「自分を下げる」ことから始まった
飴は創業当時から製造していたようです。江戸時代の茶飴は、今のように「茶」の文字があるものではなく、「鉄砲玉」と呼ばれ丸い形をしていました。東海道をゆく旅人が懐に入れて持ち歩いたのだそうです。伝統的な組み飴は、昭和の初めからつくっています。いろいろなお菓子の製造を辞めて茶飴一本にしたのは先代のときです。 私が7代目になったのは、主人が急死した95年。それまでは専業主婦でした。 最初は後を継ぐつもりはなかったんです。それが職人たちに「7代目になってくれ」とお願いされて……。なかには「一生涯を飴づくりで終わりたい」というような、生粋の飴職人もいたんですね。しかし当初は、後を継ぐ大変さがあまりよくわかっていませんでした。
まず何をすればいいのかと聞いたところ、お得意様に挨拶してほしいと。今では何でもないことなのですが、当時の私は、人に頭を下げるということがこんなに大変だとは思わなくて……今でも覚えていますが「これからもよろしくお願いします」と頭を下げたら、涙がポトリポトリ落ちてきました。 そんなとき、娘が通っていた学校でたまたまカトリックの勉強会がありました。そこで当時の校長様が聖書の一節を引き合いに出されながら「夫が亡くなったり、いろいろな生活条件が変わったとき、今までの社会的位置から自分の位置を下げることができる人が賢い人」というお話をされたんです。私は本当にそのとおりだと、目がらうろこが落ちたような気持ちになりまして、純粋にその教えをしっかりと受け止めて自分の位置を下げる努力をしようと心に決めたんです。専業主婦で何の経験もない私がここまでやって来られたのは、その教えのおかげだと思いますね。
不可能を可能にした「緑茶カテキン飴」
あんなに頑張れたのは、ひとえに「健康は大切」と思うからです。1人でも多くの方が主人のようにならないために――なんです。だって家族も悲しいじゃないですか。私自身、そういう思いをしていますから、一生懸命でしたね。 あとは、主人が生きていた頃、商売に一切携わっていなかったことも良かったのかもしれません。何も知らないだけに「怖いものなし」というか。製造卸に加えてマーケティングや販売を始めたり、手形をやめてすべて現金取引に切り替えたり、台湾などアジアへの飴の輸出を始めたり、結構いろんなことをやってきました。
新製品の開発にしても、あまり利益を考えなかったんですよ。とにかく健康が大切だという気持ちだけで突き進んできたような感じです。その代わり、東京ギフトショーやFOODEX JAPAN(国際食品飲料展)に出展したり、これまでと違う方法で商品をアピールしました。ちゃんとやっていれば利益はついてくるものです。 緑茶カテキンに続いて、認知症の初期予防に効果があるといわれるテアミンの飴を開発しました。テアミンは一番茶に多く含まれている物質で、ストレス解消にもいい。これも静岡県立大学の先生にご協力いただき、2002年に糖質ゼロの「脳にやすらぎテア二ン飴」を発売しました。他にも「健康づくりオールカテキン飴シュガーレス」「Nアセチルグルコサミンカテキン飴」など、健康志向の飴は現在、当社の主力商品になっています。
こうした新製品のなかには、他社では開発に失敗したものもあるんです。馬場製菓には「一生飴づくり」という職人がいて、170年の歴史に裏付けられたノウハウがありますから、そこが強みになっています。あと、「こういう商品が欲しい」という依頼に対し、私は絶対に「できない」とは言わないんです。緑茶カテキンもそうですが、試行錯誤の末、不可能を可能にしてきたわけです。そういうスタンスは今後も変えないつもりです。 私には、江戸時代から続く暖簾を守りつつ、後に続く娘のためにも、ビジネスの可能性を広げていく責任があります。娘は自分がやってきたことをちゃんと見てきたと思うんですね。なので娘の代は、娘が自分で考えて進めていけばいいと思うんですよ。押し付けはしないで。それぞれ時代にあったやり方でやればいい。自慢の娘ですから(笑)、きっと私以上にいい仕事をしてくれると思います。
取材日:2010.08