこともそうです。今の私のすべてはここから始まっているんです。
ラジオを通じた出会いが今の自分のすべて
現在は、ラジオ局での仕事を通じて知り合った方に声を掛けていただき、ブラジル人のイベントなども行うクラブで、受付のお手伝いもしているんです。そこでは、以前インタビューした方にDJの勉強もさせてもらっているので、ラジオの仕事にも生かせればと思っています。
また、浜松市と島田市で共同制作している番組のリポーターを務めさせていただき、島田市長をはじめ街のリーダー的な存在の方にインタビューできたことも貴重な経験になりました。いろんな会合やコンクールなどのイベントに参加したり、温泉に行ったり、いろんなところを飛び回って楽しかったですね。
そして、この仕事を通じて得たものでとくに大切にしているのは、ルーカスとの絆。彼とは、昨年の8月に結婚したんです。18歳で結婚したことで「もっと遊べばいいのに」「もっといい人が現れるかもよ」なんてよく言われるんですが、そんな気持ちには全然ならない(笑)。彼は14歳で来日してから自力で勉強をし、今は市役所で通訳の仕事もしていて本当にすごいと思います。日本語やポルトガル語について教わることも多いんですよ。また、パーソナリティの仕事でも、私が声がでないときには彼が代わってくれたり、一人で収録しているとスタジオのガラス越しに「がんばれ」と書いた紙をフレーフレーって言いながら振ってくれたり。ラジオという共通点があることで支え合うことができていると思います。以前は一人だったのが二人になったことで、もっともっといろんなことができるし、友達も増えて。つい最近も、友達のお父さんが「浜松市制100周年記念のイベントをやるから、アイラとルーカスも手伝ってよ」と誘ってくれて。「おぉっ」という感じですよ。そういうのってわくわくしますよね。
あらためて振り返ってみると、本当にすべてのことがラジオを通じて広がっていったんだなと実感します。番組がよくなってきたのもいろんな人が支えて手伝ってくれたおかげ。一度は高校を中退したり大変なこともあったけれど、ラジオの世界に入って新たな出会いに恵まれて、これも運命だったのかなと思ったりもしますね。自分がどれだけ祝福されているかを考えると、今は感謝の気持ちでいっぱいです。
取材日:2011.2