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本サイトは、平成22年・23年の作成当時の内容です。

人生は山あり谷ありだから「トライ」の連続。
日本一の保冷材メーカーをけん引する女性社長。

高安るみ子(たかやす・るみこ)

高安るみ子(たかやす・るみこ)



トライ・カンパニー 代表取締役 社長


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感動企業 トライ・カンパニー

前社長の誘いに二つ返事で飛び込んだビジネス

 トライ・カンパニーは、保冷材をはじめとする鮮度保持資材の製造と販売を行っています。設立は1990年。早いもので、昨年、創立20周年を迎えました。この10数年間、保冷材の販売でトップシェアを誇る沼津のメーカーです。
 社名の「トライ」には、創業者である故・芹沢順一前社長の「一緒に仕事をしようと集まって来る1人ひとりの自己実現ができる会社」という思いが込められています。私のこの20年間も、まさしく「トライ」の連続でした。
 前社長のことを、私は順一社長と呼んでいました。もともと私の兄の友人で、2010年3月、創業20周年を迎える1カ月前に、60歳で亡くなりました。訃報が届いたとき、大きな支えを1つ失った気がしました。健康にいいことはなにもしていない豪快な人でしたが、年齢的には、何か生き急いだ感があります。
 私とトライ・カンパニーの馴れ初めは、忘れもしない1990年3月。順一社長が「新しい会社を立ち上げるけど、出資してくれないか」と、兄を通じて訪ねて来たことに始まります。ちょうど勤めていた映画製作会社が倒産して、「就職活動をしなきゃ」と思っていた矢先に声を掛けてくれたんです。
 順一社長は当時、包装資材と折箱生産を扱う会社の社長でした。業界紙で保冷材製造機械の紹介記事を見て、「これはビジネスになるかもしれない」とひらめいたらしいんです。立ち話だったにもかかわらず、ビジネスの可能性を熱く語ってくれたことを、今も鮮明に覚えています。「面白いかもしれない」と思いまして、何の迷いもなく二つ返事で「是非お願いします」とお答えしました。

試行錯誤の繰り返しから始まった日本一への道

 言うまでもなく、当時の私は、保冷材のホの字も知らないド素人です。それは順一社長にしても同じことで、製造機械を購入したメーカーさんにノウハウを教えてもらいながら、手探りで保冷材を作り始めました。「保冷材のもとになるパウダーと水を混ぜればいい」と言われたので、そのとおりに作ったら、数カ月後にカビがはえてきたり、急速に凍らせると突起ができて外側のビニールが破れてしまったり……。本当に次々問題が起こりました。試行錯誤を繰り返して、原材料のメーカーさんとも連携しながら、問題を解決していきました。
 当時のメンバーは6人。私も全国各地、営業に行きました。保冷材のことをよく知らないということもあって、「そんなものいらない」とけんもほろろに追い返されたり、「できたばかりの会社なんて相手にできない」と全然取り合ってもらえなかったり……。それまでの私は、映画のプロデューサーという立場で、結構ちやほやされていましたから、その落差に落ち込むことが多かったですね。
 最初のお客様は、広島のかき養殖の水産会社でした。「保冷材は使っているよ」と言われたのですが、渡した名刺を見て「沼津から来たの?わざわざ来てくれたんじゃ、10箱注文しあげるよ」と。嬉しかったですね。携帯電話のない時代でしたから、電話ボックスに駆け込んで、「注文取れました!」と報告しました。それが、会社設立から半年くらいたった頃です。
 営業に行った沼津市内の干物加工業の社長様に「いい情報を教えてあげる」と、ゆうパックのカタログを紹介していただいたこともあります。産直が始まったばかりの頃で、エンドユーザーを掘り起こしたほうがいいということもわかってきました。水産業以外にも畜産業や農産業など、可能性のある業種を絞り込めるようになり、営業に行った先々で必ずもらってくるタウンページを頼りに、片っ端からDMを送ることを数年間続けました。お取引先様が面白いように広がっていく手ごたえを実感しながら、「自分たちの戦略は間違っていない」と、スタッフ皆が確信していました。
 しかし今にして思えば、最初の1~2年間は「会社ごっこ」みたいな感じでしたね。メンバーも少なかったので、コミュニケーションと称して、毎週のようにカラオケに行っては、歌ったり仕事の話をしたり……。それはそれで楽しかった。でも、事業計画だけは、初年度からきちんと作っていました。「会社ごっこ」ながらも、「今、何をしなければいけないか」という問題意識は共有できていたと思います。

業界初の付加価値商品戦略でビジネスを拡大

 現在、副社長を務める水田裕文は営業、2年目からメンバーに加わった専務の山梨博郎はシステム開発や商品企画、私は銀行との交渉などの資金繰りと、次第に役割分担できるようになってきました。初年度は赤字でしたが、2年目からはずっと黒字経営を続けていました。業績は、右肩上がりで年々伸びていきました。当時はまだ市場も小さかったので、国内に出回る保冷材の4割が当社製という時期もありました。
 99年に順一社長が非常勤取締役に退き、私が社長を務めることになりました。以来、当社では社長、副社長、専務の3役の代表取締役体制で、経営方針を決めています。競合メーカーの登場で、価格競争が始まったのは2000年頃でした。キツかったですね。そこから付加価値をつけるために、さまざまな商品開発が始まりました。
 最初に開発したのは、ワサビを使った抗菌効果付き保冷材「キャッチクール・ワサビ」です。お刺身やケーキなど、保冷材が食品に直接触れることって結構ありますよね。保冷材に抗菌効果をつけたのは業界初で、世の中の「抗菌ブーム」に乗っかる形で、ヒット商品となりました。特に農産物である筍の出荷の際に、利用して頂きました。
 その後も、内容物を水だけにしたエコな保冷材をはじめ、不純物を含まない特別な水を使用することで、化石原料の減量化を図った保冷材など、業界の常識を打ち破る商品開発に取り組んできました。「業界初」が多いのは、あくまで結果であって、世の中の流れのおかげと言えるものもあるのですが、とにかく数々の失敗を繰返しながらも、他のメーカーがやっていないことにトライしているんです。
 付加価値を追求するなかで生み出された技術は、保冷材以外の商品展開にも結びつきました。その1つが、保冷材の吸水性ポリマーを活用した芳香剤です。背景には、「保冷材のリサイクル」という、環境に対する問題意識があります。トライ・カンパニーが1年間に生産する保冷材だけでも1億8千万個。「何とかリサイクルできませんか」という声も高まっています。
 そこで、工場の生産過程で規格外となった保冷材の内容物に、オリジナルの香料を加え芳香剤にしてみたんです。吸水性ポリマーで作られたゲルは、空気に触れていると蒸発して、最終的にはなくなってしまうんですね。現在、ご家庭の冷凍庫にたまっている使用済み保冷材を、環境にやさしく有効活用できる商品開発にもトライしています。

じゃりんこチエの「明日考えよう」に励まされて

 ちょっとこじつけみたいに聞こえるかもしれませんけれど、トライ・カンパニーを待つまでもなく、私の人生はずっと「トライ」の連続です。大学ではジャーナリズムを勉強したので、卒業後は編集の仕事を志し、親には反対されましたが、東京に残り就職活動しました。折しも今と同じような就職難の時代。やっとのことで社員5人の小さな出版社に就職したのですが、半年たった頃、社長が蒸発してしまいました。社会人1年生の苦い経験でしたね。
 その後、大手印刷会社やデザイン会社、豪華美術本の販売、コピーライターを目指し広告制作会社に勤務したこともあります。同じ「書く」仕事でも広告のコピーというのが性に合わず、脚本の学校にも通いました。 「自分は何をして生きていくか」を模索し続けた20代でした。その間に、学生時代から交際していた人と結婚し、2年後に離婚する経験もしました。東京での生活にちょっと疲れてしまったということもあったでしょうね。離婚を機に静岡に帰って来ました。でも、親に頼りたくなかったので、実家には帰らず、自分でアパートを借りました。
 今だから「トライの連続」なんて言えますけれど、当時は落ち込みましたよ。いい人生を送りたいと思いながら、どう生きていいかわからない。そんなとき、私を励ましてくれたマンガがあります。これを言うと、皆に笑われるんですけれど『じゃりん子チエ』なんです(笑)。 
 チエちゃんは、お父さんのホルモン焼き屋で働いています。お父さんの名前はテツ。お母さんは、いい加減なテツに愛想を尽かして出て行ってしまったので、チエちゃんは小学校5年生ながら、働かないテツに代わり、飲兵衛の大人たちを相手にたくましく生きている。ときどき悲しいことや辛いことがあると「明日考えよう」って言うんです。ちなみにこれは、映画『風と共に去りぬ』の主人公スカーレット・オハラの名ゼリフです。
 チエちゃんの「明日考えよう」のおかげで、なかなか思うように生きられずに腐っている自分がバカバカしくなってきて、「そのとおりだ」と励まされました。

映画作りには鳥肌がたつほどの感動がある

 脚本の勉強をしたことで、「映画っていう世界もいいな」と思っていたところに、「静岡に映画製作会社がある」という話を聞きまして、押しかけ面接に行きました。「仕事させてください」とお願いしたのですが、あえなくその場で断られました。
 ところが数ヵ月後、どういうわけか「採用です」という連絡があったんです(笑)。事情はよくわかりませんでしたが、とにかくやってみようと。嬉しかったですね。
 社員は3人で、最初は完全に使い走りでしたが、少しずつ仕事を任されるようになり、シナリオハンティングやシナリオ検討会などにも参加させてもらうようになりました。仕事に対する欲も出てきて、小説を読んでいても「自分ならこんな映画も企画にしたい」と思うようになりました。
 何もないところから映画が生まれ、完成試写会など、鳥肌が立つような感動があります。あれだけの感動というのは、世の中にそうそうあるものではありません。1人ひとりのスタッフがプライドと情熱をかけ、チームワークで1つの作品を作り上げる――そんな製作現場は、刺激的で本当に楽しかった。9年間勤務している間、製作に携わった映画は7本。でも、1990年1月、2度目の不渡りが出て、事実上、会社が倒産してしまいました。
 当時の日本映画界には今のような活気はなくて、斜陽産業とまで言われていました。私の会社もまさしく自転車操業で、製作し続けないと資金繰りに詰まってしまうという状況でした。そんな最中、社長が吐血して倒れてしまった。プロデューサーになっていた私は、社長に代わって、支払いが滞っている先に謝罪に行きました。

映画への夢を断念して方向性を失うが……

 今でも忘れられないのが、ある大手映画会社に謝りに行ったときのことです。役員室に通されまして「この度は……」と謝ろうとしたら、「よく来たね」と言われたんです。怒鳴られるのを覚悟していましたから、それはびっくりしました。億に近い負債です。支払延期でも払えない、払える見通しがない。怒られるのは当然です。それが、「社長が元気になるのを待つしかない。君も頑張ってください」と言われ、ご自分の著書にサインをしてくださいました。人の温かみ、その方の懐の深さに胸を打たれ、心からありがたいと感じました。
 金銭的な心配がなければ、映画ほど魅力的な現場はないかもしれない。お金の大変さを身にしみて感じました。潤沢な予算があって、宣伝広告費も十分かけられる製作会社であれば、ヒット作にも恵まれたと思うんです。社会的に意義のある作品であっても、小さなプロダクションが限られた予算の中で製作するとなると、大々的な宣伝は難しい。作ってもヒットしない悪循環です。
 会社が倒産したとき、倒れた社長は「高安さん、また新しい会社を立ち上げるから、そのときはまたよろしく」と言っていました。「オンワードリフレックス」という社名まで決めていたあの根性はすごいなと、今でも思います。借金で家も財産も全部なくなって、ギャラの取り立てに来た役者さんには、「とれるものは何もないよ。命が欲しかったらどうぞ」と。役者さんのほうが逆に同情して「そこまで取ろうとは思わない。頑張ってくれ」と言い残して帰ったそうです。社長はその後間もなく、がんで亡くなりました。
 会社が倒産して路頭に迷っていたとき、知合いの配給会社の方が「うちに来る?」と言って下さったのですが、既にそのとき「映画は好きだけれど、見る側に戻ろう」と決意していました。ものすごい虚脱感でしたね。何がしたいのかわからなくなってしまった。

「人との和」があるからトライし続けられる

「新しい会社を一緒につくらないか?」という思いがけないお誘いをいただいたのは、そんなときでした。順一社長が熱く語るビジネスの夢は、映画の現場で感じた情熱にどこか通じるものがありました。さらに驚いたのは、「せっかく新しい会社を立ち上げるんだから、映画製作の企画も会社の定款にも入れよう」という提案です。ずっとメディアの世界に憧れてきた私でしたが、順一社長の話を聞いているうちに、すんなり「ものづくりも面白いかもしれない」と思えたんでしょうね。「もう一度トライしてみるか」という前向きな気持ちになれました。
 人間、結局1人では何もできないのだと思います。私自身は本当に無力ですが、さまざまな人たちのおかげで、今もこうして仕事ができる。人との和なくして、今の自分はありません。
 よく社員に言うのは、「1日1日の積み重ねが人生だから、1日1日を大切にし、ものごとをプラスに考えよう」と……。うちの社員は皆明るいですよ。「トライし続ける」という明るい前向きな気持ちさえあれば、どんな局面からも、人生は広がって行くのだと思います。

取材日:2011.1



静岡県沼津市生まれ 沼津市在住


【 略 歴 】

1976日本大学 藝術学部文芸学科ジャーナリズムコース 卒業
1981映画製作会社「映像企画」に入社
1990トライ・カンパニー 起業および参画
1999トライ・カンパニー 代表取締役社長に就任

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